重松清著「青い鳥」
中学校の非常勤教師であちこちの学校をまわる村内先生。
吃音で、しゃべるのが苦手なのに、国語の教師なのである。
だだだだだっ、大事な、こっこっこここ、としかかかかっ、しししし、ゃべらないかかかから。
先生は、必要な、ひとりぼっちの生徒のところに、やってくる。
ただ、「そばにいる」ために。
先生は、中年の冴えないおっさんで、太っていて、頭は薄うくなりかけていて、強いわけでもなく、何もできない。
何かを解決してくれたり、助けて出してくれたり。
それも、できない。
いや。
先生はそれができないからこそ、ひとりぼっちから、救ってくれる。
同じ吃音で、思ったことを誰にも話せずにいる女子生徒。
父親の自殺で、自分と母親のことを考えずに勝手に、放り出すように死んでしまった父親を許せずにいた男子生徒。
交通事故で加害者になってしまった父親が、許されることなく遺族に毎年謝罪にゆく姿を見続け、歯痒く、切なく、苛立たしく、だけど無力な加害者の娘である女子生徒。
虐待を受け続け、施設に預けられ、家族も愛情も知らずに育った男子生徒が、同じ虐待を受けてきた女子と施設で出会い、味方なんかいない社会で、ふたりで、ふたりきりで、家族になって。 先生と数年ぶりに再会する元教え子の青年。
八人のひとりぼっちのそばにいた村内先生の、お話。
「きよしこ」に続いて、作者自身もそうである吃音を抱えた者が主人公の物語てある。
これはまた、「流星ワゴン」や「なぎさの媚薬」シリーズ、ひいては重松作品によくみられる、無力の弱さと力強さ、が胸を腹の奥底を、熱いもので波立たせる。
朝の満員電車の吊革にしがみつき、昼飯をつっつきながら箸を震える手で握りしめ、帰りの電車で降りる駅を通過しそうになりながら、一編一編を、噛みしめて、飲み込む。
見えないところの見えない何かを、見えない何かで、ぎゅうっと鷲掴みにする。
鷲掴んで、ぎゅうっと絞って、指の隙間からポタリとこぼれ落ちる雫は、苦くて、しょっぱくて、ほんのり甘い。
まるで、人生の鼻水、のようである。
ずずう、と、今宵もわたしは鼻をすすりあげるのである。
2010年07月27日(火) |
「マイレージ、マイライフ」 |
「マイレージ、マイライフ」
をギンレイにて。 ジョージ・クルーニー主演。
この作品は、できれば是非観たいと思いつつ、見逃してしまった作品であった。
なにせ監督が、
「サンキュー・スモーキング」
で反喫煙社会のアメリカで煙草業界の敏腕スポークスマンを通してその矛盾と現実問題を軽快なテンポと台詞回しで描き、営業マンや「人と話す仕事」の者は是非この作品から、得難きものを得られるだろう、といわれ。
「JUNO」
で未成年者の妊娠をやはり軽快に、同世代の同じ感覚や目線、現実、本音を描いて共感の嵐を招き、時期悪く、ハイスクールで起きた未成年者の計画的同時妊娠デモと関連付けされてしまったり。実際は、ただのこじつけ、である。
そんな名監督ジェイソン・ライトマンの作品である。
リストラ勧告人としてアメリカ中を飛び回るライアンは、我が家は全米の空港、楽しみはマイルをとにかく貯めること。
「バックパックに入りきらない人生の荷物は背負わない」
軽くなった自分の姿を想像しましょう。
という哲学の持ち主で、公演の依頼も盛り沢山。
そんな彼に、二人の女性との出会い。
自分と同じように飛び回るキャリア・ウーマンのアレックスと、期待の新人ナタリー。
ナタリーはこれまでの、ライアンらが実際に飛び回って本人に直接会ってリストラを告げる方法を、ネットカメラによるシステムで大幅な経費削減ができる、と売り込んできたまさに現代の怖いもの知らず。
君は現実を知らない。 我々は、不安や悲しみを和らげる仕事なんだ。 画面越しに、それができるのか?
実地研修だ。
ひとりを何より好むライアンに、ナタリーを連れて回るよう命令される。
ナタリーは一方でとても結婚願望が強く、彼氏と一緒にいるためだけに、優秀な才能実力の持ち主なのに、リストラ宣告人というこの仕事を選んだほど。
繋がりを拒む男と。 繋がりを求める女。
ライアンはナタリーといる内に、割り切った大人の付き合いのつもりだったアレックスとの関係に、変化が起きはじめる。
そしてナタリーははじめて、リストラの宣告を一人きりで任され、現実と直面する。
実の姉妹ら家族とさえ繋がりを避けてきたライアン。
繋がりを求めながらも、仕事ではひとの人生を断ち切らねばならないことに苦しむナタリー。
マイルを貯めている間は空にいる。
宙に浮いた状態。
マイルを貯めるのをやめ、地に足を着けたとき。
ライアンはどこへ向かうのだろう。
ジョージ・クルーニーが、やはり、絶妙の演技力で、魅せる。 ナタリー役のアナ・ケンドリックが、とっても、キュート。 アレックス役のヴェラ・ファーミガが、大人の女の魅力で、惹き付ける。
軽快さは、ややおとなしくなっているが。
不覚にも、途中、胸が切なさで詰まり、しゃくり上げそうになってしまった。
結婚しようが、ひとりでいようが、結局は歳をとり、死ぬだけだ。
だから結婚なんて、してもしなくても関係ない。
そんなもんだ。 だけど。 幸せだったときを振り返ってみるんだ。 一人きりだったか?
