少年犯罪などが起きると、「 近頃の子供は・・・ 」 という話が多くなる。
では、「 近頃の大人 」 は、立派にやっているのだろうか。
人間の脳の中で、欲望や衝動をコントロールする機能を司っているのは、大脳皮質の前側に位置する 「 前頭前野 」 という部分が中心となる。
前頭前野は、脳の中で、もっとも成熟に時間を要する部分であり、十五歳から十八歳までの期間をかけて完成される。
だから、十八歳に達していない子供が、欲望や衝動のコントロールが苦手というのは、ある意味、やむをえないことでもあり、弁解の余地もある。
実際、手がつけられないほど衝動的で、攻撃的な子供が、年齢を重ねるとともに、まるで別人のように落ち着くことも珍しくない。
それは、少年法によって、子供が大人と同様には裁かれない大きな理由の一つとしても、よく知られている。
我々が小さい頃、子供は遊ぶもの、大人は働くものという認識が強かったように思うが、今の大人は、自分たちも遊びたいと思う意識が強いようだ。
子供たちと同じように人生を楽しもうと考えること自体は、けして悪いことではないし、それはまた、世の中が豊かになった証でもあるだろう。
しかしながら、法律の面でも、社会における役割においても、やはり子供と大人を同列にみなすことはできない。
子供と大人の違いがどこにあるのか、人によって解釈は違うだろうけれど、まず、「 自分の責任が果たせる 」 ということが、大人の義務だと思う。
いつまでも子供のようにありたいと願うのは自由だが、自己責任のとれない大人が増え、社会が混迷を極めるようでは、かなり問題がある。
人格障害の人の心理構造は、子供の心理構造に多々一致する。
自分たちさえよければそれでよく、悪いことは他人のせいにし、周囲の迷惑よりも、自分の都合を優先する。
本物の子供たちよりも、金と知恵と力を持った、怖いもの知らずで欲張りな 「 大人の姿をした子供 」 が、巷では急速に増殖している。
問題となるのは、子供は成熟していく途上にあるけれども、大人の場合は、そこで成長が止まっているというところである。
本人も周囲も、大人だと錯覚し、表面を取り繕う力や知恵を持ち、それなりに地位や権力を持っていたりもするので、影響が大きく、対処も難しい。
成人式や卒業式などで暴徒化する子供を指し、「 今の子供たちは我慢が足りない 」 などと言う人も多いが、いまの大人は我慢強いのだろうか。
大部分はそうなのかもしれないが、子供並か、あるいは、それ以下の我慢強さしか備わっていない大人も、少なくはないように感じる。
順番が守れない、待つことができない、黙って話を聞けないという大人を、見かけることが多い。
静粛にすべき場所で、ぺちゃくちゃと喋っているのも、電車の中で携帯電話を無遠慮に使っているのも、子供たちだけとは限らないようだ。
大人がこんな調子なのに、子供たちに秩序を説くのは無理な話だろう。
子供のように感情も行動もコントロールできない大人を蝕んでいるのが、他ならぬ 「 人格障害 」 という問題である。
さまざまなタイプの人格障害が、広く現代社会に浸透し、物質的には豊かになったはずの暮らしを、不愉快で、イライラするものにしてしまっている。
その一端が、責任をとれない大人、子供っぽい大人の急増にもみられる。
人格障害があると、あきらかに依存症になりやすく、テレビゲーム依存症、携帯依存症、ネット依存症など、子供が好む嗜癖にもハマりやすい。
もちろん、それは程度問題で、「 ほどほどに 」 楽しむには害もないのだが、そういった 「 ほどよさ 」 が自制できないのが、人格障害の特徴である。
実際、社会が極端に 「 若々しくあること 」 に重きを置く実情もある。
娘と同じ格好をし、姉妹のように話せるということを自慢する女性も多いが、そうした行動の裏には 「 現代社会の自己愛性 」 が潜んでいる。
老いを潔く受け入れず、あくまでも若いときのままの姿を保つことに大きな価値を置く社会には、自己愛型人格障害が発達する土壌があるのだ。
私なんぞも、そういう人に遭遇すると、「 いやー、お母さんでしたか。てっきり妹さんかと思いましたよ 」 などと、心にも無いことを言ってしまう癖がある。
どう見ても不自然なんだから、皮肉か、社交辞令だと理解してくれれば良いのだが・・・本気にされるといけないので、これからは慎もうと思っている。
| 2004年07月29日(木) |
尊敬されるということ |
人が集まると組織ができるが、組織もまた 「 人をつくる 」 ことがある。
似たような企業でも、「 社風の違い 」 が、一瞬で明暗を分けることもある。
日経ビジネス最新号は、「 尊敬される会社=CSRベストランキング100 」 を、特集記事として取り上げている。
これによると、1位はキャノン、2位がトヨタ自動車となっているが、別の海外メディアによる調査でも、両者は世界のCSRランクで上位に入っていた。
CSR ( Corporate Social Responsibility ) とは、企業の社会的責任を意味するが、ただ単に、慈善的な意味合いだけでは評価されない。
企業として、「 ビジネスの発展 」 と 「 社会・環境への配慮 」 の両立を目指し、高い収益性と、優れた社会貢献活動を実現しなければならないのだ。
儲けるだけではダメだが、「 儲かってないと、何も出来ない 」 のも事実であり、これからの企業に求められる姿を評価する最大の指標となっている。
個人も企業も、「 尊敬される、尊敬に値する 」 という概念を失うと、誤った方向に失速してしまう危険が大きい。
世の中には、「 自分さえよければいい 」 という考え方で成功している人や、会社があるかもしれないけれど、それは一時的なもので長続きはしない。
最近では、三菱自動車や、大手食品業界の一部による不祥事が、消費者の信頼を失墜させ、企業の存続を危ういものとした。
大手銀行の破綻や、吸収、合併というドタバタ劇も、市場経済の混乱も省みず、自分たちだけが 「 オイシイ思い 」 をしようとした末路だ。
政府の責任も無いとは言えないが、今日、経済を悪くした 「 諸悪の根源 」 は銀行にあり、その源を辿ると、彼らの 「 傲慢な自分勝手 」 に行き着く。
大手の企業が、その 「 尊敬度 」 ともいえるCSRに重きをおきだしたことは、狂い始めた社会の潮流に変革を求める兆しかもしれない。
子供が生まれたとき、大半の親は 「 将来、立派な人間になってほしい 」 と願い、一生懸命に働き、教育を受けさせ、育てていく。
