「空気人形」
をギンレイにて。
ずっと気になっていた作品でした。
この作品、
間違いなく。
「最高傑作」
です。
「空気人形」とは、いわゆるラブドールのことです。
その人形の「のぞみ」が、突如、心を持ってしまいます。
それは誰が望んだでもなく、求めたでもなく、まさに突然、心を持たされてしまうのです。
そこでオーソドックスに、持ち主に対してなんらかの感情があれば、物語は滞りなく進み、せめて「傑作」どまりの作品だったでしょう。
持ち主には、心を持ってしまったことを隠して過ごし、別の男性に、恋をしてしまいます。
のぞみを演じるペ・ドゥナが、とても素晴らしい演技です。
恋した男性の働くレンタル・ビデオ店で、働き始めます。 そこでとうとう、のぞみが……。
ふたりは互いの気持ちを伝えあい、そして。
この作品は、男女問わず、いや女性にもきっと共感して涙を流してもらえるような、切ない、純愛作品です。
とても、素晴らしい表現、演出、演技。
オダギリジョー、寺島進、板尾創路、余貴美子、星野真里、富司純子ら、そうそうたる役者陣。
そして、「誰もしらない」「歩いても歩いても」の是枝裕和監督。
なんて、心の機微を、ふるえるその先端の微妙で繊細なところを捉え、描くことが抜群に素晴らしい監督なのでしょうか。
開始十五分経たないうちに、きっと誰もがわかってもらえると思います。
是非、ご覧ください。
さて昨夜は大森であった。
いつもなら金曜の夜だが、金曜はイ氏が芝大門にいるとのことで、イ氏と喋り過ごすなら今宵しかない、との次第であったのである。
来訪の旨を告げ、待合室でしばし待つ。 本差しに、「しっかり眠ってダイエット」との活字が踊っていたのである。
睡眠とダイエット、もとい肥満は、緊密な関係を持っているのである。
これは医学的にも、真実である。
食欲と睡眠を司る脳神経(物質)は、同じところもしくは共通しているのである。
もとい。
わたしはソロソロと指を伸ばし、受付の方々に決して何を手にしているのか気取られぬよう、しっかり背中で覆い隠し、ささっと項を繰る。
くれぐれも。
決して、わたしが肥満体であるというわけではない。
やや腹周りが、豊かに感ずるようになってきた、ような気がしているだけである。
「竹さん」
ハッと、振り返る。
ケイちゃんが問診票を胸に抱き、立っていたのである。
いや、別に、太ったわけではなく。 え、なんですか。
キョトンと、まるでなんにも気づいてない様子である。
ささっと本を戻し、わたしは何食わぬ顔を決めこむ。 じゃ、こっちで、とケイちゃんに導かれるままあとについてゆこうとすると、はたと室のイ氏と目が合ったのである。
どうも、と会釈すると、「やあいらっしゃい」と、わたしを室に招き入れようとしたのである。
あのまだ問診が。ケイちゃんが戸惑い拒もうとする。
「いいよいいよ、さあさあ」
よよよ、と招かれるがまま、椅子につく。
そっか前回は獅童さんだったんだよね。どうだった。
んあ、と顔をあげてわたしに訊ねる。
いや、あらましと最近のことをちょちょいとお話しまして、ねえ。 ケイちゃんに振り返ると、はい、とかしこまる。
そうそう。これからはずっと、週末は芝大門だから。 ずっと、ですか。 うん、ずっと。
じゃあ、と、わたしももともとは芝大門で、イ氏についていって大森にきているのだから、会社帰りの通り道にまた戻れるなら都合がよい。
「でもね」
あちらだと、こうして話してる時間が、なくなっちゃうよ。 え。
「なにせ慌ただしいからね」
じゃあ、これまで通りこちらでお世話になります。
室をでたところでケイちゃんが、
「不死鳥さんは、ずっとあちら(芝大門)で、バリバリきりもりされてますよ」
芝大門のころからの不死鳥さんとは、昨年末以来、ずっとご無沙汰である。
とはいえ、やはりこれからも、帰り道とは逆方向だとしても大森に通うことにしよう。
最近ずっと、夜八時あたりがピークでしんどいんですが、といってみると、
「じゃあ、三錠だそうか」
即座にイ氏にいわれたのである。
いや、時間をずらしてやりくるようにしてみるので、まだいいです。
「だけどそれだと」
あなたは書ける時間がなくなっちゃうでしょう、と続ける。 まあたしかに、書くどころじゃあないですが。でも、もうしばらく様子を待ってみます。
短時間の補強はどうやらリタ嬢しかないらしく、それは当然避けたいのである。
「私」の時間に思考がわやくちゃになるなら、仕方がないので諦めるしかない。 しかし。 「公」の時間にそうなるのは、まったくよろしくない。
幸い今のところ、そうなる前に「公」の場から引きあげていられているが、そうはゆかないこともあるのである。
わやくちゃになっているときは、すべてが煩わしくなるのである。
ただひたすら眠くなる。 尋常じゃなく。
であるから、外部からの干渉など、構ってるどころではないのである。
冷たいようだが、そんなとき、触れたくなければ触れて欲しくもない、というのが本音であり、求める最善策なのである。
かつて、わたしのその状況に初めて居合わせることになった父が、戸惑い、手探りの結果にようやく導き出した「大丈夫か」との、たったそれだけの心配の言葉をかけてくれたとき、
「めんどくさいっ。なんでもいいから、ほっといてくれっ」
と語気荒く投げ放ったのである。
正確には、
「(考えて判断するのさえ)めんどくさいっ(くらいしんどいし、思考が回らないから)。なんでもいいから(気にしないで、気にされるのさえ、親切だとわかっていてさえそれが逆に煩わしく思ってしまうから)、(どうかお願いだから)ほっといてくれっ(話しかけたり何かできることをしようとか、そういうのがことごとく裏目に感じてしまうので、そっとしておいてください)」
というつもりだったのである。
がしかし、結果、前述の次第である。
イ氏が、
「結婚相手とか、そろそろ探さないの」
と、さきほど突っつかれたことを振り返る。
一緒に過ごしていて、さすがに毎日ではないが不定期に、こんなことがあるのを受け入れられる御人が、いるだろうか。
「それは相手に、誰であったって慣れてもらうしかないんだから」
はっはっはっ。
そうですよね。
あっはっはっ。
笑うしかないのである。
「ねえねえっ」
わかったよ、枝前さんの髪飾り。 聞いたんですか。
コクリと、馬場さんがうなずいたのである。
枝前さんの後ろでクルリと丸めた髪に、キラリと輝いて突き刺さっていた髪飾り。
「かんざし」のようだが、飾りが何もない。 しかも、長い。
えっとね、あれはね。
「箸、だって」
あっはっはっ。
まさかの答えに、いや本当は何でしたか、と問い返す。
だから「箸」だって。
ちょいと待て。それならそれで、なんと洒落た感性なのだろう。
「韓国に行ったときに買ったんだって」
韓国で箸といえば、鉄箸である。
ということは、もう一本は家にある、と。 そういってた。
うむむむ。
腕組み、うなってしまったのである。
「感性が、いいよね」
馬場さんも、枝前さんのそれにすっかり感心してしまっていたのである。
「わたしも、その一本もらって真似しよっかな」
お揃い、ですか。 そう。
「お箸シスターズ」
ですね。 なんで日本語なの、
「チョプスティック・シスターズ」
とかさあ。
馬場さんが呆れ顔でわたしを見返す。
チョコチップみたいじゃないですか、それじゃあ。
馬場さんとしては、ラブ・サイケデリコだとか、サディスティック・ミカバンドだとかのノリのつもりであったのだろう。 そうは問屋が、卸させない。
なんだかなあ、とおとなしくなった馬場さんが、夕方、カツカツカツ、と足音高々しくやってきて、やにわに、ふんっ、と鼻を鳴らしたのである。
「どう?」
指差した頭には、クルリと丸めた髪の玉に、プスリと箸が刺されていたのである。
わたしは、反射的に、ぽつりとつぶやいたのである。
食堂のおばちゃん。
ふんー、いいっ。
わたしをとうにあきらめ、すぐさま大分県に詰め寄る。
「どう、これ」
説明もなくいきなり訊かれた大分県は、まじまじと眺めてから、
食堂のおばちゃん?
