| 2004年08月31日(火) |
一生懸命に羅列する人々 |
昨日、「 裏 巨人 」 を書いたのには 「 裏 」 がある。
秘密はホームページに隠されているので、興味のある方は探してください。
マイケル・ムーアという監督の作品 『 華氏911 』 が話題になっているが、案外と、実際に観た人の感想は芳しくないようだ。
この映画はドキュメンタリーの様相を呈しており、たしかに、そこで使われている映像は、すべて 「 本物 」 で、脚本も演出も芝居もない。
劇場に足を運んだ人の大半は、フィクションを排除した 「 真実の映像 」 を観れることに期待し、上映を心待ちにしていた。
本編が始まり、「 ある意味においては 」 その通りに映像が展開する。
ところが、観終わった感想は 「 どうもイマイチ 」 なのである。
マイケル・ムーア氏が 「 アンチ・ブッシュ 」 であることは万人の知るところであり、この作品にかぎらず、著作やインタビューの随所に現れている。
たしかに虚飾のない 「 真実の映像 」 ではある。
しかし、特定の人物に対し悪意のある者が、都合のよい部分だけをつなぎ合わせると、そこには 「 対象への歪んだ印象 」 が生じるのも事実なのだ。
ドキュメンタリーといえども、相手の良いところはすべて隠して、悪い印象を与える部分だけを編集すれば、真実の姿など伝わるはずがない。
観る者が観れば 「 まったくの子供だまし 」 であり、本来のドキュメンタリー作品が持つ 「 真実の迫力 」 などは感じられないという意見が多い。
一般的に、「 数字は嘘をつかない 」 とよく言われる。
ビジネスの世界においては、具体的な数字を織り込んだ報告書類が評価を受け、抽象的な 「 頑張ります 」 みたいな書類は破り捨てられる。
しかし、数字を並べればそれでよいというものでもない。
数字の中にも、自分にとって都合の良いデータから抽出したもの、全体的な傾向とは異なる数字というものが、潜んでいるケースは多い。
もちろん、すべて 「 観る者が観ればわかる 」 トリックにすぎない。
大事なのは、「 物事の本質がどうなっているのか 」 という部分にあり、数字や映像は、それを裏付ける資料の 「 一部 」 にすぎないということだ。
当然、具体的な数字や事例をまったく示さないというのも抽象的すぎて問題はあるが、「 断片的な数字に頼る意見 」 は誤った結論を導く。
マイケル・ムーア氏の映画のように 「 最初に悪者を決め付ける 」 のではなく、最大の問題点を見極め、それから原因を追求していくべきだろう。
幸いなことに世の中の大部分の人は、画策された映像や、偏狭的な思考に基づく偏った数字の 「 羅列 」 によって、思考を動かされることがない。
そんな 「 木を見て、森見ず 」 のような論理が、罷り通ることはないのだ。
最近、「 格付け機関による、日本の銀行への評価 」 が上がったことを根拠として、多くの国民が抱える銀行への批判を否定する意見がある。
そこへ達するまでの経緯として、不良債権が減ってきた事実や、銀行サイドの 「 努力 」 というものに対しては、具体的に数字で解説がなされている。
しかしながら、「 それがどうした? 」 と思う人が大半だろう。
不良債権が減少したのは、銀行の努力というよりも 「 政府の指導 」 に基づいた結果であり、「 やって当たり前 」 の事柄というのは周知の事実だ。
それよりも、「 どうして不良債権が、そんなに多かったの? 」 ということのほうが大問題で、稚拙な経営能力、洞察力の甘さに関心が向くばかりだ。
格付けが上がったことについても、銀行そのものへの評価より、日本経済の実態が 「 最悪の状態よりは上向いてきた 」 ことに要因がある。
また、現時点で日本の銀行に、誰も 「 努力 」 など求めてはいない。
すでに彼らは 「 期待はずれ 」 だったわけで、今後は政府の指導による 「 不良債権の縮小 」 と、「 銀行員のリストラ 」 を行うだけの存在である。
いくら彼らの側に立って、銀行の価値や、銀行員のエリート性を主張したところで、「 政府が公金を投入した 」 という事実は覆らない。
東京三菱など比較的堅調に事業を続けているところは別として、自分勝手な経営のツケを税金で払わされた怒りを、国民が忘れるはずはないのだ。
もちろん、日本の銀行を擁護する意見を展開するのも自由である。
ただし、いくら庇ったところで 「 過去の罪悪 」 が消えるわけではない。
現時点で多少上向きになったとはいえ、日本経済を悪化させた元凶であり、公的資金によってなんとか潰れずにいる状態で、立派な口は叩けまい。
過去において、国民のお金を勝ち目のないギャンブルに注ぎ込み、地価を高騰させたり、また下落させた 「 放蕩息子 」 に甘いのは身内だけだ。
国民はみんな、口には出さなくても、怒っているのである。
それでもなお、体験のないマスコミの 「 お下がり 」 のような情報を引っ張り出してきたり、無意味な数字を羅列するのは、愚の骨頂であろう。
あるいは、彼らのエリート意識による 「 あくまでも自分中心で、愚民どもはどうなってもいい 」 という感覚が、そうさせているのかもしれない。
実際のところ、銀行員で 「 うつ病 」 や、精神障害、人格障害に陥っている人間が、私の周囲にもウジャウジャいる。
社会からは疎まれ、組織内ではリストラや左遷の嵐に遭い、自分たちは優秀だというエリート意識が保てなくなったことが、最大の原因のようだ。
こんな風に書くと、「 じゃあ、数字で示してください 」 と反論するのだろうが、そんなことをしても意味がないし、しないのは 「 武士の情け 」 である。
最近は、もっぱら 「 格闘技ブーム 」 である。
ちょっと目を離すと、続々と新しいヒーローが現れては消えていく。
この 「 格闘技ブーム 」 というのは、我々が子供の頃に体験した 「 プロレスブーム 」 とは、少し趣が違うような気がする。
昔のプロレスというのは、展開にシナリオめいた部分があって、毎回、一つのドラマを観ているかのような試合が多かった。
血まみれで惨敗したはずのレスラーが、次の試合では元気に、無傷とも思える姿で登場したり、時間切れ寸前で人気レスラーが逆転勝ちを収める。
なんとも 「 インチキ臭い 」 が、真偽の程は定かでなく、ぱっくり割れた傷口でも一週間で完治する 「 奇跡の治癒力 」 を備えていたのかもしれない。
それを 「 八百長 」 と呼ぶ者もいたが、そこにカモフラージュは乏しく、大胆かつあからさまで陰湿なイメージが無く、「 不正 」 という感じではなかった。
K1 など、いまの格闘技ブームでは、そういった 「 脚本 」 の存在を感じさせない 「 本気の真剣勝負 」 という印象が強い。
普通に考えれば、それは格闘技として 「 当たり前のこと 」 であって、演出のない真剣勝負だからこそ、スポーツとしての醍醐味もあるのだろう。
あまり 「 そっち系の話 」 に詳しくないのだが、プロレスの世界も、ある時期に 「 真剣勝負派 」 の団体が登場し、昔とは違ってきたらしい。
しかしながら、どちらかというと 「 芝居を観る 」 ような感覚で格闘技を楽しんでいた層もあり、そういう人は旧態のプロレスを好むようだ。
いわゆる旧態のプロレスでは、必ず 「 悪役レスラー 」 という存在があり、滅多に勝てないのだけれど、多くのファンに愛されていたのである。
プロ野球に話を移すが、先般より懸案事項となっていた 「 近鉄、オリックスの合併問題 」 は、なかなか最終結論が出ないで混迷している。
それは両球団の問題から、「 1リーグ制への転換 」 なのか、「 2リーグ制の存続 」 かという議論にまで発展し、プロ野球界全体の課題となった。
しかも、最新の記事によると、「 巨人がパリーグに移籍する 」 という噂まで出ているらしく、ますます先行きが読めない状態に陥っている。
これは、お客の入る巨人戦で収益を確保しているセリーグの各球団にとって、いわば死活問題となる可能性もあり、実現すれば大騒ぎになるだろう。
巨人にしてみれば、どっちでもいいような話かもしれないが、あおりを食う側にとっては、まさに天地がひっくり返るような問題である。
巨人が 「 球界の盟主 」 を名乗るのなら、パリーグの危機を救う代償としてセリーグを見捨てるというのは、あまり誉められた方策とはいえない。
ここは一つ、セリーグ、パリーグ双方にとって、どちらのグループも救われる手立てを講じてもらうしかあるまい。
たとえば、「 セリーグにも、パリーグにも “ 巨人 ” があるよ 」 という方法は考えられないだろうか。
球団名はどちらも、「 読売巨人軍 = ジャイアンツ 」 である。
ただし、まったく同じでは区別がつかないので、少し工夫を加える。
セリーグの “ 巨人 ” は今まで通りの “ 巨人 ” で、ユニフォームも、球場も、応援歌も、マスコットも、すべて従来通りとする。
で、大衆はこのチームを 「 表 巨人 」 という愛称で呼ぶのだ。
パリーグの方の “ 巨人 ” は、ユニフォームのベースカラーを 「 黒 」 として、球場は別に設け、応援歌、マスコットも別途につくる。
特徴は、「 表 巨人 」 がフェアで紳士的な球団姿勢を貫くのに対して、反則ギリギリのラフプレイや、口汚い野次を売り物とする。
つまり、これが 「 裏 巨人 」 の誕生である。
当然、「 表 巨人 」 の4番バッターは 「 高橋由伸 」 で、「 裏 巨人 」 の4番は 「 清原和博 」 である。
他に、球界全体から 「 ガラの悪い選手 」、「 素行の悪い選手 」、「 顔の怖い選手 」 などを集め、大リーグからも適役を招聘する。
応援歌は 「 ヘビメタ調 」 で、マスコットは 「 ジャビット小僧 ( 目つきの悪いジャビットが、口から血を垂らしている ) 」 にする。
毎試合、審判に暴言を吐き、テレビカメラに中指を立て、ラッキーセブンになると必ず、名物の 「 乱闘騒ぎ 」 を起こすのだ。
オールスターは、正義のヒーローである 「 表 巨人 の選手たち 」 が、悪役の 「 裏 巨人 の選手たち 」 と対決するとあって、当然、人気爆発である。
そんなこと 「 子供に悪影響を与えるので、世間が許すものか 」 とお怒りの声も聞こえてきそうだが、その点は大丈夫である。
なぜなら、「 裏 巨人 は、絶対に優勝しない 」 仕組みだからである。
万が一、優勝しそうな気配が現れたりすれば、審判の裁量で 「 反則負け 」 を宣したら片がつくし、なんとでも調整はできる。
お茶の間はそれを観て、「 ね、正義は勝って悪は滅びるでしょ 」 と、お子様を正しい道に導いてやれるので、むしろ情操教育には効果的だ。
きっと 「 裏 巨人 」 の各選手は、悪役好きのファンから絶大な支持を受け、立ち向かうパリーグの各選手は、一躍子供たちのヒーローとなれるだろう。
問題点としては、「 裏 巨人 」 の選手の子供が学校でいじめられたり、監督の家の塀に落書きされたりすることも考えられるが、些細な規模だろう。
もっと懸念すべき事柄は、「 すぐに飽きられてしまう 」 ことのほうだ。
きっと最初のうちは、物珍しさも手伝ってブームになるだろうけど、選手は悪役修行に明け暮れてプレーが上達しないし、クズ集団に陥っていく。
荒唐無稽でナンセンスな話だが、それでも、「 プロ野球を面白くする 」 という意味では、ちょっとした刺激になるのではないか。
どうせ 「 表 巨人 」 は、金にモノを言わせて獲得した選手が余ってるようだし、話題の 「 ライブドア 」 に 「 裏 」 を任せてみるという手もある。
| 2004年08月29日(日) |
ボーダーーレスな時代の共通語 |
たまに、「 最近は横文字が多くて、ついていけないよ 」 という人がいる。
たしかに、昔に比べると 「 横文字 」 が会話に登場する場面は多いだろう。
中には 「 日本語でいいじゃないか 」 と思える語句もあり、英語に言い換える意図が明確でなく、簡単な話を複雑に誤魔化しているケースも目立つ。
野党候補が 「 国民のベネフィットをプライオリティナンバーワンに考えるのが、今回のマニフェストのメインポリシーです 」 なんてことを言う。
それを 「 国民の利益を優先順位の筆頭に掲げることが、わが政党による公約の骨子です 」 と日本語で言っても、まったく意味は同じである。
外国人を相手に語るならまだしも、田舎の爺さん、婆さんらにまで横文字を連呼するのは、話をややこしくするだけの愚行であろう。
そこには、「 中身が薄くて底が浅い 」 ことを誤魔化すために、せめて表現方法だけでも難解にしちゃえという魂胆も、微妙に見え隠れしているようだ。
とはいえ、これからの 「 新しい日本語 」、あるいは外来語と呼ばれる言葉の文化に、横文字が増えていくことは確実である。
ジェット旅客機が行き来し、地球は昔より 「 狭く 」 なった。
欧米的な 「 英語は世界の共通語 」 という考え方には異論もあるが、国際交流の狭間において 「 共通語 」 の必要な場面が多くなったことも事実だ。
言葉のすべてが、それぞれの国の言語に正しく翻訳されるとはかぎらず、たとえば、日本語の 「 義理 」 なんて言葉を英語に訳すのは難しい。
このような、それぞれの国や地域によって異なる 「 倫理観 」 や、精神的な感覚、人情の機微などは、言語が変われば捉え方も違ってくる。
近頃、スーパーや百貨店、商店、ホテルやレストランなどの店頭で、「 当社は 『 ISO 14001 』 を取得しました 」 などというポスターをよく見かける。
この 『 ISO 』 というのは、国際標準化機構 ( International Organization for Standardization ) の略称である。
本部はスイスのジュネーブにあり、「 民間自身が、民間のために民間規格を作る機関 」 として、1947年に設立されたものだ。
各国の代表的標準化機関から成る国際機関で、通産省の工業技術院内に設置されている 「 日本工業標準調査会 ( JISC ) 」 が、それにあたる。
設立の主目的は、「 商品とサービスの、国際的な規格の標準化 」 にある。
各国には、商品やサービスに関する、それぞれの 「 国家規格 」 がある。
1995 ( 平成7 ) 年には、WTO ( 世界貿易機関 ) から、WBT/TBT協定( 貿易の技術的障害に関する協定 )が発効された。、
これによると、WTO加盟国が国家規格 ( たとえば日本では JIS ) を制定する際には、ISOなどの国際規格を基礎とすることとされている。
それぞれの国の 「 国家規格 」 を ISO などの 「 国際規格 」 に整合化させることは、規格の 「 標準化 」 につながる。
規格が標準化することは、貿易障壁を排除した 「 フェアな貿易システム 」 に寄与することとなるので、国際交流には欠かせない制度なのである。