その過程で習得した教養も、健康な肉体も、親や社会の協力があればこその賜物なのだが、その恩義を忘れ、歪んでしまう人間があまりにも多い。
その結果、「 自分さえよければいい 」 とか、「 自分は常に正しく、悪いことはすべて他人のせい 」 と考える輩が、おのずと増えていく。
人一倍エリート意識だけは高く、少しの躓きや、疎外感から、「 社会が悪い 」、「 国が悪い 」、「 家族の愛情が足りない 」 と、不平ばかり漏らす。
私は、いまは亡き両親に対して、「 自分が幸せになり、周囲の者も幸せにする 」 努力を怠らないことを、最大の親孝行だと考えている。
そのためには、「 尊敬される 」 まではいかなくとも、「 周囲に認められる 」 生き方を目指すことが必要だと思うし、そう心がけているつもりだ。
幸い、おかげさまで過去に大きな失敗もないし、他人を犠牲にしたり、踏み台にした遺恨もなく、無事に毎日を過ごしている。
けして金持ちではないが、大勢の旧友と安い酒を飲み、愚痴や悪口よりも、楽しい旅行の計画などを話し合う機会のほうが多い。
多額の寄付などできないが、自分も楽しめるスポーツ大会の催しなどで、軽い障害を持つ子供たちのアテンドをして、多少は社会貢献もできている。
現代人の多くは、「 オン 」 と 「 オフ 」 の切り替えが下手である。
外資系企業に長く勤めた私は、ビジネスの場面では 「 努力よりも結果 」 という概念を通してきた。
しかし、私生活では 「 お金 」 や 「 地位 」 や 「 モノ 」 などという結果よりも、生きてきた道のりに幸せを求めるようにしている。
いまの世の中は、誰かが 「 実績主義 」 を叫ぶと、仕事を離れた生活でも、財産にこだわり、私利、私欲ばかりが先行して、殺伐とした空気になる。
結果を求めるのも悪いことではないが、「 なりふりかまわず 」 ではなくて、そこには他人への配慮や、生き方の美学というものがなければ虚しい。
他人から尊敬される、一目おかれるように生きるというのは、単純にいえば 「 誇りを持って生きる 」 ということである。
その誇りも、他人への感謝を忘れ 「 自分はエリートなんだ 」 というような、マヌケな勘違いであってはならない。
先日もあるサイトで 「 自殺する者は、教養が高い 」 というような馬鹿げた統計を提示しているところがあったが、思い違いもはなはだしい。
管理人が自身の教養の高さと、自殺企図する性格を美化し、正当化しようとしているのだろうが、「 いったい、なんのための教養だ 」 と問いたい。
親が頑張って、教養と、健康な肉体を与えたのに、両方とも無駄にしようとする輩には、誇りのかけらもなく、社会に物申す資格など微塵もない。
誰だって不遇な時期もあるし、すべてがうまくはいかないものだ。
だからこそ、成功しているときも他人や周囲への感謝を忘れず、不遇な者には手を差し伸べることが重要であろう。
自分勝手な生き方でポジションを得た者は、中年以降、いざ自分が落ち目になると、誰も助けてくれないと失望し、現実から逃避しようとする。
そして 「 人間のクズ 」 ともいえる自殺者が増えていくのだが、そうならないようにするためにも、これからは 「 個人にもCSR 」 の考えが必要だ。
そしてなにより、他人からの評価よりも、「 自分に恥じない生き方 」 を選ぶことが大事で、それが 「 誇り高く、力強く生きる 」 ことに通じる。
今夏は猛暑のようで、各地で 「 観測史上初 」 なんて気温を記録している。
私自身も、ちょっと水分の摂り過ぎで、なんとなく体がだるい感じだ。
この暑さにも 「 プラス面 」 があって、夏の気温が一度上がると、だいたい5.000億円くらいの経済効果に結びつくらしい。
今年は例年に比べると、平均気温が 3.7度くらい暑くなる見通しなので、換算すると、1兆9.000億円規模の経済効果があるということになる。
エアコンはよく売れ、避暑地や、プールはどこも、行楽客で賑わっている。
きっと、ビールや、清涼飲料水などの売上も、伸びているのだろう。
先日、自分自身が一晩で飲んだ清涼飲料水、アルコールなどの量を計算すると、なんと 「 3リットル 」 も飲んだ日があって、ちょいと異常である。
喉が渇くという欲求よりも、体温を下げたいという本能と、爽やかさを求めるあまり、必要以上に 「 何かを飲む 」 という行動に駆り立てられる。
それで、食欲が減退する人は 「 夏バテ 」 になるし、飲み放題、食べ放題という人は、「 夏太り 」 になってしまう。
特に中高年の場合は、「 夏バテしないから健康だ 」 などと油断していると、「 糖尿 」 になってしまったり、思わぬ体調不良を招く恐れもある。
いまさら、スタイルなど気にする歳でもないが、病気になるのも厄介なので、なるべくなら健康で過ごしたいものだ。
体重は変わらないけどお腹が出たなんて人 ( えっ、私? ) も、この時期の食生活に注意を払うことが肝要である。
最近の若い女性には、痩せている人が多いようだ。
けして 「 痩せている 」 のが、「 スタイルが良い 」 のと同義語ではないが、おおかたの女性が理想としている体型を形にすると、「 痩せ型 」 になる。
小さい子供を連れた 「 若いお母さん 」 なども、スッキリと痩せているので、母性的な印象がなく、子供が傍に居なければ、とても母親には見えない。
現代社会における 「 スリムな体型を礼賛する風潮 」 は、成熟や、その先にある老化を拒否するという、「 ナルシスティックな美意識 」 を感じさせる。
老いを潔く受け入れるのではなく、あくまでも若いときのままの姿を保つことに大きな価値をおく社会は、理想郷のようで、どこか不自然な匂いもする。
ちょっと心配なのは、「 拒食症 」 などの摂食障害に陥っている人も多いのではないかという部分である。
一昔前までは、同じ 「 美人 」 や 「 可愛い娘 」 の中にも、ポッチャリとしたタイプや、スレンダーなタイプがあったはずである。
人それぞれ、体質というものがあるだろうし、全員が揃って同じ体型というのは、ちょっと 「 作り物のよう 」 で不気味な気さえする。
個性や価値観、考え方などの多様化が進む中で、逆に女性の体型については、求められる理想像が画一化してきているのかもしれない。
となると、本来の 「 その人にとってベストな、あるべき姿 」 を歪めて、無理をしている人も多いのではないだろうか。
もちろん、欲望のおもむくまま、無尽蔵に食べまくるということが善いわけではないし、食事に関して、ある程度の節制は必要でもある。
