「 正しい戦争とか、間違った平和というものは、あった試しがない 」
ベンジャミン・フランクリン ( アメリカの科学者、政治家、文筆家 )
There never was a good war or a bad peace.
BENJAMIN FRANKLIN
冒頭の名文は正しく、何の異論もない。
戦争に 「 正しい戦争 」 なぞ、あろうはずがないのだ。
イラク戦争を支持するということを、即ち 「 イラク戦争が正しい 」 という認識と結びつけて考える人がいるようなので、誤解を解いておくべきだろう。
別にイラク戦争にかぎらず、すべての戦争は 「 正しくない 」 のである。
たまに、平和主義者を気取っている人が 「 イラク戦争の正当性は? 」 などという質問をしたり、議論を蒸し返したりしている。
私からみれば、むしろ 「 戦争の根拠に正当性を求める 」 などという人間のほうが、よほど平和からは縁遠い 「 危険人物 」 に思えてならない。
事実、彼らは 「 大量破壊兵器が見つからなかった 」 ことを、重大な論点のように語っているが、逆にいえば、「 見つかれば正しかった 」 ことになる。
私の意見は、大量破壊兵器があろうが無かろうが 「 戦争は正しくない 」 というものだから、そんなモノの存在は、たいした意味がないのである。
こうやって説明すると、「 エセ平和主義者 」 の化けの皮はすぐにはがれ、彼らがただの 「 天邪鬼 」 だということが理解しやすいはずだ。
つまり、「 自分が幸せでない 」 とか、「 自分の思い通りに世界が動かぬ 」 ことへの逆恨みで、政府や社会にインネンをつけているだけである。
もちろん、私自身を 「 真の平和主義者 」 だと名乗るつもりもない。
本来は 「 正しくない 」 戦争だが、他に方法も無く、避けられない場合には実行すべきだとする意見が、私を含めた大半の声ではなかろうか。
たとえば、「 暴力は正しい 」 と考えている人は少ないだろう。
二年前、中国瀋陽の日本総領事館に 「 脱北者一家が駆け込んだ事件 」 を、ご記憶の方は多いと思う。
当時、問題になったのは 「 その場に居合わせた外務省役人の態度 」 で、それは 「 ポケットに手を突っ込んだまま傍観している 」 という姿だった。
泣き叫ぶ幼い子供を、中国の警官が捕らえようとしている状況を目の当たりにして、彼らは何もせず、じっと状況を見守っていた。
ワイドショーも、平和主義者を名乗る人たちも、その光景を 「 非情だ 」、「 冷淡だ 」、「 人間性を疑う 」 と、しきりに非難していた記憶がある。
もし、あの場で、「 その子から手を離さないと、痛い目をみるぜ 」 と恫喝し、中国の警官と闘って子供を解放する役人がいたら、どうだっただろう。
それは、あるいはその行為が 「 暴力 」 であったとしても、「 義を見てせざるは勇なきなり 」 として、なかなかの正義漢と称えられたような気がする。
実際、世論が非難したのは 「 無抵抗で脱北者を引き渡した 」 という役人の臆病さであり、声に出さねど求めたのは、そういった行為ではないのか。
脱北者でピンとこなければ、日本人の子供に置き換えてもよい。
もしも、善良な日本人の子供が、悪漢に誘拐されようとしているとき、それを力づくで阻止しようとした者を、はたして 「 暴力 」 と非難するだろうか。
相手が何者で、いかに正当な目的があろうとも、暴力は暴力である。
私はさほど短気でもなく、けして自分を暴力的な人間とも思わないが、武装した警官が、いたいけな幼子に手を出すのを、黙って見てはいないだろう。
ましてや、自分の友達や、愛する人が危険に晒されていれば、暴力を行使することのリスクを承知していながらも、やはり自分で行動するはずだ。
大阪弁でいうところの 「 ボコボコにしてやる 」 というやつだ。
あとから、それを 「 暴力だ 」 だの 「 過剰防衛だ 」 だの言われたとしても、責任を恐れて鉄槌を下さないような 「 臆病者 」 ではない。
