松尾家に娘さんが生まれたそうな。
つい先日のことである。
どうもおめでとうございます。いやいや、こんなときにいろいろ迷惑をかけました。いやいや、そんなそんな。
松尾さんはわたしと同い年、まつ毛が長めのなかなかハンサムな方であり、奥様も、昼休みに出口で仲良く待ち合わせて食事にゆくその後ろ姿しか拝見したことがないが、なかなか美人さんのようで、美男美女のご夫婦なのである。
先週、わたしらがそろそろヤバイヤバイとカチカチあせあせと仕事しだしていたころ、ちょうど予定日だったらしく、
「連休のうちに生まれてくれると嬉しいんだけど」
と、いそいそあせあせした様子になっていたのである。
仕事の第一次剣ヶ峰を越えたので、後れ馳せながらそのような話をさせていただいたのである。
ふたりめで、また女の子でさ。
まつ毛がキラキラと、嬉しそうに手を振っている。
わたしの友達も、まさに先日ふたりめが生まれたばかりなんですよ、と、友のふんどしで相撲をとろうとしてみたのである。
白鴎の連勝のように、松尾さんは我がことの喜びと嬉しさと幸せさに、破竹の勢いでひたりきり、わたしのあっけない黒星である。
自分のふんどしで、相撲はとらなければならない。
席に戻ると、古墳氏の机に建築雑誌が、まさに今、袋から取り出されたばかりの体で、置かれていたのである。
「建築知識」
業界で知らぬものはない、バイブルのような月刊誌である。
「鉄骨造の云々」という特集名に、敏感に反応したわたしは、ついと手に取る。
バイブルのような、とはいったが、わたしは普段、滅多にみたりしていないのである。特集ごとに読む読まないを選ぶひとが大概である、というのに合わせているふりをしているのである。
「鉄骨の特集じゃあないですか」
持ち主である古墳氏の了承を得る前に、ひょいと取り上げペラペラと項をめくる。
「そうだ、みて下さいよ」
横合いから古墳氏の手が延び、取り返されるのかと明け渡す用意をしたが、特集項をさらにペラペラと、末項に向けてめくってゆく。
「これ。ここみてみてよ」
トトン、と指差す。
「同姓同名、ですね」
ほう、と見つめ返す。
「ちゃうちゃう。ちゃんと会社名みて」
あらら、古墳さんの会社と同じ名前ですね。
とぼけてみる。
「これ、ワシですって」
鉄骨造の納まり詳細や注意点を特集したその原稿を、作成していたのである。
巻末裏を開き、
「ここにサインしてください」
そしてわたしにくださいな。
「ただのオッサンですやん」
なんと謙虚な古墳氏であろう。
図面や三次元モデル図のみならず、説明文までも、古墳氏が担当した項はすべて、書いてレイアウトしたそうなのである。
「いや、言い過ぎた」
レイアウトやらの細かいのは、若いひとにやらせたんですわ、わはは、と坊主頭をかく。
文章にかんしては、てっきり雑誌社のひとが書いているのだと思っていたので、面を食らってしまったのである。
わたしらと仕事し始めた頃、名古屋から単身赴任でビジネスホテルから通っていた頃、休みは図書館で仕事ですわと笑っていた頃、まさにこの原稿作成をしていたというのである。
全国のひとが、古墳さんの書いたものを、読むんですよ。 やっぱり、サインして、この献本をわたしにください。
「だから、ただのオッサンですやん」
じゃあ、ただのオッサンじゃなくなるようになってください。
いやいやいや。 でも。 本当にこんなんを世に出してしまってええんやろか思いましたよ。
わかります。
まあ、全体の構成や指示を出していたのは古墳氏の上司であるのだが、「辞めちまえ、と怒鳴られながらやりましたわ」との真摯な成果のそれである。
建築は自分が書いたものが形になり、残る。 しかしそれは、ひとりでつくったものではない。 建築は生き物であり、できあがるまで、常に誰かの意思や希望で変わり続ける。
書籍などの原稿、文章は基本的にすべてが自分自身の意思で形になる。
「本当に、コワイですわ」
だから、
「早くサインください」 「なんでですのん」
サインの価値がきっちりあがるように古墳さんに頑張ってもらわないと。 いや、だから。
「ただのオッサンですって」
古墳氏が、自分のことをオッサンオッサンとあまりにもいわれると、たいして歳の変わらないわたしも、やはりオッサンだと気付かされそうになってしまうのである。
即、撤退。 せめてもの抵抗。
である。
わたしのふんどしは、物干し台で、真っ白にひらひら風に揺れている。
吉田修一著「パーク・ライフ」
芥川賞受賞作である。 著者の「ひなた」を以前読んでいたのだが、どうにも印象が薄かった。
「悪人」
深津絵里さんが賞をとったことで話題になった映画の原作者でもあり、大佛次郎賞を同著でとってもいるのである。
本作「パーク・ライフ」は、日比谷公園を舞台に出会った男女の物語である。
思わず、わたしもいつもとは逆の出口の階段を上り、日比谷公園のベンチに居座ってみようか、などと思ってしまう。
男女の物語とはいえ、恋愛物語ではない。
そこがまた、日々の日比谷公園という舞台で、公園らしく爽やかで、薫風、のようである。
イ氏に先日、この作品を読んでる最中だと漏らしたところ、
なかなかいいでしょう!