ただし、スタイルを気にするあまり、体重や、食べるという自然現象をコントロールしようとして、迷路にはまると 「 摂食障害 」 を起こしやすい。
また、「 強迫性人格障害 」 の合併症として、拒食症になる人も多い。
強迫性人格障害というのは、「 物事には決められた秩序があり、その通りにすることが最良である 」 と、病的に、深く信じ込んでいるタイプである。
食事や日常生活を楽しむことより、「 やり方を維持する 」 ことに注意やエネルギーが注がれ、細部にこだわりすぎて、肝心なことが疎かになりやすい。
女性の体型に、「 これがベスト 」 というものはない。
その人にとって無理なく健康で、自然な笑みが浮かぶような状態こそ最良であり、それはおそらく同じ人物でも、年齢や状態によって変化するものだ。
よほど、体型にこだわらなくてはならない、女優やモデルといった職業の人以外は、自分なりの 「 ベスト 」 があって良いはずである。
昨今の 「 スリム一辺倒 」 という価値観は、男性からみた異性の魅力というより、女性誌などが提唱する 「 女性の自己愛性 」 に依るところが大きい。
あまり太りすぎるのもどうかとは思うが、昨今のように、華奢な 「 枯れ枝 」 みたいな女性ばかりだと、なんだかつまらない気がする。
フランス人作家 カミュ の小説 『 異邦人 』 は、1942年に発表された。
いまもなお、この作品は、日本の中学生、高校生の間でよく読まれている。
皆様の中にも、「 そういえば、学生の頃に読んだ記憶がある 」 という方も多いだろうが、読むことにした理由と、読んだ季節までご記憶だろうか。
実は、この作品は、今ごろの時期 ( 7月〜8月 ) によく売れる。
たしかに、この作品に描かれる季節は、夏そのものである。
作品の舞台は灼熱のアルジェリアで、物語の主人公が殺人を犯した理由を尋ねられて、「 太陽がまぶしかったから 」 と答える有名な台詞も登場する。
しかし、それが理由で、夏場に売れ続けているわけではない。
売れるのは、「 夏休み読書感想文 」 の題材に選ばれやすいからである。
その理由は単純に、「 ページ数が少なくて、薄い 」 からだ。
内容は、けして単純なものでもないが、大長編の 『 風と共に去りぬ 』 やら、『 戦争と平和 』 やらに比べれば、かなり短い時間で読破できる。
読書感想文という課題に対し、本格的に取り組む志がある学生は少なく、たいていは 「 適当に済ませ、さっさと遊びに出掛けたい 」 者が大半だ。
きっと今も、日本中の学生の何人かは、この本を読んでいるだろう。
物語は、当時、フランスの植民地だったアルジェリアに住むサラリーマンである、ムルソーという男の数日間を描いたものだ。
養老院に住んでいた母親が亡くなり、会社を休んで、故人と親しかった人たちと葬儀に参加するのだが、遺体も見ようとせず、涙も流さない。
葬儀が終わると帰途につき、翌日には恋人とコメディ映画を観て、その夜は彼女と一夜をともにする。
彼女から結婚を申し込まれると、「 愛してはいないけれど、君が結婚を望むのなら、してもいいよ。愛なんて意味ないし 」 と、答える。
その後、ヤクザ者の知り合いに誘われて出掛けた先でトラブルに遭遇し、人を撃ち殺したことから警察に逮捕される。
裁判では弁解もせず淡々と罪を認め、裁判長に 「 動機 」 を尋ねられると、「 太陽がまぶしかったから 」 と、答える。
死刑判決が決まると、懺悔を勧める神父も追い返し、最後に 「 私の処刑に人が集まり、私に憎悪の叫びをあげることが、私の望みだ 」 と告げる。
ざっと説明すると、こんな物語で、ようするに 「 変人 」 の話である。
これを 「 人格障害者の転落の人生 」 と読めば、名作文学とは程遠いタダの三文小説に成り下がるし、読書感想文的にみても落第点に終わる。
教師が望むような感想文を書くためには、少し、読み方にも工夫が要る。
この作品で描かれているのは、「 社会にとけ込めない 」 という意味での 「 異邦人 」 の姿であり、そこを理解しているかどうかが問題となる。
無気力、無感動で、愛も友情も正義も信じないダメ主人公の人格を通じ、「 現代人の疎外 」 とか、「 人間の不条理性 」 を感じなければならない。
それはまさしく、20世紀のなかばに脚光を浴びた 「 実存主義 」 に関わる問題で、カミュはこの作品で 「 実存主義文学の第一人者 」 となった。
ちょっと中学生あたりでは難解なテーマなのだが、そのあたりを巧く 「 匂わせる 」 ようなことを書けば、そこそこに高得点がもらえるだろう。
さらっと読んで、ちょっと哲学的な理解をし、多少の工夫を加えた感想文を書けば、友人が 『 罪と罰 』 を読んでる最中に、プールへ出掛けられる。
もっと簡単に感想文を書けるのは、「 太宰 治 」 の作品などである。
なぜかというと、それは 「 作者が自殺しているから 」 だ。
作品の内容にはさほど触れず、「 いくら立派に、愛だの、友情だのと書いても、自殺する奴の書いた文章など、何の説得力も無い 」 と書けばよい。
実際、この世で一番大切だと、一般的に考えられている 「 愛 」 とか 「 命 」 といった倫理観を、「 自殺 」 という行為は全否定するものである。
他人には、「 命って大切なんだよ 」 とか、「 愛は最大の喜び 」 などと言いつつ、自分は生きる義務を放棄するのだから、こんな無責任な話はない。
世の中には、どんなに頑張っても、健康で長生きできない人もいる。
それでも、与えられた境遇の中で、あるいはその壁を乗り越えるため、血の滲む努力をしている人がいて、彼らより恵まれた者にまで、勇気を与える。
人生に無数の選択肢がある中で、「 自殺 」 という行為を選ぶということは、彼らの 「 命に対する情熱 」 に、つばを吐きかけるのと同じことだ。
そういう意味で、滅多に他人を中傷したり、攻撃したりすることはない私だが、自殺を企図する者だけは 「 人間として最低 」 だと断定する。
そんな人間が、愛だの友情だの語ったり、世間の不条理を問うてみたり、政治の不信を嘆いたところで、何の説得力があるというのか不明である。
生きようとせずに自殺を図ることは、人格障害者によくみられる 「 逃避 」 という行動の一種で、その行為自体が 「 人格の異常 」 を証明している。
人格に異常が認められる人物の、ましてや自分は関わらずに、他人にだけ努力を求め、自分はとっとと自殺する者の話を、なぜ聞く必要があるのか。