たとえば ISO の中で 『 ISO 9001 』 は、「 品質マネジメントの国際規格 」 として、製造業、サービス業などに幅広く浸透している。
また 『 ISO 14001 』 では、「 環境マネジメントシステムを規定した国際規格 」 が定められており、この規格はあらゆる業種に適用可能である。
このように、「 商品 」 とか 「 サービス 」 とか 「 環境 」 に対して、国際的に標準化された規格を定めるにあたっては、「 共通語 」 も必要となる。
日本人しか理解できないような、たとえば 「 真面目にやる 」 とか 「 ほんのり甘い 」 なんていう形容では、意味が正しく伝わらない危険も多い。
そこで、規格を定めるにあたって使用される言語も 「 比較的、世界中に浸透しているであろう英語 」 による表現が多くなっているのである。
たとえば、「 コンプライアンス [ compliance ] 」 なんて言葉が、最近は流行語のように使われ始めたが、これも ISO に端を発している。
これは 「 〜を遵守する 」 という英語表現だが、日本語でいう 「 守る 」 とか 「 履行する 」 という表現では、意味合いが間違って伝わる可能性もある。
言葉というのは、できるだけ短い語句で 「 正確に、まっすぐに届く 」 ことが重要なので、何人にも同じ理解を与えるためには 「 共通語 」 が要る。
そんなわけで、横文字文化が氾濫してきた背景は、「 日本の欧米化 」 というよりも、「 世界のボーダーレス化 」 の影響が大きいと思われる。
ただし、むやみやたらに濫用するのではなく、日本独自の言葉の文化というものも大切にしていくことが望ましく、正しい姿であることは間違いない。
私は過去において誰も殺さなかったし、終生、これからもそうだろう。
この日記をご覧の皆様も、おそらくは同じはずだ。
それは改めて述べるまでもない 「 当たり前のこと 」 と思われるかもしれないが、世の中では日常的に殺人事件や、殺戮が繰り返されている。
無論、営利を目的とした強盗殺人などや、怨恨で人を殺すことについては、個人の 「 良識 」、「 倫理観 」 に大きな問題がある。
祖国が戦争に参加し、徴兵、あるいは志願兵といった形で戦闘に加わり、敵兵を討つ場合は、個人の良識より 「 環境 」 に左右されるだろう。
では 「 テロリズムによる殺人 」 では、何が殺意の原因となるのか。
諸説あるだろうが、私はその原因を 「 貧困 」 にあると考える。
経済的に豊かな国でも、「 テロ集団 」 は発生する。
たとえば、日本中を震撼させた 「 オウム真理教 」 などは、けして経済的な貧困や、信者の窮状から派生したものではない。
彼らの 「 貧困 」 は、発想や、自主性、判断力、倫理観、見識などの部分に見受けられるが、経済的な窮状があったようには考えにくい。
だが、そういった集団は、国家的、民族的なテロ組織までは成長しない。
国家や民族が結束してテロリズムに向かう背景には、もっと飢餓的で、絶望的な貧困というものが常に介在し、それが攻撃性を放つのである。
ブッシュ大統領はテロに対し、「 文明社会への攻撃 」 だと糾弾した。
ここでいう 「 文明社会 」 とは、けして物質的に豊かである国々だけを指した言葉ではなく、知的で、精神的にも成熟した社会を表したものだろう。
しかしながら、「 文明 」 というものは経済の発展と共に栄えるのが必定であり、経済で遅れをとることは、すなわち文明の未発達につながる。
だからこれは 「 正直だが、不謹慎な発言 」 であり、ブッシュ政権に批判的な人々が、なぜ、この発言に言及しないのか、未だに不明である。
きっと彼らは、経済後進国の人々が侮辱されることに関心などなく、ただ単に 「 強大なもの 」 にケチをつけたいだけなので、見過ごしているのだろう。
早い話が、テロリズムとは 「 貧乏人による金持ちへの嫌がらせ 」 であり、意外とその構造は、シンプルなものではないかと思う。
もちろん当初は、宗教的な対立であったり、イデオロギーの問題だったり、略奪された土地の奪還など、ご立派な意思の存在があるだろう。
一般的な我々の日常生活でも、気に食わない奴がいたり、意見の相違が生じる相手はいるだろうが、それが現実の 「 殺意 」 にまでは至らない。
たとえ殺意に至ったとしても、刑罰やら、自分自身の将来を思うと 「 実行 」 に移すことは躊躇されるはずで、それが殺戮を抑制させる仕組みになる。
逆に言うと、「 どうせ明日は餓死するかもしれない 」 という、悲惨で、将来に夢を馳せることもできない状況下では、そのブレーキが利かない。
特に 「 自爆テロ 」 というものは、「 貧乏人の最後っ屁 」 みたいなもので、他の方法では対等に勝負できない相手に、一矢を報いる手段となる。
それを操る側は、「 年収1千ドルの部下一人が、年収10万ドルのアメリカ人十人を殺したので、100倍の戦果 」 といった計算を、実際にしている。
我々にしてみれば、人命の価値に高低などないと思うのだが、テロの首謀者たちの考えは、「 金持ちの命 = 価値が高い 」 というのが常識だ。
実際、アルカイダが敵国人を捕らえた者に与える懸賞金が、捕虜の国別によって違うという報道を、聴いて知っているという人も多いだろう。
テロを企図する者の 「 駆け引き 」 と、実行する者の 「 絶望感 」 が微妙にあいまって、今日もテロリズムは世界を駆け巡るのである。
考えてみれば、太平洋戦争で戦局が悪化してからの日本も似たようなもので、「 人間魚雷 」 やら 「 特攻 」 やら、自爆テロが横行していた。
資源や国力が豊かで、戦局を有利に運んでいる国の軍隊は、けしてそのような 「 兵の命を粗末に扱う 」 ような真似はしない。
もし、この世界から 「 戦争 」 というものが廃絶されたとしても、貧富の差がそこに存在し、飢える民族がいるかぎり、テロが消滅することはないだろう。
たとえ今以上に、富める者が貧する者に与えたとしても、その壁がなくなることなど考えられるはずもなく、所詮は無理な話だ。
むしろ、これから先 「 今以上に、生き残りを賭けた戦いが激化する 」 社会や、地球環境や、限りあるその資源のことを思えば、さらに難しい。
平和の祭典と呼ばれるオリンピックの会期中に、ロシアではチェチェン勢力と思われるグループによるテロが発生した。
日本では、オリンピックを観戦するために 「 液晶テレビ 」 や 「 DVDレコーダー 」 の需要が伸び、売上が好調だという。
その豊かさを、「 今日の食事 」 にもありつけない人々は、どのような気持ちで眺めているのか、考えたことがあるだろうか。
けして、テロを容認するわけではなく、「 今の平均的な日本人の生活水準を維持したければ、敵が現れるのは当然 」 という覚悟が必要だということだ。
エアコンの効いた部屋でパソコンのキーを叩いている時点で、世界平和や弱者の救済を唱えても不毛なことを、ご承知あれ。
金メダル確実と思われた野球だが、日本は 「 銅 」 に甘んじた。
負けることもあるのはスポーツの常だが、なんとも悔いの残る結果だ。
五輪では 「 参加することに意義がある 」 という言葉がよく使われるが、あくまでもこれは 「 アマチュアの場合 」 の話と考えたほうがよいだろう。
勝つこと、結果をだすことに価値を求められるプロの場合は、参加しました、頑張りましたというだけでは、ファンも納得しないはずだ。
もしも、日本にプロ野球というものが無いとして、全国のアマチュアを集め、そのチームが大リーグのオールスターに勝ったら、どうなるだろう。
世界中に、「 大リーグ自体の威信 」 を失墜させる可能性が高い。
これと同様で、今回の敗北は 「 日本プロ野球の水準 」 というものに対する評価が疑われる、五輪とは別の問題まで話が発展しそうだ。
日本は、全員がプロ選手という 「 ドリームチーム 」 を結成し、五輪野球での金メダル奪取を至上命題として臨んだ。
もちろん、他にも台湾など、プロ・リーグのある国も参戦したが、日本の球界とは歴史も、過去の実績も、全体的な水準も異なるはずだ。
だからといって侮ってよい相手ではないが、彼らにとっては、野球先進国の日本が、全員をプロ選手で揃えてきたというのは、相当な脅威である。
そんな 「 大人が子供相手に本気を出す 」 ような設定の中で、頂点に達することなく負けてしまったのだから、情けないことは否定できまい。
こんなことなら、アマチュア選手に世界の舞台を経験させておいたほうが、よほど育成のためになったし、日本プロ野球の面目も潰れずにすんだ。
厳しいようだが、これが 「 プロ 」 と 「 アマ 」 の差である。
スポーツにかぎらず、結果のみが評価され、そこに至る努力は評価されないというのが 「 プロ 」 の世界であり、宿命でもある。
銅メダル ( 3位 ) を素直に評価できないのは、それが 金メダル ( 一位 ) へのプロセスという見方からもきているだろう。
負けた理由を探せば、いくらでも 「 言い訳 」 は考えつくだろうが、それは 「 無用の分析 」 であり、空虚で意味の無いことだ。
金メダルの 「 国別総獲得数 」 も重要だが、この恥辱はリスクが大きすぎたように思うので、次回からはアマチュアで挑んだほうが望ましいだろう。
私が、日本の銀行を 「 経済を悪くした諸悪の根源 」 と責めるのも、彼らが市場経済の中で 「 主導的なプロ 」 の役割をつとめているからだ。
銀行の勧めるままに無謀な貸し出しを受けた企業も悪いし、監督官庁にも罪がないわけではない。
しかしながら、金融の司令塔であるべき銀行が、その地位に相応しい見識と洞察力、将来への先見性を持っていたならば、結果は違っていた。
それにも増して、日本の銀行、あるいは銀行員の多くは、明らかに 「 倫理観が欠如 」 しているようだ。
ここまで内容を悪化させたうえでなお、いまだに政府の行政指導に対して 「 過剰検査 」 だの、「 内政干渉 」 だの、戯言を述べる者がいる。
たしかに、始終つきまとわれ、検査、監査を繰り返されれば、やりにくい面も多いだろうとは思う。
しかし、忘れてはならないことは、彼らはすでに 「 プロとして結果を出せなかった 」、あるいは 「 最悪の結果を出した 」 ことである。
誰も経済を悪くしようと考える者はいないだろうし、彼らもそれなりに努力したことは認めるが、結果は 「 惨敗 」 に終わったのだ。
しかもその 「 負け方 」 は、内容がずさんで、利己的で、国民全体の利益に寄与するという倫理観からは、遠くかけ離れたものである。
これでは、「 箸の上げ下げ 」 まで徹底的に監視されても、文句は言えないわけで、安心して任せられる要素など一つもないのが実情だ。
日本の銀行筋は、「 プロとして最悪の面 」 が浮き出しになっている。
つまりそれは、プロとしての 「 権威主義 」 に陥り、「 素人に何がわかるってんだよ 」 と、驕りたかぶっているところだ。
たしかに、竹中大臣をはじめとし、監督官庁の面々も、ましてや一般大衆は銀行ほど、「 金融のプロ 」 ではないことも事実だ。
しかしながら、五輪野球にせよ、市場経済にせよ、「 プロに対する評価 」 を下すのは我々 「 アマチュア 」 であり、一般大衆なのだ。
まして、それぞれの生活に影響を与える事柄ともなれば、たとえプロに対しても 「 物言い 」 をつけるのは当然で、その点を誤解してはならない。
| 2004年08月25日(水) |
自業自得でございます |
どうも世の中には、物事の本質を見抜けない人がいるようだ。
あるいは、都合よく 「 見抜けないフリ 」 をしているだけかもしれないが。
英語のことわざに、「 As you sow, so shall you reap 」 というものがある。
同じ意味を表す表現で 「 You reap what you sow 」 という言い方もされるが、「 自分でまいた種は、自分で刈り取ることになる 」 と訳される。
つまりは、日本のことわざにある 「 因果応報 」 とか、「 自業自得 」 と同じ教訓を含んだ言葉として、解釈してよいだろう。
他に、「 It serves you right 」 といった 「 当然の報いである 」 という英語表現も、慣用的によく使われる。
洋の東西を問わず、「 物事の責任は、当事者がとるのが当たり前 」 という考え方は一致しており、万国共通の倫理観といって差し支えないだろう。
ダイエーが産業再生機構の活用などの策によって、経営の再建を迫られていることは、各種報道によってご存知の方も多いだろう。
これを、まるで 「 竹中、小泉の陰謀 」 のようだなどと、馬鹿げた論理を振りかざし、政府に非難を浴びせる輩がいる。
まぁ、「 偏狭的思想の人 」 の話なので、マトモに耳を傾ける必要もないのだが、本末転倒も甚だしいとはこのことである。
これらはすべて、ダイエーという企業が、シェアを奪い合うことに躍起になるあまり、種々の安全策が疎かになった 「 経営の失敗 」 によるものだ。
膨大な負債を抱え、浮沈の危機にあるのは、誰のせいでもない 「 経営陣と主力銀行の不始末 」 にほかならない。
仮に、大勢の従業員が解雇され、路頭に迷い、あるいは一部の自殺者が出たとしても、それが 「 竹中、小泉は人殺し 」 という論理には達し得ない。
その責任は、経営を危機的な状況まで悪化させた旧経営陣や主力銀行にあり、恨み言をぶつける矛先が必要ならば、彼らに向けられるべきである。
企業の社会的責任以外に、従業員の生活云々という話に至っては、生活の糧をそこへ求めた 「 従業員自身の選択ミス 」 もあるだろう。
いづれにせよ、政府筋としては 「 現時点よりも、問題が悪化しないように 」 手を打とうとしているだけの話で、悪事の張本人であるはずがない。
それは、瀕死の重病人が救急病院に運び込まれ、誠意を尽くして蘇生させようとした医者に、「 お前が人殺しか 」 と詰るようなものである。
こういう連中は、イラク問題しかり、北朝鮮問題しかり、「 誰が悪者なのか、ハッキリしている 」 ことで、筋違いの 「 逆恨み 」 を展開する。
どちらかというと、悪事そのものには言及せず、後始末などの細かい部分に関する対応の仕方に対し、揚げ足をとりながら、グズグズと愚痴をいう。
大半は人格障害者なので、特有の 「 自分の思い通りにならない事柄は、すべて他人のせいにする 」 ところに思考が着地するような構造である。
同じ 「 他人のせい 」 にしても、自分が所属しない企業が悪者ではウサが晴れないので、結局、不幸の原因を無理やり 「 政府 」 にもっていく。
それでもって、「 嗚呼、こんな不幸な国に生まれてくるんじゃなかった 」 と、自分の力不足や無能ぶりから目をそむけ、社会を憂う筋書きだ。
ストレスの解消手段は人それぞれで、酒を飲んではクダをまく人もいれば、甲子園で巨人の選手に野次を飛ばす人もいる。