あーっ、あんたらふたり、揃いも揃って腹立つっ。ひどくない? なんで彼女と扱いが違うのよ。
そんな、と謂われのない気持ちで大分県が、わたしに同意と説明と助けを求める目でみつめてくる。
だって。 だって、なに。
「塗り箸」なんだもの。
うん、そう。 大分県が激しく同意する。
馬場さんの髪に刺してあるのは、小豆色の塗り箸であった。
まるっきり、あり合わせで食堂の箸を刺してきました、という体に見えてしまったのである。
枝前さんのは、キラリと輝く銀色の鉄箸、である。
せめて「小豆色」じゃないなら、よかったけれど。
ふん、と鼻をならして仕事に戻った馬場さんの背中は、すっかり意気消沈してしまったようであった。
かわいそうな気持ちになってしまったが、この髪飾りの発想は、なかなか素晴らしい。
「かんざし」は和髪でなければなかなか合わせる気がもてないが、これなら、気軽に合わせられる。
ストンと抜け落ちないのか、との心配はご無用。 縫うように刺せば、ピタリとしっかり、とまるらしいのである。
発想の転換。
活かす機会が残念ながらわたしにはないが、なかなか素晴らしい発見を教えてもらったのである。
わたしの目に、キラリ、と輝くものが、映ったのである。
枝前さんの、後ろにくるりとだんごにした髪のところに、それは突き刺さっていたのである。
白銀に光を反射させているそれは、かんざし、にしては装飾がなく、長い。
最近の髪飾りだろうか、かんざしですか、ともし枝前さんに訊ねてみて、
「何時代のひとですか」
と、くすくす笑われてしまうのは避けたい。
かといって素直に、その髪飾りは何というのですか、と訊ねるのも、気があると誤解を招かないでもないので避けたい。
そこで、隣席の馬場さんにまずは訊ねてみたのである。
「なんだろうね」
しばしの黙考ののち、やや重たげに口を開いたのである。
わたし、あまり小物とか、買わないから。
二歳になるお子さんがいれば、自分の小物どころじゃあないですよね、と感慨深くあいづちを打とうとすると、やおら馬場さんがわたしに向き直り、まっすぐに、こぼしてきたのである。
だんながね、考えもせずに、気分でそういうのを買ってきちゃうの。
素敵なだんなさまじゃないですか。
「ちがうの」
苦しい家計なのに、勝手に、だよ。しかも、小物じゃなくて、服とか、何万円のやつ。
なおさら素敵じゃあないですか。まあその、家計を預かる立場としては、文句がいいたくなるのはわかるけれど。
「でしょっ?」
苦しい家計だってわかってるはずなのに、もうっ。
「でも」
女としては嬉しい気持ちが、あるでしょう。
「それはそうだけど」
でも、ちがうの。 馬場さんはまけじと、キリリとわたしを見据えたのである。
「サイズが、今のわたしじゃ着れないのを、だよ?」
わたしに痩せろって。 まあまあ。 あてつけ、だったり。
笑顔で憤懣をはきだす馬場さんに、素敵なだんなさまを同じ男として弁護の言葉を返す。
たとえば、ですよ。
結婚前、付き合った初めての贈り物で、指輪を贈ったとしましょう。 うん、それで。 サイズが「七号」だと、そのときに知ったとします。 うんうん、で。 結婚指輪も、銀婚式の記念の指輪も、「七号」だと当然思うのが、きっと男なんです。 えー。 家事や子育てやらでたくましくなったりする、ということはなかなか頭に浮かばないんです。 そんなら、ちゃんと買う前にサイズを確認してよ。
チッチッチ。
人差し指を小気味よく、振ってみせる。
「それじゃあ、サプライズにならないじゃないですか」
ぐむう。
そんな素敵なだんなさまの、つまりはおのろけ、が聞きたいのではない。
枝前さんの髪にキラリと光るあれは、何というのか。
「じゃああとで聞いといてあげるよ」
やっと本題にたどり着けたのである。
しかし答えは、明日に持ち越されたのである。
はたして、「かんざし」か、よもやの「箸」か。
2010年02月23日(火) |
「万寿子さんの庭」と一葉の言葉 |
黒野伸一著「万寿子さんの庭」
小学館の「第一回きらら文学賞」を受賞しデビューした作家の作品である。
二十歳の斜視の京子と、七十八歳のひとり暮らしの万寿子さんとの、女の友情の、はかなくもせつない物語である。
ふたりの出会いは、万寿子さんの京子への意地悪ともみえるいたずらから、はじまる。
越してきた京子に、無視、にらみ、罵詈雑言、そしてなんと、人前でのスカートめくり、からはじまるのである。
なにさ「寄り目」、「ブス」
斜視にコンプレックスがある京子は、日頃から人と目を合わすことを避け、正面から人と会話することも少なく控えめに暮らしてきた。
なによ「ババア」のくせに。
老人だから、との気遣いや傲慢な目線からではなく、ひとりの女とひとりの女、として、ふたりは「友だち」となってつきあってゆく。
京子のせっかくの恋のチャンスを、ちょちょいとじゃまをして、三日間も(!)口をきかないけんかをしたり。
いっしょにいった買い物で買ったかわいらしいワンピースを貸しあったり。
万寿子さんがいかに強がりで、けらけらと笑い、毒づいたりしていても、痴呆にはあらがえない。
自分が知らない自分が、万寿子さんの一日の中に虫食いのように、いる。
京子は会社を休み、万寿子さんの介護を、する。
プライドが高く、年寄りくさいから嫌だといっていた自分の昔話を、聞かせてよと京子がねだり、話しだしたのがきっかけだったんじゃないだろうか。
空襲で亡くした妹の名で京子を呼ぶことが増えていったのである。
そんなときは決まって、瞳が深い色になり、万寿子さんのものではない目になる。
まったくの他人ではなく、身内でもない、「友だち」に、オムツを変えられたりする。
万寿子さんじゃない深い瞳の色のときはよいが、はたと万寿子さんに戻るときがある。
しかし、万寿子さんはそんなとき、万寿子さんじゃないふりをし続けるしかないのである。