たしかに、太宰治にしても、三島由紀夫にしても、文学作品そのものの価値や力量は認めるが、自殺した時点で一切の 「 尊厳 」 は失われている。
立派なことを書いていても、所詮は 「 他人には求め、自分は責任を負わない 」 という人格とともに、すべては虚構の世界である。
筆力さえあれば、高質の文学も書けるだろうが、自分は、作者の背景も含めて内容を吟味する主義なので、太宰作品などは 「 下の下 」 である。
生きるということは、たしかに難しいこともあるけれど、それは 「 努力 」 などではなくて、「 当たり前のこと 」 である。
したがって、自殺をする愚か者というのは、「 根性がない 」 のではなくて、「 当たり前のことを、しようともしない者 」 ということになる。
自殺する者も最低だが、それを庇護したり、さらには礼賛する人間、仲間を増やそうとする人間は、社会にとって 「 有害このうえない存在 」 だと思う。
命の大切さならば 「 本当に命を大切に考えている人から 」、愛の尊さなら 「 本当に家族や周囲を愛している人から 」 学ぶのが一番である。
読書感想文の季節、これから何かを読もうとする若い人には、作品そのものの評価だけではなく、作者の人物像まで研究して、臨んでもらいたい。
物の見方というのは、視点を変えると異なることが多い。
感情に流されず、あらゆる角度から検証しないと、判断を誤りやすい。
拉致被害者の曽我さんが家族との再会を果たし、一家が来日した。
曽我さんが、北朝鮮の非道な国家犯罪に巻き込まれた被害者である事実は疑いようもなく、政府は惜しみなく援助の手を差し伸べるべきだろう。
失った歳月を取り戻すことなど不可能だが、不幸な境遇に置かれた半生を、これからの平和で幸福な日々により、少しでも埋められることを願う。
夫のジェンキンス氏は、体調を崩されているようで、しばらくは医療機関において治療を受けることになるらしい。
曽我さんと娘さんたちも、たえず付き添っているとのことだが、一家が再会するまでに要した時間や、不安だった状況を鑑みれば、無理もない話だ。
ご承知のように、彼らにはまだ 「 課題 」 が残っている。
ジェンキンス氏は、朝鮮戦争当時に米軍から離反し、いわゆる 「 脱走兵 」 となったばかりか、北朝鮮に亡命した経緯をもつ。
古い話だし、当時の状況を明確に記す証拠もないが、ジェンキンス氏自身が否定していないところをみると、どうやら事実のようである。
米軍に造反し、さらに北朝鮮で反米を煽る宣伝映画に出演したり、英語を教えるなどした行為は、アメリカ側からみれば、けして軽い罪ではない。
彼に対する処遇をどのようにするか、最終的な決定は下されていない。
日本とアメリカの間には 「 犯罪人引渡条約 」 が存在し、通常は犯罪者をかくまったり、身柄の引渡しに応じないわけにはいかない。
たとえば、日本人の犯罪者がアメリカに逃亡した場合など、速やかに身柄を引き渡してもらうことになっており、治安維持のためには必要な制度だ。
日本人の民意は、おそらく心情的に 「 ジェンキンス氏が善いか悪いかには興味なく、曽我さんのために一家を離さないでほしい 」 との思いが強い。
たしかに、曽我さんに 「 これ以上の悲しみを強いる 」 のは酷だし、なんとか穏便に 「 無罪放免 」 としてもらいたい気がする。
仮に有罪であったとしても、古い事件なので 「 時効 」 という判断や、刑の執行を猶予するなど、家族と共に暮らせる措置がとられることを願う。
日・米の友好関係を鑑みれば、これだけ多くの日本人が注目している中で、「 たった一人 」 を大目にみるくらい、なんでもないような気もする。
しかし、問題はそう簡単ではないのだ。
日本と違ってアメリカは、軍隊を持ち、「 今も戦争をやっている 」 国家だ。
戦列を離脱しようと、敵国に寝返ろうと厳罰に処さないなどという前例を認めることは、現在、そして将来にわたり、統率上の大きな問題となる。
そのため、ジェンキンス氏の 「 過去の犯罪 」 については重く考えており、その処遇については慎重にならざるをえない状況にある。
非武装中立を建前としてきた日本人の中には、「 脱走したジェンキンス氏も戦争の被害者 」 だという意識が、根底にあるような気がする。
軍隊を持つ国の、「 脱走兵 」 に対する意識はどのようなものか。
たとえば将来、日本にも軍隊ができ、どこかの国と戦争になったとする。
その戦争で、あなたの大切な人が命を落とし、その原因が 「 敵軍に寝返った仲間が重要な軍事機密を密告したせい 」 だとしたら、どう思うだろうか。
それでも、「 悪いのは戦争自体であって、敵軍に協力した彼も被害者だ 」 と評価し、敵軍が作った反日映画に出演する 「 彼 」 を庇えるだろうか。
戦争が嫌で離反したり、敵軍に捕らえられ捕虜となり、生きるために情報を漏らしたというのなら、いくらか弁解の余地もあるだろう。
しかし、仲間の生死に関わる 「 敵軍への協力 」 を、自ら進んで行ったとなれば、その行為に対して、怒りや憎悪の気持ちを抱く人も多いはずだ。
戦死者も、敵兵に撃たれて命を落とすより、味方の 「 裏切り 」 によって非業の死を遂げるほうが、あるいは無念に思うのではないだろうか。
老い衰え、現役の面影もないジェンキンス氏だが、朝鮮戦争で命を落とした米兵や、その遺族にとっては、けして許される存在ではない。
かつて、ユダヤ人を大量虐殺し、世界中に逃亡したナチスの残党を、いまも追いつづけるユダヤ人組織があるように、憎悪の灯は消えることがない。
もちろん、ジェンキンス氏を極刑にすることを望むわけではない。
ただ、アメリカ人の中にはそういう意識の人も多く、彼が犯した罪が 「 けして軽くはない 」 ということは、頭におく必要があるだろう。
その問題を度外視して、簡単に無罪の決定を下さないアメリカ側を責めたり、強引に交渉を進めるのは、あまりにも横暴で、歴史を知らなすぎる。
曽我さんとの間に子供もでき、仲むつまじく寄り添う姿からは 「 裏切り 」 の影も垣間見えないけれど、彼には 「 消せない過去 」 があるのだ。
おそらく、アメリカ側は寛大な処置を施してくれることと思うが、その背景を知らず 「 当然の結果 」 などと解釈するのは傲慢で、感謝が足りない。
| 2004年07月20日(火) |
人格障害時代からの脱皮 |
大学時代に 「 心理学 」 と出会ってから、学問に対する認識が変わった。
それは人間の本質に迫り、現代社会の理解にも欠くべからぬ視点である。
