2010年01月31日(日) |
「ドゥーニャとデイジー」 |
「ドゥーニャとデイジー」
をギンレイにて。
アムステルダムの厳格なイスラム教徒の家に生まれたモロッコ人ドゥーニャと、生粋のアムステルダム人のデイジーは、性格は正反対だが大親友。
ドゥーニャは十八歳になり、親の決めたはとことの結婚のためにモロッコへ帰ることになる。
そこへ突然、イスラム教徒とは無縁なデイジーがなぜか訪れてきて、本当の父親を探すのを手伝って、という。
母と自分を捨てて去っていった父を探すデイジーに付き合ううち、ドゥーニャは、自分たちの祖先が生まれた地に導かれる。
お互いの、自分のルーツを求める旅のはてに、ふたりは大切な何かを手にすることができるのだろうか。
この作品。 内容がどうこういうよりも、ドゥーニャが、素敵です。
タレントのベッキーに、イングリッド・バーグマンを足したような、とても凛々しく綺麗で幼さもほんのり漂わせ、もしも出会ってしまったら、その瞬間に惚れてしまうでしょう。
さて。
どうもこの頃、出鼻をくじかれてばかりいる。
指先がチリチリと痺れたままなのは依然治まらず、ひどいようでしたら脳神経科で診てもらってください、と先の健康診断で医者にいわれ、やはりそっちか、と予想していた通りであり。
とにかく自分のなかで自分が浮ついている感覚が続いているのはわかっており、毎夜切れ時にきれいに落ちているのだから、いい加減、わかっている。
それで、ことごとくの出鼻をくじかれている。
赤札堂で、おや一個五円の小振りなジャガイモが売られている、とタイムセールに嬉々として袋に詰め込み、はてどこかでジャガイモを買ったような記憶があるが、と逡巡し、先々週あたりのものだろうと、台所の開きを開ける。
なんか用か?
ででん、と立派なジャガイモたちが、腕組みあぐらをかいてこちらをにらみ返す。
古株のご機嫌を損ねぬよう、新参者たちをそそと脇に詰め込み、ぱたりと閉める。
記憶の整理がおっつかなくなっている。
恩田陸作品の常野一族ではないが、自身の
虫干し
が必要なようだ。
引き出しの中身がガチャガチャと浮ついて落ち着かないのだから、それをいったん出して、空にする。
そううまくゆくやり方など、じつはない。
日中以外を、とかくタガを外しておくくらいしか見当たらない。
締めて。 緩めて。
委ねて。
2010年01月30日(土) |
満たされた月にかかる螺旋階段 |
先日母上を亡くされた地元の友人ミエ田夫人のもとを、ほかの友人らと訪ねてきた。
当初の予定では、臨月の天夫人と彼女の姫たちふたりと高木卯嬢で訪ねるのであったが、なにせ臨月である。
「それに満月だし大潮じゃん」
天夫人は出かけるどころではないはずなのである。
「でもさ」
高木嬢ひとりだけで行かせるのも、なんだしねえ。
「何よりあたしが彼女に会いたいし。でも」
そんな状況だから、当日やっぱり無理になるかも。
そうして、わたしも同行させていただく運びとなったのである。
当日の朝、案の定天夫人ら不参加の電話が入っていたのである。
入っていた、とは、わたしは電話の呼び出し音を目覚ましのアラームだと思い、放っておいて枕によだれをたらしていたのである。
慌ててかけ直し、ことの次第を確認する。
「やっぱりさすが、旦那に愛されてるねぇ」
旦那とは、やはり同じ友人の金田である。
さてそんなこんなで、高木嬢とふたりでミエ田夫人のお宅へと向かうことになったのである。
高木嬢は夫人とは幼なじみで、夫人の亡くなられた母のこともよく知る仲である。
さて。 わたしはおやつに、「手造りパイの店マミー」のアップルパイを持っていったのである。 予想外の新商品があり、迷った挙げ句、高木嬢との待ち合わせ時間に遅れたのだが、
パイを憎んで我を憎まず
と胸を張って高木嬢に迎えられたのである。
そのパイが、ミエ田夫人によって取り分けられる。
クリームチーズ・アップルパイ。
見逃せるはずが、ない。 健康診断もすんだばかりである。
夫人と高木嬢の久しぶりの盛り上がる会話に、ひそかにお愛想で相づちをはさみながら、堪能する。
うむ。 至福。