妹の結婚式当日、花婿が突然結婚をやめたいと言い出したときに、ライアンがかけた言葉。
これはわたしがしゃくり上げそうになったものではないのだが、なかなか印象的な場面であった。
お盆休みの蒸し暑い夜に、是非このジェイソン・ライトマン監督の三作品で、爽快に、痛快に、ちょっぴり切なげに、過ごしてもらいたい。
「幸せの隠れ場所」
をギンレイにて。
サンドラ・ブロック主演。 この物語は、実在のNFLプレーヤーと家族の、実話をもとにした物語である。
麻薬中毒の母親と引き裂かれ、孤児同然でダウンタウンで生きてきたビッグ・マイクことマイケル。 彼の図抜けた身体能力に注目し、とある高校に入学させられる。
しかし学校など行ったことがないマイケルは読み書きが苦手で、試験の成績は下の下。
身体能力をかってフットボール部に入れようとしていたコーチも、入部させるに値する成績をとってもらわなければならない。
授業をまったく理解できていない。 落ちこぼれている。
実は読み書きが苦手なだけで、口頭陳述には、大体正解を答えていることに、とある教師が気がつく。
そうして学校生活が明るくはじまろうとしていたが。
マイケルが居候していた家に居られなくなり、ひとり夜道を俯いて歩く。
さあ、サンドラ・ブロックのリー・アンが登場である。
家族でバスケットボール観戦した帰り道、車で彼とすれ違う。
娘のコリンズとやんちゃ息子のショーンJr.は、マイケルのことを知っていた。
運転する夫に引き返させ、車を降りて、マイケルを呼び止める。
帰る家はあるの? あります。 嘘はつかないで。
聞こえてない車内で、夫のショーンが妻の様子をみて、やんちゃ息子のショーンJr.に肩をそびやかしてこぼす。
何か決意した顔だ。
以降マイケルを我が家に引き取り、共に暮らしはじめる。
この夫婦が、最高に、いい。
軽快なやりとり。 言わずもがなな信頼関係。
法的後見人になってあげたい、と思いはじめたアンは、もちろん夫には相談もまだしていない。
しかし、マイケルの学校の緊急連絡先を、ショーンはいつのまにか自分たちのところに変えてくれていた。
だから愛してる。
そう言われるような夫婦関係でありたいものである。
さてやんちゃ息子のショーンJr.が、また、いい。
すっかりマイケルがお気に入りで、減らず口と生意気さとおませさで、すっかりマイケルのコーチ気取りである。
学校でマイケルを、新しい兄貴だ、と自慢気に言っている。
しかし、白人の一家に突然黒人が、しかもダウンタウン出身の落ちこぼれと見られていたマイケルが、加わったのである。
周りの偏見が、ある。
年頃の女の子であるコリンズもまた、いい。
コリンズの同級生の女子が、図書室に勉強に現れたマイケルを怪訝な目でみつめる。 コリンズはすっくと席を立ち、マイケルの隣に座り再び自分も勉強をはじめる。
みつめるマイケルに、
家でだって、一緒に勉強してるでしょ?
素晴らしい。 そうして、内気で自分なんかが、と日陰に引き籠もっていたマイケルを、家族として受け入れてゆく。
成績も徐々にあがりだし、さあ、あとはフットボールだけである。
フットボール初心者、だったのである。
せっかくのがたいのよさとパワーと身体能力を、気の弱さで発揮できない。
マイケルの卓越した能力。 それは、
「保護能力」
であった。
他人は信用しない。 だけど「家族」なら。
チームメイトを家族だと、私やショーンやショーンJr.やコリンズだと思いなさい。 そして、守って。
「イエス、マム」
一気に、開花、である。
チームメイトもコーチも、マイケルの大事な家族。
家族をまともに知らなかったマイケルが、出会えた家族。
快進撃がはじまる。
やがて大学からのスカウトの目にとまりはじめる。
これはショーンJr.がマイケルの復習のために録っていたビデオを、その圧倒的っぷりを、勝手にそれぞれの大学に送り付けていたのである。
やんちゃおませ大全開である。
あとはもう、大学をどこにするか。 そのために必要な、さらなる勉強の成績アップ。 家庭教師をつけ、彼女もまた加わって、マイケルの未来への道を、切り開いて行く。
ところが。
大学選びでひと問題が起こってしまう。
ひいては、マイケルを引き取ったのは、お金や名誉や自分たちのためだけであって、自分は家族としてではないんじゃないか、と疑問がマイケルを襲うのである。
さてさて、真相は如何に。
邦題は「幸せの隠れ場所」であるが、原題は「BLIND SIDE」つまり死角である。
フットボールのマイケルのポジションであるレフトバックは、ゲームメイクの要であるスクラムハーフというポジションの彼の死角「BLIND SIDE」を敵から守る。
つまり家族の死角を、家族の他の誰かが、守る。 守りあって、家族である。
という意味も込められてあるのだろう。
まさに、リー・アンとショーンの夫婦関係然り。 マイケルとショーンJr.の関係然り。 勝手に話を進めがちなリー・アンに応えるコリンズの母娘の関係然り。
とかく、縁があったらこの作品を観てみて、難しいことなしで楽しんでみてもらいたい。
大森である。
「DVD、まだ持ってこれないんです」
田丸さんが、はきはきと答えたのである。 ということは、どうやら前向きに「RENT」を観ようとしてくれているようである。
いやいや、焦らなくていいですって。
どうしても、夜に観るから眠くなっちゃって。あ、でも、とても楽しく観てるんですよ? ほら、あそこまで観たんです。コンサートの。
「モーリーンの抗議ライヴ」
そう、その後の。 レストランでみんなで食事して盛り上がってて、ふたりが。
「互いの重荷の告白」で、打ち明けて。
そう、そこですっ。
I should tell you... I should tell you...
自らがHIVの、いつ発症し明日が知れない身であることの重さを、君に背負わせたくなかった。
あなたのその重荷を、私にも背負わせて。
実は、恋愛のやり方が、苦手なんだ。
ロジャーとミミの、寄り添い、仲間たちのもとへと向かう後ろ姿。
「作った方が、本番の前日に亡くなったとか」
そうなんです。
ジョナサン・ラーソンは、いよいよ明日、世間に「RENT」を初披露する、という本公演の前日に急逝してしまったんです。 ちょうど、今のわたしと同じ年齢なんです。
「えっ」
でも大丈夫ですよ、HIVだなんて。
ジョナサンは、動脈が破裂して亡くなったんです。検査しても見つからなかったそうで。
そ、そうなんですかっ。
うっ、胸が急にっ……。
つい先ほど心拍を測るために、わたしの手を握ってくれた……手首の腹を押さえていたばかりであるので、田丸さんはきょとんとしていただけであった。
友人らのときと違い、やはり温度差、見えない壁のようなものがあるのは、寂しい限りである。
「このお話って、ハッピー・エンドなお話なんですか?」
もちろん、である。
ジョナサンが、ドラッグやHIVや、明日の夢をみられずにいる若者たちに、夢を明日を諦めずにそれを共にしてゆく仲間たちと今日を生きて行こう、というメッセージを歌っている物語である。
日本人が書くと、悲しい結末やそれを匂わせて締めくくり、さあこれを乗り越えてゆきましょう、と提示するところまで、が、ありがちなウケがよい傾向である。
しかし、アメリカである。 ほらこうして、とハッピーなところやその扉を開けてみせるところまでを描いてみせるのである。
「次に来られるのは、二週後の……」
木曜ですか?