最近の世の中は、過去の常識では考えられなかった異常な事件が発生し、さらに悪いことに、それが、特別で例外的な出来事でもなくなりつつある。
また、ごく普通の人が暮らす毎日の生活においても、職場や、学校や、家庭や、街の中で、気持ちよく生きるということが、だんだん難しくなっている。
このような現象は、ある一部の不心得者による 「 個人レベルの問題 」 というよりも、「 社会全体に深く根ざした問題 」 のように感じる。
心理学に関する書物を読み返す度、そういう 「 人々を脅かすモノの正体 」 を解く鍵が、実は、人間の心の中にこそあるような気がしてならない。
時事問題を語るサイトも無数にあるが、自分としては個人的に興味の深い 「 心理学的な見地 」 から、今後、様々な問題を考えていきたいと思う。
と、改まって 「 妙な挨拶 」 から書き始めてみたが、過去に自分が書いてきたものも、特別に意識したわけではなかったが、そういうスタイルが多い。
個人と社会の関係を結びつけるものは、それぞれの人が有する 「 人格 」 であり、それぞれの人格は、それぞれの心理を映し出す鏡のようなものだ。
いま、社会には 「 人格障害 」、あるいは 「 人格障害的な行動様式、考え方 」 が急速に浸透拡大している。
犯罪や事件に限らず、ごく身近で常識の通用しないこと、不愉快な体験を強いられることの原因の大半が、「 人格障害の問題 」 に集約されている。
近年、人格障害に関する書物も多数出版されているが、その実態を知ることで、現代社会に起きている事件や現象も、納得がいくようになるだろう。
断っておくが、人格障害というのは、特別な一部の人間の問題ではない。
現代人の誰もが、「 程度の差 」 はあれ、抱えている問題である。
だから、人格障害を、誰か自分以外の 「 悪い奴 」 の問題だと考え、その人間だけを排除すればいいという考え方では、決して事態を改善できない。
むしろ、そういう考え ( 常に自分は絶対に正しく、こいつが悪い ) こそが 「 人格障害的な思考 」 であり、社会をますます混乱させてしまう。
現代人や、現代社会が内包している自分たち自身の問題として捉え、冷静に対処していくことが必要なのである。
人格障害にも様々なタイプがあるが、共通していえるのは 「 自分への強い執着 ( 自己愛 ) 」 と、「 社会への耐性の欠如 」 の二点である。
人格障害の人は、自分への強いこだわりを持っているので、それが過剰な自信になって現れたり、逆に、強いコンプレックスや自己否定にも現れる。
また、傷つきやすく、過剰に反応するので、こうした過敏性が社会での適応を悪くすると同時に、周囲へ戸惑いを与えることが多い。
これは、あきらかに 「 うつ病 」 と同じ症状である。
このところ、「 うつ病 」 の人が増えているが、比較的軽度の人は 「 精神病質 」 と位置付けるよりも、「 人格障害的傾向 」 と考えたほうが適切だろう。
また、人格障害の人の思考には 「 中間 」 がない。
職場や、家族や、恋人から、ほんの少しでも冷たい素振りを見せられただけで、捨てられるのなら死んだほうがマシだと考えて自殺企図する。
死ぬという究極の結論を出すまでの間には、無数の選択肢があるはずだが、中間はまったく目に入らないのである。
自分の命を人質にして、周囲から愛情と関心を得たいという行為に及ぶと、周囲も 「 腫れ物にさわる 」 ような圧迫感に怯える日々を過ごす。
そのため、人格障害者を抱える家族においては、それをまた原因として、自らも 「 うつ 」 に陥るなどして、人格障害の輪が広がることも多い。
中間の無い、人格障害的 「 両極端な思考 」 は、個人のサイトにも多い。
正常な大人なら、「 この人の、ここは良いが、ここは悪い 」 と、全体的に見渡した冷静な判断ができて当たり前なのだが、それができない。
何かのきっかけで、アメリカは悪い、小泉は悪いと感じたら、相手の長所には目をそむけ、徹底的に糾弾することしかできないのである。
これは、一部の粗悪なマスコミにも責任があるけれども、彼らはインパクトのある記事で部数を増やすことが目的であり、人格障害が理由ではない。
他人に対して全否定する思考は、育ててくれた恩など忘れて、小遣いをくれなかったら 「 お母ちゃんなんて死んじゃえ 」 と罵る幼児と同じ次元である。
そういうサイトが劣悪で、排除すべきだと言いたいのではない。
いまは、そういう 「 すべて自分の思い通りにならないと気が済まず、何かの対象に不満、攻撃を並べ立てる 」 という風潮が、はびこる時代なのだ。
誰かが戒めても、「 言論の自由 」 を盾にとり、悪びれることもなく自己愛的な主張を繰り返し、反省することなどない。
だいたい、人格障害の人は、賞賛に対しては子供のように無邪気に喜ぶが、欠点を指摘されたり非難を浴びると、憤慨するだけで耳を貸さない。
そういった風潮に慣れてしまった人が増えていくことで、ますます他人への配慮、周囲への気遣いなどは希薄になり、世間は殺伐さを増していく。
この状況を改めるためには、「 排除 」 ではなく、世の中全体の 「 価値観 」 自体を変えていく必要がある。
もっと、人間らしい心や良識といったものを大切にし、怒りは攻撃のためでなく、善意が踏みにじられる行為に向けられるべきであろう。
心に空虚を抱え、将来に希望を感じられない人を減らすよう、政府は努力しなければならないし、マスコミは刹那的なムードを演出するべきでない。
そういう 「 社会の潮流 」 というものは、他の誰でもない我々自身がつくりあげてきたものだから、変えていくこともできない話ではない。
ちょっと前まで、日本が海外に比べて優れているのは、実はそういう点だったというところも、誰もが反省しなければならないように思う。
言葉では表現し尽くせないモノの一つに、「 匂いの感覚 」 がある。
しかもそれが、幼い頃の曖昧な記憶ということになると、なおさら難しい。
子供の頃の私は、「 夏の夜風の匂い 」 が好きだった。
それは、芳香とか、悪臭とかっていう基準ではなく、アロマとか、フェロモンみたいに 「 五感に訴える刺激 」 でもない。
あの匂いが、どのような仕組みで生み出されるものか、大人にとっても心地よいものなのか、何もわからないし、調べる術も無い。
それどころか、「 こういう匂いである 」 と、詳細に伝えることもできない。
あるいは、読者の中に 「 あぁ、わかる、わかる 」 と賛同してくださる方々がいたとしても、それが私の記憶にある匂いと、同じだとは限らないだろう。