夫人の坊ちゃんふたりも、どうやらお口に合ったようで、ぱくぱくもぐもぐと食べていただいたのである。
しかし、坊ちゃんふたりが揃うと、やはり華が咲く、ではなく、風が舞い上がるように、賑やかになる。
そんな元気な風たちのおかげもあってか、夫人は元気を取り戻しているようであった。
いつまでも落ち込んでばかりいられない。 ひとりじゃあないんだから。
といったところなのだろう。
帰りに駅まで送ってもらった車の運転姿は、凛々しく、頼もしいものであった。
無論、夫人の運転に、はなから不安の不の字など感じてはおらなかった。
ただ、十代から知る夫人の姿に、想像がつかなかっただけである。
なんとも喜ばしい。
さらに、なんと。
名古屋の友に第二子ができた、とのまたまためでたい報せが届いたのである。
なんともかんとも、めでたいことである。
さて、一部の方々が気にされる高木嬢だが、
落ち込んだりもしたけれど、 わたしは元気です。
といったところのようである。
落ち込んだりするだけ、わたしよりよっぽど、前へへと歩もうとしている証しであろう。
わたしも、前へ。
螺旋階段は、少しでも高みへと上れているのだろうか。
2010年01月28日(木) |
そんな時代にけんしん |
「定期」健康診断があった。
準備万端抜かりはない。
とはいっても、それでも高い値が出るのはしかたがないので、最低限の努力をするのみにとどめるだけである。
しかし、気になることは気になるのだから、多少、ひとの話を聞いてみるくらいはよいだろう。
隣席の馬場さんに、ふと尋ねた。
「ご主人の健康診断の結果をみて、栄養バランスとか考えて晩ご飯をつくったりしてますよね」 「うちは、ほとんど一緒に食べないから」
ああそうか、お子さんがいるからご主人よりもお子さん主体の料理になるのか。
「ううん。ダンナが仕事から帰ってくるのが毎日二時頃だから」
そうであった。 馬場さんは月に二日しか休みがなく、毎日終電もしくはタクシーで帰宅が当たり前、のアトリエ系設計事務所に勤めていたのであり、ご主人とはそこで出会われたのだった。
「栄養バランスという以前に、全部が足りてなさそうだし」
仕事休めないひとだから、熱でふらふらしてても絶対に休まないの、と仕方なしに笑う。
体は壊しても治るものだと思っていても、そうはいかないもんなんですからね。
あは、そうだよねえ、と仕方がないのだから仕方がないと笑いを付け足す。
「それが普通、の業界だからねえ」
ここはほんとに、別世界みたいだよね。残業て観念があるんだもの。子どもが熱出した、てなっても休めるし、早く帰れるし。
「もう、ほかのところでなんか働けない体になっちゃいました」
やれといわれれば、私はやるけどねえ。好きだから。
ふふん、と鼻をとんがらせる馬場さんに、わたしがかなうわけが、ない。
「ご主人もちゃんと好いて、体をいたわってあげてください」
失礼な、と反論する。
「ちゃんといたわって、ねぎらってあげてるのに、こないだなんて」
夜中二時頃、馬場さんが寝つけず居間にゆくと、ちょうどご主人が帰ってきたあとのテレビをぼおっと眺めていたところだった。 なにか話したりしようかとちょろちょろしていたら、
「ひとりの時間なんだから、早く寝てくれるかな」
とにべもなくいわれたらしい。
「失礼しちゃうと思わない?」
そりゃあ、気持ちはわかるけど。 わかるけど、と口をとんがらす。
「で?」
ぐい、とわたしに何の話だっけと振り返る。
あわわ。
そんなストイックなお話のあとで、わたしの高カロリーな話などできようはずもない。
いや、その、どうぞお大事に、と。
「ふうん」
ま、いっか、と前に向き直る。
そんな時代も、 あったね、と。 笑い話せる日がくる。
そんな時代を過ごす必要がなく済ませられれば、それにこしたことはないのである。
ましてや、年間を通して毎日が、などともはや古きよき思い出ですましたいものである。
2010年01月25日(月) |
「台所のおと」と夫婦 |
幸田文著「台所のおと」
ふと気づくと、部屋の棚の上に、買ったままのカバーがされたままで、置かれたままになっていたのであった。
いつ、わたしが何を感じて、この作品を手にして帰ってきたのか、到底思い出すことができない。