わかるのよ。気づいたら、ぽっかり記憶が抜けてて、誰かに体を乗っ取られているような感じ。 自分がその間、何をしてたのかわからないの。
「わたしでいられるのも、もう、わずかなんだよ。わたしでなくなったら、それはもう死んだと同じ。だから」
大島紬の着物にびしっと身を包んだ万寿子さんは、そういって京子に遺書を書く。
面と向かっては、きっと素直に伝えられない万寿子さんの気持ち。
なかなか、よい作品であった。
「きらら」といえば、わたしもかつて一度だけ、しかも欄外にちょこっとだけだが、名を載せてもらったことがあった。
その際、本人確認のために連絡をいただき、少しだが話を聞かせてもらったのである。
いやあ、たしか「なんたらかんたら云々」て一文、よかったですよ。
手元になくとも、印象に残る。 それは難しい言い回しなどではなく、シンプルだったり、素直だったり、する。
そのような一文が、必要なのである。
はたとそんなことを、思い出したのである。
2010年02月21日(日) |
「サイドウェイズ」とドラマチック |
「サイドウェイズ」
をギンレイにて。 通勤途中の有楽町で、スバル座のポスターを毎日眺めていた作品である。
もともとは洋画を、日本人キャストで復刻した、らしいとの話はきいていたのである。
ひらたくいえば。
「ハチ公物語」をリチャード・ギアで「HACHI」として作品にしたのと同じなわけである。
小日向文世、生瀬勝久、鈴木京香、菊池凛子らのおくる、中年たちの青春物語である。
八十、九十年代の、トレンディドラマの懐かしい香りが漂う。 これがまた、ほどよい味わいを醸し出しているのである。
小日向演じる冴えないシナリオライター講師。
ドラマ原作の返事を、待っていたのである。
ふむ。 どこかで聞いたことがあるような話である。
ドラマ化決定、しかし、手直しをよりによって教え子に任され、どんどん書き換えられて、挙げ句、
「先生の原作は、クレジットを一本でやりたいので。ギャラはお払いしますので」
となってしまうのである。
くっそぉ! はいはい頷いて、言われるままに書き直して、それでよけりゃあ、やるさ! ふざけんなっ!
それまで、ひたすら温厚に、声を荒げることがなかった彼が、叫ぶ。
そんなもんである。
まだよいではないか。
プロダクションが組織改編で、いつまでも「準備中」の札を掲げられたまま連絡もとれずにいるよりも。
おっと。 耳の奥の痛みに思わずうめき声があがってしまったようである。
さて。
目が覚めると、卓の上には、甲殻類の死骸が、ボウルに山と積み重ねられていたのである。
有川浩著「海の底」のサガミレガリスを思い浮かばす。
「わたしのことは、忘れてください」
そして数年後、
「はじめまして、ですよね」
と少女が女性となって敬礼を返しにくるはずもなく。 ただ今夜はどう料理してくれよう、とあごをひと撫でするだけである。
まったくなんとも幸せなことである。
まったくなんとも不自由な体である。
さてギンレイの帰り道、ドームシティにあるbaseball-cafeの前を通ったとき。
中で男の子が、おそらく誕生日だったのだろう、スタッフ全員が輪になってお祝いのパフォーマンスをしていたのである。
なんたる対比だろうか。
まるでクリスマス・キャロル。
「サイドウェイズ」で生瀬勝久演じるダニーが、言う。
「ドラマなんだからドラマチックに書け、って生徒に教えてんだろう?」 「それでも、この話だけは、そうしたらいけないんだっ」
答える。
譲れない、生き方。
どうにも、互いに譲り合えるところを探し、導こうとすることばかりに、なっている。
仕事してりゃあ、そんなの当たり前、でもある。
が。
これだけは、譲れない、ものだって、ある、のである。
2010年02月20日(土) |
泣いて過ごしたかに? |
「帰って、ナウシカを観るべし」
昨夜の帰りがけに、友からそう言われたのである。
御徒町のそこから見下ろすテールランプの流れが、
「攻撃色に満ちた我を忘れて突き進むオーム」
の群れのようだったのである。
なぜだろう、胸がドキドキする。
と呟いたのは、かの姫さまの台詞にあわせただけではなく、友からの知らせに、グイと引き起こしてもらったからでもある。
「生きてたよ。短ぇ夢だったな……」
と襟を正した参謀よろしく、机を片付け、きびすを返して帰路についたのである。
さて。
昨夜は危うく、姫さまの友愛の物語に、涙をポロポロとこぼしてしまいそうになったのであるが、そこはなんとかこらえたのである。
昼過ぎ、ようやく出仕度が整い、さてとテレビの電源を切ろうとしたとき。
「タイヨウのうた」
画面から飛び込んできたのである。
コートを着たまま、爪先立ちでしゃがみ込んだまま、見入ってしまったのである。
わたしがYUIに、おそらく初めて惚れてしまった出会いの作品である。
退職し、毎日、読むか書くか観るしかせずに過ごしていた当時。
渋谷の映画館で、学校帰りの女子中高生に高手小手に取り囲まれ、男ひとり、そこで泣こうものならひんしゅくこの上ない、と耐えて堪えて観た作品であった。
ご多分にもれず、今回は、とめどなく、はばかることなく、おんおんと頬は濡れるまま、息は詰まるまま、見届けたのである。
気づけば日はとっぷりと暮れている。
また、引きこもりの休日をおくってしまったのである。
買い寄せた激安カニ足を、鍋に放り込み、もくもくとそれを突っつき、しゃぶりながら、振り返ったのである。
今、わたしが携わっている業務に、三次元モデルによる設計、というのがある。
それは業界的に、これからの可能性、ということで大手ゼネコンや設計事務所などが、
「これを機に」
覇権を争わん、と鼻息があらくなっているところ、それを、
「先走って火傷はしたくない」
と一歩後ろから様子をうかがっているもの、などが、ケンケンガクガク、であったりするのである。