とお気に入りの様子であった。 たしかに読みごこちはよかったのである。
しかし読み終えた今のわたしは、申し訳ないが病みはじめてしまっているのである。
何とはなしに、谷崎を求めている心境に陥ってしまっているのだから、にべもない。
とりあえず連日の残業休日出勤の山は越えられたようであるので、それでも谷崎を求めているのかは微妙である。
別の小山と次の大山の峰がすぐ前に見えているのは、一日くらい目を逸らしたってよいだろう。
雨降る日比谷公園の噴水広場に、パーク・ライフを見つめにゆくのもよいかもしれない。
「はじまりのきっかけは、目に見えなくても、それぞれのなかにある」
わたしにはあり過ぎて、何がどのはじまりのきっかけなのかわからない。 いや。 おそらくわかるからこそ、わかっているつもりの白々しさに、目を逸らしているのである。
刮目せよ。
しばしの眠りの後に。
「マイ・ブラザー」
をギンレイにて。 この作品、「ある愛の風景」という作品のリメイク作品である。
その作品を、わたしは公開された数年前に観ているのである。
どうリメイクされているのか、楽しみであった。
優等生の兄サムと劣等生の弟トミー。 弟が刑務所から出所した数日後、兄はアフガニスタンへの出征が決まっていた。
束の間の家族の団欒。
幼い二人の可愛らしい娘と美人の妻グレイス。 絵に書いたような幸せな家族。
しかし。
サムの乗ったヘリが撃墜され、戦死した、との報せが伝えられる。
悲しみと絶望に暮れる家族。
寂しさを紛らわすように、慰め合うように、次第に距離が近づいてくるトミーとグレイス、そして娘たち。
一方、サムは部下と二人、捕虜として生きていたのである。 しかし、
「生きたくば、部下を殺せ」
と鉄パイプを渡される。
「家族に会いたいだろう?」
軍人として、忠実に、毅然として沈黙、抵抗していたサムも、一度は投げ捨てたその鉄パイプをついに手に取り、振り上げる。
「英雄の帰還!」
そう新聞に取り上げられ、家族のもとに帰ってきたサム。
家族とトミーの打ち解けた姿に、疑念が沸き起こる。
「素直に答えてくれ。俺は許す。妻と寝たんだろう?」
優等生、英雄という姿の自分。
生きて帰ってくるために、部下をこの両手で殴り殺してきた自分。
立派な息子、立派な父、立派な夫、立派な兄。
「溺れそうだ」
サムは、おそらく初めて、グレイスの前でその涙をこぼす。
サム役のトビー・マグワイヤが、好演である。
グレイス役のナタリー・ポートマンも美人で素晴らしい。
が。
なんとも複雑である。
「ある愛の風景」とテーマは変わらない。 ストーリーも同じ。
当然である。
今回、ストーリーを知っていたがために、より、胸にグッとくるものがあった。
ひとつの、いや決まったイメージで人を見ていてはいけない。
親でも子でも伴侶でも。
常にそうであるわけではないのである。
明日、愛する人が死ぬかもしれない。 愛する人のもとに生きて帰るために、いったい何をしてきたか。 信じてる信じたい、愛しているのに、信じられない。
その端々の感情に、敏感に共感してしまうのである。
頑張っている人と、そうとは言わずに一緒に観てもらうとよいかもしれない。
さて。
今週はずたぼろである。
悪循環。
残業の度にリタ嬢に世話になり、それはほぼ毎日のお出ましで、ぎゅうっと激しい抱擁な分、離れると途端にガクンとなるのである。
別れ際がわかりやすい分、モディリアーニ画伯とは違ってありがたいが、なかなか辛いものがある。
陽気で華やかな金髪ムチムチ美女と、楚々と可憐な黒髪美人との違い、とでもいおうか。
「グッバーイ! アイラブユー!」
と手を振り尻を振り、ヒールを鳴らして部屋を出るのと。
「おやすみなさいませ」
とそっと襖を閉めて室から出て行くのと。
例えから、やや脱線し的はずれになっている。 いけない。正さねば。
とにかく、普通に終電まで、または泊まってでも仕事できる、いやせねばならないのだが、そんな周りの皆に合わせて、わたしも勿論やらねばならないのである。
泊まりこそ避け、なんとか休日出勤だけで間に合わせたが、まだまだ本番の締切は先にある。
激しい抱擁の反動は、如実に蓄積されている。
わたしの心は今、谷崎潤一郎を求めはじめているのである。
今日はせっかくの休日であったが、昼からまた落ちてしまい、ようやく夕方からの活動である。
三省堂にゆくも、谷崎さんのお目当ての一冊が、ない。
落胆激しく、これは浮気でやない、そっちがないのがいけないのだ、と呟きながら他店で求める。
他の日まで待つ余裕すらないのには困りものである。 一日を数時間しか使えないのには、もっと困りものである。
2010年09月25日(土) |
「新しい人生のはじめかた」 |
「新しい人生のはじめかた」
をギンレイにて。
ダスティン・ホフマン、エマ・トンプソン主演。 CM作曲家のハーヴェイは娘の結婚式のためにロンドンへやってくる。 前夜のパーティーで、娘との再会も束の間、
「ヴァージンロードは、義父と歩くことにしたの」
母と再婚した義父は、この数年ずっとよくしてくれたから、と申し訳なさそうに告げる。
おまけに、ハーヴェイのラストチャンスだった仕事も、飛行機に乗り遅れて駄目になってしまい、職を失ってしまう。
空港のバーで出会ったケイト。 彼女は四十代独身。心配性な母親に始終電話をよこされている。 友人に紹介されたやや若い男性と飲みにゆくもあまりうまくゆかず。
どうしても、浮いてしまう。
そんな二人が、出会う。
「披露宴に行ってあげて。実の娘でしょう」
中高年の、まったくスマートではない恋愛。 それが当たり前。
久しぶりにみたダスティン・ホフマンが、いい。
かっこつかない、どこか足りない、だけどそうではないと肩肘を張る男。
「あきらめる方が楽な人生。それをあきらめろというの?」
ケイトがハーヴェイに答える。 その気持ちもわかる。
しかし、新しい人生、新しい恋の始まりは、常にラストチャンスである。
なんとも胸があったまる作品である。
まずは、めでたい。
名古屋の友のもとに、無事元気な女の子が、誕生した。
おめでとう!
こんなときだけ、我がことのように嬉しい気持ちになる。
やや脱力気味の膝頭がそれを証明している。
膝小僧たちが、両手を挙げて喜んでいる!