しかし。
年が明けてからの作品に、ことごとく食がまつわっているおりに、読まぬ罪はないといったところであった。
表題作「台所のおと」はじめ、これは是非、妻、夫をもつひとにご一読いただきたい作品である。
食欲をかきたてる場面はとうとうでてはこなかったのだが、それを補って余りある物語ばかりである。
妻の、障子越しに聞こえる調理の音を、病床の料理人である夫が日がな慰みに耳にしていると、妻の胸の内にあるすべてが、伝わってくるという。
病気の俺を気遣って、音を立てまいとおとなしく音をころしてやっちゃあいるが。
料理の腕があがってくると、まな板の音だって調子がよくなりやかましくなってくるもんよ。 ところが、お前ははたりと音をおしころすようになっていきやがった。
ああ、せっかくのところを、俺の病に気を遣わせて労を費やさせ、いい加減参っちまってるんじゃあないかと、申し訳なくってなあ。
夫は先行きがない、と医者から妻だけに宣告されたのであったが、それを夫は、もちろん知らないのである。
ただ寝ている自分に気を遣っている、と勘違いしてくれた夫に、真実を気取られてはいけない。明日から、まな板や鍋蓋の音ひとつひとつにはきを気にしてやらなければ。
妻は、いちいち音ひとつにああだこうだと観察されちゃあかなわない、どうしろってのさ、と返す。
なあに、じいっと日がな寝るだけで、それしかないんだから仕方ねえや。
音を聞いただけで、落ち込んでいるのか浮かれているのか、ぜんぶわかる。
夫はそういう。
そんな夫婦、なかなかいないだろう。
恋愛結婚などまだまだめずらしい当時、である。
別の一編では、
「新婚の、ふたりきりのうちの楽しかったこと、幸せだったことを、しっかり覚えておきなさい」
と母が嫁にいった娘にいい含める。
子どもができてふたりきりでなくなったり、夫婦とは愛だの恋だののかたちひとつ影ひとつすら見えない仲のことだ、と思うようなずっと先に、しかと自分と相手とを繋ぐものになる、と。
なかなかまっとうなご意見である。
幸田文。 露伴の娘とたかをくくらず、なかなか素晴らしい作家である。
「私の中のあなた」
をギンレイにて。
さんざん世間で「素晴らしい作品」といわれているので、それ以上わたしが付け足す必要は、ありません。
白血病の姉ケイトのために、遺伝子操作して生まれた妹アナ。
生まれたその日から、姉のドナーとして何度も何度も、移植のための入院や手術を繰り返してきた。 それでも、家族は皆で笑って、幸せな日々を築き、保ち続けてきた。
ある日。
アナは突然、「私の体は私のもの。移植手術を拒否する」ために両親を裁判で訴えることに。
移植をしなければ、姉は死んでしまう。
ケイトに生きていて欲しいと、ずっと、それ以外のすべてを犠牲にして戦い続けてきた母親。
姉ケイトを愛し、ずっとそばにいた妹アナ。
なぜ、アナは裁判を起こしたのか。
家族皆が揃う、というささやかな幸せのために戦い続けていた家族に、オリのように溜まっていたもの。
生きようとすること。 生きるということ。 生きて欲しいと願うこと。
生きること。
やはりとても素晴らしい作品です。
本題とは違うところだけれど。
家族、夫婦とは、互いにバランスを取り合ってゆく不可欠な存在。
だからこそ、衝突したり、支えあったり、を繰り返してゆく。
ということ。
ごくごく当たり前の、あらためて感じるようなことではないけれど。
そして、自分の体が自分の思うままにならない、ということ。
それでも。
生きるということを、かみしめたくなる。
抜群に、素晴らしい作品です。
糸糸山秋子著「海の仙人」
あなどるなかれ。
文庫にしてたかが四ミリ程度の厚さ、と。
海の「仙人」などと子供だましなものを、と。
「ファンタジー」などという名の、さらに「神の親戚のできの悪いほう」などというふざけた人物が登場など、ちゃんちゃら、へそで茶を沸かすわ、と。
そのすべてを覆し、ガツン、とくらわされること請け合い、の作品である。
宝くじが当たり、金には困らない生活ができるようになった男は、仕事を辞めて敦賀の浜の町に暮らしはじめる。