戦争というものは、いわばその延長線上にある。
たとえ 「 正しくなくても 」 殴らなきゃならん奴は殴るし、ましてや、守らなきゃならん者は守るのが、人間としての自然な本能である。
それを、理論立てて正当化することはできず、「 違法 」 と言われればそれまでだが、追い込まれた状況の中で 「 善か悪か 」 はさほど重要ではない。
基本的に、「 命 」 というものを 「 かけがえのないもの 」 と考える人間は、是か非かよりも、どうすれば多くの、より責任のある命を救えるか考える。
誰が死のうが生きようが、合法的か否かを優先して考えるのは人として不自然で、結局、自分や他人の命に執着のない者は、そちらに走りやすい。
世の中に 「 けしからん国家や、人物 」 が一人でもいるかぎり、武装したり、機先を制したり、報復する術を持って対抗する必要がある。
もちろん、それで戦争に至ったとしても 「 正当性 」 を主張することは困難だし、正当かどうかは、はたして優先順位のトップではないだろう。
人は 「 正しいか否か 」 よりも、まず、己の生命を守り、愛する者、罪なき者を守ることが、なにより大切なことだ。
当然、いくら世の中が非情で、不公平で、皮肉で、愚かなドラマだとしても、人間同士が信じあい、認め合える環境を整える努力も必要ではある。
残念ながら、現在はそれに程遠い状況にあり、むしろ理想とは対極の位置に近づいているのだから、米軍が退いても戦争は終わらないだろう。
( 本日のおさらい )
「 正しい戦争なぞ無いが、是も非も無く、守るべき者は守って当たり前 」
| 2004年09月27日(月) |
アメリカ史上、もっとも残虐な行為 |
「 たとえあなたが正しい道にいるとしても、そこに座っているだけでは、
車に轢かれてしまうだろう 」
ウィル・ロジャース ( アメリカの喜劇俳優 )
Even if you're on the right track, you'll get run over if you just sir there.
WILL ROGERS
ここで [ on the right track ] は、「 ( 考えや行為が ) 正しい 」 という表現。
走路である [ track ] と、[ get run over ( 轢かれる ) ] の言葉遊びだ。
洋の東西を問わず、人気のある喜劇役者には 「 風刺の達人 」 が多い。
己の 「 身の程 」 をわきまえてか、政財界のトップのように正面から物申すのではなく、駄洒落やジョークに他意を忍ばせて、大衆の賛同を求める。
歴史上、それは 「 権力に対抗する手段 」 として用いられたことが、一般的に広く知られているが、けして、そういう場面ばかりでもない。
冒頭の一節は、権力者というよりも、むしろ 「 一般大衆 」 に呼びかけたものであり、「 大勢を占める民意に、異論を唱えた 」 内容と伝えられている。
文中に込められた 「 さぁ、行動を開始しましょう 」 といった言葉の真意は、当時の時代背景から鑑みると、「 戦争 」 を示唆した可能性が高い。
時折、「 私は戦争が嫌いです 」 とか、「 平和を求めます 」 などと、声高に主張する人をみかけるが、どうも違和感を持ってしまう。
なぜかというと、「 戦争が嫌い 」 などという感情は、世界中の圧倒的多数を占めるであろう 「 全人類に共通する、当然の人間感情 」 だからである。
そんな 「 当たり前の気持ち 」 を議論の場に持ち出し、自分だけが特別な平和主義者であるかの如く、青筋立てて力説する神経が理解できない。
軍備が必要と説く者も、憲法の改正を是とする意見も、あるいはイラク戦争の支持者にしても、けして 「 戦争がしたくてたまらない野蛮人 」 ではない。
大抵は皆、「 できることなら戦争なんてしたくない 」 と願いながらも、祈るだけでは願いが達せられそうもないことを危惧し、対策を考えているはずだ。