一般に、これらの三次元云々を、
「BIM」
と、英略語で呼び表しているのである。
「竹さん。BIMって、何の略なんですか」
不意に、ガンさんが尋ねてきたのである。
「BIM」というのは、ですね。 ええ。
しばし考え込む。
この場合の正解は、 どちらか。
ガンさんは、鉄筋工から自分の設計事務所を立ち上げるまでにいたった、強者である。
が。
日々、意味もない茶々をわたしに入れ、なかなかお茶目な洒落者でもある。
「わかりません」
振り返って、答えたのである。
え、そうなんですか。またまたぁ、ホントは知ってるくせにぃ。
にやにやと、ひじでわたしの肩を突っついてくる。
ますます、わたしはわからなくなったのである。
どちらが、正解か。
「さっさと調べたほうが早いじゃないの」
隣席の馬場さんが、カタカタとキーボード叩き仕事をしながら、笑ったのである。
それは、そうだけれど。
ガンさんが、じゃあ調べてわかったら教えてください、と逃げてしまったのである。
調べるまでも、ないに決まってるじゃあ、ないですか。
「じゃあ、BIMって何の略なの?」 「えっとですね、
B……ブタ肉 I……いい肉 M……丸大ハム
です」
おや、と馬場さんが眉をしかめる。
「ハンバーグでもいいですよ」 「マルシン、じゃなかったっけ」
え。 だって。
「おおきくなれよぉ。
まーるーだーいー♪ ハーンーバーァーグ♪
って、子どものころCMやってませんでしたか」
馬場さんとわたしは、同じ年齢である。
しかし。
永遠の二十六歳、
を自称しているのである。
十もサバを読もうなぞ。 わたしも共犯となろう。
もとい。
「だって、
まーるしん♪ まーるしん♪ ハンバァグ♪
でしょう」
いや、丸大です。 いいや、マルシンだって。
どちらでもかまわない論争に、しばし突入してしまったのである。
他にもパターンを用意していたのに、披露することができなかったのである。
ちなみに、「BIM」の真面目な正解は、
Bilding Information Model
である。
まだ中途ではあるが、ざっと、これまでのところを、打ち出してみたのである。
四百字でおよそ百五十枚ほどであり、もちろん、それをそのまま自宅にてガサガサと印刷するのではない。
社内でこっそり、印刷機を拝借したのである。 業務用機であるから、一度で両面印刷ができる。 それを使わない手はない。
一枚につき四十行四十列くらいにし、それでも三十枚くらいの枚数だったのだが、さすが業務用なだけあって、両面印刷に手間もかからず、早い。
人目に触れぬよう迅速に回収し、これまた備品であるクリップでとめ、クリヤファイルに挟む。
そして。
とりあえず、ざっと読む。
誤字や体裁やらは、さておいて、全体的な姿を眺めてみることをこそ、優先すべきである。
どんな美人でも、いちいち、小指の爪の形が薄いだとか、えくぼが左の頬にしかできないだとか、細部から検証していてはキリがない。
微や細ではなく、全体が、日常における最も重要なものなのである。
もとい。
正味なはなし、全文を通して、こうして眺めるのは、今回において初めてであった。
まず、最初のあたりを読んでのち、はああ、と顔を覆ってしまったのである。
作品の、まずは大前提、としてあったものが、先に進むにつれ、粉雪のごとく溶け落ちてゆき、現在にいたっては、五月雨の集まった最上川のごとく押し流され、跡形もないのである。
誤表現など以外のところで、引っかかるところがない。
内容が、ではなく、全体の文体として、のど越しもなく流れていってしまっているのである。
蕎麦は、つゆはちょい付けで、のど越しで味わう。
という江戸っ子にしてみれば、「なんでい、なんも食った気がしねえな」となってしまう。
味がしっかりとあれば、そんなことを心配する必要がないのである。
だが。
そうではないのだから、せめてなにか、のどを何かが確かに通っている、というものが欲しいのである。
まるで、茹ですぎてしまったうどんのように、なりかけてしまっている。
山本屋の味噌煮込みうどん、とまではゆかないが、シンのような、硬さというか、引っかかる少し角張ったものがあるように、しなければならない。
つるんとした杏仁豆腐は、これではなく。 とろりとおも甘い練乳も、これではなく。
灰汁を。
掬ったお玉に、頑としてこびりつき手間をかけさす、そんな灰汁のあるスウプを。
煮詰め直そうと、思ったのである。
舞い落ちる泡雪を、白い息で溶かしながら。
今朝席に着いたら、机上に、ハート型の、チョコをあしらったクッキーが、一枚、置いてあったのである。 それは明らかに手作りであり、ひと口サイズのものが一枚、透明ビニルで包装されていた。
はっと、大分県を見ると、あったでしょう、とわたしに同意を求める目でみる。
しかし決して声には出さず、口を形するだけである。
大分県の向こうで、リョウくんは無関心な顔をして机に向かっている。
謎。 なんですよ。
と、大分県が、これまた目だけでわたしに訴える。
誰が誰とも書き添えもなく、ただ、ちょこんと、それぞれの机上に、置かれていたのである。
火田さんからか、と思い、チョコクッキーを掲げ、ありがとうございます、と火田さんに向かって言おうとつまみ上げたとき、わたしは、つと、それを取りやめた。
ビニルの包装のすみっこに、気がついたからである。
「○ば(まる囲みに、ば)」
大分県は気づかずに、今もまだ不審な様子で、ちらちらとしている。
わたしは、あっは、と腹の中で笑い、大分県にはそ知らぬふりを通した。
やがて遅れて出てきた馬場さんに、
「あねさん。ありがとうございます」
と、謝意を伝える。 いえいえどういたしまして、とこともなげに、席に座る。
馬場さんは土曜出勤する、ときいていたが、日曜にも来ていたのだろう。 その帰り際に、皆の机にそっと置いていったのであろう。
