またまた飲み過ぎの昨夜。気がつけば朝の6時まで起きて、お酒飲んでた。しかもまたメール書いてるし。おかげさまで昨日の晩も記憶が途切れていないので、朝起きてから、こんなメール書いてないよってことにならなかったのでよかった。夜中に一体何をしていたかというと、アマゾンドットコム日本版のHPでどの本を買おうかずーっと悩んでたの。結局、昨日の晩は買わなかったんだけど。でも本が欲しい。久しぶりに読んだ三浦綾子は良すぎた。続・氷点や泥流地帯、天北原野、海嶺が読みたぁ〜い。今晩もきっとパソコンの前で悩むんだろうなぁ。どれ買おうって。昨日知ったんだけど、三浦綾子って小林多喜二のお母さんの小説も書いてるんだね。小林多喜二といえば、高校生のころ読書感想文の課題になってた「蟹工船」を読んだだけかな。父がたまに小林多喜二は獄死したって話をしてたかな。ムースが知ってるのはそれくらい。父曰く、当時の築地警察はすごいところらしかったって。泣く子も黙る築地警察だったらしい。まぁ、時代が時代だからねぇ。その多喜二のお母さんのことを書いた「母」っていう小説も読んでみたいな。読んでみたい本ばかりで困っちゃう。昔はこんなに本は読まなかったような気がするんだけど。何年かに1度、本を無性に読みたくなることがあるんだよね。今がその何年に1度のときかも? 今日は昨日の日記に書いたように「氷点」の下巻を読んだの。もう何ともいえない気分。最後に陽子が人としての大罪を犯してしまうところなんて何ともいえなかった。うるうるしてきちゃって、一瞬活字がぼやけちゃって大変だった。っていっても今日は不思議と涙を流さなかったけど。だって目の前が曇ったとき、これじゃ読めないって冷静に思っちゃったんだもん。そんな訳で、ムースにしてはめずらしく泣くことなく読み続けちゃった。それにしてもこの話は考えさせられることが多いね。人はどうしてここまで人を憎み続けなきゃいけないんだろうとも思った。その人が罪を犯した訳でもないのに、その血縁者ってことでここまで苦しまなきゃいけないのかとも思うし。もし、自分だったら人を許すことが出来るのだろうかとも考えちゃった。ってムースは心が非常に狭いから、人を許すことなど出来ないかもしれないけど。でも人を許すことによって、もしかしたら自分も楽になるのではないかとも思う。だって許さずに憎み続けるということは、それだけエネルギーのいることだから。人を憎み続けるということは自分で自分の首を絞めてることかもしれないし。ムースは何かあったら姿を消しちゃうから、人を憎んだり、許したりする場面にはあまり出くわさないけど。って逃げてばかりもよくないんだけどね。でも、姿を消して、1人にならないと自分がおかしくなるくらい人を憎んでしまいそうで恐い。憎しみなんて百害あって一利なしって思うから。とはいっても、やっぱり許すということはすごく難しいことのように思う。人を許すって自分との戦いのような気がする。だから大変だと思う。許さなければ、何でも憎んでる人のせいにしちゃえばいいし、その人を責めてしまえばある程度自分の気は収まるから。もしかしたら憎まれてるいる人はそれを罰だと思うかもしれなし、いいがかりはよしてくださいって思うかもしれないし。どうして人は人を憎まなきゃいけないのかなって思う。どうやったら許すことが出来るのかなとも思う。もしかしたら憎んでいる相手は人違いかもしれないのに。ちょっとした誤解があるだけなのかもしれないのに。どんなに明るく努めていても、あまりにも意地悪なことをされたり、責められ続けてしまえば、いつの日にかは心が凍りついてしまうよね。誰の心にも氷点はあると思う。心が凍りついてしまえば、生きる力すら失っちゃうかもしれないし。自分がどんなに努力をしても、ときに心の温度が下がっていってしまうこともある。そんなとき、誰か1人でも温かい何かを心の凍えてる人に与えてあげることが出来たら、すばらしいことなんだけど。