アパートの大家となり生活費はそれでまかなえる。 なにをするでもない。 釣りと海で泳ぐこと、それだけの慎ましい日々に、
「神の親戚の、できの悪いほう」である。名前は「ファンタジー」とでも呼ぶがよい。
というあやしげな人物が現れ、ともに暮らすことになり、やがて元同僚の女と、そして男にとって「縁」がある女と、出会い、過ごし、月日は流れ、別れ、そうして。
文学界新人賞はじめ川端康成文学賞、そして芥川賞などを受賞した作家として、まさに強くうなずかされる作家である。
あらためて、著作を読み漁ってみよう。
肝ともいえる「イッツ・オンリー〜」は、原作としてまだ読んでいないのである。
西川美和監督ではないが、なかなか骨太、な作品を目にできる貴重な作家である。
2010年01月18日(月) |
「食堂かたつむり」の味見 |
小川糸著「食堂かたつむり」
どうやらわたしは、とことん、美味い料理に飢えているらしい。
本作品、単行本で発売されたそのときから、かなりの評判であった。
しかしこれは、どうしてわたしの期待通りのものではなかったのである。
誤解してはならない。
活字だけで、いかに料理を美味そうに描くか。
それは、食べる側の視点で描くことである。
作る側の表現と、いただく側の表現とでは、まったく異なったものを与えられてしまうものなのである。
料理のてほどきやメニューをみせられても、腹の虫いっぴき、鳴きはしない。
食う。 ほおばる。 のみくだす。
湯気に視界を曇らす。 香りに鼻をならす。 音に唾をたらす。
それこそが、わたしの腹が求めるものであっただけのことである。
読みやすくさらさらと、ほかほかと、食堂でのいじらしいリンコシェフの日々が、コトコトとブイヤベースを煮込んでゆくように続いてゆく。
さあ、このままこの料理は終わってしまうのか。
そのとき。
こころの舌に、切ないしょっぱさが、染み入ってきたのである。
シェフの味付けではない。 わたしがうっかり、塩水を目から足してしまったようであった。
ぐじゅ、ずずっ。
さっそく映画化されるらしい。 出版業界もたいへんである。
それはさておいても、映画として食堂かたつむりの料理たちがどのように銀幕に描かれるのか楽しみである。
2010年01月17日(日) |
「幸せはシャンソニア劇場から」 |
「幸せはシャンソニア劇場から」
をギンレイにて。
1930年代フランスの、シャンソニア劇場の人たちを描く素敵な物語。
経営難の挙げ句、借金のかたに劇場を閉鎖されてしまうも、皆が再結集し劇場を再開、盛り立ててゆく。
社会情勢に翻弄されながらも、成功、失敗、友情、裏切り、そして「絆」によって劇場を支えるカンパニー(一座)の姿は、とても素晴らしく、ほっこりとした気持ちにさせてくれる。
とにかく。
観終わるとまぶたの奥が、じわあっとあたたかくなる作品であった。
さてここで。
作品中に、世相を絶妙に読み取る作曲家が傾きかけたシャンソニア劇場の出し物を見事、作り替えて救うのだが、これはようく考えさせられることである。
笑福亭鶴瓶師匠の「スジナシ」という、ゲストの役者と鶴瓶がまったくのアドリブで、ぶっつけ本番で、即興ドラマを演じる番組があり、わたしはたいそう気に入っているのだが、その延長で、新春からの新番組「女優力」という番組をみつけてしまい、観てみたのである。
ゲスト女優が、同じようなシチュエーションや場面で、ひとり芝居を三役三場面をやってみせる、というものである。
これにはもちろん、脚本がある。
あるからこそ、粗が目立つ。
演じている女優は、星野真里の回と中越典子の回を観たのだが、どちらも素晴らしい女優力を、みせてくれた。
しかし、いかんせん、脚本だろうか、それが、よろしくない。
せっかくの演技が、まったく活かされないような、興がさめる中身を必死で女優の演技力でつなぎ止めようとしているような印象しか残らないのである。
生かすも、 殺すも、 脚本次第。
である。
わたしは生かせているのであろうか。 殺してしまっているのではないのだろうか。
死人でさえも、死んでいると気づかぬようなものを、描く。
かたちなきものに、生命を与えられる力を、培わなければならないのである。