合法的で、他人に迷惑を及ぼさなければ何をしても構わないようなものだから、別に、政府の悪口、陰口を叩いてウサを晴らしても咎められない。
しかしながら、そのようなことばかりを続けているうち、しまいには 「 物事の善悪 」 であるとか、「 何が諸悪の根源なのか 」 がわからなくなってくる。
また、たいていの人間は労苦を伴う仕事で糧を得て、嫌なことも体験しながら、いづれはくる 「 死 」 に向かって、耐えながら生きるものである。
それを、「 ツライのはすべて、政府や社会のせい 」 として自分を納得させてしまうと、苦境から逃れ、自殺に対する罪悪感が失せてしまう危険が高い。
もちろん政府や議員の中にも不心得者や、無能な者はいるだろうが、各人の能力には関係なく、人格障害者にとって彼らは 「 悪 」 なのである。
その理由は、「 自分だけを特別扱いしてくれない悪い社会の牽引者 」 だからであり、彼らが何をしたか、どういう人格かは、あまり問題ではない。
それでストレスを解消することも、ネットという自由な発言の場で駄文を公開することも、彼らに許された権利なのであろう。
ただ、彼らの文章をみて、変に感化されたり、現実社会から逃避して自らの死を求める人間が出てくることは、避けたほうが社会のためである。
そういう 「 論理の矛盾した、政府への逆恨みサイト 」 は、まずマトモな神経の人間が書いてはいないということを、改めてご忠告申し上げたい。
しかしながら、そういう 「 不幸な人間 」 を世に多く輩出したことが、広義に考えれば、政府、社会の問題といえなくはない。
人格障害者の主張などは 「 狂者の戯言 」 に過ぎないが、その存在自体については、深く問題意識をもって考慮しなければならないだろう。
どうやら人格障害者の数は、増え続けているようだし、彼らにならう形で 「 楽な考えに走る人格障害的な発想 」 というものも、目立ち始めている。
なかでも、冒頭に挙げた 「 自業自得 」 とか、「 因果応報 」 という言葉の認識が、人格障害的な時代の波に、薄れている気がしてならない。
特に、将来の託された子供たちには、「 悪いことをしたら、国ではなく、自分が責任をとらなければならない 」 という基本を、学んでもらいたい。
猫も杓子もオリンピックの話題だが、残念ながら 「 ここ 」 もそうである。
なんとも 「 ちょっと、どうしたのよ 」 というぐらい、日本が大活躍している。
議論を呼んだ 「 高橋落選 」 の後、女子マラソンへの興味が半減したという御仁も多い中、「 野口 みずき 」 が堂々の金メダルを獲得した。
これで一番 「 ほっ 」 と胸を撫で下ろしたのは、陸連であろう。
勝ったからいいものの、「 高橋抜き 」 でメダルを逃した場合は、マスコミや世論の非難が集中したはずで、度胸の要る決断だったことは間違いない。
日本人による二連覇という快挙に、「 ほらね 」 とばかりに喜色満面でいる様子が、ちょいと憎らしい気もするが、メデタイことなので許そう。
ちなみに、高橋選手が出場していれば、「 金・銀ダブル制覇 」 だったような気もするけれど、そこまで欲を出す必要もないだろう。
陸連はともかく、野口選手はよく頑張ったと思う。
過酷な温湿度、勾配に加え、テレビの画面でもわかるほど 「 舗装が悪い 」 という条件に耐え、誰よりも粘り強く安定した走りを続けた。
マラソン経験者なら理解できると思うが、「 登りでスパートをかける 」 というのも、勇気と体力の要る 「 賭け 」 である。
トラック競技と異なり、コースの状態によって記録には差が出る種目だけに、タイムは凡庸にみえるが、内容的には 「 王道 」 といってよいだろう。
内容が申し分なく、結果も最良ということで、文句のつけようがない。
良かったとも、残念とも思えるのが、「 室伏選手の銀 」 である。
私も現役時代は、陸上競技 ( 中距離走、長距離走 ) を長く続けていたが、陸上競技には大きく分類して、「 トラック 」 と 「 フィールド 」 の競技がある。
陸上競技場の中で選手が走る場所を 「 トラック 」 と呼ぶのは言うまでもなくご存知だと思うが、そこを走る 「 走行種目 」 を 「 トラック競技 」 という。
つまりは、「 速く走ることを競う種目 」 がトラック競技である。
例外的に、競技場の外に出て走るマラソンは、タイムトライアルであっても 「 トラック競技 」 ではないが、競技者は例外なく 「 トラック出身者 」 だ。
競技場の中で、選手が走る楕円形のトラックの内側にある 「 フィールド 」 では、「 速さ 」 よりも 「 高さ 」 や 「 遠さ 」 が競われる。
それが 「 フィールド競技 」 なのだが、この中では、さらに 「 跳ぶ種目 」 と 「 投げる種目 」 の二種類に大別される。
跳ぶ種目は 「 跳躍競技 」 といって、走り幅跳びであるとか、走り高跳び、三段跳び、棒高跳びなどの種目がある。
投げる種目は 「 投擲 ( とうてき ) 競技 」 といって、砲丸投げ、円盤投げ、槍投げ、ハンマー投げなどの種目が含まれる。
室伏選手は、この 「 ハンマー投げ 」 の種目で、銀メダルを獲得した。
オリンピックや国体に出ることが目的でなくても、大半の人は学生時代に 「 トラック競技 」、「 フィールド競技 」 に参加した経験があるだろう。
しかしながら、「 投擲競技 」 の経験がある人は少ないはずである。
いわゆる 「 体育の授業 」 では取り上げる学校が少ないので、陸上部に属し、投擲を選んだ人ぐらいしか、本格的に扱う機会はないだろう。
その投擲競技の中でも、「 ハンマー投げ 」 を選ぶ人は、さらに少ない。
体力はもちろんのこと、真っ直ぐに距離を出すには、かなりの技術が要る。
私自身、投擲を志したことはないが、同じ学校の陸上部でハンマーをやっていた友人から、借りて試したことがある。
ハンマーとは、長さ 1,175〜1,215mのワイヤーの先に、砲丸 ( 男子の場合は 16ポンド ) をつけたもので、これを振り回して、遠心力で遠くに飛ばす。
16ポンドの重さがどれほどかというのは、たとえばボウリング場で 「 16 」 と描かれた球を持ってみればわかるはずだ。
かなり重いが、成人男子の大部分は、片手で持ち上げられる重さだ。
ボウリング球と異なるのは 「 サイズ 」 の違いで、球の直径は、比重の重いタングステン鋼を使った最小のもので、直径が 110mm と非常に小さい。
一見すると、「 ちょっと練習したら、投げられそう 」 な気もするのだが、初めて試して ( マトモに ) 投げられる者は皆無に近い。
とにかく、重いし、怖いし ( 自分の体に当たりそう )、なにより 「 遠心力 」 に耐えられなくて、軸を固定できないので体がふらつく。
実際に、世界レベルの大会では、16ポンドの球を時速 100km で飛ばし、そのときにかかる遠心力は、350�� を超えるのである。
だから、ハンマー投げの選手は 「 体重 110�坩幣� 」 が標準で、それだけの体躯を持つ日本人が少ないこともあり、競技人口も僅かしかいない。
あの 「 イカつい 」 室伏選手でさえも、体重は最近になってようやく 90�圓鯆兇┐芯�度というのだから、世界からみれば 「 小男 」 なのである。
体格に恵まれていないと通用しないし、非常に難しい技術の修養を必要とするけれども、別の見方をすれば 「 とてもシンプル 」 な競技でもある。
野球やサッカーのように、複雑なルールがあるわけではなく、ようするに 「 重たいモノを、誰よりも遠くに飛ばせば勝ち 」 という単純な種目なのだ。
それだけに、世界中の 「 力自慢 」 が大集合し、ずる賢い戦略や駆け引きなどまったく通用しない 「 力 対 力 」 の真っ向勝負が展開される。
技量に長けて、「 ホームランは打てないけど、バントは得意です 」 だとか、「 コーナーキックは絶妙です 」 みたいな、小兵の巧さは役に立たない。
つまり、「 体が小さい = 絶対的に不利 」 という環境の中で、100年かかっても日本にメダルなど獲れないと思われていたのが、ハンマー投げだ。
ハンマー投げに限らず、オリンピックの投擲競技で日本人がメダルを獲得したのは、今回の室伏選手が初めての快挙である。
彼の身体能力で特筆すべき点は 「 背筋力 」 で、普通の人の3倍に達する 300�垓�の背筋力が、速い回転でも重心を安定させ、遠心力に耐え得る。
それだけでも 「 国民栄誉賞もの 」 の大金星ではあるが、あとほんの僅かで、惜しくも金メダルには及ばなかった。
その距離、たったの 「 28cm 」 である。
ちなみに、彼の靴のサイズは 「 29,5cm 」 で、名実共に、これぞまさしく 「 金メダルまで、あと一歩 」 という距離にあったのだ。 惜しいッ!
このところ、周囲の人たちは皆、一様に睡眠不足である。
理由は、深夜に放送される 「 アテネ・オリンピックのテレビ観戦 」 である。
特に今回は、日本人選手の大活躍が光っており、現時点で日本の金メダル獲得数は3位、銀、銅を合わせた数でも6位という健闘ぶりを示している。
いくら 「 参加することに意義がある 」 とはいっても、参加した以上は、一つでも上の順位を目指すのが本分であり、誰しもが願うところだ。
柔道の井上選手など、メダルの期待が掛かっていて脱落した例やら、男子サッカーのように緒戦で敗退するケースもあったが、総体的には順調だ。
これから行われる競技でも、野球などメダルの期待が大きい種目が残っているので、しばらくは目が離せない状況が続くだろう。
すなわち、「 寝不足の状態 」 が改善されないということである。
前半戦を振り返ると、柔道におけるメダル獲得数が多かった。
彼らはよく頑張ったし、もちろん 「 ケチをつける 」 気などないが、日本のお家芸である柔道で、日本が強いのは自然の摂理でもあるように思う。
もし、「 剣道 」 が種目に加えられればダントツの強さで金が獲れるだろうし、「 流鏑馬 ( やぶさめ ) 」 なんかがあれば、敵はいないだろう。
どんな競技でも世界の頂点を極めるのは至難の業といえるが、体型や習慣などからみて 「 日本人が挑戦することの難易度 」 は、種目によって違う。
たしかに、メダルが多く獲れたことも喜ばしいが、「 日本人未踏の競技 」 に果敢に挑戦し、健闘した選手のほうが、私自身には興味が大きい。
そういう意味で、個人的には男子陸上100mの末続選手に期待していたのだが、予選敗退という結果については、とても残念な気持ちだ。
予選の模様をご覧になった方は気づかれたと思うが、末続を除いた走者はすべて黒人で、競技における 「 民族的な能力の限界 」 さえ感じてしまう。
そういった、遺伝など先天的な運動能力の違いからくる 「 絶望的な格差 」 を超越して、壁を破ろうと果敢に挑戦する姿は、柔道のそれとは違う。
メダルの重さに優劣をつけるわけではないが、日本人として苦手だったり、不利があると思われる競技のほうが、どうも応援に熱が入る。
自分が生きている間に、日本人が短距離界で世界の頂点を極めるところを、なんとか見たい気がするのは私だけだろうか。
逆に、野球の予選リーグで、日本が台湾を 「 サヨナラ勝ち 」 で下し、選手一同が狂喜乱舞している姿をみると、ちょっとシラけてしまった。
ご存知のように、今回の日本チームはプロ野球の精鋭を結集した 「 最強軍団 」 でメダルに挑んでいる。
たしかに台湾にもプロ・リーグがあって、侮ることはできないが、どうみても格下の相手に対し、辛勝したぐらいで大騒ぎするのはどうか。
むしろ、相手の健闘を称え、てこずった部分を反省するぐらいでないと、他の国から馬鹿にされてもしょうがない。
強いからといって慢心せず、挑戦者としての気持ちを持ち続けることも大事だが、王者にはそれに相応しい 「 風格 」 というものも必要な気がする。
よく、「 スポーツは勝つためにやるんだ 」 という人がいて、「 参加することに意義がある 」 というのは、キレイ事だと決め付けることがある。
たしかに、負けるつもりで競技する者はいないし、出場する以上は、競技者も、それを応援する者も、勝利を願うのは当然である。
だが、勝てそうな競技にだけエントリーして、苦手な種目への挑戦を避けることが、はたしてスポーツの真髄といえるだろうか。
圧倒的に不利で、勝てる見込みが少ない競技であっても果敢に挑戦して、世界の壁に立ち向かうことの意義は大きい。
彼らの多くは、「 自分は勝てないとしても、『 この挑戦 』 が将来への布石となり、いつの日か頂点を極める後進が現れる 」 ことに夢を託している。
| 2004年08月21日(土) |
戦争は日本を放棄するか |
一人で生きているつもりでも、他人との交わりを避けては通れない。
国政も同じように、「 外国なんてどうでもいい 」 というわけにはいかない。
憲法を改正する問題については、諸外国も敏感な反応を示すだろう。
とりわけ、「 平和憲法 」 の柱ともいうべき 「 第9条 」 に触れることは、先の大戦で被害を被ったとされる国々の反撥が、少なくはないはずだ。
もちろん、内政に関することでもあり、海外からの干渉を受けたり、過剰にその評価を気にする必要などない。
むろん、周辺諸国を中心とした世界情勢を見極め、「 世界の中の日本 」 であることを、忘れてはならないことも事実だ。
世界情勢が変われば、憲法も変わるのは自然な話で、数十年前の敗戦時に占領軍主導の下に制定された憲法が、現状に則しているとも言い難い。
戦後の日本が永らく平和を維持してこれたのは、はたして 「 憲法9条 」 のおかげだと言えるだろうか。
かといって、「 日米安保条約 」 が、すべてだとも思わない。
おそらくは、いずれが無くても、日本が積極的に 「 戦争に加担する 」 というようなことはなかっただろう。
世界中の誰よりも、日本人は 「 戦争には懲りている 」 わけで、痛みを知るこの国の民意が、軍国主義への回帰を阻んだはずである。
憲法改正は、安易に行われてもいけないが、所詮、「 紙に書かれた約束 」 なんかよりも、人々の良心、倫理観、平和への祈りのほうが重要だろう。
だから、憲法に手を加えたからといって、国策に大きな変化はないが、変えないと、「 世界情勢への的確な対応 」 と憲法の間に、矛盾が生じやすい。
冷静に考えて、世界の様子が目まぐるしく変化しているにも関わらず、現状の問題をクリアーするための方策がとられないほうがおかしい。
それは誰しもが理解しているはずで、にも関わらず、意固地に 「 護憲 」 を貫こうとするのは、およそ四種類の人間に集約される。
第一は、利害の関係から 「 護憲 」 を訴える連中だ。
たとえば野党の一部は、政権交代の機会を窺う道具にこれを悪用するし、第三国と通じている企業、団体などは、その手先として護憲派を煽動する。