ジョン・トラボルタが高々と天を指し、セクシーな尻をキュイと吊り上げる。
田丸さんらのとわたしの盆休みとの、兼ね合いを読まねばならない。
一週ずれて、しかも二日しか、ないんですよ。
不満げに口をトンがらせる。
まあまあ。 そればかりは、責任者であるイ氏にしかどうにもできないことである。
「実は今回、お願いがありまして」
なに、どうしたの。
真剣な面持ちでイ氏が向かい合う。
斯く斯く然々で、今回だけ何樫を出してもらえませんか。週末の試験時間中に眠ってしまわないように。
ああそう、試験なんだ。そうなんです。じゃあ、出しとくから持って帰りなさいな。
「旅にも、出るんです」
どこへ?
高知へ。 へえっ、流行りの坂本竜馬かい。 違うんです。いや違うわけじゃあないんですが。
「広末涼子を探しに」
あっはっはっ。彼女の地元なんだっけ? 「よさこい祭り」にはなるべく帰省して参加するようにしているらしいです。数年前の噂ですが。
本命はその「よさこい祭り」である。 東京でも毎年、八月末辺りに原宿表街道と明治神宮近辺で「スーパーよさこい」という全国から踊り子のチームを集めたイベントが催されているが、それにゆくたび、高知へ、と思っていたのである。
さらに、よしもとの甘木女性芸人の「四国一周ブログ旅」なる番組の影響があることも否めないのだが、それはここだけの話にしておこう。
「中学生みたいな動機だねぇ」
イ氏は笑っている。 まあ、そんなもんです、と頭を掻いてみせる。
その帰りに、京都で念願の知り合い、友人に、会いに行くんです。 へえ。京都は、暑いよぉ。暑さで痩せて帰ってくるのを、楽しみにしててください。 美味しいもんいっぱい食べて、逆に太って帰ってきたり。 ……気をつけます。
ぽん、と下腹を叩く。 なかなか身が詰まった、よい響きがしたのである。
気をつけなければならない。
それはもちろん、旅先で美味しいもんをたらふくいただくために、である。
2010年07月20日(火) |
「わたくし率 イン歯ー、または世界」 |
川上未映子著「わたくし率 イン 歯ー、または世界」
さてさて。
これはまた、またまた奇妙奇天烈、奇想天外、帰巣本能。詰まるところは胎内胎盤、煩悩本能、妄想の母性愛。
まだ見ぬ我が子へ向けて、その父親とする予定の、つまりはまったくひとりのよがりの、よじれたこよりは強度が増した、強き母(予定)の思いを手紙に綴ったり、わたしは体のどこで考え、存在しているか、それは脳ではなく、まったく健康な傷ひとつ虫歯ひと穴すらあけたことがない奥歯である、といった哲学で世の中にわたしを「在る」とする女のお話である。
著者は「乳と卵」にて芥川賞を受賞したが、その前年に本作品が同賞の候補作となっているのである。
とにかく、著者がほうぼうで言っているように、文の意味よりも文の音を優先させた、といったのが全てである。
谷崎潤一郎のように、関西弁の音の響きをできるだけそのまま心地よく残した文で語り続ける。
であるから、深く一文の意味を捉えようとしたら、日が暮れてやっと一頁、となりかねない。 意図的な体言止め。 分散。 転換。 飛躍。 そして着地。
難敵である。
しかし、こういった先端のような危うさと難解さと捉えなさこそが、芥川賞などの文学賞における特色のひとつなのである。
題名が、また、中身に負けず奇抜である。
「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」
という作品で中原中也賞を受賞してもいるのである。
しかし、それを真面目な声と口調と姿勢で、審査員長だか会長だかが朗々と読み上げて賞状を著者に差し出す姿をテレビでみかけたのだが、その光景はなかなか印象的であった。
「ヘヴン」にて芸術選奨文部科学大臣新人賞までも受賞している、気鋭の作家である。
文庫のあまりの薄っぺらさに、甘く見てはいけない。
まさに哲学なブンガクなのである。
2010年07月19日(月) |
シャガールとにらめっこ |
いつかの帰り道。
暗澹たる上野の森を、プチプチと携帯を点灯させながらよよよと通っていたのである。
今はとっくに閉鎖された昔の駅の建物の前を過ぎ、しばらく進んだところで、
ギョッと
足が止まったのである。 赤く白い牛らしきものが、わたしを睨んで、いる。
ややや。
それが、今日のはじまりである。
今月から十月の初旬あたりまで東京芸術大学大学美術館にて「シャガール」展が催されているのである。
「シャガール」なぞ、そもそも絵画や芸術なぞ、わたしはとんと造詣が浅く、いやほとんどない。
せいぜいが、甘木贋作師漫画か、橘いずみもとい榊いずみ歌う「リフレッシュ・ホリデー」にて「シャガール」の名を聞いたくらいであった。
夜道ではたと赤い白牛と、ここで会ったが百年目。
マタドールよろしく、ひらりとマントをはためかし、いざ。
絵画鑑賞なぞ、まともなのをさくっと思い返してみると、大学の頃に横浜にルーブル展をレポート作成のために行ったか、その前は東京ディズニーランドのキャスト・プレビューだかなんだったかで、ワールドバザール上階ギャラリーでディズニー絵画を眺めたくらいである。
いや他にもたしかにあったはずだが、すぐには引き出しが開かない。
そもそも、美術館だ博物館だに行ったとて、展示物なぞ二の次であり、第一の目的は建物自体であることのほうがほとんどなのである。
よって。
絵画の見方なぞ、わからない。 百ケン先生曰くならば、
さもわかったようなかおでふむふむだとか、眉間に皺寄せて講釈を噛み潰してみせたりなぞ、まことに愚の骨の先である。 わからぬものはわからぬのだから、ぽかんとしばらく立ち尽くし、飽きたら次へ移るか、手洗いにゆくついでに喫茶で酒と甘いものをつまんで消費したものを補うことこそが、自然である。 見ていたくないものに見られている絵のほうだって、迷惑な話である。
といったところであろうか。
しかしわたしは、ぐるりときちんと、感性と本能がおもむくままに、ひとつひとつの前を見て回ったのである。
ふむふむ。
竹下元首相の孫であるDAIGOが解説してるらしいガイドマイクを借りていたら、さらに楽しめたかもしれない。
こじんまりとしており、さらっと回れる。
しかし、展示物はかのポンピドゥー・センターのものをごそっと運んできたらしく、なかなかのものである、はずである。
次にわたしがみたいのは、ほ乳類展の第二段である海の仲間たちである。
こちらは子連れ親子連れ家族連れでひっきりなしであろうから、ひとりでのぞきに行ったところで、知的芸術家的孤高の様子に相応しくないので、なかなか行きづらいところなのである。
そうして、実は前回の陸の仲間たちを行きそびれたのである。
なんてこと、しやがーる。 である。 まこと、以後は気を付けようと思うのである。
今一度日本を洗濯致し候――。
管首相も、もし「彰義隊」なぞをはじめに例えで出していなければ、党のCM映像のあれに、重ねてこの言葉を入れることが出来たはずである。
惜しいことをした、とわたしは当時心からそう思ったのである。
まあ、毎夜彰義隊の碑の傍を通って帰路についているわたしとしては、なかなか複雑なところがあったりもするのである。
遅ればせながら、冒頭のひと言は、幕末の名を知らぬ者はないであろう、坂本竜馬の名言である。
今や坂本竜馬といえば、福山雅治であるが、残念ながらわたしは、武田鉄矢の頃の世代になってしまうのである。
いやこれは別段、武田鉄矢が嫌だというのではなく。 氏の刑事物語「黒潮のうた」にて、あのハンガー捌きを自宅の針金ハンガーにて真似して振り回していたほど、敬愛するお方である。
今でも、ほい、とハンガーを渡されれば、少しは振り回せる自信が、ある。
ハイハイハイ、ハイヤァーッ!