先日、直木賞芥川賞の発表があった。
芥川賞の該当作なし、をはじめ、他の文学賞でも該当作なしということがみられているのである。
出版不況、小説離れ、が危惧どころか既に危機的状況になっているご時世に、である。
生命を、息吹きを、吹き込まなければ、ならない。
西加奈子著「通天閣」
西加奈子といえば、なかなか名の通った作家のひとり、であった記憶がある。
気のせいかもしれない。
本作品は、東京は下町といえば浅草、と少々上品な印象になってしまうが、うむ、その隣の「山谷」あたりとしよう、それに対する大阪の通天閣そびえるまちに生きる人々を描く。
彼らは日陰でどうしようもなく切ない日々のなかで、それでも彼らなりに「生きよう」としている。
くだらない、とやりきれなくても、人生は捨てたもんじゃない、と。
とのことらしいのだが。
どうにも、弱い。 なかなかそうは印象に残らないのである。
大阪は通天閣、ということで、もっと濃く深く色鮮やかな模様を期待していたせいである。
よくも悪くも、地名や実在するものには固有のイメージが、つきまとってしまうものである。
秋葉原といえば、メイド姿のアイドルと、彼女を囲みながら汗だくになっているくせにどこかハスな目線のオタクしかいない街。
渋谷なら、女子高生かギャルかチャラ男しかいない街。
青山や表参道なら、胸の下からもう足がはえているような、ツンときまった人種の街。
麻布や六本木なら、昼夜が正反対の世界に住むものたちの街。
といったような、過剰で偏見にみちた印象で描いてみても通じてしまうようなものがあったりするのである。
しかし。
そこに暮らす人々は、特別に変わっているわけではない。
わたしも、あなたも、甘木君も何樫さんも、おなじである。
だからこそ、「通天閣」ならではのひとびとをこそ、濃く描いてもらいたかったのである。
やや残念である。
2010年01月12日(火) |
「妖怪アパートの優雅な日常 三」 |
香月日輪著「妖怪アパートの優雅な日常 三」
いやはや、読みやすい。 なにせ、小学館講談社の甘木週刊漫画雑誌的物語要素をきれいに盛り込んで進められているのである。
さらに、時折主人公の高校生夕士が学んだり感じたりした人生訓などが、織り交ぜられているのである。
それこそが、成長の証し、であり、読者にともに成長していって欲しい、とのことなのだろう。
成長もくそもないわたしには、ふむふむそれで、といった次第なのだが、思春期に言い聞かせるにはよいのかもしれない。
本編についての話に戻ろう。
魔書使い「ブックマスター」としての訓練がはじまる。
本人の夢は「ビジネスマンになるか地方公務員になって、堅実ないたって普通の生活を築くこと」であり、妖魔退治や冒険なぞ毛の先ほどもしたいと思わない。
しかし、魔書におさめられている精霊妖魔の類いを使うたびに命が削られるというのである。 削られても減らないよう、いわば基礎体力を鍛えなければならないのである。
鍛えれば、その成果をどこかでみせなければ読者は納得しないのである。
別段、わたしはかまわないので、そこは流すことにしよう。
流せないのが、まかないの手首だけの姿の「るり子」さんの作る料理、である。
唾涎ものである。
基本、和食が多いようだが、それは、季節の旬のものを妖怪妖魔たちが差し入れにやってきたのを料理するのだから、自然、そちらが多くなる。
まして、るり子さんは小料理屋を開くのが夢のまま、バラバラ殺人によってこの様な次第になってしまったのである。
ソテーだムニエルだフランベの炎が舞う小料理屋など、ふさわしいわけがない。
読むほどに腹が減る。 読むほどに次が楽しみになる。
胃袋を、すっかりつかまれてしまったようである。
2010年01月11日(月) |
「妖怪アパートの優雅な日常 二」 |
香月日輪著「妖怪アパートの優雅な日常 二」
いやはや、読みやすい。
このてのシリーズ作品は、なにをおいてもキャラクターたちの魅力ありき、である。
小料理屋を開くのが夢で成仏できない、手首だけの「るり子」さん。