第二は、戦争中に軍部の 「 御用機関 」 と成り下がり恥辱を舐めた、新聞を筆頭とするマスコミで、左傾化の強いところはなおさらである。
第三は、世界情勢に疎く、「 自分たちが非武装中立であれば、敵は襲ってこない 」 という神話を、かたくなに信じている人たちである。
第四は、人格障害者や、反政府主義者、狂人などの 「 社会に対し、マトモに適応できない人たち 」 で、未来の繁栄など望んではいないグループだ。
また、落ちぶれて自殺企図するような人間は、この国、この社会に未練などないのだから、「 皆、自分と同じように不幸になってしまえ 」 と考えやすい。
こういった、「 あまり未来を真剣に考えていない 」 か、「 世界を知らない 」 か、「 なにか魂胆がある 」 意見には、振り回されないほうが望ましい。
誤解を招かないように付け加えるが、けして、改憲することが唯一の正しい方法で、護憲が誤りであると言いたいわけではない。
世界情勢が変化しているにも関わらず、「 無条件に、問答無用で改憲には反対する 」 という姿勢があまりにも多いので、それが愚かだと思う次第だ。
これから先、自分や、愛する者のために国を存続させたいと思うのならば、改憲するかどうかは別としても、「 改正の余地 」 は考えて当然であろう。
この議論が紛糾するのは、平和主義を自認する護憲派の多くが、改憲派を 「 戦争がしたくてたまらない連中 」 だと決め付ける風潮にある。
実際には、好き好んで戦争を始めたい者など皆無に等しく、どうすれば世界の実勢に沿う形で日本の将来が成り立つのか、真剣に考えているはずだ。
私自身は、占領軍に押し付けられた現在の憲法を、「 世界に誇れる憲法 」 などと感じないが、過去において、それなりの役割を果たしたと認める。
占領下に公布された憲法に依存し続けることこそ、実は 「 アメリカの占領政策 」 から、いまだに脱皮できていない原因でもあるように思う。
非武装中立といえば聞こえは良いが、国防面での欠落した部分をアメリカに委ね、「 汚い仕事には、自分で手を染めない 」 だけのことではないか。
憲法がどう変わろうと、現在の日本に 「 他国に攻め入る 」 度胸も、悪意もなく、自衛と国際協力の強化にのみ注力することは、誰の目にも明らかだ。
いくら 「 日本が戦争を放棄 」 しても、「 戦争が日本を放棄する 」 とはかぎらず、今の憲法のままでは、「 日本人が日本を放棄する 」 ことになる。
アテネ五輪は、日本人選手による 「 期待以上の活躍 」 に湧いている。
連日、寝不足で出勤する方も、多いのではないだろうか。
近代オリンピックの第一回目大会は、108年前にアテネで行われた。
だから今回は、「 オリンピックが故郷に帰る 」 記念すべき大会でもある。
しかし実は、いまからおよそ2800年も前からオリンピックは行われており、これを 「 古代オリンピック 」 という。
当時のギリシャは、いくつもの小国に分かれており、紛争が絶えなかった。
そこで、平和を願う国王の一人が、神から 「 スポーツ大会を開けば、平和が訪れる 」 という “ お告げ ” を聞いたことで、始まったとされる説が強い。
あくまで伝説だし、「 神が〜 」 という時点で科学的に証明されないのだが、過去、オリンピックが紛争解決に果たした役割は、たしかに認められる。
人間には 「 闘争する本能 」 みたいなものがあるだろうし、国家というものは、「 威信をかけて国力を誇示する 」 ような習性を孕んでいる。
戦争をする代わりにスポーツで戦えば、誰も傷つかずにすむし、皆が一同に会することによって、お互いが仲良くなる可能性も増えるはずだ。
また、当時は 「 オリンピック停戦 ( オリンピックの期間は戦争をしない ) 」 という協定があり、遵守されたので、その点でも平和に貢献したのである。
その後、オリンピックは長い中断を経たが、今度はヨーロッパ全土で戦争の機運が高まったので、「 近代オリンピック 」 が提唱され、実施されたのだ。
近代オリンピックの開催を呼びかけたのは、フランスの 「 クーベルタン 」 という人物であることが広く知られている。
しかしながら、“ お告げ ” を聞いたとして、古代オリンピックの開催に尽力した人物は、「 ある国の王 」 という程度にしか記録されていない。
この二人、いづれも偉大な人物であろうけれども、「 平和のため 」 と言ったクーベルタンより、「 神が〜 」 と言った王のほうが、曲者で、賢者である。
信仰心の強くない者でも、「 神が〜 」 なんて言われちゃうと逆らいにくいし、2千年以上も昔の世界では、さぞかし有効な説得力をもっていたはずだ。
ひょっとすると、その頃は、今と違って 「 神の存在が身近に感じられた 」 のかもしれないが、私は、その王の 「 狂言 」 が始祖ではないかと思う。
紛争の歴史は、人類の歴史でもあり、解決策は 「 永遠のテーマ 」 である。
平和を欲する者は多いが、歴史上、有効で、具体的な解決策を提示できた者は数少なく、たいていは、「 戦争の悲劇を憂い、情に訴える 」 だけだ。
広く 「 平和の祭典 」 として支持を得てきたオリンピックも、角度を変えれば 「 戦争の代替案 」 という見方ができなくもない。
それでも、領土や陣地の奪い合いをするより、メダルの獲得数を競い合うほうが、はるかに平和的で、傷つく者も少ないはずである。
中国で開かれた 「 サッカー・アジア杯 」 では、加熱した中国側の応援団が暴徒化したりもしたが、本来、スポーツは 「 平和の特効薬 」 なのだ。
とはいえ、オリンピックだけで、すべての紛争が収まるとは思えない。
古代ギリシャと違って、「 神が〜 」 と叫んだところで、誰も聞く耳を持たないだろうし、それに、世界には 「 いろんな神 」 に対する信仰の違いがある。
むしろ、それぞれの信じる 「 神の違い 」 が紛争の潜在的な要因になっているケースも珍しくなく、かえって物事を複雑にするばかりだ。
今日では、力量の計り知れない 「 異教の神 」 よりも、誰もが威力に関して共通の理解を示す 「 核 」 のほうが、神格化し、畏怖の念を持たれる。
核のみが、全人類を 「 ひれ伏させる 」 力を持つ神と、言えなくもない。
当然、「 スポーツの祭典で、世界の友好と、親睦を深める 」 ことと、「 核の抑止力を利用して、お互いが手を出せない 」 ことが、同一ではない。
しかしながら、たとえ荒っぽく、品の無い手段でも、信仰や倫理観の異なる多民族が、互いに侵食せず、共存する社会を維持しなければならない。
時代と共に、「 平和のありかた 」 は姿を変え、対応の仕方も変わる。
過去はともかく、少なくとも今は 「 憲法9条によって、恒久的な平和が約束される時代 」 ではないだろう。
改憲こそが 「 平和のための代替案 」 とは言わないが、それ以上に有効な “ お告げ ” が無い以上、避けては通れない道のように思う。
日本人の多くは倹約を美徳とし、贅沢や、無駄遣いを善しとしない。
その習性は、堅実で奥ゆかしい、独自の文化にも繋がっている。
ネット友達の一部に、私のことを 「 お金持ち 」 だと誤解している人がいて、「 魔法の財布を持つ紳士 」 などと、不似合いな呼称をいただいている。
実際のところは、お金持ちでもなければ、浪費家でもない。
むしろ、どちらかといえば 「 ケチ 」 と呼ばれる部類に属し、相場よりも高いモノを買わされたり、無駄なお金を使うことには、かなり抵抗が強い。
独身ということもあって、遊興費やら、交際費に割く金額は 「 一般的なサラリーマン 」 に比べれば多いかもしれないが、「 無駄遣い 」 とは異なる。
必要と認めるものには投資し、無駄と思えば、一切お金を使わない。
たとえば、「 一流ホテルの宿泊割引キャンペーン 」 を利用するのと、安いホテルに定価で宿泊するのとでは、どちらが 「 無駄遣い 」 なのか。
仮に、前者のほうが多少値段が高かったとしても、サービスや、居心地などの対価を換算すれば、「 お得 」 であることが多い。
他人からみれば、立派なホテルに泊まったり、それなりの場所で食事をしたりする姿が 「 贅沢 」 に映るかもしれないが、けしてそうではない。
彼女とホテルに泊まっても、室内に備え付けられている 「 相場よりも、べらぼうに高い飲み物 」 などには、一切、手をつけたりしない。
彼女が勝手に飲もうとしたものなら、「 100m先のコンビニで買って来い。いや、お前のような奴は、2km先の安売店まで走れ! 」 と指示を出す。
ようするに、「 本当に価値のあるモノ 」 に対する投資は惜しまないが、安い値段で買えるものを、格好つけて高く買うような愚行はしたくないのだ。
お金の値打ちというのは、効果的に使うことによって上がったり下がったりするもので、無駄遣いも避けたいが、使わなければ真価は発揮されない。
人より多くのお金を使っているとすれば、人より多く稼いでいるのも事実で、また、人より多く稼ぐためには、それなりの出費も伴うのが普通だ。
お金の使い方の中で、特に難しいのが 「 先行投資 」 と呼ばれる類のもので、これは結果しだいで、「 生き金 」 にも 「 死に金 」 にもなる。
例を挙げると、子供に特別な教育 ( お金の掛かる ) を受けさせる場合など、将来においての、その子の活躍に価値は左右されやすい。
皆さんは、小泉首相の所信表明演説 ( 平成13年5月7日 ) にも登場した 「 米百俵 」 の逸話について、覚えておいでだろうか。
明治初期、戊辰戦争で焼け野原となった長岡城下に、支藩の三根山藩 ( 現在の新潟県西蒲原郡巻町 ) から見舞いで、百俵の米が寄贈された。
しかし、ときの長岡藩の大参事 「 小林虎三郎 」 は、この百俵の米を藩士に配分せず売却し、その代金を国漢学校の資金に注ぎ込んだ。
食べるモノにも事欠く藩士たちにとっては、のどから手がでるような米ではあったが、長岡藩は 「 将来への投資 」 に賭けたのである。
結果、国漢学校は長岡の近代教育の基礎を築き、ここから 「 新生日本 」 を背負う数多くの人物が輩出されることとなった。
国が興るのも、町が栄えるのも、ことごとく 「 人 」 に依るところが大きく、食えないからこそ学校を建て、人材を養成するのだという発想だ。
このように、「 目先のことばかりにとらわれず、明日をよくしよう 」 といった思想は、人材教育の指針や理念となって、今の世にも続いている。
百俵の米も、食べてしまえば一時の空腹を満たすだけに終わるが、未来へ投資することによって、数千俵、数万俵の価値を得る可能性もあるのだ。
首相がこの逸話を選んだ伏線にも、厳しさを増す経済情勢の中にあっても、将来へ向けた改革を推進することに、国民の理解を得たかったのだ。
それらがすべて正しかったかどうかは別としても、教育とか環境保全などの 「 成果が挙がるまでに時間の掛かる投資 」 も、ある程度は必要だろう。
このところ、「 長期在外研究員制度 」 が、疑問視され始めている。
この制度は、多様化する国際情勢に対応できる 「 キャリア官僚 」 を養成する目的で、昭和41年に開始されたものである。
留学は職務命令の出張扱いで行われ、二年間で一人当たり八百万円前後の給与のほか滞在費、授業料など約一千万円の経費がかかる。
このたび、平成九年度から五年間に国費で海外留学した若手キャリア官僚のうち、十人に一人が 「 留学後に早期退職 」 していることが判明した。
そこから、退職した四十七人分、約八億五千万円に上る税金が、授業料や旅費などの名目で 「 “ 無駄遣い ” されている 」 と、騒がれ始めたのだ。
たしかに、彼らは 「 海外留学で培った成果を( 帰国後も ) 引き続き職員として公務に生かす 」 という誓約書を交わしている。
だから、法的に 「 返還の義務 」 が無くても、早期退職者に支払った経費は、当初の目的に合致しないし、一見、無駄なようにも思える。
当然、それらの費用は税金によって賄われているわけだから、マスコミや、一部の人々から 「 税金の無駄遣いだ 」 と非難の声が出ているのだ。
しかしながら、これは本当に 「 無駄遣い 」 なのだろうか。
役人が私的な飲み食いに浪費したり、公金を横領した事案とは、少し性格が違うような気がするのは、私だけだろうか。
たとえ官僚に留まらなくとも、彼らは何かの 「 職 」 に就いているだろうし、民間企業においても、日本の産業発展に寄与する可能性がある。
元来、奨学金的な制度というものは、「 見返り 」 を期待せず、優秀な人材を支援することが目的ではないだろうか。
当初の予定と、たとえ活躍の場が違ったとしても、優秀な資質に対して教育の機会を与え、育成することを 「 無駄 」 と切り捨てるには抵抗がある。
たしかに、それは 「 公金の不正利用 」 とも考えられるし、一部の者だけに特典が与えられることへの、不信感、不公平感も生じるだろう。
だが、「 職種を問わず、未来のリーダーを育成する 」 という観点からみれば、一概に 「 無駄遣い 」 ではないような気もするのだ。
むしろ問題は、そこまでして高い教養を身に付けた者が、形ではなく、どのような哲学をもって 「 社会に貢献するのか 」 という点ではないだろうか。
つまり、たとえ予定通りに官僚の仕事を続けたとしても、その経験を生かせず、人の役に立たないことのほうが、よほど 「 無駄遣い 」 だと思うのだ。
他の道へ進んだ者に対しても、単純に、お金を国庫に 「 返還 」 するのではなく、将来の社会へ 「 還元 」 することが、より理想的ではないか。
いづれにせよ、この費用を無駄と考え、お金の返還を要求するのは、少し 「 セコい 」 気がするのだが、他の人はどうお考えになるのだろう。
税金の無駄を調べ、倹約することが目的なら、他にも方法はあるだろうし、投資される価値も無い官僚こそ、「 無駄な存在 」 なのかもしれない。
未来のことなど、誰にもわからない。
偶発的な出来事の積み重ねにより、歴史は姿を変えていく。
終戦記念日に、様々な人々の思いが去来する。
よく、「 日本は、あの戦争に負けてよかったんだ 」 という人もいる。
たしかに、その後の経済成長や、今日に至る平和な社会を鑑みれば、軍部が解体され、ひたすらに平穏と豊かさを求める時代への掛け橋とはなった。
私自身も長い間、「 戦争に負けて、外交に勝った 」 二十世紀後半の日本について、「 敗戦 」 を一つのターニングポイントだと認識してきた。
しかし、本当にそうだと言い切れるだろうか。
昨今、イラク戦争への反撥が強まる中、アメリカの評判を悪く言う人も多いが、今日の日本の繁栄は、「 アメリカの恩恵 」 に依るところが大きい。
経済の発展も、安全保障の面でも、彼らの庇護の下に成立してきた。
それは過去において、あるいは現在でも 「 対等 」 の立場ではなく、屈辱的な 「 傀儡 」 という関係にあったが、感謝すべき事実である。