イラク戦争について様々な議論が起き、是か非かの決着はついていない。
あれは 「 ブッシュ大統領の暴走 」 だと、考える人もいるだろう。
しかしながら、それでは 「 別の誰かが大統領だったら 」 戦争は避けられていたと、考えることが妥当なのだろうか。
大統領選挙を前にブッシュ氏を非難し、「 こんな奴にやらせていいのか 」 と毒づく人も多いが、かといって彼らが、ケリー氏を応援するわけでもない。
個人的な意見だが、アメリカにはアメリカの、日本には日本の、役割と立場というものが存在するかぎり、誰が宰相でも選択肢は同じだったと思う。
かつてアメリカは日本に原爆を落とし、朝鮮半島を二分し、ベトナムの森林を焼き払ったが、それが彼らにとって 「 最大の罪 」 であろうか。
これら 「 アメリカ がしたこと 」 について責任を問う人は多いが、それでは 「 アメリカ のしなかったこと 」 に、罪はないのだろうか。
ドイツがポーランドに侵攻し、第二次大戦は始まった。
ヨーロッパは戦渦に包まれ、ファシズムの脅威に怯える自由主義諸国と、民族浄化の名のもとに迫害を受けた人々は、アメリカに救いを求めた。
もし、もっとアメリカが素早く参戦していれば、どれだけ多くの罪なき人々が救え、あるいは 「 戦争そのもの 」 を未然に防げたかわからない。
あまり知られていない話だが、第二次大戦の直後、ソ連の強制収容所で、何千、何万という数のポーランド人が、命を落としている。
しかもその多くは、ポーランドで捕虜になったわけではない。
戦争が終わり、米軍によってドイツの収容所から解放された彼らは、なんとアメリカ人によってロシアへ送られたのである。
ソ連は、彼らを処刑または奴隷化するため、すべてのスラヴ人の本国送還を希望し、ソ連と波風を立てたくないアメリカは、それに従ったのだ。
米軍は彼らを一ヶ月間、難民収容所に入れてからソ連軍に引渡し、結果、「 ヒットラーの手が届かなかった分 」 は、スターリンがやってのけたのだ。
私は、ベトナムより、イラクより、あるいは広島、長崎よりも、この事件こそが 「 アメリカ史上、もっとも残虐な行為 」 であると思っている。
超大国というものは、ときに 「 なにかを始める 」 ことよりも、不幸な人々を前に 「 なにもしない 」 ことのほうが、残虐で、罪の重い場合がある。
自衛隊のように、「 使わないために存在する力 」 ではなくて、米軍は人を殺すことも、救うこともできる 「 使うために存在する力 」 を擁している。
それは、自らの利害に関わり無く、必要とされれば動かざるをえない宿命を背負っており、反することは 「 彼らが、彼らでなくなること 」 を意味する。
逆に日本の場合は 「 使わない 」 ことに、その価値のすべてがあり、同じように兵を進めても、「 アメリカと共に参戦した 」 とは考え難い。
アメリカ人の多くは、他国のイザコザにチョッカイを出して失敗した話だけではなく、慎重になりすぎて 「 見殺しにした事実 」 を忘れていない。
無論、「 正義の軍隊だ 」 などと名乗るのは 「 うぬぼれ 」 というものだが、弱者を見捨てて安住の地に暮らすことも、けして名誉な話ではない。
戦争を擁護するわけでもないが、他国の不幸を見聞きして、火の粉がかからない場所で 「 見てみぬフリ 」 をすることが 「 平和主義 」 なのだろうか。
アメリカは実戦部隊を配備し、日本は後方支援に徹する。
それを 「 戦争への加担 」 だとか、「 軍国主義への回帰 」 だと思う人もいるだろうが、私は 「 自然で適切な役割分担 」 だと認識している。
( 今日のおさらい )
「 見てみぬフリで見殺しにして、はたして平和主義者といえるかな? 」
「 他人を正そうと情熱を傾けること自体が、難儀な病気です 」
マリアン・ムーア ( 詩人 )
The passion for setting people right is in itself an affictive disease.