彼女の料理は和洋問わず、絶品、であり、まかないで彼女の料理を朝昼晩三食のみならず、お八つや夜食、さらには二十四時間好きなときにいただくことができるなど、まさに極楽である。
幼児虐待で殺され、死してなお悪霊化した母が、我が子への愛の証し妄執絆としてたびたび殺しに現れるという不憫な男の子霊クリ。
そんなクリの母親代わりだった白犬霊シロ。
とはいえ、なにも力を持たないクリとシロらを親代わりにあたたかく見守り共に過ごしている人間たちもまた、面白い。
古今東西はては次元さえも超えて、古書禁書魔術書の類いを取り扱う古本屋。じつはブックマスター、魔術書使いなのである。
主人公の高校生夕士は、古本屋が仕入れてきたとある魔書に、ひょんなことから主人と認められてしまうのである。
なかなか少年少女向けの展開である。
さらにこの魔書から呼び出される妖魔精霊らが、またなんとも愛嬌がある。
巨体で剛力だが数分間しか行動できないゴーレムや、乗られるのを嫌がり飛び去る神の馬ヒポグリフ、目があいたばかりのかわいらしい子犬のケルベロスだったりするである。
つまり。
主人である高校生の夕士と共に成長してゆく、らしいのである。
夕士の幼なじみである人間の親友、泉貴(みずき)との熱い友情も見逃せない。
集英社の甘木週刊漫画雑誌の三大原則を思わせる仕立てともなっているようである。
気楽にさらりと楽しめる作品である。
さて。
余白が、埋まりだした。
欠けていたピースが、なにをきっかけにかはわからないが、パタパタとよい具合に現れたのである。
停滞もしくは沈滞といったものらは、これを迎えるがためにこそあったのだ、そう思ってしまう。 これはただの言い訳だと思われることがたぶんにある。 そうであることもまたたぶんにあるのであるから、なんとも煮えきらない。 煮えきらないのだから、煮えきるまで、ただ我慢強く鍋蓋をあげることなく待つのがよい。 急いて何度も蓋をあげてのぞき込み、結果生煮えの野菜の、ことにジャガイモなどの芯に、ガリッと歯音をたてるようでは、とても報われないのである。
大切なワン・ピースを軽んじては、ならない。
出汁がそれぞれに染み渡るまで、ふきこぼれぬよう注意と敬意を払いつつ、煮込んでゆかなければならないのである。
まだ具材はそろっておらず、なにが足されることになるのか、はなはだ楽しみでもある。
具材たちに染み込ませる出汁、スープの、些細なわたしの勘違いに、気づいたのである。
ブイヨンではなく、鰹だし。
出汁を入れるのではなく、出汁は出てくるもの。
つまらぬ枠にとらわれ、押し込めるのではない。 枠がないからこそ、そこに物語が羽根を広げてゆくのである。
なにをこだわっていたのか、常識のウロコが、ぽろり、である。
狭めるのも、自分。 広げるのも、自分。
なのである。
2010年01月09日(土) |
「ブロードウェイ・ブロードウェイ」 |
「ブロードウェイ・ブロードウェイ」
をギンレイにて。 伝説のミュージカル「コーラス・ライン」が二〇〇六年に再演となり、そのオーディションから裏方から、初演時の貴重なフィルムやらを交えて撮られた作品。
わたしは「コーラス・ライン」なるものを名前くらいしか知らない。 有名なラインダンスの場面と曲くらいなら、という程度である。
であるから、さして興味を持つことがなく、ブロードウェイ・ミュージカルといえば「RENT」が最初で最高の作品である、となんとも了見の狭い人間で困ったものである。
狭かろうが、それでよしとするならばよいではないか。
いや待て。
「コーラス・ライン」のコニー役を射止めた日本人ダンサーがいるのである。
高良ユカさん
である。 彼女は「RENT」カンパニーの一員なのである。
「名前のある役よりも、名前がない役であっても「RENT」の一員になることを選んだ」
と語っていたのである。
さて話を本作に戻そう。
あくまでもドキュメントである。 オーディションのひとりひとりと作品自体の物語であるから、「コーラス・ライン」を知らずとも、なかなかうならされる作品であった。
ひとつをやるとき。
「身も心も捧げる」
と、いえるだろうか。
いえる人間は、それこそ特殊な選ばれた人間である。
仕事に身も心も捧げる。 遊びに身も心も捧げる。 趣味に身も心も捧げる。 家族に身も心も捧げる。