「念入り、だからね」
クスリと、笑う。
怨念ですか。 まあね。
馬場さんは、土日出勤で、金曜も夜遅くまで残業していたのである。 そんななかでも、このような心配りを忘れないとは、これは、すっかり見直さねばならない。
うちの男社員どもは、揃いも揃って、独身ばかりで。
激励は、しかと受け取った。
その後、互いのスケジュールを報告確認する社内会議があり、当然、馬場さんの厳しい状況が本人の口から告げられる。
「これから書かなきゃならない図面枚数なんですけど」
馬場さんの上についてる火田さんが、フォローを入れる。
「九百枚、て」
「きゅ、きゅうひゃくですかっ」
そんな馬鹿な、と思わず声を上げて聞き返してしまったのである。
「わかんない。まだ、リストを渡されただけだから」
火田さんが、続ける。
もちろん、これから中身を見て整理してみなければわからないんだけど。一分の一の図面とかがあるのよね、なんなのかしら。
と、ため息をこぼした。 そんな火田さんに、
それは機械図で建築の図面じゃあないですよ。
とは言えるわけがなく、そこは、ぐっと飲み込んだのである。
が。
わたしが知るなかで、せいぜいが二百枚で、その中にはメーカーによる製品図(仕様)を含めて、であるが、それでも尋常ではない。
これは、大変だ。いや、大変どころじゃあ、ない。
それを火田さんと馬場さんの、おもにふたりで。 「なので」
そこで馬場さんが口を開いたのである。
皆さん、お手伝い、よろしくお願いします。
はあ、まあ、それは、やぶさかではないけれど、と戸惑いつつ、皆はいまいち消極的な態度に変わる。
「あれれ。みんなにあげたよね、タダだと思ったかしらん」 「えっ。あれにはそんな意味があったんですかっ」
今まで沈黙していたリョウくんが、ガバッと身を起こす。
大分県は、それがあろうがなかろうが、きっと変わらないのであろう。 あーあ、と苦笑いを浮かべていた。
わたしは、まったく別、である。
社内でひとり、どっぷりと別物件に、出向扱いで年内いっぱい関わっているため、社内の物件に関わることができないのである。
定時以降、土日休日出勤で関わることならできるが、それはないだろう。
であるから、わたしは、何のてらいもなく、馬場さんの念入りチョコクッキーをかじることができるのである。
無論、手伝う気が毛頭ないわけではない。 そこは、そのときその場で、うまくやりくる必要があるだろう。
アフター・ばれんたいん・でい。
見直した馬場さんを、さらに見直し直した日であった。
今日は何の日か。
世に言う、
「セント・バレンタイン」
という日である。
不肖の身ながら、京よりあまりある贈り物をいただき、心から感謝している。
愛とは、かくも広く、あたたかいものである、と自覚せずとも体現してみせるお上は、とても素晴らしい方である。
お上に浮気ではないが、今日は、大事な人との予定が、ある。
であるから、昼下がりに、そそくさと背を丸めて部屋を出たのである。
行く先は、渋谷。
逢い引きに円山町あたりが相応しいかもしれないが、国営放送局前にある、
「渋谷BOXX」
である。
TOKYO ACOUSTIC NITE 2010 「詩のチカラ」
にて、篠原美也子姉御と、石野田奈津代嬢のライブであった。
奈津代嬢が、風邪及び気管支炎などの体調不良により、声がまったく出ない、とのことで急遽出演中止となってしまったのである。
姉御を脇で支えるギタリスト、松田ブンさんなる方は、シオンを支えるギタリストでもあり、予定外でのライブがはじまったのである。
はじめはプログラム通りに、姉御が好きな「男性曲」をカバーで歌いあげてゆく。
尾崎豊の「forget-me-not」を初っ端に歌われたのには、胸がジンと熱くなったものである。
エレカシ、レッド・ウォリアー、陽水、パンプ・オブ・チキンなどのカバーを歌い上げると、スイッチが切り替わる。
「ここからは、篠原美也子の女歌を、きいてください」
まさかの幻となっているシングル「花束」を歌われ、十数年前を思い出させられる。
「今だけ、今回限りで、リクエストある?」
「Good friend……」
わたしの前に座る女子が、恐る恐る、声をあげる。
オッケー、ラブソングらしいっちゃあ、らしいからね。
今夜あなたの上に星が降るように わずかな光が道を照らすように
ライト中で、思いを伝えているその姿は、かっこいい。
改めて、惚れ直してしまったのである。
そして。
わたしと同じ年同じ月同じ日に生を受けた同級生、であった女子、いや女性が、夢の実現の一歩でもあることを、なそうとしているのである。
プロの舞台。
「紅峠」
という舞台の照明を、彼女個人に依頼がきて、ひとりで任され、もうじき幕が開くらしい。
それぞれが、それぞれの形を残してゆこうとしているなか、わたしも甘んじてはいられない。
しかし。
甘い物は好物である。
年中無休で受付中なのも、また事実である。
2010年02月13日(土) |
きょうからいただいたもの |
今日は何の日?
「バレンタイン・デイ」
です。
昨日、京の素敵なお上さんから素敵な数々のお気持ちをいただいて感涙にむせび、いただいた手作りの海苔佃煮で白飯をペロリと一膳平らげ、おっと大事に、たっぷり長く味わわねば、と慌てて瓶の蓋をキツく締めました。
甘味といい、 塩加減といい、
とても、美味、でした。
朝は、やはりいただいた卵で、
「クレイマー、クレイマー」
のダスティン・ホフマンよろしく、フレンチトーストなぞをこしらえてみたり。
似てるのは、大ざっぱな作り方と、キッチンの汚し具合、くらいで。
しかし、卵とは思えないほどの、まるで、
できたての太陽
のような見事な卵と、
えもいわれぬ、もちもちふらふわの、まるで
子を抱く慈母の二の腕
のようなパンの組合せは、至極極上の美味!