といった次第である。
もとい。 わたしもかつては年に一度は洗濯に出ていたのを、諸々の事情にてここ数年、滞らせてきてしまっていたのである。
ようやく、洗濯代の都合がつきそうなのである。
ぽかぁんと口を開け、明星が飛び込んでくるのを待ちに。 あるいは、広末との偶然の出会いをしに、人波にひたすら揉まれに。
さらにその後に、いつも東の山にしか足を入れていない、西の本山にそろそろ訪れることが出来れば。
日本三大霊山を踏破することが出来るのである。
甚だ行き当たりばったりなところが問題ではある。 もう少し、予め詳細を検討し熟考した後、手配をすればよいのだが、間を置くとその気が失せてしまうのが常であるから、勢いに任すしかないのである。
予定さえ入れてしまえば、休み返上で出勤、を断ることがしやすい。
さて。
ピッピッと「ていねい、もみ洗い」コースを選び。
今一度自身を洗濯致し候――。
と、ゆきたいところである。
2010年07月17日(土) |
「ハート・ロッカー」のワン・ピース |
ナミすわぁ〜ん! ロビンちゅわぁ〜ん!
わたくし、おふたりの美しさに胸が張り裂けてしまいそうですっ! ……て、胸がないんですけどっ。ヒョーホホホ!
神保町すずらん通りを主会場に、「ワン・ピース」の催しものが開かれているのである。
わたくし率的にはさほど高くはないが、もはや国民的アニメ・マンガとなりつつある。
日曜の朝九時半からアニメが放映されており、実はその時間、近所の我が家の台所である赤札堂の「開店三十分限定朝市」のタイムセールの時間のため、部屋を出てしまうので、せいぜいがオープニングを観るくらいなのである。
すずらん通りには、原稿が丸々一話、展示されており、他にも扉絵シリーズやジャンプの表紙シリーズやらも見ることができるのである。
露店ではワン・ピースのキャラクターに因んだ「ルフィが持ってる骨付き肉」なるチキンや、「はっちゃんの」お好み焼きだかイカ焼きだかそんなようなものやらが、軒を連ねていたりするのである。
さすが集英社のお膝元、である。
ワン・ピースを、手に入れ、なんとか王に、なろう。
さて。
「ハート・ロッカー」
をギンレイにて。
当時夫婦で監督賞対決としてだけでなく、作品の質として甲乙の話題になった作品の片方である。
対抗馬は、ジェームズ・キャメロン監督の「アバター」である。
いや「本命」であった。
しかしわたしは「アバター」に関しては、一分とて、観たい、とは思わなかった、いや思えなかったほうの、種別に属する。
妻であるキャスリン・ビグローが監督する本作品のほうが、よっぽどわたしの食指をそそっていたのであった。
「アバター」を観たことはなく、観てみたいとは思わない。 しかし、「ハート・ロッカー」は観てみたい。
と思っていたのである。
イラクのバグダッド郊外。 米軍の爆発物処理班の物語である。
「戦場でワルツを」でも描かれていたが、市街地での激しい銃撃戦が行われていても、住民たちはバルコニーや屋上から、ケンカを眺めるかのように、見物に現われてくる。
そのなかに、爆弾の起爆装置を持ったものがいたりすり。
あるいは、爆弾を体に巻き付けた自爆テロ者や、解除に駆け付けた米兵たちをこそ射殺しようとする狙撃手。
ジ・ハード(聖戦)だか知らないが、手段を、選ばない。
同じ民族の子どもを殺し、血だらけに傷つけ、腹を裂き、爆弾を埋め込む。
遺体爆弾。
である。
ある朝起きたら、身体中に爆弾が巻き付けられていた。 無関係の無差別自爆テロ爆弾。
である。
それが、その街で暮らす人々の、日々の日常であり、明日の夢よりも現実、なのである。
想像してみよう。
子どもが家に帰ってきたら、決して外れない鍵をかけられた爆弾のチョッキを着せられていたら。
ショッピングセンターの駐車場に買い物を済ませて戻ってきたら、エンジン直結の爆弾が積まれていたら。
カフェでバッグを席に置いたまま手洗いに行き、済ませて会計をしようとバッグを開けたらなかいっぱいに爆弾が詰め込まれていたら。
それが自分ではなく、隣人だったら。
日本で暮らしている限りは、これらは物語にしか過ぎず、現実ではないのである。
しかし、紛れもなくそれが現実である街が、あるのである。
爆弾処理のコツを訊かれ、答える。
「死なないこと」
今のあなたがそこにいる秘訣は、と誰かに訊かれたら、こう答えよう。
「生きること」
2010年07月16日(金) |
「夜明けの縁をさ迷う人々」 |
小川洋子著「夜明けの縁をさ迷う人々」
久方ぶりの小川洋子作品であった。
パンチが、足らない。
これはわたしが勝手にかき抱いた、期待の想像の産物によるもので、たしかに短編が連なるひとつの文量からは、十分小川洋子の世界が表わされていた。
しかし、表れるのではなく。
滲み出して、しかしそれはとうにかさかさに乾ききって茶色にグラデーションをおこしているくらいでないと、いけない。
これはわたしの、あくまでも個人的な嗜好であるので、小川洋子作品の本作品の出来如何の話ではない。
本作品の一本一本くらいの短さのなかで、小川洋子の世界は音もなく静かに密やかに、存在していた。
そうである。
さすが小川洋子である。 読み味でひとをうならせる作家が、いったいどれだけあるのだろうか。 彼女の描く世界や言葉たちは、他に類を見ない、素晴らしいものである。
先日の週末の話。
三省堂から表の靖国通りに出てみたら、さあさあと雨か降り出したのである。
信号の青が点滅するタイミングを見計らい、向かい向かいと河岸を渡る。 楽器屋の大きな出庇の下で息を整え、やはり傘を差すべきかと鞄をごそごそしていたのである。
庇の下は、銘々が傘を差す算段をしたり、雨宿って様子をみようかと楽器屋のなかに入っていったり、気儘に固まったり散ったりしていたのである。
「幾つですか」
不意に訊かれた気がして、なにがと答えようとしたのである。
「Excuse me」
であった。 太ったスピルバーグと体格のよいジョディ・フォスターのようなご夫婦の、奥様のほうがわたしに尋ねてきたのである。
わたしは、英語などちんぷんかんぷんである。
アイラブユーとマリーミーと、「RENT」の歌詞の切れっ端くらいの、程度である。
「ジンボーチョー」
ほぇ?