いちいち捧げていたら、身も心も、いくらあったって足りやしない。
どんなことであっても、身も心も捧げることなど、常人にはとてもできるはずなどないのである。
もちろん、わたしにもできるはずが、ない。
そんな余裕も、天性の才も運も、あると言いきれないのは重々承知である。
であるから。 わたしはいう。
書き続けよう、と。
2010年01月04日(月) |
「HACHI-約束の犬」 |
「HACHI-約束の犬」
をギンレイにて。
リチャード・ギア主演の、「ハチ公物語」ハリウッド版である。
八公。 ハハム、ではない。
末広がりの、なんともめでたい作品である。
賛否両論あると思うが、作品の最後に、きちんと渋谷ハチ公の説明をしているのに、わたしは満足を覚えた。
色眼鏡をかけずに、本作品を観れば、なかなか楽しめると思う。
しかし、リチャード・ギアのハチを呼ぶ声が、
「フワァ、ツィイー」
と聞こえてしまうのは、英語の発音だからと思いつつも苦笑いしたくなってしまう。
いや。
日本が誇る名犬種「秋田犬」
アキータのエビータ、もといハチ、の愛らしさは癒されるものである。
さて明日からはもう日常がはじまってしまう。
その前に、新年のご挨拶をしておかねばならない。
そして、運試しも、である。
歩いて五分の、まさにお膝元。
根津神社
にて、御祭神の素戔嗚尊(スサノオノミコト)に新年のご挨拶と、諸々の抱負を告げ、まあみとってつかあさい、と手を合わす。
こちらにはほかにも菅原道真公や大国主命もまつられているが、そちらはとりあえず会釈ていどにすましとく。
世をはかなむ飛び梅の……。
おっと道真公、貴公はあらためて湯島にて近い内にお伺いいたすので、雷雲を頭上に轟かせながら、いじけてすねてみせずにいてもらいたい。
そこの小槌をぶんぶん振って主張している大国さま。 あとで神田に伺うから、ちとそちらで待っていてもらいたい。
そうして、いざ、運試し。
念を込め、えい、と。
「末吉」
である。 ふむ、前哨戦としては、なかなかである。
しかし、手放しで喜べるものではない。 粛々と籤を納め、いざ鎌倉、ならぬ、神田、である。
おっと、忘れてはならない。 鳥居でぺこりと一礼し、根の津から、稲の原を焼き尽くさんが勢いの再戦の炎を灯し神田の地へ。 江戸総鎮守「神田神社」 である。
参拝の列に並び、わたしの少し前で、
じゃらじゃらじゃらぁん。
「おおぉっ」
どよめきと共に、大量のお賽銭が流し込まれた音が響き渡ったのである。
これでは、わたしのがかすんで、いや、なきにも等しく思えてしまうではないか。
「大事なのは、気持ちがこもっていることです」
有名な甘木江の原氏のことばを思い出す。
うむ。 勝ち負けではないではないか。
握り締めた汗でじっとり熱くなった小銭を、折り曲がらんくらい強く握り締めなおす。
ぱん。ぱん。
ええ、武士は食わねど高楊枝。今年も突っ張らかってゆきますよ。 だから今年も、かなえるのが簡単そうなほうだけ、とりあえずお力添えを。 いや、肝心なまさに最後は運だけが必要なときには、ちょいと風を吹かせてくださいな。
んむむ、と最後に一度だけ、意味もなく眉間に力を入れ、一礼す。
よし、鋭気は整った。 いざ、運試しの決戦へ。
おみくじの列に並ぶあいだ、精神を集中する。
わたしは何樫の谷中に住まう甘木と申します。 およそふた月と間を置かず、ご挨拶に伺ったりなぞしてる者でございますが、見覚えがございますようでしたら、どうぞ、新年のはじまりの運試しを、気持ちよいものとしてくださいませ。
なむなむ。
なんたる不甲斐なさ。
これしきのことで、もはやすでに、我が力を信ぜずあまつさえ、都合のよい神頼みにすがっているではないか。
これはいかん、と慌て首を振る。
振ったはいいが、振り落としきれぬうちに、「次の方、どうぞ」とわたしの番になってしまったのである。
えい、ままよ、と、シャラシャラかき混ぜ、はあっ、と籤を引き落とす。
おおっ。
「……番です」
なんとはじまりにふさわしい番号であろう。
「大吉」
である。 拳に力が入る。
浮かれたりはしゃいだりせぬよう、ようやく己を落ち着かせる。