夏の夜、たとえば 「 天神祭り = 7月24日、25日 」 にでも出掛けようと、サンダルを引っ掛けながら玄関の戸を開ける。
時刻は七時過ぎ、アスファルトを溶かすような激しい昼間の日差しが去り、すっかり乾いた打ち水のあとから、微かに蜃気楼のような湯気を感じる。
そんな宵に、どんよりと、もわっと漂う、生温い湿気を含んだ風には、木陰の涼風のような爽快さもなく、ほとんど 「 風 」 というより 「 空気 」 に近い。
たぶん、それが気温を下げる効果をもたらしたり、滲む汗を止めたりすることもないのだろうが、「 何か楽しいことがある 」 予感を子供心に与える。
もちろん確認したわけでもないが、水蒸気の粒を顕微鏡でも覗けないぐらいに細かくした霧が、空気に混じって路上に漂っているようなイメージである。
ハッキリとは思い出せないが、ちょっと 「 甘い匂い 」 だったはずである。
これが海の近くなら潮風の香りだったり、田園なら草の香りだったりするのだろうが、この風は、そのような 「 発生源を特定できる代物 」 ではない。
どんな甘さかというと、「 気の抜けたサイダーを、限りなく水で薄めたような感じ 」 というのが、最も印象に近いように思う。
案外ひょっとすると、清涼飲料水の種類が豊富ではなかった頃の話なので、本当に、道往く人々が手にした瓶からの蒸発だった可能性もある。
だけど、家の近くでも、小学校の裏手でも、当時は至るところでその匂いを嗅いだし、人の居る気配を感じさせない場所にも、その匂いは存在した。
家族や友人と露店を巡ったり、適当に遊んで帰るだけの道程で、別に、女の子をナンパしたり、「 新しい出会い 」 を期待していたわけではない。
しかし、その風の匂いには、とてつもなく刺激的な誘惑が潜んでいるような幻想を抱かせ、目的地までの足取りを軽快にさせる作用があった。
ずっと後になって、女性との初体験をした晩や、アメリカでマリファナを体験したときも、もちろん興奮はしたけれど、そういうのとは異質である。
たしか、中学一年くらいのときに、仲の良い友人たちに 「 その風の話 」 をしたのだが、ほとんど全員が、その存在に気がついていたようだ。
目に見えるものではないだけに、他人に話したりするのが照れくさかったのだが、皆、密かに、その風に 「 ラリって、興奮していた 」 のが実態である。
思春期にありがちな 「 性的な衝動 」 とは違ったが、なんとなくそれと同じような 「 うしろめたさ 」 があり、家族には風の話をしなかった。
いまなら難なく 「 大人もその風を感じていたのか 」 ということを聞けるだろうが、すでに両親とも亡くなっているので、それは叶わない。
赤の他人に尋ねる方法もあるが、どんな風だったのかを説明するときに、あまりにも抽象的な解説しかできないので、それも難しい。
これを書いている今も、この内容をみて 「 なんのこっちゃ? 」 と首を傾げている人が大半なのではないだろうかという懸念を感じる。
さっぱりわからない人は、無理に理解しようとせず、「 ほお、昭和40年代の大阪には、変な風が吹いていたんだな 」 ぐらいで納得してもらいたい。
どうして、「 大人 ( 当時の ) も、その風に気づいていたか 」 を知りたいかというと、自分自身が大人になってから、感じたことがないからである。
子供の感性にしか響かない性質のモノなのか、あるいは、環境の変化によって風自体が消滅してしまったのか、その実態が知りたい。
あの頃は公害がピークの時代で、「 光化学スモック注意報 」 が出たら校庭に出てはいけないなど、ずいぶん今とは違う大気環境だったはずだ。
化学工場から排出された 「 いけない妄想をかきたてる有害物質 」 が大気に混じり、皆がそれを吸ってハイになっていたというのが真実なら笑える。
大人になり、臭覚が鈍くなったのか、環境が変わったのか、あるいは、「 この先に楽しい何かが待ってる 」 という期待が失せたのか、とても気になる。
人それぞれ性格は異なるもので、一億人いれば一億通りの性格がある。
だから、一つの民族を指し 「 ○○人は、こういう性格 」 などとはいえない。
ただし、生い立ちや環境が近ければ、どこかで思想的に共鳴しやすかったり、似たような価値観を持つことも否定はできない。
すべての物事に対し、まるで同じということはあり得ないが、同朋が部分的に同じ反応を示す可能性は高く、それを世間では 「 民族性 」 などという。
確固たる利害関係もないのに、宗教や思想の違いから 「 民族間の争い 」 が繰り返された歴史もあり、それは現在の中東問題にまで繋がっている。
では、「 日本人の民族性 」 とは、どのようなものなのだろうか。
そんなことが、ふと気になったりしたので、いろいろと考えてみた。
たとえば、「 武士道 」 というのは、日本独自の精神世界といえよう。
正義感が強く、周囲に嫉妬したりせず、ひたすらに自己の鍛練を己の責任において貫くという、まさに潔い生き方の象徴である。
目的が正しかったか、「 つかいどころ 」 が適切だったかは別として、太平洋戦争に敗れるまでは、それを美学として信奉する人が多かったようだ。
ただし、それは階級性社会から生み出された 「 侍 」 の生き方であり、戦うことを生業とする以外の人々には、あまり浸透していなかったはずだ。
すなわち、それを 「 日本古来のスタンダード 」 と考えるのは間違いだろう。
時代物の小説などを読むと、むしろその逆に、強い者の背後に隠れ 「 虎の威を借る狐 」 のような人物のほうが、圧倒的に多かったように感じる。
もちろん、町民や農民の中にも、天才的な英知と指導力を以って、民衆を革命へと導いたり、政局に多大な影響を与えたであろう人物が存在する。
だが、それもごく僅かな人々のことであって、「 民族性 」 とは認め難い。
もっとポピュラーに、日本人の多くが持ち合わせている共通項はないだろうかと、あれこれ考えた結果、以下のような結論に達した。
反論も多いとは思うが、私の考える 「 日本人の民族性 」 は、�� 順応性が高い、�� 安全を好む、�� 責任を避ける の三点に集約される。
まず、「 順応性が高い 」 という点だが、明治維新、敗戦といった価値観を根底から覆される出来事を、ほぼプラス面に乗り切ったことで証明される。
もう少し細かい事例を挙げると、ドルショック、オイルショックなどの危機に瀕しても、危なげなく対処してきた経緯がある。