MARIANNE MOORE
昔から、「 春になると、妙な人たちが現れる 」 などという。
近頃は、年がら年中、そういった傾向があるようだ。
どうせ生きていくなら、目的や、理想のようなものを掲げながら、その領域に近づこうと邁進する 「 情熱的な生き方 」 が望ましいと思う。
あくまでも一般論だが、刹那的に、無気力に生きている人より、もっと人生に真正面から向き合い、精力的に生きている人の方が魅力的に映る。
ところが、そんな情熱たちも 「 向けるべき対象 」 や 「 方向性 」、あるいは 「 情熱を語る立場 」 によっては、奇異にしか見えない場合がある。
最近の例でいうと、「 宅間死刑囚の妻 」 なんて人が現れ、必死で妙ちくりんな論理を展開しながら世間を騒がせたが、まるで誰にも理解されない。
元々知り合いでもなく、事件後に 「 獄中結婚 ( 奥さんは娑婆だが ) 」 したような関係で、どうして情熱的に解放を訴えられるのか、まったく解せない。
また、「 プロ野球機構と選手会の会談 」 において、12球団の代表がそれぞれの意見を述べる中に、「 合併する2球団 」 が含まれているのも変だ。
当然、自分たちの生活に影響のある選手会や、採算を重視する球団側が、お互いの主張を熱っぽく繰り広げるのは自然であり、理解もできる。
しかしながら、継続を放棄した球団の代表までが、プロ野球の今後について 「 あーでもない、こーでもない 」 と意見を述べる権利が、どこにあろう。
まるで自分たちには責任が無いかのごとく、好き勝手に発言している様子をみると、なんとも首を傾げてしまうのだが、意外と誰からも指摘されない。
諸問題について、彼らが何か発言するたびに、他球団の代表や、選手会が一斉に 「 オメェらのせいだよっ! 」 ってツッこんでも、よさそうなものだが。
政治の世界に目を転ずると、学歴を詐称していた議員が、ようやく辞職することになったが、彼の語ってきた 「 情熱 」 も、空虚で身勝手なものだった。
単位が足りていなかったことが露見すると、「 今から取りにいきます 」 などと、誰も望んでいない努力をしようとし、世間から嘲笑されていた。
せめて、その時点で辞職していれば、多少は 「 潔さ 」 を評価できたかもしれないが、公職選挙法の捜査が及んでからでは、みっともないだけだ。
新宿の地下街では、「 通行の邪魔になるので、募金活動を禁止する 」 という布告が出て、これに反対する団体が、警察と 「 情熱的に 」 争っている。
これも、「 自分たちは正しいことをしているのだから、何をやっても許される 」 などと勘違いした連中の 「 時や場所を考慮しない身勝手 」 である。
なにかを 「 情熱的に語る 」 には、それなりの背景と、万民に支持されるような理論と、なにより 「 正しい目的 」 が求められる。
そこを間違ってしまうと、本人にとっては 「 情熱 」 でも、他人からみれば 「 ただの厄介者 」 でしかなく、迷惑このうえない存在となり得る。
私なんぞも、たまに熱っぽく 「 おバカな人々 」 を糾弾したりしているが、これも大半は 「 ほっときゃいい 」 ことなのかもしれない。
どうせなら、そんな連中にかまっているより、マトモな人たちと交流する時間を多く持ったほうが、自分のため、社会のために望ましい。
情熱とは、かけがえのない 「 人間の生きる意志 」 でもあるが、くれぐれも方向や目的を誤らないようにしなくては、世間の迷惑にしかならないようだ。
( 本日のおさらい )
「 間違った情熱は、他人からみればただの厄介者 」
「 人間は、何事も人に教えることなどできない。
ただ、人が自分の中にある能力を発見するのを手伝うことならできる 」
ガリレオ・ガリレイ ( 天文学者、物理学者 )
You cannnot teach a man anything; you can only help him to find it within himseif.