度重なる空襲と、人類史上最悪の 「 核 」 による攻撃を加えたのもアメリカだが、彼らは 「 敗戦国日本 」 に対し、慈悲深く援助を施した。
憲法改正について、「 アメリカの言いなりになるな 」 などと擁護論を展開する者も多いが、その憲法自体、アメリカによって創られ、与えられたものだ。
お年寄りの中には、「 昔の日本はよかった 」 と語る人も多いが、あまり 「 戦時中はよかった 」 という声は聞かない。
つまり、彼らの指す 「 昔 」 とは、太平洋戦争以前か、あるいは以後の短い期間のことであり、戦争中は一つの 「 空白 」 になっている。
近代の日本史は、多くの国民にとって満足度の高かった時代から、暗黒の戦争へと進み、そしてまた幸福な時代を経て、現在に至ったともいえよう。
戦前の日本を、天皇を旗印に掲げる 「 軍部による独裁国家 」 だと認識している人も多いが、実際のところは、そういう状況でもなかったようだ。
諸国との交流は、明治維新から続く近代化を発展させ、( 戦争さえなかったら ) さらなる成長と、自由民主主義による繁栄を遂げた可能性が高い。
結果的には、戦争へと進む時代の流れに抗うこともできず、太平洋の中で孤立する 「 悪の枢軸 」 へと変貌していくのだが、元来、そうではなかった。
もし、戦争がなかったら、あるいは、アメリカとの和平が早期に実現するなどして、「 敗戦国 」 の憂き目に遭わなかったら、どうなっていたか。
それは、おそらく 「 現在と同様の社会 」 に進んだように思う。
過剰すぎる軍備は削減され、経済の発展に主眼をおき、最大の同盟国に 「 アメリカ 」 を選んだことが、容易に想像できる。
もともと、「 自由民主主義 」 が建前であり、当時の複雑な利害関係さえなければ、アメリカと日本は、互いに相容れられる関係にあったはずだ。
つまり、今日の日本があるのは、「 戦争に負けたおかげ 」 というよりは、「 戦争には負けたけれど、アメリカに占領された 」 幸運が大きい。
もしも、当時のソ連に占領されていれば、今日の発展はなく、南北に分かれて 「 分割統治 」 されていれば、朝鮮半島と同じ憂き目に遭っただろう。
そういう意味では、戦争に勝っても、負けても、日本は 「 あるべき姿 」 へと落ち着いたであろうし、全体的なポジションは変わらなかったように思う。
多少違っていただろうと思えることは、「 アメリカとの力関係 」 であるとか、アジアでの主導的立場、発言権などの点ぐらいではないだろうか。
中国、韓国は、日本人以上にその現実を理解しており、「 戦争で負けたくせに、巧くやりやがって 」 という妬みと、羨望が、今も続いているのだろう。
日本は敗戦によって、「 有形、無形 」 の損害を被った。
戦死者はもとより、私財や、重要な歴史的建造物、文化財を焼失した。
領土については、戦争中に侵略した部分はやむを得ないとしても、戦前から保有していた北方領土などを、理不尽な形で奪われてしまった。
さらに、敗戦が日本人から奪い去った最大の財産は、「 自尊心 」 である。
鷹揚な態度を改め、諸外国との折衝において 「 腰の低さ 」 を身に付けたことは進歩ともいえるが、敗戦の後遺症から立ち直れない痛手が残った。
靖国参拝、教科書問題、国防体制など、どれをとっても、これからの新しい日本人が、自尊心に負い目を感じる 「 負の遺産 」 は計り知れない。
歴史を鑑みると、そのような 「 負の遺産 」 は、時間の経過とともに、自然と薄れていくものだが、それを阻害する動きが内外に多すぎる。
首相が靖国神社へ参拝すると、諸外国だけではなく、国内からも反撥の声があがり、歴史認識の名のもとに、傷は癒えるどころか深まるばかりだ。
日本人が、「 日本人であることを誇りに感じる 」 という考え方は、徹底的に否定され、やましさと、負い目を感じることを、各所で要求される。
日本人でありながら、「 日本人は馬鹿だ 」、「 日本は駄目だ 」 などといった発言を平気でする者が巷に溢れ、悪意の洗脳は留まることを知らない。
戦争というのは、勝敗に関わらず、やらないほうがよい。
しかしながら、好むと好まざるに関わらず、戦争の波に巻き込まれる可能性は、いつの時代でも、どこの国においても、あり得る話なのだ。
戦争に負けるリスクというものは、想像以上に大きく、「 負けてよかった 」 などという論理は、妄想にすぎないように思う。
子供の頃からずっと、日本の現在の繁栄を思えば、「 負けたからといって、どうってことはない 」 という気持ちが、心のどこかに存在した。
だが、それは間違いで、実際には、どんなに着飾って、贅沢な暮らしをしていても、日本人は 「 敗者の汚名 」 を背負わされてきたのである。
夏休みなので各地の映画館は、大作、話題作が公開され、賑わっている。
空いた時間を利用して、1本観ることにした。
どの映画を観るかという選択については、予告編などの事前情報によって、あらかじめ見当をつけておくことが多い。
お得な前売り券に加え、最近は 「 格安チケット 」 を販売する店舗などもあるので、観たい作品を事前に決めておいたほうが、なにかと都合もよい。
しかし、ときには 「 その日の気分 」 で、予定していなかった作品を、なぜか衝動的に観たくなることもある。
幼い頃、テレビで放映されていた、イギリスの人形劇 「 サンダーバード 」 が、実写版として再映画化され、現在、劇場で公開されている。
懐かしいテーマ曲に郷愁が甦り、誘われるままに館内へ入ると、家族連れや若いカップルに混じり、私と同じ世代の男性客も、かなり目についた。
サンダーバードは、一国の救助組織では対応できないような大惨事から、人々を救出するために設立された 「 国際救助隊 」 の活躍を描く物語だ。
この救助隊は、公的な機関ではなくて、「 ジェフ・トレーシー 」 というアメリカの大富豪と、その家族によって構成されている。
活動の拠点となる基地は、南太平洋上に浮かぶ孤島 「 トレーシー島 」 で、普段は、リゾートのような景観にカモフラージュされている。
出動の際には、ボタンひとつで木々が倒れ、プールの底が開き、ロケットの発射台や、その他のメカが現れ、姿を一変させるのだ。
颯爽と乗り込み、人命救助のため現地へ向かうのは、ジェフの5人の子供たちで、毎回、彼らの勇気ある活動が、人々の窮地を救うのである。
この番組が 「 われら世代 」 に大人気を博した要因は、登場人物の活躍や、物語の展開ではなく、「 近未来的な乗り物 」 と 「 秘密基地 」 にある。
プラモデルは爆発的に売れ、皆がそれで遊んだといっても過言ではない。
きっと、サンダーバードにかぎらず、当時の男の子たちは 「 秘密基地 」 が大好きで、家の中では 「 プラモデルの秘密基地 」 に興じたのだろう。
外では、高度経済成長の建築ラッシュが盛んで、あちこちに空き地と、土管や廃材があったので、そこを基地に見立てて遊んだものである。
それは、狭い住宅事情に暮らす子供たちにとっての 「 夢と憧れ 」 を象徴しており、このドラマが日本で大ヒットした 「 真相 」 だったのかもしれない。
映画版は、「 悪者に秘密基地を占拠される 」 という危機を、一家が協力して乗り切るという物語が主軸になっており、なかなか面白かった。
空想していた秘密基地の内部や、一家の内実なども詳細に描かれており、特に我々世代の男性にとっては、楽しめる内容ではないだろうか。
一家に協力する女性諜報員 「 ぺネロープ 」 役の女優さんが美人で、妙に艶っぽいというのも、「 お父さん向けのサービス 」 であろう。
これを観ると、童心にかえって 「 秘密基地 」 で遊びたくなる。
でも、この歳で屋外に 「 秘密基地 」 などこしらえると、なにか良からぬ企てでも起こしているのではないかと、近所に悪評が広まりそうである。
| 2004年08月14日(土) |
なかなか言えない口説き文句 |
インターネットには便利な機能が多々あり、「 検索 」 もその一つだ。
URL がわからなくても、単語や、タイトルから、目的の頁に辿り付ける。
ただ、思わぬ 「 遠回り 」 をさせられててしまうことも多い。
たとえば、「 口説き文句 」 という単語から、この日記に導かれてしまう方も少なくないらしい。
この日記を続けて読んでいただいている方には、ご理解いただけると思うのだが、それほど頻繁に 「 口説き文句 」 という単語は、使用していない。
それでも、たとえ一回でも 「 口説き文句 」 という語句を使えば、検索なさる際のアンテナに引っ掛かってしまうことがあるのだ。
きっと、「 その単語を含む記事から、なんらかの知識を得たい 」 と期待した方がこの日記に遭遇した場合、軽い失望を抱かれるのではないだろうか。
この日記は、「 時事/社会 」 というカテゴリーに登録されているが、それはけして、政治や経済の難しい話に限定されるものでもないだろう。
むしろ、考えようによっては、「 男と女の葛藤 」 なんてことも、時事や社会に影響を受け、あるいは与える性質のものと言えなくもない。
だから、男女間における恋愛の駆け引きに使用される 「 口説き文句 」 を考察することも、あながち 「 場違いの話 」 ではないように思う。
せっかく、そのような単語を手掛かりに訪れてくださる方がいるのなら、たまには 「 男と女の話 」 なども、テーマに取り上げてみよう。
興味のない方には申し訳ないが、今夜はそういう趣向である。
ひとくちに 「 口説き文句 」 といっても、恋愛には段階というものがあって、それぞれの段階や、状況に応じた使い分けが必要となる。
もちろん、知り合ったばかりの相手に対し、いきなり 「 ベッドへ誘う 」 ような口説き文句を使っても法律には触れないが、ちょっと品がない。
かといって、「 機が熟している 」 のにも関わらず、慎重すぎるようでも問題があり、空気を読めない鈍感さが 「 野暮 」 になる可能性もある。
子供の頃に、「 どうしてウルトラマンは、必殺技の 『 スペシウム光線 』 を、さっさと最初に繰り出さないのか? 」 という疑問を、長く抱いていた。
大人になり、それはきっと、相手のダメージなどを見極め、もっとも効果的なタイミングで発するのだと気づいたが、「 口説き文句 」 も、同じ理屈だ。
過去の偉大な先達により、いろいろな 「 名言 」 の数々が遺されている。
その中には、「 口説き文句 」 として使用された、著名人による愛の言葉なども含まれているが、一概に、どれが優れているともいえない。
言葉や文章だけで判断すれば 「 名作 」 でも、その言葉を発した時点での状況や、相手の心理を鑑みなければ、本当の価値は判断しにくいだろう。
逆に言うと、けしてスマートな文章でなくとも、誠意やまごころが伝わり、相手の胸を打つ言葉というものも、存在するはずだ。
また、言葉だけなのか、あるいはそれを裏打ちする行動が伴っているのかも、たいへん重要な部分であり、除けて考えることはできない。
最近で、印象に残っている 「 口説き文句 」 は、WEB日記を公開している女性が、年上の男性 ( おそらく50代かな ) に告げられたものだ。
それは、「 もう焦る歳じゃない。本当に良い関係を保てる女性をじっくり探しているんだよ 」 という台詞である。
この文章だけを読むと、なんだか 「 純愛っぽい 」 感じもするが、そこへ至る経緯や、二人の関係、知り合った環境をみると、違う印象を受ける。
この女性は、別に本命の彼氏がいるのだが、多忙を理由に、ほとんど会ってもらえないそうで、過去の日記の大半は、その寂しさが綴られている。
個人的に、この女性のことをよく知っており、彼女の名誉のために付け加えると、けして 「 浮気性 」 でも、「 好色 」 でもない、真面目な女性である。
しかしながら、彼女が意図したものでなくても、毎日のように 「 私、寂しいの 」 などと書かれたら、別の男性がうじゃうじゃと集まってきやすい。
実際、彼女の掲示板などをみると、既婚、未婚を問わず、街燈に虫がおびき寄せられるかの如く、うじゃうじゃと集まっている様子が確認できる。
裏表の無い女性なので、日記で語っているようなことを、実生活でも周囲に触れ回っていることは間違いなく、心情は露呈されているようだ。
外から眺めていると、その様子がありありと目に浮かぶのだが、彼女自身は 「 自分が網を張っている 」 ことに、まったく気づいていないのである。
おおっぴらに 「 交際相手募集中 」 という看板も出していないし、彼女がそう願ったわけでもないのだが、結果的には、同様の効果が演出されている。
そこへ、先ほどの 「 口説き文句 」 を引っさげた、初老男性の登場である。
彼女はちょいと 「 ウットリ 」 しているらしいが、同じ男として、この言葉には 「 裏がある 」 ようにしか思えない。
文中の 「 良い関係を保てる女性 」 というのは、「 肉体関係をもつことはあっても、『 結婚して 』 とかは言わないでね 」 という意味であろう。
もし、結婚する意志があるなら、「 結婚を前提に 」 とまでは言わなくても、「 良い関係を保つ 」 なんて 「 余計な表現 」 はしないものである。
このあたりの、遊び人特有の 「 予防線 」 に気づかないのが、彼女自身の魅力にもなっているのだが、「 カス 」 を掴まされる原因にもなっている。
彼女は 「 なかなかの美人 」 だし、こういうことを書くと、ひょっとすると私が 「 ヤキモチ 」 を焼いているのではないかと、思われるかもしれない。
実のところ、「 ヤキモチ 」 は焼いていないが、この男性に対して 「 うらやましい 」 という羨望を感じている。
ただし、その 「 うらやましさ 」 というのは、彼女と交際をされることではなく、このような 「 あからさまな口説き方 」 ができる点にある。
私のような小心者は、なんとかして 「 魂胆を隠そう 」 としがちで、「 前進 」 を求める女性に対し、「 良い関係を保ちたい 」 とは、なかなか言えない。
最初にそう言っておけば、たしかに 「 結婚するの、しないの 」 でモメることもないのだろうが、そこまで割り切った交渉をする度胸がないのだ。
この女性も、ここを見ているはずだし、「 アドバイスを受けたい 」 と仰っていたので、なにかの参考になれば幸いである。
断っておくが、けして 「 不謹慎な誘いだから、付き合うな 」 と言っているわけではなく、むしろ、その逆である。
彼女が 「 本命 」 と思い込んでいる男性のほうが、実はずっと 「 したたか 」 で、何倍も不埒であることを、知るべきであろう。
お互いに未婚で、寂しさを埋めあう需給関係が成立しているのであれば、必要なだけ与え、与えられる間柄は、けして悪いものではない。
二人の交際を祝福し、こちらはアドバイス料として、「 良い関係を保つ 」 のフレーズを、今後、機会があれば、どこかで使わせていただくことにしよう。