大ざっぱにやってしまったことが、本当に、申し訳ない。
今日になるまで、ちゃんと一晩待った甘味を、おしいただくように、ひとつ、ひとつと口に含ませ、幸福に酔いしれてしまいました。
この場をかりて、深く、深く御礼申し上げます。
日々の、ささやかな幸せの、素敵な彩りを与えていただき、ありがとうございました。
たんと味わわせていただきます。
「あれ。わたしをひとりきりにして、先に帰っちゃうんだ」
馬場さんがめずらしく、夜の七時を回っても残業をしていたのである。
彼女は二歳になるお子さんを迎えにゆかねばならないため、毎日定時で帰らねばならないのである。
仕事だから、それこそたまに遅くなることもある。
しかし、旦那さんは深夜にならずば帰らない、とあらば、お姑さんと同居しているとはいえ、お願いしてばかりもできないのである。
さて、そういわれてあたりを見回すと、わたしと馬場さん以外は、皆、既に帰宅済みである。
「バレンタイン・デートで帰るんだったら、気持ちよく送り出してあげるけど」
ふふん、とわたしを見る。
「たしかに、貰うものを貰いに、帰りますけど」
え、ホントに。
ではなく、
何の強がりを言ってるんだか。
という顔を、こちらに向ける。
いや、ホントですよ。
マジで、ホントに、なの、と目を見開く。
お薬をもらいに、お医者さんのとこに。 コレステロールの。 の、ですかねえ。
チッ、と舌を鳴らされてしまった。
そういうことにしておくのが、無難である。
さて、そうして、大森である。
いったはよいが、イ氏がなんと不在であった。 どうやら、芝大門のほうにいるらしい。
あてが半分、はずれて、息を吐く。 すると、残り半分は、はずれずにすませてくれたのである。
「もう、二週間たっちゃいましたか」
ケイちゃんが、パタパタと現れたのである。 あっという間ですねえ、とクリクリ笑いながら、部屋に通される。
今日はイ氏の代わりに獅童さんが、とあらためて説明をしてくれる。
獅童さんとは、もちろん実名ではない。 たいがいにもれず、わたしが勝手につけた呼び名である。 若く、顔の上半分が二十代の頃の松岡修造似で、下半分が中村獅童似の方であったので、そう呼ぶことにした。
それはさておき、いつも通りにケイちゃんがわたしに質問してゆく。
いつも通りではないのが、イ氏がいない、ということであり、そのせいか、いつもよりどこかが違っているようでもあったのである。
えっと。
書き込みながら短い沈黙ののち、不意をついてきたのである。
会社でバレンタインのチョコとか、もうもらいましたか?
なるたけ、触れてはならなかったことである。
沈黙を埋めようと探した話題が、わたしのなかにすきま風となって吹き込む。
いや。まったく。 そうなんですか。 聞かれるたびに、寂しさが、すきま風になって吹き込んで……。
わたしは、ここでもう少し気のきいた返答をすべきだったかもしれない。
「貴女のためにすべて受け取らなかったんだよ」 「歯はまだ磨いてないから、ありがたくいただくよ」 「チョコの代わりに、お薬を貰いにきた」
わはは、と笑い飛ばせるようなのがこそ、相応しかった。
でなければ、ただ寂しいだけ、で終わってしまう。
終わってしまったのである。
寂しいわけでは、けっして、ない。
獅童さんとは初見であったので、ざっとはじめのあたりからの話をする。
おかげさまでかれこれ数年来、お世話になっております。 いえいえ。こちらこそよろしくお願いします。
せっかくなので、最近の学会からの目新しい発表だとか、世間での通説や流れについて、空とぼけて聞いてみる。
どうやら、相変わらずあいまいで未確定で、確たる解明などは見つかっていないらしい。
ただし。
脱力なくして鳴子にあらず、との定義が、どうやら真説とはならずにいるようなのである。
もし、モディ夫は出せず、リタ嬢やら別嬢やらしかやれぬ、となったらどうしやう、という懸念が、常に消えることなくつきまとっているのである。
米国でも、鳴子以外に出してるから、きっと大丈夫ですよ。 日本国は、また別ですよね。 ええ、まあ。
歯切れ悪い獅童さんだが、彼のせいではない。 そうなったらやむを得ない、のである。
脇にちょこんと座っているケイちゃんが、イ氏のときとはうって変わって、真面目なことを話しているわたしたちを、ぱちぱちと目をしばたいてみている。
いやぁ、いつもイ氏と雑談しにきてるだけ、なんじゃないか、と思うことがあって。
ちらりとケイちゃんを見る。 獅童さんもつられてケイちゃんを見る。
慌てて、いやいやいや、そんなこと、ないですよお、とかぶりをふる。
獅童さんは、若いが、イ氏のようにあれはいいとかこれはあれだとか、話しこめる様子の方ではないようである。
ああ、とわたしに向き直る。
余計な作用もなく無理なく落ち着いてるなら、まあ心配ないでしょう。 まあ、無理はしませんから。
あっはっは。
声を出したのはわたしだけである。 ケイちゃんはいつも通りはにかむように、声には出さない。 獅童さんは、笑っていいものかわからぬ様子で、まあまあ、と。
なんだかやはり、消化不良のまま、部屋を出る。
「すみません。イ氏は今月、週末は芝大門で診ることになってるんです」
よほどわたしがムズムズした顔をしていたのか、長きの付き合いから察してくれたのか、受付嬢が表をくれたのである。
日曜の朝なら、いえ、それはヤなんですよね。
さすがわかってくれてる。
たいへんありがたいことである。
甲殻類が、気になる。
冷凍タラバ、ズワイなどが、アメ横のあたりではかなり大量にわたしを出迎えてくれたりしたのである。
夕刻になり、腹がだんだん不平不満を吐き出しはじめる。 なだめすかしつつしばらくしていると、頭のなかに「南極料理人」の隊長が、ポンと顔をあらわす。
「みんなすっかり、エビフライの気持ちなんだからね」
えっびふらいっ。 えっびふらいっ。 えっびふらいっ。
作品中では隊員たちの要望で、せっかくの伊勢エビを、まるまるエビフライにしてしまうのである。
それはさておき。
カニも、捨てがたい。 しかし、一キロ二千円という魅力的な誘惑があったとて、ひとりではなかなか手が出しづらいのである。
残業でキリキリ舞い真っ最中の、火田さんにぼそりと聞いてみる。
カニ一キロって、どうなんですかね。
カニ? カニを贈られでもしたの?