GALILEO GALILEI
小学生の4割以上が、「 天動説 」 を信じているという報道を目にした。
正確に言うと、「 信じている 」 というより 「 真実を知らない 」 だけだが。
17世紀、イタリアの天文学者 ガリレオ は、「 それでも地球は動いている Yet the earth does move 」 と説き続け、宗教裁判で極刑を言い渡された。
そんな苦労の甲斐も無く、地球の仕組みやら、太陽の昇る方向やら、月の満ち欠けのメカニズムやらに、今の子供たちは興味が薄いようだ。
これを、「 学習プログラムの簡略化 」 だとか、文部省の責任にすることは容易いが、それだけの問題でもないような気がする。
いわゆる 「 常識的な事柄 」 というのは、カリキュラムに織り込まれているかどうかよりも、親や教師が子供に対する 「 日々の接触 」 で学ぶものだ。
私自身、「 地動説 」 は理科の授業ではなく、親か教師に薦められて読んだ 「 ガリレオの偉人伝 」 で知ったのが最初だったように記憶している。
基本的に、「 子供がバカ 」 なのは、親や教師の責任が大きい。
子供を対等の人格として尊重することと、その成長過程を子供自身の責任として傍観することは別の問題で、勘違いしてはならない部分である。
ただし、やみくもに押し付けたり、ノルマを課すだけが教育ではなく、その前段階として、学問に興味を持たせることが重要であろう。
このような 「 学習の動機付け 」 こそが、実は 「 できる子、できない子 」 を分かつポイントでもあり、子供にとっては大きな影響が与えられる。
良い親、良い教師というのは、その点をちゃんと心得ていて、子供が自発的に意欲をもって学問に向き合うための 「 アシスト 」 が巧いのである。
また、それが 「 生きるために必要な知識 」 ということであるならば、教え、学ぶ場所は、いつも学校の教室とはかぎらない。
家族団欒の食卓、夏の宵に縁側から眺める夜空、秋の紅葉見物、虫の声、すべてが子供にとって 「 教室 」 であり、学習の機会と成り得る。
そんな 「 昔は当たり前だった 」 ことが、今はまるで 「 なにか特別のこと 」 であるかのような違いが、学力の低下をもたらしているように思う。
あるいは、「 子供が欲する知識を、どのような方向に導いていくのか 」 ということについても、親子のコミュニケーション不足から、抑制がとれない。
結果、小学生でも携帯電話やメールを自由に使いこなせて、社会の裏側を覗き見したりできるが、「 太陽がどっちから昇るかわからない 」 のである。
今年の4月、アフリカのケニアでは 「 84歳の世界最高齢小学生 」 として、キマニ・マルゲさんという人が、ギネスブックに認定されたそうである。
家庭の事情で学校に通えず、読み書きができなかったマルゲさんは、昨年の10月、政府が義務教育を無料化したことで、進学を決意した。
毎日、授業の一時間前には学校に来て予習を始め、全科目が成績優秀の 「 A 」 で、ひ孫のような同級生たちも 「 おじいちゃんは優等生 」 と認める。
マルゲさんに将来の目標を尋ねたところ、彼は 「 このまま進学して大学を卒業し、獣医師になる 」 と話したそうである。
年齢的な背景については、「 あと何年かかるか分からないが、200歳まで生きるから大丈夫 」 と、笑顔で応えたらしい。
学問は、設備やら、教育機関やら、「 お金 」 の絡む問題ではない。
むしろ、「 動機付け 」 と、「 本人の資質 」 と、「 教師の質 」 に多大な要因があり、それらが複合的に交わって 「 出来、不出来 」 が決まる。
なかでも、「 教師の質 」 というのは、学校の教諭だけではなく、場合によっては親や、自然環境や、周囲の存在も含まれるだろう。
平均的な日本の小学生に比べ、マルゲさんの話は尊敬に値するが、惜しむべきは 「 失われた歳月 」 の問題である。
幼少期から高度な教育の機会が準備されている国にあって、その恩恵にも気づかず、時間を無駄にする我々は、まさしく 「 平和ボケ 」 なのである。
( 本日のおさらい )
「 常識的な事柄は、親や教師の子供に対する日々の接触で学ぶもの 」
「 若い頃は自由を熱心に説いた。
歳をとってからは秩序を説いている。
自由は秩序から生まれるという大発見を、私はしたのだ 」
ウィル・デュラント ( 教育家 )
In my youth I stressed freedom, and in my old age I stress order. I have made the great discovery that liberty is a product of order.