「Seasons of love」
である。 月がてらてらと輝いている。
今宵はミルクたっぷりの冷たい珈琲を、月を眺めながら飲み干すことにしよう。
月がちょうど窓の向こうに微笑むから。
祭り囃子が、
ピーヒャララ ドンドン、ドドン タカタッタ ドンドンドン。
んあ、と片目を開け、カーテンをめくり、窓から見下ろす。
子供山車が、綱にひかれて通り過ぎる。
向かいの窓からは、白ゴマのおやっさんが、目を細めて腕組みしながら同じく見下ろしていた。
根津神社大祭が、そして七倉稲荷でも大祭が、とりおこなわれているのである。
山車の時間。
九時を回ってしまっている時間である。
慌てて床に足を下ろす。
ぐぬう。
頭の芯が、鈍い。 昨日は、一度朝食に起きたが十六時間ほど、寝潰してしまったのである。
閉店間際に三省堂へ滑り込み、そしてSMAPの東京ドームコンサート帰りの人波を掻き分け逆流し、ふらふらと帰ってきたくらいしか活動せず、正味四時間であろうか。
それなのに、芯が鈍く重たい。
昼から休日出勤せねばならない。 なぎさくんが、彼は朝から平日通りの出勤で、待っているのである。
舞姫の脱け殻をくず箱に放り込み、立ち上がる。
自販機の前でどれを押そうか躊躇った瞬間に、つと落ちた昨夜を思い出す。
休んでしまえ。 いや、困るのは明日の自分だ。 明日のことは明日の自分にまかせりゃあいいじゃないか。 だからその自分が困ると云っている。 空耳だろう。
そういうわけにもゆかない。
大変なとき、物事を横に広げて並べるな。 縦に並べてみろ。
お国さんに云われたようにする。 あれもこれも、といっぺんにやろうとするから、余計に大変なように感じるのである。
出来ること、やることを、まずはひとつずつ。
モディリアーニをポポイと放り込む。 さあ、ゆこう。
と、勇んで行ったはよいが、大事な入館証をすっかり忘れてしまっていたのである。
なぎさくんの番号を書いた紙があってよかった。
「なぎさくぅん。わし、閉め出されて入れへんねん。開けてくれんかぁ」 「なに。今日、来れないんですか。え、下に来てるんですか」
なにやらテンパった様子のなぎさくんであった。
今度はまじめに、入館証を忘れて入れないので御足労ですが下りてきて鍵を開けて下さい、と頼む。
わかりました、待ってて下さい、とにべもなくブツリと切られる。
「実はパソコンがトラブってて、立ち上がらないんですよ」
なるほど、やや不機嫌だったのはそういうわけか。
なにがジョン・トラボルタ、といいたいのをこらえる。
あのとき、アレしてコレしてそうしたらなんとかなった記憶があるけれど、となぎさくんの背中からつぶやいてみると、
あっ。ホントだ。
とりあえずつぶやいてみるものである。 おかげで無事、仕事ができるようになってしまったのである。
責任感や義務感を背負いなんとかしようと踏ん張っていると、焦り、つんのめり、トットトト、と一本道を駈けるが如しとなってしまうことがある。
ま、なんとかなるし。 なるようにしかならないし、できないし。 いーじー・りびんぐ。
しまりのないわたしの顔を見て、複雑な顔を向け返すなぎさくんである。
ここはちと、らしいことを見せねばコケンにかかわる。
なんとか、しよう。
鷹揚にうなずいておく。 当然意味などわかるはずがなく、まあそうなんですけどね、となぎさくんは首をひねって仕事に戻る。
できるとこからコツコツと。
モディリアーニは、サッサと筆を進めているようである。
筆が止まる前になんとかしなければ、と焦るわたしをなだめすかす。
先日、退職を余儀なくされました。 どんな職種なら働けるでしょうか。
それはこっちが知りたいものさ 遠くで鳴子が鳴っている 明日は我が身か明後日か
これが夢なら立派なナルコ 夜さ来い夜さ来い 夜よ来い
「すんません、お先に上がります」
なぎさくんが、携帯片手に声を掛ける。
「デートか」
すっかりおやぢのひと言である。 ええまあ、と否定しないなぎさくんに、こんにゃろめと唇をねじ曲げてみせるが、余裕の風である。
とっととお帰り。 はい、失礼します。
七時を過ぎた頃であった。 わたしも、そろそろモディリアーニが筆を投げ出す頃合いである。
本来の予定より、四時間も早い。 つまりは、そういうことである。
休んで回復に努めたいところである。
2010年09月18日(土) |
「犬身」(上)(下) |
松浦理英子著「犬身」(上)(下)
「いやぁ、どうしようもない作品を読んじゃったよぉ」と、かつてわたしに話した作品である。
こんなくだらない発想で、という、ある意味誉め言葉のようなものであるか、或いは、期待に応えるものではなかった、という残念さか、ともかく読んでみる価値があるだろうとわたしが思うような感想だったのである。
人間であるよりも、犬となり、犬を愛する飼い主のもとで存分に犬として生きて行くことを望む房恵。
地元のホテル経営する一族の娘でありながら、家族と離れてひとり陶芸家として暮らす玉石梓と愛犬ナツと出会い、ますます「犬化願望」が増す。
バー「天狼」のマスターである朱尾の手によって、遂に房恵は、梓の愛犬・フサとなる。
白黒のブチが混ざった可愛らしい仔犬として、梓の傍で幸せな人生ならぬ「犬生」を果たしたあかつきには房恵の魂を朱尾に渡す、との契約を交わしていた。
愛犬として片時も離れず過ごすうちに、今まで知ることがなかった梓の日常を、過去を悲しみを苦しみを素顔を、目の当たりにさせられる。
玉石家の歪んだ関係。
その犠牲者たる梓に、フサは支えにならんとする。
人間の言葉や感情はわかるが、話せない。 そもそも房恵が「犬化」を望んだのは、
飼い主に、傍にいるだけで愛情を与え与えられ、純粋にそれだけで満たされる暮らし
を求めていた。 つまり、
無償の愛
の姿。
朱尾との魂の契約。
満足な犬生を全うしたあかつきには魂を渡す。
その契約は、無事果たされるのだろうか。
犬に限らず、ペットに癒しを求める人間の姿を逆の立場で描いた物語。
わたしはつい、いや当然、谷崎潤一郎の世界を期待していたのである。 おそらくイ氏も、であろう。
しかし。 どうにも、違う。
本作品は読売文学賞を受賞しているので、評価が高いことは確かである。
勝手にだが、谷崎潤一郎のようなエロチシズムや世界観や味わい深さを求めたら、物足りなさを感じてしまうのである。
ならばペット愛好家の心情を満足させるかといえば、どうにもそうではないような気もする。
ペットならば、傍にいるたけで、面倒臭いことなしに相手と自分の互いの愛を満たすことができる。
余計なことは言わなくていい、しなくていい。 寄り添い、撫でさせ撫でられ、それだけで癒しになればいい。
恋人は別れ、失うことはあっても、それでもペットとは別れない。
つまりは、そういうことである。
行儀が、よすぎる。 獣性がない。 犬よりよっぽど人間のほうが獣である。
ということなのであろうか。
なんだかわたしが、谷崎が読みたくなるために選んだような作品である。
八木沢里志著「森崎書店の日々」
第三回千代田文学賞の大賞受賞作品である。
千代田区を舞台・テーマにした作品を推奨するが、それにこだわらず作品を求む。
映画化が決まっており、十月から順次全国公開予定である。
「今度、結婚するんだ」
と。 突然彼氏に打ち明けられ、しかも結婚相手は同僚のかわいらしい女の子で、自分よりも前から付き合っていて、つまりは、自分はただの都合のよい相手にしか過ぎなかったことを知り、失恋と失業が同時に訪れた貴子。
神保町で古書店を営む叔父のサトルのとこで、しばらく住み込みの手伝いをすることになる。
古本と温かい街と人々に包まれて過ごす日々。
常連のお客さん。 行きつけになった喫茶店。 そこで出会った人々。
そして。
きみは大切な姪で、大好きで、だからきみを傷つけるヤツなんて、絶対に許せない。 だから、今から殴りに行こう!