しかし、気を抜くと、頬が勝手にゆるむ。
にまあ。
なんともめでたい、幸先のよい、年のはじまりである。
それはそれは、鳥居を出ての一礼にも、覇気がみなぎる、というものである。
六つ星の占いでは、今年はもっともよろしくない年らしいが、だからなんという。
平気の平佐、銭形平次である。
まことに自分勝手なものではあるが、こうして年男でもある新年がはじまったのである。
見事な月が、不忍池の向こうでわたしを笑っている。
地元の友人らとの新年会にいってきた。
多少の差はあれども、おおよそ二十年という、なんともおそろしいかぎりの年月を経て顔を突き合わせてきた顔ぶれである。
夫婦、子どもらで、なかむつまじく、居間や台所で、やいのきゃあきゃあやっている光景は、なにやら胸に沁みいるものを感じさせられるものである。
小学生の姫ふたりがやんちゃ盛りの王子ふたりの相手にてんてこまいし、そして母ママらの手料理に舌鼓を打つ。
来月には、まためでたいことに新しい小さき命が、生まれ出づるのである。
「生きる」ということのみならず、「暮らしてゆく」ということの輝きは、なんともまばゆいものである。
胸いっぱい、腹いっぱいの、至悦のひとときを、たっぷりと堪能させてもらったのである。
そうしてその夜、友とふたりで、肉の食べ初め、である。
なんともありがたい、めでたい一年のはじまりである。
七輪を挟み、炎と煙がめらめらもうもうと立ちあがり、じゅうじゅうと肉汁が滴り落ち、じゅんと炭の火照りをさます。
炭はさめても、たちどころにまたあかあかと熱を灯し、我が頬を熱くさせる。
至極、至悦、至福、である。
こうして肉を突っつき合える友は、ありがたい。
ともすれば、己が恐れるものなど何もない、とすら思わせてもらえるような何かを、友らはあたえてくれるのである。
何をするでもなく、ただ友としていてくれることに感謝と、これからも変わらず気を遣わぬ、ときに無礼かつ横柄なわたしと、お付き合いいただけるよう、ひらに、ひらにお願い申し上げる所存である。
新年がはじまってしまったのである。
「しまった」というのは、警戒や後悔の意などではなく、己では如何ともし難いものやことに対する表現である。
今年は地元、いわゆる故郷にて迎えたのだが、どうにも、身の置きどころのようなものが、こころもとない。
それはつまるところ自らに因るものなのだろうが、それは棚の上にあげておき、とりあえずの身の置きどころを探し歩いてみたのである。
駅前に向かうにあたり、ちと、ぐるりと回ってみたのである。
それはまだたしかランドセルを背中にひっかけていたころ、はじめての補修塾なるところに通っていた、京成線の駅のほうである。
水鳥公園の石碑を見かけ、懐かしさのみにあらず、なぜかここをゆかねばならぬ、と袖をひかれたのである。
かつてここを訪れて以来、干支がふた回り分くらいしてしまっていた。
きれいに整備され、ふむふむかつてのはこのあたりだったか、と池の向こうに目を見遣ると、お社に、ずらりと列。
菊田神社
であった。 今日の今まで、まったく知らなかったのである。
初詣に並ぶ、およそ百メートルの列の人々を横切り、由来だのご祭神だのをつらつらと流し読む。
うむむ。 なんというか。
よほど、縁があるようである。
オオナムチノミコト、つまり、
大国主命
とである。
有名かつ、かかすことできぬ神のひとりではあるが、振り返ると、わたしの暮らすさきざきの地で、おらなかったことなど一度もないのである。
これは谷中に帰ったら、すぐさま神田大明神に初詣にゆかねばなるまい。
身の置きどころは、やはりみつけるようなものではないのである。
つくるもの、 築くもの、 あるべくしてあるもの、
なのである。
身勝手を振る舞っているのだから、それは覚悟をしてあるはず、すべきことである。
ほかになにをや望まんや。
大事な一を望むなら、 ほかの九は望むまじ。
すべてを背負ってゆくのが夢ならば、 すべてをひきかえにするのもまた夢。
逆光を背に、いざゆかん。
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