WILL DURANT
日本人の 9割が、「 ここ10年で日本の治安は悪くなった 」 と感じている。
内閣府が初めて行った 「 治安に関する世論調査 」 の結果である。
治安が悪化した理由 ( 複数回答 ) については、「 外国人の不法滞在者が増えた 」 という回答が 54,4% と、最も多かった。
たしかに、どこの国でも 「 外国人の不法滞在者 」 が正規の職に就くことは難しく、彼らが生きるため、裏稼業に手を染めるのは自然の摂理だ。
これを防ぐには、入国を厳しく監視するなり、一部の国や地域からの入国を制限するなり、江戸時代以前のように 「 鎖国 」 するしかない。
あるいは、世界一 「 外国人の受け入れに関して寛容な国家 」 となり、難民でも犯罪者でも無条件に受け入れ、「 合法滞在者 」 とする方法もある。
もちろん、そんなことをすれば今以上に治安は悪化する可能性が高いので、誰も賛成しないだろうし、やるべきではない。
外国人の受け入れをどの程度 「 厳密に行うか 」 は、外交問題でもある。
厳しくすれば治安維持には効果的だが、諸外国の反撥は避けられない。
国家間の信頼関係が揺らぐばかりか、身許のしっかりした 「 合法滞在者 」 の行き来にも支障が出て、お互いの経済発展にも損失が大きい。
たとえば、ハワイへ出掛けるのに 「 ビザ 」 が必要となれば日本人観光客の数が激減するように、貿易や、経済交流の面で多大な影響がある。
かといって 「 野放し 」 というわけにもいかず、民意は監視の強化を望んでいるが、国会では 「 外国人投票権 」 など、逆方向に議論が向かっている。
治安悪化理由の第二位は、「 青少年の教育が不十分 」 というものだった。
これについては 「 犯罪の低年齢化 」 であるとか、「 少年犯罪の凶悪化 」 という事態に、危機感をもつ人々が多いことを表しているのだろう。
しかしながら 「 犯罪白書 」 などによると、少年による犯罪が全体に占める割合というものは、平成7年以降は低下しているのだという。
実際のところ、たしかに 「 良からぬ子供 」 が多いことも事実ではあるが、犯罪の主役は圧倒的に 「 子供より大人のほうが多い 」 はずだ。
男子生徒が女教師をレイプする事件と、男子教師によって女生徒がレイプされる事件を比べても、どちらが 「 日常的で数が多い 」 のかは明白だ。
どうも 「 大人の社会が悪い理由を、子供たちのせいにする 」 という考え方には矛盾があり、「 青少年の教育が不十分 」 という回答はどうかと思う。
大人側から子供たちになされる非難の多くについては、大人たちが自分の問題を否認し、子供に投影したものといえなくもない。
近頃の子供は 「 キレやすい 」 というが、成熟し、分別盛りの大人も、些細なトラブルから殺し合いを演じ、十分に 「 キレやすい 」 のではないか。
さらにいえば、子供がキレやすいのは脳の発達生理学上は自然なことで、システムとして未完成な脳が興奮しやすく、制御が不十分なのは当然だ。
つまり、犯罪の統計データからみても、頭脳の発達メカニズムからみても、子供にばかり治安の責任と問題を押し付けることは、できないはずである。
私自身は、「 日本の治安が悪化した最大の理由 」 について、「 行き過ぎた人権擁護 」 にあると思っている。