次の 「 安全を好む 」 というのは、「 平和を好む 」 とは微妙に違う。
戦争を支持したほうが安全なら口を塞ぎ、安全が保障されていると知るや、やたら平和を偏重する姿は、国際的に 「 平和主義 」 とは認められない。
ここで、「 違う、私は殺されても平和を主張するぞ 」 などと反論するご立派な方がいるかもしれないが、それは 「 平均的日本人 」 とは思えない。
最後の 「 責任を避ける 」 というのは、前述の 二点 と交錯する要素であるが、「 中庸を好み、流行に乗りやすい 」 という傾向を指している。
中庸とは 「 安定した生活がなせる思想 」 であり、一部の人格障害者やら人生の破綻者を除けば、危険を冒してまでは体制の転覆を望んでいない。
また、「 流行に乗ることで、責任を免れようとする性格 」 は、ファッションや車選びをはじめとし、政治やビジネスの選択肢にも広く浸透している。
このあたりが、海外からみて 「 成功はしても、尊敬はされにくい 」 といった印象に、深く関わっているのではないかとも思う。
まだまだ他にも 「 民族性 」 を示す要素があるかもしれないが、ぱっと頭に浮かんだのはこれら三点で、他に思いついたら別の機会で述べてみたい。
米ソの冷戦終結は同時に、「 壮大な社会主義の実験が失敗に終わった 」 ことと同義語であり、いまさら 「 右か左か 」 で悩む時代でもなかろう。
しかしながら 『 いまさら 』 になって、極左的な発言をする輩が増えている。
そんなに自由主義に憤りを感じるのなら、どうして冷戦構造の時代に東側へ行かなかったのかとか、どうにも疑問である。
結局は、どうせ自由主義は守られるんだという安心の前提に立ち、体制にはむかって格好つけているだけの連中にしか見えない。
まぁ、そんな 「 チャラけた戯言 」 が堂々と語れる今の日本が、とっても幸せな国であり、それも一つの 「 民族性 」 として嘲笑されるのだろう。
最近のプロ野球の話題は、もっぱら 「 合併話 」 に終始している。
特にパリーグの各球団は、採算が合わずに経営難で喘いでいる。
セリーグに比べ人気の無いパリーグにあって、「 日本ハム・ファイターズ 」 だけは、今年に入ってファンの数が飛躍的に増えているという。
最大の理由は、いままでプロ野球チームの無かった北海道・札幌に本拠を移し、ご当地の野球ファンから支持を受けていることにある。
しかし、「 ただそれだけ 」 が理由ではない。
彼らは、他のどのチームよりもファンを大切にし、日ごろからファンとの交流をする機会を、かなり積極的に設けるようにしている。
パフォーマンスに長けた 「 新庄選手 」、大リーグ仕込みのファンサービスに精通した 「 ヒルマン監督 」 の加入も、その効果を挙げている。
アメリカの大リーグでは、たとえ重要な試合のある日でも、空いた時間帯を利用して、スター選手が地元の小学校などへ頻繁に訪問する。
選手が加入する際の契約書にも、「 それらの活動に対し、積極的に参加すること 」 が謳われており、ファンとの交流の重要性が認識されている。
特に小さい子供たちにとっては、憧れのプロ野球選手と間近に接したという記憶が、忘れえぬ思い出となって、印象に残るはずである。
将来において、彼らの多くが野球選手を目指す可能性は少ないだろうけれども、入場料を払って球場へと足を運んでくれる公算は大きい。
そうした地道な努力こそが、固定ファンの獲得と、地域における球団の存在価値を高めていることは、長い大リーグの歴史が証明している。
日本ハムの広報担当によると、彼らは過去に一度 「 大きな過ち 」 を犯したそうである。
東京ドームが完成した直後のこと、ドームを巨人軍と併用する日本ハムには、大勢の観客が押し寄せ、ファンの数も一気に増えたらしい。
それは、実際には 「 巨人戦のチケットが入手し難い 」 という状況の中で、新しくできたドームを観たい人たちの余波によるものだった。
日本ハムは、そういった 「 東京ドームの人気 」 を、「 自分たちのチームの人気 」 と勘違いし、なんらファン対策を講じることがなかった。
結果、翌年から入場者数は減り始め、低迷が続いたのである。
その失敗があるからこそ、彼らは今年の人気について、「 北海道に初めて誕生した野球チーム 」 だからという認識を、真摯に受け止めている。
そして、それが 「 日本ハム・ファイターズというチームの人気 」 として真価を認められるように、将来に向けて精力的に動き始めているのである。
握手会やサイン会をはじめ、地元の小学校への訪問、養護施設の子供たちを球場に招いたりと、どのチームよりもファンサービスは熱心だ。
そうした活動を続けることによって、球団だけではなく選手たちも、ファンを大切にし、「 ファンの期待を裏切らないプレー 」 を心がけるようになる。
なにかと暗い話が多いパリーグにあって、日本ハムによる球団を挙げての積極的な活動は、プロ野球の将来に一石を投じる話題となっている。
ご承知のように、今回の選挙では民主党が大きく議席を増やした。
椅子を奪われたのは自民党でなく、共産党である。
地域によって様々な事情もあるので単純な評価はできないが、この結果を 「 国民は自民党から、民主党に政権を委譲したい 」 のだとは考え難い。
現状の国民生活には不満だが、いまさら共産党、社民党には投票できないのが大半の民意であり、その票が民主党に流れたと考えるのが自然だ。
つまり、「 自民党が負けた 」 のは事実だが、「 民主党が勝った 」 というよりも、「 民主党が得をした 」 という結果ではないかと思う。
国民にとって善いか悪いかは別として、日本の政治をドラスティックに変えたいのなら、共産党が政権をとる以外には考えられないと思う。
民主であろうが公明であろうが、日米安保は継続するし、自衛隊は多国籍軍に入るし、いづれは税金が上がり、年金問題もさほど改善しない。
プロ野球チームと同じく、「 監督が代わったからといって、戦力が同じなら戦い方も順位もたいして変わらない 」 のである。
また、近い将来、仮に民主党が政権を執ったとしても、それぞれの議員の層が浅く、質に関しても問題の多いことは明白で、短命に終わるだろう。
私の周囲にも、民主党に期待している人は僅かにいるが、それを利用して 「 自民党にお灸をすえたい 」 と考えている人のほうが、圧倒的に多い。
こういうことを書くと、私が民主党の存在を否定しているように受け取られるかもしれないが、けしてそうではない。