夜中にタクシーを呼んで、貴子の為に本当に殴りに行く、叔父のサトル。
そして。
サトルを置いてふらりといなくなってしまったはずが、突然「ただいま」と帰ってきたサトルの奥さんの桃子。
親しい相手の頬を無意識でつねってしまう彼女に、やがて思う存分つねられ放題になってしまう貴子。
神保町が、大好きになる一冊。
作品中に出てくる「すぼうる」という喫茶店。 物語の様々な場面で舞台となっている喫茶店なのだが、ここは神保町にくるものならばようくご存知である名喫茶「さぼうる」であることは、容易に想像がつく。
かくいうわたしも、無職時代、リハビリ兼ねて毎日神保町に歩いて通い、二日に一日は、昼過ぎから夜になる直前まで、過ごさせていただいていた喫茶店である。
薄暗く落ち着いた店内。 時折、向こうのテーブルで装丁がどうのと出版の打ち合わせ話が聞こえてきたりする。 そちら側の耳だけをダンボにしながら、カリカリと己の小説を書き、ありえない出会いのきっかけはないだろうか、と過ごしていた。
「この席は寒いでしょう。あちらが空きましたので、どうぞ」
マスターやフロアの店員さんが、当時真夏で冷房を強烈に効かせていた店内で、あきもせず寒さに肩を縮こまらせながら居座っているわたしに、やさしく声をかけてくれたりしていたのである。
愛がある街。
その愛を、そのままに感じさせてくれる作品なのである。
ちよだ文学賞。
やはり次回から、出してみるのに挑戦してみよう。
2010年09月13日(月) |
「ゆうやけ色 オカンの嫁入り・その後」 |
咲乃月音著「ゆうやけ色 オカンの嫁入り・その後」
余命宣告されたオカンが、娘の自分と大して歳の変わらない男(わたしは捨て男と呼んでいる)を拾って帰り、結婚してもうた。
本気なん?
と、わたしも反対や戸惑いも、なんやわやくちゃしていたんもすっかり落ち着いてきて、そしたらなんと、捨て男のオカンが、捨て男を拾いにきました、て突然現れてん。
おまけに、わたしが付き合ってる年上のセンセイがわたしに突然、別れよう、なんて言ってきてん。
もう、みんな、むっちゃくちゃや!
捨て男はいつもみたいにヘラヘラ笑ってるし、サク婆はお好み焼きの秘伝の味をわたしやオカンにも教えなかったのに、捨て男のオカンに教えてまうし。
ハチはふりふりと嬉しそうに尻尾を振って、なあ散歩連れてってえなお姉ちゃん、て無邪気に、そんなわたしを癒してくれる。
来年の桜は、きっとオカンと見られへん。 悲しいけれど、悔しいけれど、認めたないけれど。
だけど、捨て男とサク婆と、そしてセンセイと、みんなで、見に行こ。
お姉ちゃんボクを忘れんとってなぁ、と抗議しているハチも、なあ?
わんっ、と足に絡まりながら、すりすりしてくる。
そや。
桜と一緒に、きっと「おかえり」て、言いたいなあ。 桜はオカンの匂いやねんもんなあ。
……そんなお話である。
神保町ではなく有楽町の三省堂にゆき、つい手にしてみて、あらよと言う間に、読み切ってしまった。
なかなか、ほのぼのじんわりさせてくれる作品である。
センセイ、と言うと川上弘美さんの「センセイの鞄」を思ってしまう。
まさに、その通りなのである。
だからか、すうっと、重なり合って、溶け合って、吸収してしまう。
月子とツキコ。 医者のセンセイと恩師のセンセイ。
わたしもぜひ、センセイとなって、月子、できればツキコさんと出会いたいものである。
私は、確実にあなたより先にいってしまいます。 そんな身分で、あなたとあなたのこの先を、どう保証してあげられるというのですか。
ふたりとも、やはり似たようなことを考える。
それならそれで構いません。 それまでを、センセイとずっと一緒に過ごせないことのはうが、先にいなくなられることよりも耐えられません。
といったようなことをツキコさんは、言う。
会いたい、今すぐ会いたい。 センセイが好きです。
本作品の月子は、真っすぐに、要領を得ないが、だからこそ伝えたい思いを、伝える。
さすがに、このあたりはふたりの月子とツキコに違いがある。
しかしどちらも、嫌いではない。
ツキコさんの現れるを待ちながら、暮らすのも悪くはない。
「君が踊る、夏」
を丸ノ内TOEIにて。
余命五年と宣告され、小児ガンと闘う少女の物語。
ではない。
いや、つまり実話実在の少女をモデルにしてあるので、ではない、と言い切ることはできない。
はじめに小児ガン云々の上記の紹介があるが、感動のお涙ちょうだい物語ではないのである。
脚本をノベライズ化したのを既に読んであるので、それはわかっている。
ずばり、
純な恋愛映画
になっているのである。 「ハナミズキ」が十年なら、「君が踊る、夏」は五年である。
人物の皆が、いや、物語の全てが、「純」なのである。
藤原竜也やDAIGOや高島礼子や宮崎美子や、その他役者陣。
とりわけ、少女を演じた大森絢音ちゃんがまた、かわいらしいのである。
先日の「スーパーよさこい」の舞台でみた、この作品のモデルとなった少女の、そのままに近いイメージなのである。
彼女は、五年以上生きた患者はいない、との常識を、打ち破り続けているのである。
「よさこい」は、ほかの祭りと違うが。 元気を出そう、と人間のために始まった祭りやき。 そして、前へと進む踊りやけんね。
まさにその通り、である。 観ているほうも、前へ、という元気を与えられるのである。
最後のよさこいの演舞の場面。
それまでずっと、音楽に不満を感じていたのである。
なぜ、静かなものばかり。
ここで、一気に解消、である。
「よっ、待ってました!」
昨年のよさこいで「ほにや」が踊っていた「夢・羅針盤」である。
昨年の「スーパーよさこい2009」とそして今夏の高知の「よさこい祭り」原宿の「スーパーよさこい2010」の、あの震えが駆け巡る。
来年も、高知にゆこう。
エンドロールに、昨年の「よさこい祭り」の様子らしきものが挿入されている。
ああ、やはり、ゆこう。
そもそものわたしとよさこいの出会いは、六七年ほど前になる。
当時池袋で催されていた「いけふくろう祭り」という祭りだったと思うが、西口のロータリーに設置されたステージで、偶然、出くわしたのである。
当時原宿でも既に「スーパーよさこい」が行われていたはずだが、それを知らず、知ろうとしない程度だったのである。
それから、いったい何がわたしをよさこいに惹き付けられるようにしたのか。 前へ、との元気を欲させたのか。
「君が踊る、夏」の「君が」とは、病と闘う少女を指すのではない。
主人公のカメラマンを目指す新平が恋人の香織を撮った写真のタイトルである。
タイトルをつけたのは本人ではないが、それは小説か映画作品から知っていただいて、そうするとこの作品が「恋愛映画」であることがようくわかると思う。
元気になりたい。 笑顔がみたい。
そんな方は、ぜひこの作品、そして「よさこい」に触れてみてもらいたいのである。
2010年09月11日(土) |
踏みおろした薄氷はパリッと割れて、ジワッと溶けた |
薄氷を踏む思いで、一歩一歩、足を置いてゆく。
着地地点に向かって。
自分が辿り着きたい場所ではなく、おそらく皆が辿り着けるだろう場所へ。
「なんか、竹さんの言ってることが、しゃあないことなんやなって、思いだしてきたわ」
古墳氏が、一文字に引き締めた口元の端っこを、緩めた。
大声こそ出さないが、なかなか本気で言い合っていたしばらくあと、である。
古墳氏は、BIMによる円滑な設計、さらなる可能性を求めるために呼び寄せた技術者である。
「だから、それじゃあBIMでなんかでやる必要ないですって。二次元CADチームにやってもらってくださいよ」
背もたれにぎしっと背中を投げ出し、残念な人間を見るような目がわたしをとらえる。
専門だから、こだわりたい、そうすべきだ、てのはわかるし、その通りに本来はやるべき。だけどね。
作業効率、もっぱらわたしの場合、いかに手を抜いて楽にすませるか、なのだが、そのわたしの見切りの早さ、あっさりさ、こだわりのなさに、メラメラと炎が立ったらしい。
二次元CADでやるのとまったく同じことを、三次元CADでやってしまいましょう。
簡単に言えば、そういうことである。
まさに、まったくもって、三次元でやる意味がない、と思われるのは無理はない。
しかし、提出図面の見た目と、作業の負担を考え、さらに「限りなく三次元CADで作図すること」という上層部の意向を斜に構えて受け止めると、まあ妥当な手抜きであると思うのである。
間違いなく、三次元CADで書いてることになりますよね? 二次元と同じことを、三次元の長所をまったく無視したやり方でやったとしても。 だから、それじゃあ意味がないってっ。見た目とか、そんなんあとの話でしょうが?