目を、キランとさせて、振り向く。 火田さんは、小学生のお子さんがいる主婦である。
いや、一キロ二千円で、売ってたりするんです。
カニは、毛ガニだなあ。カニ味噌が美味しいよねえ。
「カニって、そんなウマいすか」
リョウくんが、疑問の声で口を挟んでくる。
ええっ。 ええっ。
火田さんと同時に声をあげてしまった。
ぼく、甲殻類が、好きじゃないんですよ。
「まさか、エビもっ?」
エビも、です。
「エビフライ、も?」
も、です。
「人生の半分以上を、損してる(わ)ね」
またしても、火田さんと声がそろう。
「生臭いのが、ダメなんです」
ウニやイクラは。 好きじゃないです。
なんて勿体無い。
じゃあ、海苔は。 も、です。 佃煮、ご飯ですよ、とかも。 も。
旅館の朝食は、きっと卵かけごはんなのだろうな、と気の毒に思う。 卵かけごはんを、さらに焼き海苔、味付け海苔でくるんで食べる、なんともささやかながら贅沢な食べ方の、それをしないなんて。
「あ。でも、魚は好きですよ」
一矢報いん。
リョウくんの乾坤一擲、のつもりのそれに、思わず火田さんと目を見合わせる。
どうゆう味覚なのよ。 えっ。おかしいですか。 わかった。エビもカニも、ぜんぶ俺が食っちゃる。 いいですよ、どうぞどうぞ。
「てか、なんでカニの話してんですか」 「それは、」
竹さんが。
なんで、カニの話を。 火田さんが、あらためてわたしをキョトンとした目で見つめる。
いや、カニが。 二千円で。 一キロで。
夜食もとらず、黙々と残業に勤しんでいたものだから。
エビフライが。 ラインダンスを。 頭の中で。
はあ。
そうしたら。
うん。
カニたちが。
ほう。
潮のごとく。 押し寄せて。
うんうん。
キレイに。
うん。
まっかに、茹で上がってるんです。
(ぐうぅぅ、ぐぅ)
お腹が鳴くから、帰ります。
うん、そうしなよ。
火田さんは、慈母の目でうなずいてくれたのである。
さて。
有川浩著「海の底」
甲殻類が気になったのは、このせいである。
「自衛隊三部作」と言われる作品の、わたしが未読だった最後のひとつである。
「塩の街」では陸上自衛隊が、「空の中」では航空自衛隊が舞台。
本作ではもちろん、海上自衛隊、である。
横須賀の桜祭りの最中、突然、巨大甲殻類が大群で上陸し、人々を食いはじめた。 パニックのさなか、海上自衛隊員の夏木、冬原の二人は、町内会で祭り見物にきていた子どもたち十数名を潜水艦「きりしお」に緊急避難させる。
艦長は己が身を犠牲にして、子どもたちを艦内に避難させる。
艦内に逃れた、いや、取り残された隊員ふたりと、子どもたち。
奴らは海も陸も埋め尽くし、警視庁が必死の防衛線をはり侵略を食い止めるのに手一杯で、救出の手をなかなか打てない。
米軍基地敷地内での出来事であったからである。
重火器を装備しているはずの自衛隊は、その外交問題や出動体制の位置付けやら、出動はすれども、待機のみ。
ジェラルミン盾しかまともな装備がない警察の機動隊が、肉弾戦でのみ、巨大な甲殻類と戦うしかないのである。
米軍が爆撃作戦を敢行するらしいとの情報が流れる。
救出は間に合うのか。
日本の警察の、そして自衛隊の、誇りと、政治と権力と、取り残された子どもたちと隊員の、様々な思いが交錯する。
登場人物、設定、展開。
やはり、軽妙にして、絶妙。
無骨だが、愛嬌ある男たち。 そして、なかなか個性的な子どもたち。
忘れてはならない、むずがゆさたっぷりの、恋も、もちろんある。
なかなか、いや、とても楽しませてもらえる作品である。
ああ。 めくるめく、 エビフライの、 ラインダンス。
タラバやズワイの、 赤ら顔。
「竹さんのその物件って、社内コンペで大変だった花子さんビルだったんですか」
リョウくんが、珍しいことにわたしのところをのぞき込み、話しかけてきたのである。
おや珍しい、と思いながらも、つらつらとしばし話し込み、さらとリョウくんは姿を消したのである。
それをみた隣席の馬場さんが、「あっ」とこちらを振り向いたのである。
「今日、リョウくんの誕生日だよ」
まさか、それがためにわたしのとこに話しにきたのか。
いや、それはないから。 しかし、なぜ彼の誕生日だと。
馬場さんは、含みのある微笑をたたえてみせようと、必死の努力をしてみせていたのである。 彼女の目論見にのってやるが情けか、のらずが情けか、面倒だったので流すことにしたのである。
自分のときには、のってもらわんとするくせに、なんとも非情な男よと。
折りよく、リョウくんが再び姿を現したのである。
「誕生日おめでとうっ」
馬場さんが拍手をまねてリョウくんを迎える。
ありがとうございます。
カピバラさんみたいなやさしい顔の真ん中で、目を細めて照れ笑う。 カピバラさんみたいなやさしい顔だが、身長はスラリと高い。
「昨日は旦那さんを、ちゃんとお祝いしてあげたんですか」
リョウくんが馬場さんに尋ねる。 おや、と思うわたしをよそに、一応ちょっとだけ、ね、馬場さんが答える。
「だんなと一日違い、なんだよね」
しかも同い年で。
あはは、と笑う。 馬場さんはいわゆる姉さん女房、なのである。
「でもリョウくん、だんなと同い年、にみえないよね。若いよね」
といってもたかが三歳の差である。
が。
たしかにリョウくんは、やさしい風貌もあり、若々しい。
「まあだんなは、ひげぼうぼう、だからかもしんないし」
すこし負けん気を勝たせた馬場さんは、さらに攻勢にでたのである。
「だんなとあたしの誕生日は、ひっくり返すと同じなんだよね」
だんなに口説かれた文句のひとつ。 にやにやと指を折ってみせる。
ほかにもあるよ、と誇らしげに、嬉しそうに笑う。
「偶然だ運命だ、て文句に見事のせられちゃったんだけどね」
えい、ごちそうさまです。 いやいや、あははは。
だんなさんも、必死で馬場さんのこと好きだったんですよ。
「うん、まあね」
つい、と即座に答える。 おかわりは、結構です。
「結婚したい気持ちに洗脳してってあげるからね。うちの男らは、ほんとにもう、なんとかしなきゃ」
わたしを頭に、男は皆、未婚である。
「今日、友人がとうとう陣痛で入院したらしくて」
矛先を、ちょいとずらしてみる。 三千ちょい、と立派に育ってるらしくて、大きいらしいんですが。
「うちらの頃は、三千ちょいでも、ふつうくらいだったよね」
うちの娘も、と言いかけてから、あらためる。
最近はわかんないけど、三千でも大きいのかしらね。 妊婦はわたしらと同い年ですよ。 妊婦さんの体格とかにもよるし。 線は細いです。だんなはガテン系のがっちりですけど。 だんなさんが産むわけじゃないから。
ぴしゃりと言われる。 まあそうなんですけど、だんなもやさしいから、なんか、いいですよね。
なにが、とは言わず、いい、だけではないけれど、それでも全部ひっくるめて、やっぱり、いい、と思う。