「ジンボーチョー、ステーション」
地図の一点を指し示し、わたしの前に広げる。 どうやら神保町の駅にゆきたいらしい。
それなら、あすこの道をまっすぐいって、右側に、と答える。
遠い? 遠くない遠くない。 五百メートル、いやイチキロくらい?
Five hundred twenty‐five thousand six hundred minits... How do you measure,measure a year? (5,225,600分、一年間を何で数える?)
「How about LOVE?」
ではない。 まさか、一キロあるか、などとサラリと云われるとは思わなかったのである。
二、三百メートルくらいである、ときちんと答えておいた。
「Thank You」
奥様がニコリと微笑む。 すると旦那様のほうが、ふらりと店に入っていってしまった。 そのあとを奥様が追いかけようとし、クルリとわたしに振り返る。
「お店を覗いてからゆくわ」
律儀にわたしに断ったのである。
これはなんとなく、新鮮な印象を受けたのである。
いちいち、わたしだったら断るだろうか。 おそらく断らないであろう。
道が伝わらなかったのではないことは、重々わかっている。 であれば、ああ店に寄ってからゆくのだな、と容易に想像がつくのだから、わざわざ相手に伝えようとはしないだろう。
文化の違いか、はたまた個人の慣習の違いか。
「さて、トイレ行ってこよう」
と、テレビのコマーシャルになって立ち上がると、
「いちいちトイレに行くのを断らないで、黙って行ってきなさい」
と家族で言われていたわたしである。 今は、ひとりでも言いたい放題である。
うむ。 何だか例えの次元が違うように思えるが、とにかく新鮮だったのである。
ちなみに、会話はもちろんエングリッシュであったのだが、わたしは数字と地名とありがとうくらいしか聞いてはいない。
あいこんたくと、ちゅうがかのう。 あとは、ぼでいらんげっじちゅうやつじゃき。 世界皆兄弟っちゅうがかよ。
と、意訳し要約し、余白を想像で補ってやりとって会話した次第である。
重松清著「青春夜明け前」
男子の、男子による、男子のための、珠玉の七つの物語。
女子と話をするだけで「たらし(女たらし)」とからかわれ、われこらボケェ、といわされるような、十代のまさに青春の夜明け前。
七十年代後半あたりの、重松さん自身の夜明け前を語るような物語である。
男子の、ということで、女子や女性は目をつぶってもらいたい。母や女であるならば、かわいいもんね、とあごに手をつき机にひじつき、涼しげに読み流していただきたい。
わたしが角川文庫の「ウンコくん」ストラップを手に入れたのは何を隠そう、本作品である。
ここにまた、運命を覚えてしまう。
ええか、しっかり毛が生えとるんが「ぽ」じゃなく、「こ」なんじゃ。
そう言われて、二週間後の修学旅行の風呂の自分を心、真剣に配する中学生の男子。
「ぽ」と「こ」は、そんな違うんかのぉ。 当たり前じゃ、われ。赤ん坊の柔らかいクソが「うんち」じゃけえ、でっかくなって固うなったクソが「うんこ」言うんと同じじゃ。
胃の裏っかわ辺りが、ハラミとの中間あたりが、こそばったくなる。
ラブレターをもらっただけで、 われ「たらし」じゃのう、調子に乗っとるんと違うんかっ
と唾を吐きかけていた男子が、途端に、今まで見向きも、いやむしろ、気持ち悪がっていたのが、
悪くないかもしれん。 いや、なかなか。 むしろ、ええじゃないか。
コロリ、である。
また。
田舎から東京に出てきて、一人暮らしをはじめる。 引っ越しの手伝いについてきた両親が六畳一間に一晩泊まり、翌朝、父親が、息子に、言う。
わしはもう来ないけえ。 この先、二度とここには来ん。 ここは、これからはお前の街じゃ。お前の街に親父が来るんも、落ち着かんじゃろ。
わかる気がする。
地元にずっと暮らしているのとは違い、わたしは違う街に暮らしている。
地元の街は「故郷」と言う街であり、自分が生まれ育った街である。
しかし。
そこはもちろん、両親が選んだ、住みはじめた街であり、当然、そこに暮らす「家族」の街である。
そして、今わたしが暮らしている街は、紛れもなくわたしの街なのである。
であるから地元の、故郷の街に帰ると、半分の昔のわたしと同時に、今のもう半分のよそ者のわたしが、膝を落ち着かせずにムズムズとさせるのである。
夜明け前まで自販機の灯りの前で語り過ごした街であり。 やはり帰るべき街、でもある。
人生夜明け前。
いい歳にもなって恥ずかしいが、きっと、もしも今わたしが家族を持っていたとしても、夜明け前、だと思う。
愛すべき人ができた。 守るべき人が生まれた。
それは、それら大切な人との新しい朝のはじまりであって、自分自身の夜は明けることなくしじまに横たわったままなのである。
城崎にて、夜明け前。
である。
携帯が、変わったのである。
先日入力が一時的におかしくなった予兆が、ついに新たなるものとして、あらわれたのである。
これはもはや、買い替えの啓示にほかならない。
とにかく、長時間。
もはや衝動買いの域に近いが、一応の候補は考えてあったのである。
その候補が実際は、重たかったのである。
常に片手にしているようなわたしには、軽いのがやさしいに違いなく、はたと困った。
じゃあ、これで。
富士通からついに、NECに復帰である。 復帰とはいえ、かなり昔のことなので、まったく勝手が、違う。
しかも、コネクタの接触が不良らしく、赤外線で電話帳を移すまでしか出来なかったのである。
ネタのメモやら、チクチクと自分で移し換えるのにひと苦労である。
はじめに店のひとに渡したとき、不用意にもそのまま渡してしまったのである。
待ち受け画面には、メモが常に表示されており、喪失だの性愛だの強迫観念だの児童云々だの、誤解されるに十分な語彙や箇条書きが並べたてられている。
あ……。
店のひとが、一瞬、硬直したのである。
しかし彼も、大人であった。 何事もなかったように、作業を続けてくれたのである。
弁解の余地くらい欲しかった気もするが、まあなかったのだから仕方がない。