日本の 「 輸血用血液 」 は、全て国内の献血によってまかなわれている。
いま、こうしている現在も、ささやかな善意が、生命を救っているだろう。
昔は、輸血するとお金がもらえる制度があって、「 売血行為 」 などと呼ばれたりしていたが、現在は、そのような仕組みがない。
献血者に与えられる特典は、10回以上で記念品が、50回以上で感謝状、70回以上で 「 表彰制度の対象とされる 」 程度のことである。
稀に、「 自分の血液型が知りたい 」 とか、「 血液から、自分の健康状態を知りたい 」 という人もいるが、大半は 「 無償の善意 」 に依るものだ。
全血献血で約10〜20分、成分献血なら約40〜60分ほどの時間が掛かるし、あまり 「 注射が好き 」 という人はいないはずである。
それでも、自分の時間や痛みを犠牲にして、困っている人を助けようとする善意が、血液の供給を支えているのだから、世の中も捨てたもんじゃない。
真の善意というものは、どういうものだろうか。
一般的に献血という行為は、「 善意の象徴 」 であると考えてよいだろう。
しかし、たとえば、会社で重要な会議があるときに、「 献血に出掛けるから出席できません 」 と言う者が現れた場合、それを善意と考えるべきか。
こんな場合、「 暇なときか、仕事以外の時間を利用して行けよ 」 と言われるのが普通 ( あるいは一般常識 ) ではないだろうか。
誰もが 「 正しい行い 」 だと認めるような行為でも、時と場合を考える必要があり、周囲の迷惑を顧みずに暴走するようでは、「 善意 」 とは程遠い。
朝日新聞は、11日の夕刊紙面 ( 一面 ) で 「 自衛隊のイラク駐屯地内に、砲弾が着弾した 」 という内容の記事を掲載した。
しかし、防衛庁の発表によると、実際に3発の着弾があったが、それはすべて宿営地の外側で、着地点までの距離も、記事と事実では異なるという。
どちらが正しいか断定はできないが、防衛庁が朝日新聞社に 「 抗議文 」 を出したことから推察すると、どうやら、記事の方に誤りがあるようだ。
以前から、明らかに左翼的な思想へ傾注し、イラクへの自衛隊派遣に否定的だった朝日新聞による今回の 「 誤報 」 は、新たな波紋を広げるだろう。
ちょっと頭を下げて、「 違った? ごめんね 」 では済みそうにない。
左翼だろうが、右翼だろうが、反対意見だろうが、賛成だろうが、それぞれの人や団体で、意見が分かれることは自然だし、善くも悪くもない。
だが、中立的な立場で、正しく冷静に善悪を判断しようとする者も多い中で、マスコミが間違った情報を流すことは、きわめて遺憾である。
新聞社をはじめとするマスコミ各社は、戦時中に軍部から押し付けられた報道規制や、最近の個人情報保護法案を 「 情報操作 」 だと揶揄する。
しかし今回のように、それが意図的なものか、過失なのかはともかく、事実から湾曲した 「 誤報 」 を広めることも、情報操作にあたるはずだ。
自衛隊の派遣に対して肯定的な意見だった人が、その 「 誤報 」 に接し、意見を翻したり、支持政党を変える可能性が、無いともいいきれない。
戦争とは、人間同士が殺し合い、環境を破壊する悲惨な現象であり、戦争に反対することは、人として 「 正しい行い 」 であり、「 善意 」 だといえる。
ただし、その 「 善意 」 にも、ルールというものがあるはずだ。
自分や周囲の者を危険に晒して 「 人間の盾 」 になったり、危険地帯へ勝手に潜入して捕らえられることが、はたして 「 善意 」 といえるのか。
あるいは、道路にゴミを撒き散らして、騒音と交通渋滞を発生させ、アメリカの大使館員を怯えさせるデモが、紛れも無く 「 善意 」 なのか。
戦争に反対するならするで、賛成するならするで、もっと周囲に迷惑を及ぼさず、誰もが 「 正当だ 」 と認めるような手法があるはずだ。
最近、目につくのは、このような 「 自分は正しいことをしているのだから、何をやっても許される 」 と勘違いしている連中である。
このような輩が、「 アメリカの独断だ 」 とか 「 ブッシュの横暴だ 」 などと叫んでいるのをみると、思わず笑ってしまう。
つまり、「 自分勝手な理屈で、周囲の迷惑も顧みずに 『 善意 』 を振りかざす連中 」 が、まったく同じ理由で、相手を批判しているのである。
朝日にかぎらず、日本の新聞社は過去に、「 大本営発表 」 の基に、軍部から民意を操作する 「 偽情報 」 の発信を余儀なくされてきた。
時代は過ぎ、軍部は消滅したが、今度は力を持った自らが 「 大本営 」 に陥る危険を孕んでいることを、彼ら自身が十分に自重すべきだろう。
パソコンで日記を書いていても、「 IT 」 に詳しいとはかぎらない。
それに、IT に詳しいような人の日記ばかりだと、つまらないだろう。
私とパソコンの出会いは、ビジネスがきっかけだった。
かなり早くから 「 一人に一台 」 を支給していた企業に勤めていた関係上、ワード、エクセル、アウトルックなどは、必須で教育を受けたのである。
家にもパソコンがあると、残業をしないで、帰宅後に仕事を続けられるという理由から、個人で購入した際も 「 ビジネス用途 」 しか考えていなかった。
個人のホームページなるものを知らないわけではなかったが、興味を持つようになったのは、ずっと後になってからで、そんなに古い話でもない。
せいぜい、ここ3年ぐらいのことである。
私を含めて、元来 「 飽き性の人間 」 というものは、なにかに依存するという部分が少なかったり、仮に依存しても、一時的なケースが多い。
そういう意味では、毎日のように日記を書いていても、私にとってのパソコンは、趣味の要素でいうと 「 有っても、無くてもよいもの 」 に過ぎない。
それでも、今日まで続けてこれたのは、それが 「 一方通行 」 な情報発信ではなくて、ご覧いただいた方々からのメッセージを頂戴したおかげだろう。
具体的には、メールであるとか、過去にホームページ上に設置をしていた 「 掲示板 」 へ寄せられた、ご意見、ご感想などである。
思いついたままに書き綴っている日記なので、誰かに評価されたいわけでもないが、「 反応がある 」 ということ自体が、書く側の励みにもなる。
私のように、パソコンの仕組みや理論について、あまり詳しくない人間でも、この程度の日記や、簡単なホームページの運営ぐらいはできる。
ただしそれは、「 すこぶる順調に、機械が動いている場合 」 の話であろう。
自動車のメカニックに通じていても、いなくても、運転技能には影響が無い。
それと同じで、「 その道に詳しいかどうか 」 の差は、「 トラブルが発生したとき 」 や、「 複雑で高度な改良を加えたい 」 場合などに発生する。
詳しくない上に、執着するほどの熱意も無いために、ちょっとしたトラブルでも直すことができず、本を読んで調べるのも、つい億劫になってしまう。
私が覚えた、数少ない 「 パソコンにおけるトラブル解決のテクニック 」 に、「 初期化 = 買ったときの状態に戻す 」 がある。
購入時のマニュアルを読むと、「 あらゆる手を尽くしても、どうしても直らない場合 」 の奥の手として、それが紹介されている。
たぶんそれは、「 荒っぽい、最後の手段 」 なのであって、パソコンに詳しい人の大半は、その手段に訴える前に、「 あらゆる手 」 を試すのだろう。
しかし、私のような 「 PC音痴 」 には、「 あらゆる手 」 といっても多くの手段は思い浮かばないのだから、すぐにそこへ至ってしまう。
パソコン関係に詳しい友人、知人も多いのだが、状況を正確に伝えられなかったり、指示が理解しにくかったり、覚えること自体が面倒なのである。
そこで、伝家の宝刀 「 初期化 」 の出番である。
時間は掛かるが、やり方は簡単で、購入時のディスクさえあればできる。
デメリットとして、記録しているデータが喪失する危険があり、それを防ぐために 「 バックアップ 」 をとることが重要となる。
初期化そのものはいたって簡単なのだが、この 「 バックアップ 」 をとるという作業が、ちょっと面倒くさい。
写真、ホームページのドキュメント、アドレス、URL、受信メールなどの大半を、CDなどへ焼かずに 「 ハードへ保存 」 していたので膨大な量である。
途中まで慎重に行うのだが、だんだん面倒になってきて、まだ完全に終わっていないのに 「 さっさと初期化しちまえ 」 って感じになってくる。
大切なデータとはいっても、「 命に関わる 」 ほどのものでもないし、過去に築き上げた成果といっても、「 自慢できるような代物 」 でもない。
そこで、適当に切り上げて、次のステップに移るのだが、思い出深い写真や、「 なにかのパスワード 」 など、肝心なものを記録し忘れることも多い。
そんなわけで、しばらく 「 深夜戯話 ( 自分のホームページ ) 」 を編集できないなど、「 管理人として最低の恥辱 」 が続いていた。
ところが最近、ちょっとした 「 救世主 」 が現れたのである。
最近、仕事を通じて知り合った人と 「 パソコンの悩み 」 について話していたら、なかなかの 「 達人 」 であることが判明した。
家も近所なので招待し、実際に操作しながら、あちこち片付けてもらった。
彼の勧めでプロバイダも変え、以前に比べると 「 すこぶる順調 」 である。
前述の 「 深夜戯話 」 も、URL を変えずに編集できるようになったし、再度、「 掲示板 」 を設置できるようにもなった。
問題は、メールアドレスが変わったことを、「 相手のアドレス 」 が消失し、伝えられない人がいることなどだが、おいおいに調べていくとしよう。
この日記の下のほうに、「 HOMEPAGE 」 というボタンがあって、クリックすれば 「 深夜戯話 」 の表紙が出現する。
いまのところ、この日記以外にコンテンツも無く、「 掲示板 」 ぐらいしか置いていないのだが、暇があったら、何か書いていただけると幸いである。
悪口や中傷でも、「 センスがあるもの 」 なら大歓迎だ。
笑えなかったり、センスが悪かったり、品性に欠けるものは、せっかく苦労して書いていただいても、ちゃっちゃと消してしまう可能性が高い。
他のコンテンツも考え中なので、よかったら覗いてみていただきたい。
| 2004年08月11日(水) |
歳をとるのは、人間だけではない |
人間が歳をとるように、建物も次第に年齢を重ねていく。
老朽化し、あちこちに 「 ガタ 」 がくるのも、やむを得ない話である。
福井県の 「 関西電力 美浜発電所 」 は、昭和45年に1号機が完成以来、34年間に渡って、原子力発電のパイオニアとしての使命を果たしてきた。
過去、国内の原発においては、5年前に 「 JCO 」 という茨城県の核燃料加工会社が、東海事業所で臨界事故を起こしたことがある。
当時、二人の作業員が死亡したが、それは定められたマニュアルに従わず、ずさんな作業による結果で、原発の安全性を否定するものではない。
9日、美浜発電所で起きた事故は、初の 「 原発運転中の死亡事故 」 であり、4人が死亡、2人が重体という惨事に至ってしまった。
今回は、「 配管の破損 」 という設備上のトラブルが事故の原因となっており、補修点検などメンテナンスの不備が、今後は問題視されるだろう。
破損個所の位置からみて、放射能漏れなどの恐れはないが、「 原発 」 という建物の特殊性から考えると、付近の住民には脅威が高まるだろう。
この暑さを、エアコン無しでしのぐのは辛いけれども、こういう事故が起きると、やはり原発に対する 「 怖さ 」 を、改めて思い知らされる。
おりしも、長崎に原爆が投下されたのと同じ 「 8月9日 」 に起きた事故だけに、不吉な印象と不安を感じた方も多いのではないだろうか。
建物や、それに付随する設備というものは、必ず老朽化していくものだ。
当初、「 かぎりなく安全 」 という前提の基に設置されていたとしても、補修を怠ることによって、「 安全神話 」 は覆されることを忘れてはならない。
こういった危険は、街中に溢れる大半の建物、施設にも潜んでいる。
誰もが、その安全度に注視する原発でさえ、今回のようなことがあるのだから、一般の建築物については、さらに危険なところが多いはずである。
多くの人が集まる商業施設、ホテル、遊園地などで、火災や地震が発生した場合などの 「 設備、建物への信頼性 」 には、普段から警戒が必要だ。
特に、景気が悪くなってくると、建物の経営者が、設備の補修、営繕などに対する経費を削減する可能性もあり、ますます不安が膨らむ。
防災面での設備を取り揃えていても、「 いざという時に機能しない 」 場合は、意味がないどころか、それに依存している分だけ危険が大きい。
たとえばホテルなどに宿泊する際は、非常階段などを確認すべきだ。
それも、「 災害時の退路がどこにあるか 」 という確認ではなく、「 ホテルの備品が積まれてあったりしないか 」 という面を、チェックしたほうがよい。
利用する側が、それぞれの施設による 「 危機管理に関する意識の高さ 」 を、そういうところで見極めて評価し、心構えをしておくことが望ましい。
廊下や共用部分の電球が切れたままになって放置されていたり、故障個所が直されていない場合、補修、営繕の費用を惜しんでいる可能性がある。
利用する価格や、外観の美麗さだけに囚われず、こういった安全性、危機管理意識というものを、きちんと見抜く姿勢が必要ではないだろうか。
京阪神の古い建物では特に、「 阪神大震災 」 の影響を受けている危惧もあるので、非常扉が傾いでないか、確認したほうが無難である。
施設の警備員が緊張感を持って働いているか、経験は豊富なのか、といったことも、災害時の初動速度、以後の誘導に重要な影響をもたらす。
せっかく遊びに来たのに、緊張してばかりではツマラナイが、たとえ心の片隅にでも、「 非常時の心構え 」 を持つことが、生死の境を分ける。
この季節、特にあちこちへ出掛けられ、さまざまな施設を利用する機会も多いと思うが、少し、そういう意識も持たれておくことを勧める。
ちなみに、「 消防署による定期点検 」 以外の日は、非常階段も使えないような施設、建物というのは、想像以上に多いというのが世間の現実である。
| 2004年08月10日(火) |
最近、お気の毒な人々 |
なにか事件が起きると、「 あおりを食う人 」 が現れやすい。
彼らにとっては、自分の責任でない場合が多く、可哀想なものである。
このところ 「 NHKの不祥事 」 が次々と明るみに出てきており、国民からの信頼が失墜しているようだ。
その 「 あおりを食う形 」 で困っているのが、「 受信料の徴収スタッフ 」 で、実際、かなりの割合で徴収率が落ちているのだという。
