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みんみん



 月曜日

仕事1→いったん帰宅→仕事2→実家へ(のいの顔を見に)→家庭教師→帰宅。

こちらが何度教えても覚えられない、というのはちょっとつらい。教える方も教えられる方も。教えられる方はどうなんだろう。つらいというかイヤなんだろうな。
英語を教えながら(数日後は中間試験だというのに全く不安な状態)、この教科書はとても面白いし、よく出来ているだろうけど、中学生にはやっぱりちょっと難しいのではないだろうか、と思う。
家庭教師としては反則なんだけど今日は少し先生への意見めいたことを言ってしまう。「すごく熱心な先生だと思うけど」との但し書きつきで。そりゃ日常的に接するのは大変ですよ。

旅の直後にまる1日働いたり移動したりしてちょっと疲れたというか、風邪気味というか、そんなわけでやや暴力的に帰ったところ、りー氏が怯える。
ばあちゃんに干し柿もらった。
「・・・おれそういうの苦手」
私だってそんなに得意じゃないよ。でもせっかくくれたんだよ?
「・・・どうせのいと会ってきたくせに」

所用のため再び富山に長期帰省中のHから電話。
たった1週間くらい会っていないだけでむっくりと大きくなったのいにびっくりしていた。いったい何を食べているのだろうか、と言う。
顔だけ小さいからなおさら大きい感じがする。

「わかった」と簡単に言ってはいけないし、「わからない」と簡単に言ってもいけないだろう。
「わかった」というより「わからない」という方が勇気が要ったりする場合はある。
「わからない」という言葉は、謙虚さから発している場合と、何かを放棄している場合と、その両方があると思う。

りー氏は私との会話の中でしばしば「わからん(=わからない)」とよく言う。
りー氏の性格からいって、あいまいなことをいい加減に答えたくはない、というところから発生している言葉だろうと考えられる。
だけどそれも程度問題。ともに生活する者としては、あまりに頻度の高い「わからん」には、非常に孤独を感じてしまう。だから私はこないだ「『わからん』禁止!!」と叫んだのであった。

誠実さをどう表現するか。

わからない、と言ってもいい。
だけど、なぜわからないのだろうか、という思いを伴わない「わからない」は、単なる思考放棄とおんなじだと思う。
興味がない、と言ってすべてを済ませられるか? 済ませられるかもしれない。でも済ませたくはない。
そして考えることがすべての免罪符でもない。

2002年10月21日(月)
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