釈然としないが、しかしそうして無事、新しい相棒とやってゆくことになったのである。
さて。
その足で三省堂へ向かう。 レジで精算していると、こちらをどうぞ、とレジの女性が箱を差し出す。
角川文庫を購入すると、ストラップをもらえるらしい。
この種類が揃っているので、選んで探しても構いません。
ほほう、どれどれ。 わたしの目が、はたと留まったのが、あった。
見間違うはずがない、真っ黒の見事にとぐろを巻いたウンコくん、である。
えっ、ウンコくんも、あるんですか。
尋ねて、しまったと後悔する。 店員とはいえ、うら若き女性である。セクハラにならぬか、ならぬとも、不快な思いを与えてしまう嫌な客に思われてしまうではないか。
「ウンコくんも、ありますよ」
ええっと、とごそごそかき回していると、これです、とわたしの前に取り出してくれたのである。
歯切れよく「ウンコくん」などと発され、そして取り出してもらいまでしたからには、それをいただかねば申し訳が立たない。
伊勢神宮にも「金のうんこ」なるものがお土産屋で売られていた記憶がある。
「じゃあ、それで」
有り難く「黒のうんこくん」ストラップを、押し戴いたのである。
「月に囚われた男」
をギンレイにて。
デヴィット・ボウイの息子が監督した作品である。 低予算で、しかしそうと思わせない、なかなか面白い作品であった。
地球の有限資源が底を尽き、人類は月資源によって社会を維持していた。
月資源の採掘はたったひとりの男に託され、月面の採掘基地に三年間の契約で、人工知能搭載のコンピューターだけが話し相手として作業に従事する。
もうすぐ三年間が終わる。 地球に帰れる。 妻と幼い娘に会える。
そんなとき、自分以外にはいるはずのない人間の幻覚が見え始め、やがて採掘作業中に事故に遭って気を失ってしまう。
目覚めると基地の診療室のベッドで、自分そっくりの、自分と同じ名を名乗る男と出会う。
いったいどういうことなのか。 地球に帰れるのか。
そもそも、どこかおかしい。 会社は何を隠しているのか。
なかなか興味深い作品である。
地球と直接の連絡が取れない。 通信衛星の故障で、常に録画通信だけしか許されていない。
故障ではなく、妨害電波が基地の周囲から発せられていた。
自分のクローンが、何人も、隠され保存されていた。 自分もクローン、らしい。
もうひとりの自分と協力し、妨害電波の外から直接地球の我が家に連絡してみると、三歳のはずの娘が十五歳になって出た。 妻は数年前に亡くなった、らしい。
過去の基地内の記録に、何人もの自分が帰還用カプセルに入ってゆく姿が残されていた。
クローン同士が顔を合わせることは、本来ないはずだった。
記憶の移植の、ほんのわずかなほつれ、つじつま合わせが、事実を露わにしてゆく。
経費削減。 クローンのひとつの、悪しき可能性。
現在、クローン技術の進歩により確実に、倫理問題をのぞけば実現、いや現実化できる問題である。
命と生物。
製薬会社だかどこかの生体実験で、ラットだったかの使用を廃止した。
良かれ悪しかれ、プログラムや理論上で概ね代用すべきが、正になるのかもしれない。
人工臓器か。 クローンによる生体移植用臓器か。
そんなことも、すぐに現実として、やがては倫理観による議論の的にもなりうるのである。
2010年07月07日(水) |
「レインツリーの国」と雨夜の大森 |
有川浩著「レインツリーの国」
うわぁ。 むっちゃ、こそばったい、せやけどクセになるわぁ。
という、絶品の恋物語です。
後天的に聴覚に障害を抱えてしまった女子と、彼女の作った「レインツリーの国」というホームページに書かれた、とある小説の感想に惹かれた男子が、メールのやりとりからはじまり、紆余曲折しながらも互いの「距離」を埋め合い、結ばれる物語です。
本作は、著者を世間で不動のものにした名作のひとつ「図書館戦争」と密接な関係にある作品です。
「図書館戦争」は文庫化されておらず、わたしはアニメ化されたときにそれを観た程度。
しかし。
意味もなく侮っていたところがありました。 ヤラレました。
この作品は、とても甘酸っぱく、むず痒く、こんちきしょうめっ、とこめかみをポリポリとかきながら読んでしまうような、健全軽快爽快な作品です。
是非、書店で見かけたら手にとってみてください。
さて。
今宵は大森である。
予定していた先週は学会で留守だったので、いつもと曜日が一日ずれるが、水曜の今日を選んだ。
入谷の朝顔市が、やっている。 明日が最終日である。 しかし仕事の期限が明後日であり、明日はどうなるかわからない。 イ氏のとこでもらうものをもらわねばならないのだが、大森にイ氏がいるのは今日と明日である。
ならば、それは今日にゆくしかなかろうとの判断である。
おそらく今日は、田丸さんはいないような予感がしたが、顔を合わす度に「RENT」の進捗状況を伺わすのも申し訳ないと己に言い聞かせ、閉まる直前に門を叩いたのである。
中はてんやわんやであった。
検査宿泊の誘導や手続きで、イ氏自らが待合室まで出てきて呼び入れてゆく。
わたしは悠々と文庫に顔を埋めて過ごす。
しかしどうやら、埋まり過ぎていたらしい。
気配がか細くなってきたのは感じていたが、やにわに、
「竹さぁん。どうぞ入ってきてくださぁい」
頭上からスピーカーで、呼びかけられたのである。
ビクンッと飛び上がってしまった。
まあどうせ一番最後にしてくれるだろうと、すっかり油断してしまっていたのである。
驚いて飛び上がっちゃいましたよ、というとイ氏笑っていた。
モニターで、実はみることができるのである。
なんだ、それはみてなかったなぁ、残念、とまたしても笑う。
この時点で、完全に田丸さんがいないことがわかる。
ならば、と遠慮なしにイ氏と話に花を咲かす。
どうせ後ろにつかえているひとはいないことだし。
「こんな落語があるんだよ」
ふたつみっつほど、あらすじをかいつまんで話してくれる。
やはり、物語は「語り口」だよねぇ、とうなずく。
噺家は、それが、いい。 古典なんてまさに、話す人が違うだけで、まったく飽きない。 下げはそれぞれでも、落ちは同じ。