以前から、NHKの受信料については不明瞭な点があり、払わない人も多かったはずだが、過去に払っていた人からも、徴収が難しくなっている。
徴収に行くと、「 なんでNHKの職員の 『 飲み食いの費用 』 を、払わなきゃならないんだ 」 と怒鳴られ、返す言葉もないという場面も多いらしい。
徴収する彼らは、さほど高くもない賃金で走らされ、「 横領した高給者 」 の尻拭いをさせられているのだから、実に気の毒な話である。
ちなみに私は、過去に一度も 「 NHKの受信料 」 を払ったことがない。
だから、一連の不祥事に対して、「 良くないことだね 」 とは思うが、語気を荒げて断罪したりしないし、もちろん 「 金返せ 」 などと言う資格もない。
私なんぞは、「 払う理由が理解できない 」 金品を支払う余裕など無いが、大半の日本人は、なんだかんだ言っても 「 お金持ち 」 なんだなぁと思う。
けして、「 払えない金額 」 でもないし、「 払いたくない 」 わけでもないのだが、私が納得できないのは、「 徴収方法 」 と 「 徴収理由 」 にある。
その問題さえクリアーされれば、すぐにでも支払う意思はあるのだが、現行の制度には、どうしても納得することができないのだ。
NHKから受信料の徴収スタッフが我が家に訪ねて来られると、私は丁寧にお迎えし、毎回、いつも同じやりとりが繰り返される。
徴収スタッフは私に、「 NHKの受信料を支払うのは、国民の義務であり、法律で定められていること 」 だということを、しきりに説明される。
それに対し私は、いつも 「 その通り! 」 と相槌を打ち、大いに賛成する。
相手の方は嬉しそうに頷き、「 では、こちらの金額を 」 と書類を出す。
私は、「 いやいや、それが払うわけにはいかないんですよ 」 と答える。
現在、NHKの受信料を支払っている人の割合は、徴収対象の7割以下であるが、NHKの歳入と歳費を比べると、毎年 「 黒字 」 になっている。
私が、「 国民には受信料を支払う義務があるが、だからこそ、いま私が払うわけにはいかない 」 と述べる理由は、この部分にあるのだ。
理屈をわかりやすくするために、以下の 「 例え話 」 を挙げてみる。
あるところに人口100人の村があり、村のための事業に600万円のお金が必要となったので、村人全員から徴収することに決まった。
一人あたりの費用は、「 600万 ÷ 100 」 なので、6万円になる。
村会議員の一人は、「 皆が公平に間違いなく支払われるように、それは税金で徴収することにしよう 」 と発言したのだが、村長は別の提案をした。
それは、「 600万の費用を徴収する係員を100万円で雇い、合計 『 700万円 ÷ 100 = 7万円 』 を、各家庭に訪問し、徴収する 」 という意見だ。
また、「 もし、支払わない人がいた場合には、罰則規定を設けず、払う意思のある人から、余分にもらいましょう 」 という指示が、つけ加えられた。
結果、3割にあたる30人が支払いを拒んだため、残りの70人が 「 700万 ÷ 70 = 10万円 」 を支払うことになった。
支払った彼らは、本来なら 「 一人あたり6万円 」 で済む費用を、4万円も多い 「 10万円 」 を、支払うことになったわけである。
電気代、ガス代、水道代などの公共料金と違って、「 利用しようが、しまいが、全員から徴収する 」 というスタンスなら、税金でよいではないか。
今後も、「 払わない人が悪いのだから、費用をかけ、人を雇ってでも、支払う人を増やしていきましょう 」 という方針では、無駄が多いだけである。
仮に、「 ミナミの帝王 」 のような凄い徴収人が現れたとしても、いつまでも 「 支払い率100% 」 に達する可能性は皆無で、不公平感は残る。
ここで私が支払ってしまうことは、「 現行の徴収制度を認める 」 ということになり、けして、「 良心的に支払っている人々 」 の救いにはならない。
だから、「 私としては、払いたくてしょうがないのに、払えないのですよ 」 という無念を徴収人に語り、徴収制度の改革を訴えるのである。
すると、「 税金で徴収すると、生活の苦しい人が云々 」 といった応酬話法を ( マニュアル通りに ) 用いてくるのだが、それは苦しい言い訳である。
他の税金だって、生活水準に応じて減額できたり、控除される方策が採られているのだから、「 税金徴収に切り替えられない 」 理由にはならない。
それ以外にも、なんだかんだ言って ( マニュアル通りに ) 正当化しようとしてくるのだが、どの点を取り上げても、言い返せるだけの矛盾がある。
そもそも、ディベートの達人ならともかく、薄いマニュアルを手渡されただけの素人が、この私に 「 理屈で勝てる 」 わけなどない。
NHKも、そこのところは理解しているようで、だいたい徴収人は、言い負かすのが気の毒になるような、ご老人などを起用してくることが多い。
わずかな金額ではあるけれど、「 理屈に合わない費用 」 を払わされるのは嫌なもので、それを 「 ケチだ 」 と思われるのなら、それも仕方がない。
私の好きな、古い映画だとか、懐かしい 「 1960年代アメリカのテレビ番組 」 などを集中的に流してくれるケーブルテレビになら、何倍もの費用も払う。
特にNHKの場合は、「 スポンサーで成立している民放 」 には真似の出来ない番組づくりを期待しているのに、そのような番組が意外と少ない。
また、「 今回の不祥事 」 などが起きると、前述の 「 不自然な徴収方法 」 にも、何らかの利権が絡んでいるのでは・・・などという邪推もしてしまう。
いづれにせよ、徴収する人には気の毒だが、私以外にも、何らかの理由で受信料を支払わないという人は、増えていく傾向にあるだろうと思う。
アジア杯サッカー決勝、未曾有の怒号と喧騒の中、日本は中国を下した。
選手はよく頑張ったし、会場の 「 日本人サポーター 」 にも敬意を表する。
よく、「 売り言葉に、買い言葉 」 というが、あそこまで徹底して反日感情を剥き出しにされ、冷静な対応を続けるには、勇気と忍耐が必要である。
中国サイドがしきりに持ち出す 「 過去の侵略行為 」 だが、彼らにも似たような事例はあるし、言い返そうと思えば、ネタに困ることはない。
あるいは、過去に日本が行ってきた経済援助や、民間企業も含めた莫大な投資に言及して、威圧する方法などもあるだろう。
だが、それで何になるだろう。
中国人の中でもごく一部の、民度の低い連中に合わせて、下卑た中傷の応酬を行う意味などなく、くだらないだけの話である。
言うまでも無いが、世界というのは、中国と日本だけではない。
今回の中国側の態度、あるいは日本のサポーターの冷静な態度をみて、諸外国のメディアや国民は、どちらを尊敬し、どちらを嘲笑うか。
本来なら友好の証であるべき 「 スポーツの国際交流 」 の場において、もっとも恥じるべき行いをした連中に、好意を示す者は少ない。
場合によっては、「 北京オリンピック 」 の開催に異議を唱える声が出るかもしれないし、中国にとって得なことは何一つ無い。
逆に、冷静な日本の態度は、国際社会で株を上げたかもしれない。
日本政府の批判ばかりする人は、ご存知ないかもしれないが、日本という国は、スポーツの場面において、けっこう国際貢献を果たしている。
たとえば、イラク復興の問題についても、ただ自衛隊を派遣しただけではなく、イラクで練習できずに困っている選手を、日本に招いたりしているのだ。
柔道のハディール・ラーゼム選手は、日本政府と、全日本柔道連盟の協力によって、東京の講道館などで、アテネに向けて汗を流している。
ただ単に、自衛隊の派兵だけを取り上げ、違憲だとか、好戦的だなどと叫ぶしかないようでは、それは 「 勉強が足りない 」 ようである。
平和に対する努力の形にも、いろいろな方法があるのだ。
ちなみに、どうして中国人の一部に 「 反日的思想 」 が強いのかというと、それは、1995年に始まった 「 愛国主義キャンペーン 」 の影響が大きい。
当時の中国政府は、愛国主義を高める活動の一環として、過去の大戦で日本軍が行った虐殺行為などを、徹底的に学校教育へ取り込んだ。
それが、いわゆる 「 刷り込み 」 となって、いまの若い世代の脳裏に刻み込まれており、今回の騒ぎとも密接に関係している。
中国はともかく、日本でも 「 反日的 」 な教育を施す教師や、中国人さながらに 「 国家、国旗に儀礼を尽くさない 」 者が増えていることが問題だ。
戦時中なら 「 売国奴 」 と呼ばれたであろう行為だが、自由な日本では、大手を振って通ってしまうのだから、どうしようもない。
暴動を発した中国人に対して、多少は同情の余地もある。
共産主義国家、独裁主義国家では、なかなか自由な意見を展開したり、言いたいことを言って 「 ストレスを発散できる場が少ない 」 のだ。
唯一、許されるのは 「 仮想敵国の悪口 」 であり、それほど反感を抱いていない者も、憂さ晴らしに、それに参加することが多くなる。
そういう意味では、多少は大目に見てやらないと、いけない気もする。
逆に、これだけ自由に 「 言いたいことが言える 」 日本にいて、ストレスが溜まって鬱状態になる人は、もうちょっと頑張ってもらわねばなるまい。
ちょっと目を離すと、巷は 「 空前の韓国ブーム 」 に沸いている。
その発端は、一つのテレビドラマから始まったようだ。
私が最初に、ドラマ 「 冬のソナタ 」 を観たのは、たしかNHK衛星第二放送で、深夜の時間帯だったように記憶している。
意図的に鑑賞したわけではなく、その番組の前に放送されるプログラムを観ていて、たまたまチャンネルを変えなかったので自然に視聴した次第だ。
映画の世界では、近年、「 シュリ 」 を皮切りにして、興味深い韓国作品が数多く日本でも紹介されるようになって、個人的な関心を強めていた。
ただ、韓国のテレビドラマというものを観たのは初めてだったので、どのようなものだろうかと思い、「 覗き見感覚 」 で眺めてみた。
途中からなので物語の流れを掴み難かったが、連夜、同じ時間帯に続きが放映されていたので、3話続けて鑑賞したが、そこで 「 飽きて 」 しまった。
誤解の無いように敢えて申し添えると、けしてこの作品が 「 不出来 」 だと言いたいわけではなくて、自分の趣味に合わないというだけの話である。
作品の印象としては、「 映像が美しい 」、「 音楽が心地よい 」 など、けして悪いものではなかったということも、付け加えておきたい。
その後、「 冬のソナタ 」 や、あるいは主演した 「 ぺ・ヨンジュン 」 のファンは日本国内に急増し、現在のブームに至ったようである。
周囲にも、そういう方がいるので、「 その魅力とは 」 について尋ねたりもするのだが、なかなか 「 言葉では言い表せられない 」 らしい。
断片的には、「 純愛 」 とか、「 誠実 」 などといった単語で賛辞を並べられるのだが、それらを 「 一本の線 」 に結んで分析するのが、ちょっと難しい。
その一人、友人の奥様 ( 38歳、子供二人 ) の場合は、ぺ・ヨンジュンの話題をふると、目が潤み、遠くの方を見つめるような様子になる。
一応、私との会話は継続しているのだが、心はどこか 「 地平線の彼方 」 へでも旅立ってしまっているかのようである。
ちょっと前までは 「 キンキ・キッズが大好き〜♪ 」 と言っていた人なので、いづれは別のタレントに興味が移るような気もするが、今はそんな調子だ。
ただ、彼女の弁によると、「 キンキ・キッズが好き 」 という感覚と、「 ぺ・ヨンジュンが好き 」 という感覚には、大きな違いがあるらしい。
また、それ以上に、「 この旦那で我慢するしかなさそう 」 という感覚には、圧倒的な差異が存在するのだという。
ぺ・ヨンジュンは 「 ヨン様 」、ベッカムは 「 ベッカム様 」 と呼ばれる。
私なんぞは古い人間のせいか、人気者を 「 ○○様 」 と呼ぶ習慣を聞くと、「 杉様 ( 杉 良太郎 ) 」 を思い浮かべてしまう。
熱烈なファンが、対象に 「 様 」 の呼称を付けるのは、どうやら女性特有の現象のようで、男性が 「 あやや様 」 とか、「 ブリトニー様 」 とは言わない。
ちょっと不思議に思うのは、何年も 「 抱かれたい男ナンバーワン 」 の栄誉に連続して輝く 「 木村 拓哉 」 に、どうして 「 様 」 が付かないのかである。
私が知らないだけかもしれないが、「 キム様 」 とか、「 タク様 」 という呼称で、彼が呼ばれているという話は聞いたことが無い。
ぺ・ヨンジュンへの好感度について、周囲の老若男女に尋ねたところ、女性の中にも、あまり好ましく思っていない人はいるようだ。
サンプル対象が少ないので、あまり参考にならないかもしれないが、男性の中に 「 ぺ・ヨンジュンが好き 」 という人は皆無だった。
ちなみに私自身は、あまりよく知らないので、好きでも嫌いでもない。
好感度が低いという人に理由を尋ねると、男女ともに 「 ニヤついているから 」 という回答が多く、そう言われれば、そんな気もする。
彼の出ているワイドショーなどを眺めると、眩く白い歯をキラリとさせ、ファンに手を振る表情が、いつも 「 寸分違わぬ笑顔 」 であることにも気がつく。
ぺ・ヨンジュンだけではなく、続々と韓国のスター俳優が脚光を浴びており、いまや大人気となっているそうだ。
これはけして 「 悪口 」 でも 「 嫌味 」 でもないが、彼らのルックスや、ファンへの接し方の共通点を挙げると、「 ホストっぽい 」 という点のように感じる。
それも、どことなく古風で、「 昔の男前 」 的なホストである。
私の先入観かもしれないが、「 韓国人の男女感 」 というのは、儒教的思想に基づく、ちょっと 「 男尊女卑な印象 」 が強い。
しかし、当世の韓国スター俳優は、その甘いマスクと、優しげな眼差し、包容力を感じさせる笑顔を携えた、いわゆる 「 古風なホスト 」 タイプである。
また、これは偏見になるかもしれないが、彼らを熱烈に支持している女性は、どうやら 「 主婦層 」 に多いようだ。
当然、既婚男性の多くが、艶っぽい 「 おネエちゃんのいる酒場 」 に好んで通うのだから、主婦が 「 ホストっぽい男前 」 に憧れても、責められない。
それどころか、実際にホストクラブへ通うわけではないので、お金も掛からないし、はるかに実害の無い 「 健全な趣味 」 と言ってよいだろう。
だから、「 韓国人俳優なんぞに、うつつをぬかしおって 」 などと文句を言う旦那には、なんの遠慮も必要ない。
旦那の 「 飲み代 」 に匹敵する金額までは、好きな俳優の出演するDVDのソフトを購入したり、写真集を買っても、許される当然の権利である。
それに、彼らには 「 ホストっぽい 」 以外の共通点もある。
私の見る限り、彼らは端正な甘いマスクで目立たないが、かなり徹底して、その肉体を鍛えこんでいるように見受けられる。