見てすぐわかる見た目をこそ爪楊枝でほじくりたがるのが、実作業をしないものたちである。
見えないですが、ちゃんと情報は入ってるんです。
と言ったところで、
見えないんじゃわからないから、見えるようにしてくれ。
となるのが世の常である。
体裁整えのために、アナログな作業が増えてしまうのは仕方がないのである。
ペーパーレスを唱えても、打合せや確認や訂正や提出で紙がどうしても必要なのと同じである。
出来ることと、それを出来るために必要な時間と労力を効率性とで秤に掛けると、蟻とジャイアント馬場さんをそうするのと同じように明らかに思ったのである。
なぎさくんがたまらず、
「ちょっと、聞いてきましょう」
と慌てて駈けてゆく。 切羽詰まった行き詰まった状態のところに聞きにいったところで、答えは想像がついている。
目指す理想と、 目指す現実は、
今は見た目を同じにするしか出来ないのである。
「次の段階でそれが出来るように、いや、やりましょう。今はまだ、ね?」
だんまりを決め、しばらくのち、納得は出来ないけどねぇ、と古墳氏はベルトにシャツを押し込みながら立ち上がる。
「図面で一枚だけ、二百点満点のを精力注いで書いてあっても、他のが五十点の出来なら。 八十点の図面で全部を書き上げてくれ」
わたしがかつてお国さんに、ようく言われていたことである。
図面を見るひとは、それを見てどう思う?
一枚だけしか出来上がってなくて、他のは全部、書いてる途中ですか?
となってしまう。
「見た目八十点でも、それで全部が揃ってて、二十点分はそれこそ見た目じゃないところで補えるように図面の中でまとめろ」
だけど。
お前ははじめから八十点目指して結果六十点まで引き下げて、俺が引き上げてなんとか七十点くらい、だもんなぁ。 しかも引き上げられるのをわかってて、そうやるんだから、まったく。 百二十点を、はじめから目指してくんねえかな?
ポリポリとこめかみをかきながらわたしを見る。
いやあ、えへへ。 えへへ、じゃねぇっ!
飛んできた(正しくは投げつけられた)消しゴムを、よっとよける。
そんな教えを、かつて受けてきたのである。
目指すは理想の空の彼方。 着地するのは現実の大地。
「インフラやハードも整えず、ソフトだけありゃ何でもできるようになる、と思っているひとらに、夢や理想だけをみせて語るのはもうそろそろ終わりにしましょ。 出来る、と思ったことをやるには、インフラやハードだけじゃなく、設計業務の体制や手法まで、ガッツリ変えようとしないと出来ない、ってことを言わなあかんのです」
でもじゃあ明日から出来る、ってなわけじゃあない。
だから、ね?
古墳氏も、現場(施工)の立場に近いとこでやってきたのと、現状(設計)の立場との加減の違いを、渋々噛み締めてきているようである。
施工は、ひとつひとつをきっちり形にしてゆく。 設計は、現場(施工)がいてくれることを前提に、かたちにまとめてゆく。
だからまだまだ、仕方がない段階ではあるのである。
「つかれたぁ……」
小金井に、ふと漏れてしまった。 どうしたんすか、と心配な顔で近寄ってくる。
なんが? だって珍しいじゃないですか。 だからなんが? 竹さんが、「疲れた」なんて言うの。
実は、疲れたと言ったつもりはなかったのである。
この時間、定時過ぎると、「帰りたい」とか「腹減った」なら、さんざん聞いてますけど。 ほなら、「帰りてぇ」 あ、言い直した。 なんいうち、ええがやろう。 あ、インチキ高地弁でましたね。 おなごの土佐弁は、きもちよかよぉ。 相当、病んでますね。 応、病んじゅうがじゃ。 ……お疲れさまです。 じゃ、帰るとすっかな。 って、帰るんすか? 今、お疲れさま、言うたやろが。そんな言われたら帰らなならんが。
うっわぁ、と笑う小金井を置き去りにしてゆく。
ほんならね、は明日へのおまじない。
明日から、公開である。 しかも、一週間しか、期間がないのである。
期限をきられると、気持ちを掻き立てられるのがひとの性である。
今年最後のよさこいを観に。
「たとえ死んでも、みんなと踊りたいが!」
ギンレイにはかからんやろうし、いってみるがかのう。
2010年09月10日(金) |
「爆心」と物語る勇気 |
青来有一著「爆心」
芥川賞作家であり、本作で谷崎潤一郎賞を受賞している長崎出身在住の作家である。
「爆心地小説」というのらしい。
つまり原爆の、被爆した地に暮らす、生きる人々の物語。
とはいえ。 本作は長崎というキリシタンの歴史を持つ側面を、頭に引っ掛けた夏祭りのお面のように、配してある。
連作短編のかたちをとった、ひとつひとつが独立した物語である。
さて。 なかなか感想が難しい。
だから、何?