他愛ないことばかりで、それだけがだらだら続いているのに、飽きない。 そんな作品で、何樫というのがあるよ。
あ、タイトルは聞いたことがあります、と脳みその三省堂の本棚を、ズラリと並び立てる。
あった。 たしか文春文庫あたりの表装だった。
たしか二冊か、分厚目のじゃあないですか。
そうそうたしか二巻だよ。
己に何樫かのものは、知らずにアンテナに引っかかっているものである。
ようやく花を散らせ、外へ出てみると雨である。
これからゆけば、朝顔市には間に合う。
しかし。
雨では、いけない。
花に恵雨ははなはだよいが、わたしの目当てである「袋盛り焼きそば」が、食えないのである。
明日に、かけよう。
最終日はさすがに時間ギリギリまで焼きそばの露店がやっているわけでもないだろうが、そこは我が運にもろもろを委ねよう。
「しゃべれども しゃべれども」のさつきはおらぬので鉢は買わないが、いつかのさつきのために、色々みておくのもよいかもしれない。
これはちと、イタい、かもしれないが、傍目にはわかるまい。
しとどに道を、濡らしてゆく。
2010年07月04日(日) |
「クジラの彼」「抱擁のかけら」 |
有川浩著「クジラの彼」
有川浩、自衛隊三部作と呼ばれる「空の中」「海の底」に登場する主人公たちの、前後日タンが収められている。
正直、これは素晴らしい。 さすが有川浩、である。
という、軽快さ、背中から手を入れられてくすぐられるような甘酸っぱさと、規律とストイックさと純朴さと歯痒くやきもきする恋愛物語が、飽きるどころか、それでそれで、と拍車をかけられてしまう。
何せ、自衛官が、主な主人公たちである。
あの事件(物語)のとき、彼(彼女)らはそうだったのか。
思いっきり、有川浩の手のひらの上で転がされまくってしまう。
大人が読むライトノベルを、書いてゆきたい。 ライトノベル作家という肩書きを、大声で胸を張っていってゆきたい。
と公言している彼女ならではの、エンターテイメント全開の物語である。
これらの作品によって自衛官を目指す若者が増えたとかそうでないとか。 とにかく、清々しくもやきもきした恋愛を久しぶりに楽しみたい、と思われる方は、是非、有川浩作品を手にとってみていただきたい。
さて。
「抱擁のかけら」
をギンレイにて。
ペドロ・アルモドバル監督、ペネロペ・クルス主演作品である。
ペネロペは、最高の女。
である。 演出とはいえ、本作品におけるペネロペは、日本男性で永遠の憧れといわれる、オードリー・ヘプバーンそっくりなのである。
チラシやポスター、ジャケット写真を見てもらえば、最初、まったくもってヘプバーンそのものの作品かとみまごうほどである。
ヘプバーンは、凛々しくもやはり守ってあげたい感情をくすぐる、翼をなくした天使、のような魅力である。
しかしペネロペは、違う。
あの真っ直ぐな瞳で見つめられたら、一も二もなく、虜になってしまう。
決して、儚くなどない。
女としての強さ、艶やかさ、気高さ、ときに危うさ、を全身に感じさせるのである。
同監督作品「ボルベール(帰郷)」における彼女など、まさに、である。
うむ。
わたしは、スペインに移住しよう。
バルサの街、アントン・ガウディの街、情熱の街。
妄想は広がるばかりである。
2010年07月03日(土) |
「CAN I FLY?」まだ飛べるだろう |
「もしもし」
取りきれず、今しがた切れたばかりの電話にかけ直す。
名古屋の友からだった。
「今日、いくよね」
もちろん。 そのために、昼前から仮眠をとっておいたのだ。
仮眠というには少々長く正味四時間ほどになってしまい、予定が随分くるってしまったが。
そう。
一昨日――。
映画サービスデーということは、今月は近い週末に大事な何かがあったはず。
――と思い出した、その大事な何か。
「CAN I FLY? ――あたしはまだ飛べるだろうか。」 篠原美也子in渋谷duo
以前、開演時間を開場時間と間違えて、ステージがはじまる十分前にのほほんと会場にいってみて大慌てしたことがある。
そのときの同行者であり、犠牲者でもあった名古屋の友。
チケットに刻印された時間を、あらためて、しかと確かめる。
「もう、時間は間違えないから大丈夫」
電話の向こうで、あっはっはっ、と友が笑う。
今回は(も)ひとりで参戦であるから、誰に迷惑をかけるでもない。 しかし、間違えたくはない。 場所と時間をもう一度確かめ、乗り換え案内もしておく。
よし。
そうして、無事にたどり着いた渋谷duo。
なぜだろう。 胸がドキドキする。
宮崎アニメの永遠のヒロインの台詞そのままの、得体のしれない緊張感。
アルバムとエッセイを、まずは確保。
これはそれぞれによって異なるが、本を出す、ということがどれだけのことか、その一片をわたしは知っている。
最悪、たった一ページで一万円かかることだってある。 もちろんそれは、出版社を間に挟んだ場合であり、しかもそうなると部数も最低五百冊単位となって、結果、数百万を自己負担しなければならなくなることもある。
それはもちろん、五六年前のわたしが目の当たりにした一例であって、すべてではない。
しかしそのせいか、買わなければならない気持ちにさせられてしまう。
篠原さんならば、放っておいても、彼女を姉御と慕う我々によって完売となるだろうが。
つまり、どのみちわたしは彼女の本を買う、ということに変わりはないことに、いま、気がついた。
さて。
アンコール後のアンコール。
もはや恒例。
それが終わり、本当の、今回の彼女のツアーが、フィナーレを迎えた。
やはり、思いを、言葉を伝えるひとの姿は、カッコイい。
わたしはまだ飛べるだろうか。
いまだに飛べず、地べたでバタバタしたままのわたしは、やはりまだ、届かぬ空を見上げて、地平線のかなたまででも、助走を続けてゆきたい。
その熱を内に蓄え、そして火照った体を冷ますために、ひと歩きすることにした。
道玄坂を下り、渋谷駅を通り抜けて宮益坂を上ってゆく。
青学、こどもの城、国連大学を通り過ぎれば、じきに表参道にたどり着く。
ここに、名前こそ出やしないが、たしかにわたしが関わっている建物が、建つ。