殺伐とした世の中ではなかなかそんなことも出来ないかな?なんてったって生き馬の目を抜くような都会の暮らしの中で、悠長に心の凍えてしまった人に何か温かいものをっていったところで、人はみんな明日はわが身だと思って、その恐怖に慄き、その姿を直視出来ないよね。見て見ぬ振りをしなきゃいけないんだから大変。 そういえば、この小説の中にお金を落としたとき、どう思うかって場面があったの。平たくいうと、悲観的に考えるか楽観的に考えるかってことなんだけど。もし、千円落としたとき、「千円しか落とさなくてよかった」って思うか、「千円も落とした。損した。損した」って思うかって。今は悲観的に考えるムースなので損したとしか思えないけど、楽観的に考えることができたらいいよね。本の中にも書いてあったんだけど、ただでさえ損してるのに、それに輪をかけて、損した、損したっていってたら、もっと損した気分になるって。だったら楽観的に考えて、千円しか落とさなくてよかったって思ってれば損した気分にならないって。これはその通りかもね。いつもいいことを考えれば、自然といい方に運気は流れていくっていうし、いつも悪い方に考えてると、「ほら、やっぱり悪いことが起こった」っていってどんどん悪い方にいっちゃうっていうもんね。そう思うといい方に、楽観的に考えて、自分をいい方に持っていきたいよね。ってムースが1番悲観的な人なんだけどね。いつも、いつも、明るく笑顔でいられたらいいなって思うし、そういうことへの努力は決してムダじゃない気がする。向日葵のような心を持っていられたら本当にいいよね。いつも太陽に向かって明るくいられたら。 そうそう、あと感謝の気持ちを忘れちゃいけないなぁって思っちゃった。人ってついつい感謝の気持ちを忘れがちだもんね。最初は感謝をしても、慣れてくるとついついそれが当たり前だと思っちゃう。無くなって初めてそのものの有り難味に気付くんだよね。当たり前って思えるものほど実は当たり前じゃなくって、その存在に感謝しなきゃいけないのかも。例えば、宇宙飛行士になってみれば初めて空気の有り難味がわかるように。与えられてることが当たり前じゃなくて、与えられてることに感謝しないといけないね。最近ニュースを読んでると、どうも受身なことが書いてあるからふと思っちゃった。例えば、子供がなつかないとか、誰々がやってくれないとか。いつも受身だよね。能動的なものは少ないかも。きっと与えてもらうことが当たり前って思ってるのかもね。子供がなつかないっていうけど、親が子供に愛情を持って接しなければ、子供だって寄ってこないと思うけど。もしかしたら赤子からも何かをもらおうとしてるのかな?おしめを変えたり、ご飯を食べさせてあげてるんだから、なつくのは当たり前、自分が何かを得るのは当たり前っていう感じで。 つらつらと偉そうなことを書いちゃったけど、実はこれはすべて自分の反省点なのです。嫉妬はするし、人を憎むことだってあるし、人を許せないし、悲観的だし、与えてもらいたいって思ってるムースなので。だから三浦綾子の作品を読んだあとは、いつもいろいろなことを考えて反省するの。っていっても、あまりにも心の痛い話ばかりだから、まずは自分を正当化するのに一生懸命になっちゃうけど。自分を正当化する手段として、小学生同様、○○ちゃんもそうやってるとか、みんなそうやってるというムチャクチャな理屈になっちゃうんだけど。子供がおねだりをするときに、みんな持ってるから私も欲しいってよくいうでしょ。みんなって誰?って聞くと、実は5人くらいしかいなかったり。30人いるクラスの5人がみんななの?って鋭いツッコミが親から入りそうな理屈。今日のムースもそんな感じの理屈で自分を正当化してるんです。
あぁ〜、続・氷点が読みたぁ〜い。でも明日から図書館が開くし、先日借りた「ライ麦畑でつかまえて」を返して、別の本を読もうかな。って何読もう?明日ゆっくり考えよう。 |