と言ってしまうのが、本音なのかもしれない。 しかし、どこかそれだけではないような気もする。
被爆の物語ではない。 キリシタン弾圧の歴史がつまびく悲劇物語でもない。
ただその地に暮らす人々の、街の、生と死と命の、どこの街でも繰り返される出来事、なのである。
そこに染み付いた、引き継がれてきた、物語。
被爆したわけでもない。 弾圧されたわけでもない。
だから、それに触れるには勇気がいる。
しかし、小説をうそ話としての書き手として、勇気をもってうそを書かねばならない。
うそでも、ときにはわたしは子どもを持つ親になり、また子ども自身になり、小遣いをせびられる祖父母となり、生を謳歌するものになり、死を目前としたものとなり、恋を夢中で追い掛けるものになり、また夢にうつつをぬかすものになり。
しかしそれは決して現実ではない。
だからこそ、書けるのかもしれない。勇気を意識したことはないが。
入口の角のところから、しっかとこちらを捉える。 わたしは首の付け根をコキッと鳴らし、気付かぬふりをしてその手前に立ててある画面から、顔を離さない。
「ねえ」
一旦視界から消えた後、すぐ真横から、毅然とした口調で女性がわたしに話し掛けてきたのである。
敢えて返事はせず、ぐるうりと女性の方に首から上を向けてみせる。
しっかと開かれた、意志の強さが表れた真っ直ぐな目を、わたしの糠ドコのような生温い目が受け止める。
糠に釘。
刺しても手応えがない様子に、このままではずぶずぶとはまってしまって抜けなくなってしまう、と堪え切れなくなったようである。
「おにいさん」 「なんでしょう、おねえさん」
糠ドコは腐っても糠であるのだろうか、などと考えながら相手の馬場さんにやっと応える。
「来週の金曜の夜なんだけど、大丈夫」
メール送っといたでしょ、と指差す。
ああ。
ぐるりと画面に顔を戻す。メール画面を表に出すが、だからと本文を開かずに、ぐいと、今度は肩から振り返る。
ついさっき、はまぐりさんらと打合せたスケジュールを宙になぞる。
ううむ。
「大丈夫、だよね」
きりり、と真っ直ぐに見つめる。 馬場さんの旦那さんは、おそらくこうして、いつも説得承諾唯々諾々させられているのであろう。
「たぶん、でも、わか……」 「たぶん? でも?」
ぐいぐいと、せまってくる。
「わか……りました。来週の金曜、大丈夫なようにします」
うんよろしい、ときびすを返して去ってゆく。
いつとは決まっていないが、リョウくんか大分県か出向で地方にゆくかもしれない、との話が持ち上がったのである。
初期メンバーの同期であるわたしたち四人で、じっくりと諸々語らおうじゃないか、と馬場さんが思い立ったのである。 そして思い立ったが吉日と、すぐさま非常召集を、おん自らかけて回っていたのである。
連休前の金曜である。 明けたらすぐ、仕事の小さなヤマがある。
大分県とわたし、つまり、面子の半分が同じ仕事、ヤマを抱えているのである。
まあ、なんとかなるだろう。 馬場さんの誘いを断るのと、仕事を断るのと、どちらを選ぶかと問われれば。
仕事を断るほうを。
大分県もしきりに強くうなずくに違いない。
予定表に赤ペンで記しをつけておいた。もう大丈夫である。
さて。
今宵、大森である。 しかし少々、味気が足りない。
いるものと決めてかかっていた田丸さんが、いなかったのである。
初見の中田さんと、はじめまして、よろしくお願いします、いえいえこちらこそ、と挨拶を交わす。
親戚の鯛子さんの、そのまま若くしたような感じである。
文学かエンタメか。
イ氏とまるで進路相談のような話をしていたのである。
「あなたのスタイルを通したらいいじゃないの」
田丸さんがいないせいか、饒舌の様子である。
なるほど、さては今まで、田丸さんに焼きもちを妬いていたのか、などと誤った悦に入ってみる。
「彼の作品、読んだことある?」
いきなり、わたしと初見で何も知らない中田さんに、話を振り込む。
あるわけがない。 書いてることすら知らない。
それをいきなり振られたら、驚くしかないのである。
パチクリのち、ニッコリ。
「今度ぜひ、読ませてください」
いわれたわたしは大困りである。 しどろヘドロに、はまる。
「こないだの、持ってきなさいよ」
イ氏が、ズブリと深みに押し込もうとする。
はあ、では今度。 ところで。
と、すぐさま話を逸らす。
「話なら、絶対に何か伝えたいテーマがあるはずだろう。そうじゃなきゃ、話なんて、書く必要ない」
ふと、三つ子の魂が頭をよぎる。
にゃにおうっ。
反発反骨天の邪鬼がいい加減に混ざったのがわたしの原点でもある。
いい加減さがいくつもの原点を増やしてゆき、どれがゼロゼロ点なのか、判然としなくなる。
原点がわからなくなるから、ところどころで足掛かりとなる釘を刺してゆき、そこに糸を引っ掛けて、引っ掛けずにはいられなくなってくるのである。
「太宰といっしょだよ」
イ氏が、笑う。
「芥川賞をくれくれと騒いで押し掛けて、なんだバカヤロウ、と悪口を叩きつけて」
太宰治は、芥川賞という作家ではない。 あきらかに、直木賞側の作家である。
「そうでしょう?」
だから、なになに「っぽく」書いたりしないでいいんだよ。
真似したり雰囲気を倣ったりして書くことも必要である。
しかしそれとは別に、書き手の「らしさ」ではなく、物語の「らしさ」をこそ、まず。
「千代田区のだっけ、あれはどうなったの」
千代田区じゃなくNHKのほうです。 ああそう、で? 選外でした。 次は?