キレるな。 諦めるな。 放り出すな。
仮囲いに既に囲まれている現地を、前にする。
いずれ散りゆく花ならば。 今日を一期と思いさだめ。
一瞬で散るために、瞬間的に爆発させる道よりも。 散らすことなく、まずは咲かせる道をゆく。
わかっていたはずだ。 簡単じゃないことくらい。
逆らって、戸惑って、つまづいて、立ち上がって。 敗れ去って。 また立ち上がって。
まだまともに戦ってもいない。 だから、敗れ去ってもいない。
せめて戦いの場に立てるくらいの力を。
トンネルの向こうに何があるのかわからない。 わからないまま、ゆくしかない。
おかえり、といってもらえる場所なのか。 光り差す場所なのか、より深く濃い暗闇なのか。
ときおり差すトンネルの灯りが、ひとつまたひとつと通り過ぎてゆく。
少なくとも今このトンネルは、我が家へと続いている。
七月一日。 映画サービスデーである。
しかし平日、仕事がある。
いやいや。やってられるか、勝手気ままに、気楽にあれもこれもと、いいおって。
急にそんなことをいっても、わたしひとりしか、できないのである。
いう前に、できるひとの顔を数を、きちんと想像してから、いってもらいたいものである。
ええい。 やってやるしかない。
と、その前に。
「告白」
を有楽町日劇にて。
この作品は、原作を既読済みである。
原作を読んで、さらに映画も観る、というのは、わたしにすれば久しぶりのことである。
とかく、この作品。
観て損はない。
ゾクゾクとさせられた。 キャラメルポップコーンSサイズと、伊右衛門と、ジャガリコを膝の上に抱え、一心不乱に、見入っていた。
おかげで、ジャガリコを上映終了までに食いきれなかったほどである。
それはもちろん、音を出して邪魔にならぬよう、口内でしっとりさせてからすり潰し飲み込む、という時間のかかる食べ方をしていたからでもある。
原作の巻末にある解説の中に書かれていたことだが。
本作品は、すべてがそれぞれの告白という、主観で語られている。 ある人物が信じていることが、別の人物が語るなかにおいては、別の事実、感情として語られる。
つまり。
誰の告白が事実であり真実であるのか。 それが、疑い始めると切りがないほど、事実も、真実も、告白という虚偽の世界に包み隠されてしまう。
松たか子演じる森口悠子の台詞。
「なーんてね」
が、それをまざまざと表しており、まことに、
「してやられた」
と噛み締めさせられてしまうのである。
告白します。
私は本来ならば、映画を観に有楽町へゆくつもりはありませんでした。 やらねばならない仕事を考えれば、八時か九時、そこそこ限界までやっておいたほうが、明日以降が当然楽になるのですから。
それでもわたしには、それよりも早めに仕事を切り上げなければならなかった理由があったのです。
わかる方は、想像してください。そうです、ゆかねばならないところがあったのです。
そう。 大森です。
ビルのセキュリティ・ゲートを抜けて、関係者が辺りにいないことを確認してから、訪問の電話をいれました。
いつも通り三回も呼び出し音がならないうちに受話器がとられ、わたしは、いつもながらこれから伺いますと告げたのです。
すると、受話器の向こうから不穏な空気が流れだしたのです。
「学会で今日明日いらっしゃらないのです」
だから休診させてもらってますとのことでした。それを聞かされたわたしは、前回そんなことひと言もいわれなかったことに、疎外感、すくなくない衝撃を受けました。
なんということでしょう。
わたしは大概、二週に一度訪れることになっているのですが、毎回予約などをしていませんでした。 曜日も時間も、いつも大体同じに決まっているというのにです。
きちんと予約をしていれば、その時点で学会の予定などわかっていたはずです。 わたしの横着さが招いたことです。 それなのに勝手に疎外感を覚えたり、自分がいったい何様になったつもりなのでしょう。
思い上がりも甚だしいです。
そうなると、また来週ということになりますが、わたしはまたしてもそこで予約をとりませんでした。
その足で電車に乗り込み、有楽町へとむかったのです。電車内で上映時間を調べながら。
本当に便利な世の中になりましたね。 そんなことをいったら、自ら年寄り臭いといっているようなものですが、いいのです。
不便を知っていることは、それは財産のようなものです。
今の子どもたちも、それなりに不便なことを自らの財産として、これから先の人生においてきっとどこかで役立ったり、もしかしたら、ふと振り返って呟いてみるだけのことになるかもしれませんね。
話がそれました。
わたしはそうやって、有楽町の日劇なら今からでも間に合うとふんで、むかったのです。
全席が座席指定なので、とても快適な場所で観ることができました。
整理券のみの、開場と同時に早足で座席を取りにゆく必要がありません。 これもむかしに比べれば。
もう結構ですね。 劇場に入る前に、飲み物とお菓子の類いを購入することにしました。 売店のものは高いですからね。
だけどポップコーンだけは、別です。 あれは劇場内に限ります。キャラメルソースがまた、疲れを癒やしてくれます。
カロリーだコレステロールだ、健康面をかんがえれば、あまりよいものではないかもしれません。
しかし、それは社会における必要悪だと思いませんか。
気をつけるきっかけを促すもの。 気がつかなければ、それがあることすら知らないまま、知らずに一生を終えてしまうのです。
悪を語るのに、善だけを語るつもりはありません。 悪を語るのには、やはり悪を語る必要があるのと同じです。
またまた話がそれてしまいましたね。 大丈夫です。 もうすぐ、この話も終わります。
とにかく、そうしてじっくりと、作品を鑑賞したのです。
映画は卑怯なまでに、素晴らしい。
そう思ったのです。 役者、音楽、映像、効果。 文字だけでしか語れないのに比べると、甚だ激しい嫉妬を覚えさせられてしまいました。
この映画「告白」は、まさにそう思える作品です。
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