犯罪の初期段階で、ストーカーや、身近な暴力に怯えたりして警察へ駆け込んでも、「 人権とプライバシーの保護 」 を口実とし、捜査を開始しない。
実際に、正義感の強い警察官がいて、そこに介入したとしても、行き過ぎた人権擁護の枠の中で、やれることは限られている。
ネットの世界をみても、公序良俗に反する暴論が罷り通り、自由を獲得する一方で、それを非難する意見が 「 個人的な中傷 」 として削除される。
相手が何者であっても 「 人権 」 が存在することは事実で否定できないが、それを盾にして 「 何でも許される社会 」 では、秩序の維持など困難だ。
しかも、現代日本における 「 人権 」 についての考え方は、ご都合主義で、世論に左右されやすく、明確な指針がない。
先日、大阪で無差別に小学生を殺傷した宅間被告の死刑が執行された。
たとえ精神鑑定の結果がどうであっても、彼の精神を 「 正常だ 」 と思う人は皆無に等しいだろう。
法律上、著しく精神に異常をきたしている者は処罰を免れる項があり、他の事件において、それを理由に刑の執行を免除された者も少なくない。
その手続きを無視し、強引に刑罰を言い渡すと 「 人権団体 」 が黙っていないし、たとえ再犯の恐れがあっても、後々まで追尾されることもない。
ところが、宅間被告の死刑については、あまり誰も騒ぎ立てない。
人権にうるさい団体も、同じように精神を病んでいる人間も、この一件に関しては世間と歩調を合わせ、「 殺せ、吊るせ 」 の大合唱である。
たしかに精神鑑定などで 「 責任能力アリ 」 と認められたのだろうが、かといって、彼の精神状態を 「 正常 」 と認めることは難しいはずだ。
それに、本来 「 責任を負う 」 ということは、対応する 「 能力 」 の問題ではなく、果たすべき 「 義務 」 の問題で、精神鑑定そのものが矛盾している。
おそらく、宅間被告の精神鑑定が 「 責任能力アリ 」 と出たことで、内心はホッとして安堵しているのは、各種の人権団体や、人格異常者であろう。
つまりは、人権団体も、人格異常者も、持論は覆したくないが 「 世論を敵に回す 」 ことは希望していないのである。
あれだけの惨事を前に 「 宅間被告は無罪 」 と主張する度胸はなく、曖昧な小事については、常に天邪鬼な持論を展開するのが彼らの十八番だ。
そういった、場当たり的で、哲学も、思想も、文化もない 「 自称、人権家 」 なる連中に、日本の治安は乱され、振り回されてきたのである。
治安維持にかぎらず、憲法も、自衛隊論議も、経済政策も、年金問題も、金融の再編も、森羅万象、すべてにおいて天邪鬼が邪魔をする。
そんな世の中を 「 昔に比べて文明が高度化した 」 などと誤解するのは、「 勘違いもはなはだしい話 」 で、「 住み難い社会 」 に変貌しただけだ。
( 本日のおさらい )
「 行き過ぎた人権擁護社会は、文明の高度化ではなく、住み難い社会 」
* 一部の賢そうなアホに、マトモな人は振り回されるという論理
( お知らせ )
今日から22日まで、旅行のため不在します
「 うぬぼれとは、ちっぽけな人間がもらった神の贈り物 」
ブルース・バートン ( ダスティン&オズボーン会長 )
Conceit is God's gift to little men.