次ですか、と。 年末にふたつのうちどちらかに出そうとは思っているが、どちらをどれで出すかは決めていないのである。
「じゃあ、次回きっと持っておいで」
イ氏が、にこやかにわたしを送り出す。 とりあえず、選んでみよう。
2010年09月05日(日) |
「シャーロック・ホームズ」と「さくら色 オカンの嫁入り」 |
「シャーロック・ホームズ」
をギンレイにて。 ロバート・ダウニー・Jr.、ジュード・ロウによる、異色のホームズ作品である。
従来の神経質でインテリなイメージを覆す作品である。
ブラック・ウッド卿が黒魔術によって世界を支配しようと目論む。
それをホームズとワトソンが阻止しようと奔走し、しかしその影には、宿命のライバルとなるモリアーティ教授の姿が。
肉体派、無鉄砲さ全快の新コンビである。
続編、もしくはシリーズ化をにらんでいるようである。
が。
どうにも、馴染めないのである。
イメージを覆すならば、思い切り振り切って然るべき、であり、ホームズ協会への遠慮があるのだろうからやむなしとはいえ、物足りなさ過ぎる。
いっそふたりとも、脳みそなど一切使わない、行き当たりばったりの幸運続きのみで、窮地は肉体による力任せで事件を解決してしまう、くらいでなければならない。
公開後、賛否両論あったことで意見は出されてあるので、それを探してみていただいて、参考にしてもらいたい。
さて。
咲乃月音著「さくら色 オカンの嫁入り」
大竹しのぶ、宮崎あおいによる映画化作品である。
毎朝、わたしは日比谷から有楽町への乗り換え途中に、スバル座の看板ポスターで見かけていたのである。
宮崎さんの
「むっちゃ、きれい」
とのシーンを観たことがあるのだが、あのひとコマだけを観んがために、劇場に行っても構わないと思いそうになるのであった。
その文庫化であり。 ふうん、と手に取る。
ある晩、べろんべろんに酔ったオカンが、若い男を拾って帰ってきた。
「この人と、結婚する」
母子ふたりきりで暮らしてきた娘の月子は、捨て男こと研ちゃんの、リーゼントに赤シャツでヘラヘラニカッな笑顔に、なかなか、当たり前だが馴染めず、認められず、三人の同居ははじまる。
「白無垢、着てもええかな?」
月子に恐る恐るたずねる母の陽子。
「試着には、絶対着いてきてぇな?」
月子はとある事故から、電車に乗って出かけることができないトラウマを抱えていた。
新しい、これからを。
そして。
やがてオカンは、ガンで長くて一年だと知らされる。
「百年一緒におられるほかのひとよりも、たとえ一年しか一緒におられんでも陽子さんがええんです!」
薄々と気付いていた捨て男は、「どうか別れるなんて言わんでくださいっ」と陽子に頼み込む。
そしてさくらの季節。
明後日には花嫁の娘になる月子。
限られた幸せな時間を、今の時間を繋いで、過ごしてゆこう、と月子は思う。
宝島社主催の「第三回日本ラブストーリー大賞」受賞作である。
第一回の「カフーを待ちわびて」に続いてわたしが読んだ二作品目である。
本当に、書籍化だけでなく映画化まで約束しているのを、あらためてこの出版不況のなか感心、そして大きなチャンスを与えてくれていることを思うのである。
来年の第七回の締切に向けて、何か書けるのであれば書いてみたいものである。
規定がやややさしくなり、二百枚からあればよく、それ以外はとくに厳しい規定はない。
ラブストーリーなるものは、なかなか難しいようで簡単なようで、雲を掴むような物語である。
つまり、絶えずひとの目に触れ続けている類いの物語ばかりであるから、それだけ「物差し」が溢れかえっているのである。
テレビドラマの不人気化に、その影響の一端が顕著にみられる。
ありふれた物語を、役者の人気で観せようとするしか効果的な手がなかったり、勿論、若者のテレビ離れという社会現象もある。
若者ではないテレビ世代を掴もうとしても、そういうわけにはゆかない。 その世代は、むしろビデオ(DVD)等の記録媒体で観る方が多く、視聴率という物差しでは計れないのである。
であるから、作り手側は迷走の一途を辿る。
そんな厳しいなかでも、ひとはやはり、物語を求めるのである。
自らブログを発信することも、そのひとつである。
記憶や記録を残したい、伝えたい、というのは、つまりそれが自分の物語なのである。
物書き人口が莫大となっているこの社会に、どれだけのわたしの物語を紡ぎだしてゆけるのか。
それでも、書き続けるしかないのである。
宮崎あおいさんに癒されながら、また筆をとる。
2010年09月03日(金) |
「乳と卵」と寅次郎の旅立つ、夏 |
徒然なるままに、と入力しようとして、「つれづ」のところで文字変換候補が現れ、日常の用語ではないがそれでもやはり古典や古文の教科書やらにのって学生の頃に一度は目にした耳にした言葉ならではの威厳というか尊厳というか、感心。
兼好なるお方のお言葉を借りて、これからの、不健康にほどよく苦味がブレンドされつくしたもろもろの、そのブレンド比をかいつまんで披露しようなど、身の程知らずの親知らずが露知らず。
疼く痛みは捨ておけず、捨ておけないから「えいや」と駄々こね、振り回す子どものおもちゃ。その行く末は、それはそれはサトリもさとれぬ傍若無人。
さて傍若無人なわたし、古墳氏と大分県を両脇に携え鬼に金棒、一石二鳥で投げた石は我が頭上、急転直下し一撃必中。
やるからには責任持ってわたしがみっちりきっちり、やらせていただきますやらねば気がすまないのですとやる気ほとばしる古墳氏の、それを満たしてあげねばならず、ならばと任せてそうろう。
かたや不慣れながら、やり方をそれなりに独自に紐解き、思いの外少しの量では手が空き口が開きギョロリと目を見開き、他にありませんかと大分県。
そうなれば本来わたしがやろう、それくらいやらねば立つ瀬がなくなる、いや背は高くないのでこれ以上なくなるとしたらそれは早くも老化が渡り廊下を駆け抜けるがごとく爽快、そうかい。
わたしのする分を譲っても些末に仕事はまだあるわけで、しかし些末はわたしの前に開いた穴や溝を埋めるには微小過ぎ、サラサラはらはらと散り落つるのみ。
埋まらぬ穴の暗闇にしばし身を寄せ沈思するも深海魚の気持ちにもなれず。「どんな按配ですか?」と古墳氏や大分県の進度をうかがいにたびたび浮上。
ちょうちんアンコウの提灯は、本物の提灯のように灯りがゆらゆら灯っているわけではない、とどこかで見たか聞いたか読んだかした記憶がともに浮上し、その記憶だけが波間にプカプカ漂う。
一方わたしは、別の波にさらわれて違う海溝へとまた沈下。
生物の源は海から生まれたならば、これはダーウィンの回帰をたどり、たどりたどったその先はきっとプランクトンよりもっと微小な、穴も割れ目も埋めて塞ぐには幾億ものわたしがひしめき押し合いへし合いしても、足りることがないのです。
そんな足りることがない思考を繰り返すことにも、やがて割り算の余りを、つまりは小数点なる無慈悲な非情な、そして毅然とした境目を前にして切り上げて、繰り上げ繰り上げようやく人並みの整数なわたしになった気になるのです。
整数とは、整った感を感じさせない見事な謙虚さを極めている存在のように思えて、その謙虚さにあやかろうとわたしはせめて古墳氏と大分県には謙虚に接しようとしてみるのです。
ちょっとだけこうしておいてくれますか、ちょっとだけでいいんですか、いえ出来ればちょっとではなくこれやあれやそれも。