政治の健全性からみても、二大政党が伯仲するのは望ましい姿であるし、過去の一党支配における問題点を克服できる要素も多いだろう。
ただ、現在において両党の力量は 「 大人と子供 」 ほどの差がある。
他人の揚げ足をとるだけではなく、まともな政策と、まともな議員を揃え、なにより 「 党内の結束 」 を固めることが必要である。
冒頭で日本ハムの話を書いたが、今回の選挙結果を彼らが 「 勘違い 」 するかどうかに、民主党の将来は大きく左右されるのではないだろうか。
最近の私は、忙しいのか、はたまた暇なのか、どっちとも言えない。
すごく忙しかったり、時間が空いたりと、不規則な生活が続いている。
また、さほど 「 飽き性 」 という性格でもないと思うのだが、いまやりたいことにエネルギーの大半を注ぐ性分なので、既存の作業が停滞している。
そのあたりは、うまく言えないが、「 これをやる暇があるんだったら、それぐらいはできるでしょ 」 てな具合で、傍目に理解し難いものかもしれない。
中途半端に停滞しているモノの一つに、この日記を含むホームページへの取り組みがあり、どうしたものかと考えては、しきりに溜息をついている。
正直なところ、けして書けないわけでもないが、「 書いてどうする? 」 という初歩的な戸惑いにも囚われて、なんとなく書く気が起こらないのである。
ホームページについては、ちょいと思うところがあって、プロバイダーを変えようと思っているので、その際に一新したいが、これも未定である。
さして取り柄もない駄文だが、今までは、あまり悩まないでスラスラ書けるというのが私の特技であり、そのおかげで今日まで続けることができた。
ところが最近は、日記ばかりかメールの返信にも詰まってしまって、ご迷惑というか、相手に対して無礼な話で、どうにも申し訳なく思う。
言い訳になってしまうが、書けない理由の一つは 「 小説を書く 」 という作業を始めたことに起因しているような気がする。
フィクションの創作と、虚構でない実生活を綴る作業を並行して行うことには違和感があり、なんだか変な文章で返信してしまいそうなのだ。
慣れないことを始めたせいなので、いづれは落ち着いて元の状態に戻るだろうから、いましばらくはご容赦いただきたいと思う。
たぶん、もう一つ、この日記を書くための情熱が薄れている原因がある。
それは、この日記が属する 「 カテゴリー 」 の問題だと思われる。
私の日記は、レンタル日記サイト 『 エンピツ 』 の一角をお借りして書いているわけだが、登録時には 「 カテゴリー 」 を選択しなければならない。
当初は、「 時事/社会 」 というジャンルを選んでいたのだが、色々あって 「 静かな日常 」 というジャンルに鞍替えした。
それから、なんとなく書くテーマや文体の選び方が曖昧になってしまい、いまいち書く気がしなくなってきたということに、最近、気がつきはじめた。
時事問題を語るほどの見識もないし、ご立派な人間でもないのだけれど、やっぱりこちらのほうが書き慣れてはいるようだ。
そういうわけで、もう一度 「 時事/社会 」 にジャンルを戻し、稚拙ながら、頭や心に浮かんだこと、思ったことを書いてみようと思う。
先日行われた選挙の結果について、意見を聞きたいというメールも頂いているし、当面は書く内容にも事欠かないだろう。
そんな複雑な話をメールで返信するのも一苦労だし、そういう 「 回りくどい話 」 は、かえって日記の場を借りたほうが伝えやすいかもしれない。
てなわけで、次回からは 「 時事/社会 」 版の 『 今夜の気分 』 を書いてみますから、興味のある方は読んでみてくださいませ。
ときおり 「 最近、ぜんぜん書いてないね 」 というメールをいただく。
もちろん、この日記のことである。
たしかに、日記の更新は疎かになっているのだが、私自身は以前にも増して、「 モノを書く 」 ことに費やす時間は増えている。
実は、昔から興味のあったことに挑戦しようと思って、空いた時間をできるだけ、ある作業に集中させているのだ。
それは、「 小説を書く 」 という試みである。
大枠のプロットは固まっており、毎日少しづつだが、せっせと、コツコツと、書き溜めている次第で、たぶん頓挫せずに校了できると思う。
それで食べていけるなどとは夢にも思っていないが、なにか具体的な目標がないと励みにならないので、雑誌社の賞にも応募するつもりである。
日記のような 「 ノンフィクション 」 と異なり、物語を創造するというのは別の資質が必要で、書き始めるまでにはかなりの戸惑いがあった。
特に、「 文学的表現 」 をどのように消化するかという点においては、相当に試行錯誤を重ねることとなった。
たとえば、「 暗い夜道 」 という情景を描写するのに、「 微かな月光が漆黒の云々・・・ 」 といった、長ったらしく回りクドい表現は、どうも苦手である。
照れくさいし、どうにも自分の柄やスタイルに反している。
そのため、文学的には稚拙でも、「 同じ文字量なら、多くのことを語れる 」 シンプルでドラマチックな構成を心がけるようにした。
当初、長編の 「 グランドホテル形式 = 多くの登場人物が交錯する物語 」 を書こうと思い立ったのだが、これは収拾をつけるのが難しい。
そこで、数編の短編を書いて、それぞれが部分的に繋がっており、すべてを通して読むと一つの長編として成立するという手法を、今回は試している。
一応、ジャンルとしては 「 ミステリー 」 に属する内容だが、辛気臭い話ではツマラナイので、エンターティメント性を重視した作風にしたつもりだ。
まだまだ完成までは時間を要するが、「 新しい趣味 」 として、けっこう面白がって取り組んでいる。
いつになるやらわからないし、本当にどこかへ寄稿するかどうかも定かではないが、誰よりも自分自身が完成を待ち望んでいるような状況にある。
もし、完成したら、最初に誰に読んでもらおうか。
たとえば、この日記を通じて知り合った方の中に、読書好きで、それぞれの作品ごとの感想を紹介するサイトを運営している人がいる。
完成したら、ぜひ、その方には読んでいただきたいと思っている。
日記の更新が滞っているので、体調でも悪いのだろうかと心配され、電話やメールをくださる方もいるが、いたって健康な日々を過ごしている。
同じ 「 書く作業 」 をする中で、別のコトに興味が偏っているので、こちらの更新に時間が割けないというのが、近況なのでご安心を。
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