日本のアイドルに多い 「 痩せっぽちで、ひ弱そう 」 な者はいない。
男性でも女性でも、「 既婚にも関わらず、他の異性に惹かれる 」 というのは、「 自分の伴侶に無い魅力を備えた異性の出現 」 が大きい。
日本の男性も、韓国のスターを毛嫌いするだけでなく、肉体と包容力を鍛えていかないと、「 ヨン様 」 に勝てる 「 旦那様 」 にはなれないようだ。
広島では6日、59回目の 「 原爆の日 」 を迎えた。
戦後60年という月日は、長いようでも、短いようでもある。
一般的に、時間の経過を眺める感覚というものは、年齢を重ねるごとに早くなるので、つまり、同じ年数でも短いように感じられるもののようだ。
たぶん、子供の頃は何を見聞きしても新鮮で、新しい発見や学習があるので 「 濃厚な時間 」 を過ごすが、年をとると 「 マンネリ化 」 するためだろう。
来月、来年の自分の姿が、およそ簡単に推察できてしまったりもする。
昭和43年には各地で 「 明治100年 ( 明治維新から100年目 ) 」 というイベントが行われ、記念切手なども発行されたことを憶えている。
当時、小学生だった私には、明治なんて遥か昔の時代に思えたし、100年の歳月というものが、自分に関係のあるものとして実感できなかった。
その頃、ヒットした映画には 「 2001年宇宙の旅 ( 1968米 ) 」 という作品があり、こちらでは逆に、およそ100年後の未来が描かれていた。
無邪気さが残る同世代の多くは、当時、100年前のことが実感できないのと同時に、100年後の世界など見当もつかなかったのではないだろうか。
もちろん今も、100年後の世界がどのように変わっているのか、言い当てることができるわけではなく、その時代に生きられる可能性も皆無である。
しかしながら、100年先の未来に対して、子供の頃よりは関心があるし、「 いまの時代 」 を構成する一人として、その時代への責任を感じる。
また、年をとり歳月を短く感じるようになったせいで、「 100年 」 なんてすぐソコまで迫っている話のようにも思えるのだ。
外国人に参政権を与えるかどうかの議論が高まり、先の総選挙で大勝した民主党などが推す 「 賛成論 」 が、勢いにのって成立に傾く気配である。
私には在日外国人の友人も多く、彼らが日本で暮らす境遇を改善することには賛成だが、この法案に対してだけは、きっぱりと 「 反対 」 を唱える。
理由は色々あるが、まず 「 内政干渉 」 という問題が挙げられる。
自国の政策は自国民の手に委ねられるべきであり、外国から影響を受けることはあっても、直接的に関与させられるべきものではない。
もし、日本の政策によって利害が左右される第三国の手によって、選挙権、被選挙権が操作された場合、これは大きな問題となる恐れがある。
極端な話をすると、外国人が率いる組織が最大政党になったり、外国人が首相になる可能性も、無いとは言い切れないのである。
現状において、そういった 「 最悪の事態 」 を防止する条例を設定したところで、参政権を与えているのだから、改定されれば何の意味も無い。
海外に目を転じても、同様の懸念からか、外国人に参政権を与えているような国家は皆無に等しく、このような 「 突飛な話 」 は聞いたことがない。
特に、長い歴史の間で、互いに侵略や占領といった戦乱に明け暮れた国々の場合は、「 主権 」 を外国人の手に委ねるような発想は微塵もない。
つまり、こういう発想が起きること自体、「 平和ボケした日本人 」 と言わざるを得ない現象であり、ヘタをすれば国家存亡の危機にさえ繋がる。
また、もう一つの懸念は、別のところにある。
それは、最近になって加速している 「 少子高齢化 」 の問題である。
国立人口問題研究所によると、現在の出生率が継続された場合、2100年における日本の人口は 「 約4000万人規模 」 に減少する見通しだ。
日本人が現在の 「 3分の一 」 に減り、国土の空いたスペースに、大量の外国人が流入してきた場合、参政権を与えると一体どうなってしまうのか。
前述の 「 外国人による最大政党 」 や 「 外国人の首相 」 といった問題も、大幅に日本人が減少する時代には、実現する可能性が少なくはない。
地主でなくても、長く住んでいれば 「 借地権 」 が発生するように、土地というものは、本来、そこに暮らし、根付いている人のものである。
だから、日本に住みついた外国人が 「 帰化 」 という形で国籍を取得し、参政権を得ることには何の問題も無い。
姿・形が違っても、それは紛れも無い 「 日本人 」 である。
しかしながら、己の祖国を別の土地に抱きながら、滞在先の国政に参加しようという考えには、まったく理解が及ばないし、認めることなどできない。
これは、常軌を逸した 「 愚法 」 であり、阻止すると同時に、こんな馬鹿げた意見を切り出した民主党、公明党などへの評価を見直す必要がある。
サッカー・アジア杯での、中国チーム応援団の姿勢が問題視されている。
応援に熱が入るのは結構だが、ちょっとマナーが悪いようだ。
日本戦になると、競技にはまるで関係のない 「 歴史的背景 」 まで持ち出し、アジア人民への謝罪要求など、意味不明な野次が飛び交う。
日本をとりまく周辺諸国には、戦後、敗戦の痛手から早々と立ち直り、経済優位国となった日本への 「 やっかみ 」 が大きい。
靖国神社の参拝問題にしても、自衛隊の派兵問題にしても、尖閣諸島などの問題にしても、なにかと 「 因縁をつけられる 」 のである。
これに対し、「 莫大なODAを投下してやってるのに 」 などと高飛車に威圧するようでは品性に欠けるし、いまさら謝罪するのも理屈に合わない。
ならば、どのような態度で臨めばよいのだろうか。
正解は、「 気にせず、無視する 」 といったところだろう。
ヘラヘラ笑いながら、「 すんませんなぁ 」 とでも答えておけばよい。
ジェラシーとは、勝ち目のない弱者が強者に対する 「 不公平感から起きる、やり場のないストレス 」 を発散するための、ささやかな権利でもある。
マナーには反するかもしれないが、せめて 「 言わせてやれ 」 というぐらいの気持ちがなければ、弱者のほうは可哀想である。
いちいち眉をとがらせ、国際問題だとか、やれ抗議だ、などと息巻いてみても、誰一人として何の得もせず、ただ疲れるだけの話ではないだろうか。
こういうのは、いまに始まった話ではないし、中国だけの問題でもない。
甲子園球場で、阪神ファンが巨人選手に野次を飛ばす姿の中にも、首都に対する地方のジェラシー的憤懣が、随所に垣間見られる。
歌舞伎演目の忠臣蔵が永く庶民に愛されてきた理由も、「 武士道 」とか、「 忠誠心 」 ではなく、「 お上に一矢をむくいる 」 爽快さにあったのだ。
人間の感情は複雑で、立場や力量の弱い者を応援し、確率的にみると低い方の 「 逆転勝ち 」 に期待する 「 判官びいき 」 という心情も潜在する。
考えてみれば、常に正しいほうや、強いほうが順当に勝つだけでは、何の醍醐味もなく、つまらない話でもある。
それに、熱狂的な阪神ファンで 「 東京モンは大嫌い 」 と言っているような人でも、実際には、口で言うほど毛嫌いしていないケースが大半である。
知人にも、「 たとえ金を積まれても、東京には行かん 」 などと豪語しているくせに、連休で 「 東京ディズニーシー 」 へ家族と出かけたりする人がいる。
きっと、アジア杯で 「 日本は侵略の歴史を直視し、アジア人民に謝罪せよ 」 なんてプラカードを掲げていた人たちも、同じようなものであろう。
商店街のくじ引きか何かで、「 4泊5日の日本旅行 」 でも引き当てたなら、喜び勇んでカメラ片手に日本へやってくるはずだ。
そして、「 役に立つトラベル日本語 」 などの本で最初に覚えるのは、「 侵略 」 とか 「 謝罪 」 ではなく、「 ありがとうございました 」 である。
ようするに、人の口から出た言葉というのは、その語気が荒ければ荒いほど、「 額面どおりに本気で受け取ってはいけない 」 ということである。
そこには、その場の雰囲気による 「 勢い 」 もあれば、演出的効果を狙った 「 パフォーマンス 」 というものも存在する。
そんなものに一喜一憂し、本気で取り合ったところで、何の意味もない。
靖国神社に参拝せず、謝罪しまくったところで、優等生がますます、その 「 優等度 」 を高くするだけのことで、劣等生からみれば面白くはない。
そういう意味では、彼らに 「 ケチをつけさせる余地 」 を与えていることが、案外と両国の関係を極端には悪くしない方策となっている面もある。
もちろん、日本人で、日本政府に悪口雑言を叩く人たちも同じである。
心のどこかで 「 日本人で良かったよな、北朝鮮だったら最悪だぜ 」 と理解しながら、「 小泉憎し 」、「 日本憎し 」 といった発言を繰り返す。
地球レベルでみれば恵まれた環境にあるのだが、同僚に出世を追い越されたとか、ちょっとした不幸や、不公平感から、愚痴ばっかりになる。
挙句の果ては、「 日本人は馬鹿だ 」 とか 「 日本人で恥ずかしい 」 などと、「 天にツバ吐く 」 ことで、ますます自分を矮小化させていくのである。
国を問わず、こういう人はどこにでもいるのだが、良識のある人にとっては 「 アウェーの話 」 だと思って、相手にしないのが一番であろう。
病気になることは 「 罪悪 」 ではなく、誰から責められるものでもない。
しかし、故意に 「 病原菌を撒き散らす 」 のは、犯罪行為にあたるだろう。
雅子さまのご病状が 「 適応障害 」 と発表された途端、まるで 「 水を得た魚 」 の如く、はしゃぎ始めた輩がいる。
一つは 「 アンチ皇室派 」 と目される連中で、もう一つは、「 人格障害者のサイト管理人 」 である。
前者は、戦前と違って 「 思想の自由 」 が保証されているのだから、個人的には不快な考えだが、だからといって 「 処罰の対象 」 にはならない。
後者についても、「 ともに治療に励みましょう 」 とか、そういった建設的で、前向きな意見が語られているのであれば、何の問題もない。
どんな病気でも、それに偏見を持ったり、なんらかの迫害を加えることは、けして正しい行いではないのである。
同じ人間でも、健康なときだけではなく、病に伏せるときもあり、いまの自分よりも弱い人間を庇ったり、いたわる心を持つことは、とても大事なことだ。
ただし、「 病人 」 だからといって、なにもかも許されるわけではない。
病に苦悩する人が、いたわりや庇護を求めることは、ごく自然で正当な行為だが、それを武器にして他人を貶めたり、汚染を広げてはならない。
このたび、雅子さまが 「 心の病 」 に悩まれているからといって、人格障害者が 「 己の矛盾を正当化 」 する材料にするのは、もってのほかである。
彼らにすれば、「 皇室の人間には寛容で、一般の人間には手厳しい 」 と思うかもしれないが、そういうことではない。
雅子さまは、ご自分がご病気であると知ってから、治療に専念され、けして人前で自己主張を述べたり、世間を批判したりはなされていない。
それに対し、ネットにみられる一部の人格障害者は、「 自分が通院しており、病名が、症状がなんであるのか 」 を知っていながら、暴言を垂れ流す。
自分の精神状態が正常でないのだから、その発言にも信念を持てるわけがないのに、恥ずかしげもなく堂々と、他人や社会への批判を繰り返す。
これは、病人が本来は果たすべき療養の責任を放棄し、自らの 「 病原菌 」 を世間に撒き散らしているようなもので、誉めた振る舞いではない。
風邪のウイルスと同じで、健康な心身のものは 「 その菌 」 に感染しないが、なかには抵抗力がなく、「 感染 」 する者がいるかもしれない。
具体的な事例で言うと、社会や家族に理不尽な憎しみを持ち、逆恨みで捨て鉢な批判をしたり、自らの 「 自殺癖 」 を美化するようなサイトがある。
それらは、自殺するような状況に追い込まれていない者が読むと、ただの馬鹿げた戯言だとしか思わないので、なんら社会に害はない。
しかし、ちょっとした躓きで思い悩んでいる者が読めば、感化されたり、安易に自殺への道を辿る手助けとなる危険はある。
別に、心の病気で悩む人が、サイトを公開すること自体には、何の問題もないし、それを排除することを善しとも思わない。
だが、「 他者を攻撃することではなく、自分や、同じ悩みを持つ人々の、ためになる 」 サイトでなければ、社会にとって 「 有害 」 ではないだろうか。
なにも、「 病人は、病人らしくしろ 」 と言っているのではない。
ネットという自由な表現の場を活用して、自分の本心を吐露したり、ストレスを発散することも、けして許されないわけではない。
だが、精神異常者が刃物を振り回して暴れても 「 病気だからいいよ 」 では済まないのと同じで、つじつまの合わない暴論を晒すべきではない。
おそらく、それなりの教育を受けた人間だろうから、我々が読む以上に 「 自分の書いていることは矛盾がある 」 ことも気づいているはずである。
雅子さまの回復に向けてのご闘病は、同じ心の病を持つ人々の励みになる可能性が高いが、自暴自棄な人格障害者のサイトは、逆の影響を投げる。
以前にも書いたが、こういうことは、一人の人格障害者の責任ではなくて、社会全体の価値観、倫理観にこそ、大きな問題があると思う。
つまり、「 書いている人間が悪いというよりも、善悪の判断もつかず、それに同調したり、評価を与えることの問題 」 が、社会を混迷させるのである。
ある特定の人物を、「 おかしな奴 」、「 いかれた奴 」 だと追っ払ったとしても、次から次へと同じような輩は後に続くだろう。
現在、うつ病で 「 自殺 」 を考える人間は、国内で一日に百人にのぼる。
私の論調は、彼らに手厳しいと思われるかもしれないが、彼らの暴挙や、暴論を支持する人間のほうが、けして 「 ため 」 にはなっていないはずだ。
そういうわけで、たとえ雅子さまと病状は似ていても、「 とるべき態度 」 というものが違っていることを、身に覚えのある人は自覚してもらいたい。
話は変わるが、今回の一連の騒動で気になったのは、「 マスコミ、宮内庁の対応 」 である。
けして、隠し立てすることが良いとは言わないが、皇室一家のご病状を 「 適応障害 」 だとか、「 心の病 」 などと公表する時代になったのか。
もちろん私自身も、天皇が 「 神様だ 」 などとは思わないが、皇室を敬い、尊ぶという意識が、だんだんと弱まっている感じがして残念だ。
雅子さまには、公務なぞどうでもよいから、「 愛子さまのお母さん 」 として、早く元気になっていただきたいと、私自身は願っている。
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