任せてください、と頼もしくパソコンに向かう彼らの横顔を見てわたしはほっとし、わたしに向かうよりパソコンに向かう方が圧倒的に多いのは仕事がパソコンを使うのだから当たり前なのだけど。
だから当たり前で仕方がないその背中を意味なくパシンとひと叩きして、「いてっ」とこぼれた反射の、だから偽りも策も計算もない純粋な心と体からの言葉をすくいとり、「なん、俺に居てほしいのん?」とピタリと足を止めてみせる。
「いてもいいけど、仕事せんでええんですか」 「せなあかんけど、どうしても居てほしいっつうんなら、しゃあないやん」 「どうしてもなんて、誰がいったんですか」 「しいて言うなら、俺、やね」 「俺は思ってないんで、結構です」
なんやつれないなあ、と去ってゆく自分の背中は哀愁があるか愛しうかなぞとひとりごち。
とまあこんな感じなのでありました。
そして夜毎の眠たさは甚大でこれも変わらずの感じ。
徒然なるままにこれらを連れ々々、日々これ好日也か、えっちらおっちらゆくだけなのです。
さて。
川上未映子著「乳と卵」
かつてひととき話題になった芥川賞受賞作品であり作家である。
今年「ヘヴン」にて芸術撰奨文部科学大臣新人賞を獲得した気鋭の作家である。
本作の受賞インタビューだかなんだったかで、云っていた。
「言葉の持つリズムをこそ、優先させて書きました」
姉の巻子と姉の娘の緑子のふたりが、東京に暮らす妹のわたしのとこに泊りにくる。
目的は巻子の豊胸手術。 ホステスをしながら女手ひとつで緑子を育てる巻子は、緑子とあまりうまくいってなかった。
ある日を境に、緑子はピタリと口を閉ざし、ノートに筆談、という会話しかしなくなっていた。それは母子の間だけでなく誰とでも、である。
病ではない、自らの意志であった。
豊胸手術に熱心になる母。 生理がくること、女になりやがて母になり、母である巻子と同じになることを拒もうとする緑子。
それをただそばで目の前にし、何もできずに見て過ごして、そして大阪に帰ってゆく姉と姪を見送る夏の花火のような三日間。
この作品。
なめてかからず、ちらと頭の数行だけでもよいので読み噛ってみてもらいたい。
なるほど、これはまさに著者の求め表した言葉の音が捕えて放してくれなくなる。
癖になる。
実はこの作品、一昨日買い置いていた文庫を読み切ってしまったので、さて土曜に三省堂へ行くまで我慢するか、と仕事帰りの途中、いや矢先に、待ち受けていたのである。
ビルの足元にある書店が、いつもは目もくれず駅へと向かうのだが、やはり読むものがない不安に焦り、立ち寄ってみたのである。
「乳と卵」
おおっ、と手に取る。 私事ながら、誕生日はもう、目を瞑って拒もうとしても、目の前であった。
生まれた日にまさに読むべし、として眼前に現れたに違いない。
川上から川下へ、流るるように大海へ注ぐ。
わたしにとっての金原ひとみのような川上未映子であるように、追い掛けてみたく思うのである。
気付けば、寅次郎が四度目の旅の支度を整えている。
上がりカマチの丸めた背中に、わたしは親指を立てて送り出す。
「君が踊る、夏」
今月九月十一日から全国公開される同名映画を、脚本を元に木俣冬が小説化したものである。
主演・溝端淳平、木南晴夏、五十嵐隼士、主題歌を東方神起が歌っている。
高校を卒業し、地元高知を出て東京にゆくことを決めた新平と、一緒にゆこうと約束し会った恋人の香織。
しかし香織は新平との約束を守らず、新平ひとりを東京へゆかせる。
擦れ違ったままの四年が過ぎ、久しぶりの帰郷。
そして再会。
香織の妹さくらの難病を知る。
そして新平が忘れていた、さくらとの約束。
「一緒に、よさこいを踊ろうな!」
さくらの余命五年のうち四年が過ぎようとする最後の夏。
香織とさくらと、新平の夢と、「いちむじん」な一番暑い夏。
どうか是非、映画や映像で観ていただきたい。
……。
小説としての物語に、ではないところで感動して、危うく雄叫びをあげそうになったのである。
今年高知のよさこい祭りで優勝し、東京のスーパーよさこいでも特別賞をもらった高知の「ほにや」が全面協力したよさこいの、踊りや衣装は、冗談でもごますりでもなく、「美しく、小気味よく」、観るものを感動させる。
作品中に出てくるよさこいの曲「夢 羅針盤」は昨年の「ほにや」が実際に使用し、踊っていたものである。
よさこいの踊りに使用する曲は、チームごとに自由、なのである。ただし「よさこい節」の一節を、どこかに入れる。
であるから、ひとつとて同じ曲で踊っているチームはないのである。
であるから、観ているものは、聴いていてもまた、楽しいのである。
映画「眉山」のクライマックスで、見事な阿波おどりのシーンが撮られているが。
よさこいの踊りは、自由なだけに爽快にて壮麗。
映像として、いったいどれだけの魅力を撮ることができているのか、劇場で確かめたいところである。
しかしおそらく、上映されている映像よりも、生で観たあの有無をいわせない、高知や原宿で体感したものが脳裏で踊りまくり、それによって涙と鳥肌をおさえることができないようになってしまうだろう。
それもまた一興、かもしれない。
朝倉かすみ著「そんなはずない」
「肝、焼ける」に続く、待ちわびていた著者の新刊である。
信用金庫に勤め、付き合った過去の男は八人、年齢は三十路ちょっと前、結婚の約束を取り付け、両親に紹介する日も間近、父母妹の四人家族。
手堅く順調な日々を、そちなく送ってきたつもりの鳩子。
両親に会わせる当日、彼にドタキャンされ、さらに勤め先の信金が閉店。
「そんなはずない」
という事態が、鳩子を襲いはじめる。
妹の知り合いである午来という男と付き合いはじめ、途端に私立探偵が鳩子の身辺調査をしはじめる。
さらに過去の男たちと会うはめになり、私立探偵が実は過去の男のひとりだったり、警察のエリート官僚だったはずのひとりが実はただの交番勤務だったと今さら告白されたり。
結婚をドタキャンした男が妹の塔子と恋をしたり。
鳩子と午来の付き合いを塔子が挑戦的に、あからさまに邪魔してきたり。
鳩子の「そんなはずない」日々を駆け抜ける姿と心を描いた作品。
とかく、朝倉作品の女性主人公は、体温が、しかも火照っているくらいの体温が、読み手に伝わってくる。
まっすぐで、そつなく振る舞っていてもどこかそれでは納まりきらなくて、器用なようで不器用で。
割り切れない余りを、切り捨てることが出来ず、切り上げることも出来ず。
じゃあ四捨五入すれば、と言われても、四と五の境目にある何かが捨ておけない。
だから、
もがく。 あがく。 まよう。 果てる。 諦める。
だけどやっぱり向き合って、なんとか自分に折り合いをつけさせようと、またあがく。
「いじらしい」魅力。
同性からみると、応援したくなる、なぜか気になる。 異性からみると、かなり厄介で、手強い。
手強いからこそ、好奇心が湧いてくるということもあるかもしれない。
つまりは、男女問わずに何かしらの魅力を感じさせる人物像なのである。
しかし、ベッタリ張り付いてみていたい、というような強烈な、ともすれば一転飽きが早く来てしまいそうなものではなく。
そばを通りかかったなら、ひと目会ってゆかねば気持ち悪い、くらいの、ほどよさなのである。
次作をみかけたら、またおそらく、手にしてしまうだろう。
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