ひとの幸せだけじゃなくて、自分のはどうなの。
わたしの感傷を、馬場さんがサクリとさす。
馬場さんの向こうにいる大分県は、だいたいわたしたちの会話が聞こえているはずだったのに、ついと知らぬ顔を決め込んでいた。
大きく構えた姿を、みせてみる。
「気持ちだけは、あります」
相手と実入りと行動力は、ありませんが。
小声で付け足す。
だめじゃん。
馬場さんを見事戦意喪失に陥れてしまったのである。
夕方。 無事、元気な女の子が生まれた、との報せをだんなからもらい、やはり、いいものだと再び思う。 名古屋の友にも第二子ができたばかりでもあり、わたしもうかうかしてはいられない。
うかうかしてはいないのだが、友らの喜ばしい知らせに、うきうきした気持ちにはさせてもらっているのである。
「ポー川のひかり」
をギンレイにて。 歴史的宗教的に貴重な資料が収蔵されている歴史図書館で事件が起きる。
一夜あけて、貴重な図書が床一面に「くさび」で打ちつけられていたのである。
容疑者は学会でも優れた研究者として有名な哲学教授であり、生徒にも司教にも、人気と信頼があつかった。
彼は車を乗り捨て、カードと手持ちの現金だけを手に、ポー川の打ち捨てられた廃屋に暮らしはじめる。 付近の村人たちは、彼の風貌から「キリストさん」と呼び、やがて彼に悩みを打ち明けて話を聞いたり、あるいは廃屋の手入れを手伝ったりと、彼を受け入れ慎ましくもあたたかい日々が流れてゆく。
しかし、そこにある日。
「この付近一帯は国有地で、住民は不法占拠にあたる。罰金を支払い、即刻立ち退くように」
と宣告されてしまう。
書き方がわからないから請願書を書いてくれ、あなたならわかるだろう、と「キリストさん」に助けを請うが、彼はやさしく断る。
「あなたたちの言葉で書いたものが、正しい」
しかし彼は郵便局にゆく青年に、自分のカードを渡し、これで皆の罰金を払ってきてくれ、と密かに頼む。
カードから彼の所在が警察にみつかり、また時を同じくして村にも強制撤去工事の手が伸びてくる。
なかなかな作品。
ロードショー時にとても気になっていた作品であった。
なぜ彼は神への冒涜である、貴重な書物をくさびで打ちつけるなどという行為をしたのか。
相談にきた学生に、彼は周りの貴重な書物を見回しながら答える。
「真実は私たちを救いはしない。ただ欺くだけだ」
真理をついた言葉である。 これを、「なにを」と浅はかな解釈で受け取られてしまうと困るのだが、それならそれでも、よい。
とはいえ。
何が起きようとかまわず、ポー川は流れてゆくのである。
これもまた、真理、なのである。
有川浩著「塩の街」
皮肉にも似たような「町、あるいは街」を題材とした作品が続いてしまった。
まさに、皮肉、である。
本作は有川浩のデビュー作、とのことである。 有川浩といえば、「大人が読むライトノベルを書き続けたい」と公言し、「図書館戦争」シリーズはアニメ化し、「空の中」「海の底」そして本作「塩の街」三部作で、それを見事有言実行してみせている作家である。
本作が、三部作の第一作であり、デビュー作。
なのである。
七年前の作品、とのことではあるが、えい、関係ない。
地球各地に飛来した巨大な塩柱。 それを機に、人類は肉体が塩の結晶化してゆく恐怖とたたかう日々がはじまった。
ウイルスなのか。 感染経路はなんなのか。 防護策はあるのか。 塩化を食い止める、治療法はあるのか。
塩化が末期まで進んだとき、はじめて、そしてようやく、自分が本当に最期にそばにいてもらいたい相手に気づき、ほんのわずかだけの間、恋人同士になれた。
彼女は、海にゆきたい、といった。連れて行く、とこたえた。海の家をひらいて、ずっとそばにいてやる、と約束した。
彼は交通が完全に麻痺したなか、群馬から徒歩で、大きなバッグを担いで、海を目指して東京までやってきた。
東京湾岸にそびえる巨大な塩柱の向こう、湘南の浜まで、道中助けられた青年と少女と共にたどり着く。
バッグの中身は、かろうじて人型をとどめていた塩化した彼女だった。
泣くなよ。 涙が流れたあとが溶けていってしまうのをとめることもできずに、ただやさしく抱きしめてあげることしかできなかった。 抱きしめた手のひらに、髪のすき間から、塩の結晶のざらざらとした感触が。
彼女を海に返すため、波に入ってゆく彼。
彼を東京からここまで送ってきた青年は、連れの少女に、振り返らぬよう、帰ろうと促す。
彼も塩化がはじまっていたことに、青年は気づいていたのだった。
青年は航空自衛隊のエースパイロット。両親を塩化で失い、ひとりで街をさまよっていた少女。
ふたりの、世界を救うためのたたかい……ではなく。
好きな相手をなくしたくないがためのたたかいがはじまる。
その「ついで」で世界が救われるなら、勝手に救われてくれ。
愛で世界なんか救われない。 救われるのは当事者たちだけだ。 だけどそれだけで、十分。
さすが有川浩。
である。
物語の展開、登場人物たちの魅力、そしてそれらはツボを外すことがない。
この作品は、十分、物足りた。 さすがである。
さて、三部作で残るは「海の底」である。
三崎亜記著「失われた町」
およそ三十年ごとに町が消滅する。 原因はわからない。
ただ。
町が意志を持って自ら消滅するのである。 消滅する町は、住民たちの意思さえをも浸食し共に消滅を受け入れさせ、共連れにする。
消滅した町は、運良く、あるいは町の意志に抗い消滅を逃れたものにも、痕跡を足掛かりにして、消滅後もなおその触手を伸ばし続ける。
地図や電話帳、個人的なメモ書きを含む書籍書類など、地名やその町と特定できるものすべて。
だから、消滅した町に関わるものすべてを、人々の前から取り除かなくてはならない。
でなければ、「感染」として町にとらわれ、そこからさらに周囲へ拡大してしまうおそれがあるからである。
町の消滅を食い止めようとするものたちの、喪失と直に向かい合うものたちの物語である。
著者は「となり町戦争」にて、町内報の戦況および戦死者一覧によってのみ、となり町との戦争が暗に実際に行われている世界を描き、「バスジャック」にてバスジャックが公的なゲームとして社会に認知されている世界を描いたりしている。
世界のどうしようもないものとたたかうものたち、あるいは順応してゆくものたちを描いている、といっては大げさだが、設定としては面白い。
しかし、どうにも物足りないのである。
個人の好みの問題ではあるが、こういった世界であれば、わたしは小川洋子さんの世界や表現のほうが、肌に合う。
閉ざされていない世界と閉ざされた世界とで、何かが喪失してゆくのならば、後者のほうが強く描ける。 そこに、届くか届かないかの差がでているのかもしれない。
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