BRUCE BARTON
さぁ、今夜も 『 Tonight 今夜の気分 』 の始まりだよ。
今日も私が皆さんに、良いお話を聞かせてあげましょう。
とまぁ、今夜は 「 くそ生意気な書き出し 」 で始めてみた。
私の日記を、「 こんな感じ 」 だと評する方もいるようだが、それはなかなか的を得た指摘であると思うし、たしかに、その通りかもしれない。
私自身は 「 聖人君子 」 に程遠い人間だが、「 エッチな男が必ず悪人 」 ということでもないし、それなりに、人生を真面目に取り組んでいるつもりだ。
大半の人間は 「 良いところと、悪いところ 」 があるもので、悪いところが多すぎるのは問題だが、一つも無いようでは 「 人間味 」 に欠ける。
そのあたりの 「 バランス 」 が、きっと大事なのだろう。
たとえば、就職のための面接で 「 長所、短所 」 を尋ねられる場面も多いが、長所は上手くアピールできても、短所を適切に答えるのは難しい。
理想的な 「 短所の答え方 」 としては、�� 致命的でない事柄 で、�� 場合によっては長所に化け得る というポイントを探すのが、一番だと思う。
例を挙げると、「 口下手 」 という欠点は、その一つだろう。
真面目に働いて、成果を挙げさえすれば、それは 「 致命的な欠点 」 ではなく、余計なおしゃべりで時間を費やさないという面で 「 長所 」 ともいえる。
逆に、「 饒舌 」 が欠点にあたるケースも、いくらでもある。
また同じように、大半の人の心には 「 良心 」 と 「 よこしまな心、邪心 」 があり、これも双方兼ね備えていることが 「 人間らしさ 」 だと思う。
私自身も、ご多分に漏れず 「 長所、短所 」 や 「 良心、邪心 」 を擁していると自覚しており、どちらかに特化してはいないはずである。
もちろん、短所を克服する努力をし、邪心を抑えるように心掛けはするが、おそらく永久に 「 100%正しい 」 方向に、針が振れることはないだろう。
だから、日記において断定的な口調で 「 ○○ は ▲▲ である 」 と語るには欠陥があるかもしれないし、すべてに自信があるわけではない。
となれば、冒頭のような書き出しは 「 うぬぼれ 」 と評価されたり、「 何様のつもりだ 」 と責められても、ちょっと否定できないかもしれない。
それでは、「 法事の後に、お坊さんが話してくれる 『 ちょっと良いお話 』 」 のような私の日記は、「 きれいごと 」 や、あるいは 「 嘘っぱち 」 なのか。
自己弁護するわけではないが、けして、そうではないと思う。
それは、「 良心 」 も 「 邪心 」 も持ち合わせた私が、「 良心 」 のほうに命じて書かせた日記だと考えるのが、正解に近いような気がする。
きっと、同じ人間でも 「 邪心 」 のあるがままを日記にしたためれば、まるで違う文体と、内容に仕上がるのではないだろうか。
自分の中の 「 良心 」 と 「 邪心 」 の、どちらに命じて日記を書くのかという点で、私は 「 良心 」 を選ぶことが多いので、当然、そういう結果になる。
だから、「 TAKA さんって、良いこと言うわね 」 という評価は有り難く頂戴するが、「 TAKA さんって、良い人ね 」 と言われると恐縮する。
自分の中の 「 良い TAKA さん 」 が日記を担当しているので、そういった印象を与えたり、「 良い子ぶってやがる 」 と思われたりもするのだろう。
それを 「 こんな日記を書く俺って、いい奴だなぁ 」 だなんて思い込んでしまうのは 「 うぬぼれ 」 というものだが、けしてそうではない。
ただ、どうせなら、世の中に悪意を一つ追加するよりは、善意のひとかけらでも流したほうがマシだと考え、日記担当は 「 良い TAKA さん 」 なのだ。
せっせと 「 良い TAKA さん 」 が日記を書き終え、疲れて眠る頃になってから、今夜も 「 悪い TAKA さん 」 は、夜の酒場に消えていくのである。
( 今日のおさらい )
「 Tonight 今夜の気分 は、良いほうの TAKA さんが書いている 」
* えっ?これで良いほうなの? という質問をしてはいけません
「 歳をとるという、おそろしく高い代償を払って、人は円熟する 」
トム・ストッパード ( 劇作家 )
Age is a very high price to pay for maturity.
TOM STOPPARD
昔から、「 先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし 」 という川柳がある。
誰が言ったか知らないが、権力者への風刺が込められているのだろう。
けして権力など身につけたわけではないが、最近ちと 「 先生 」 と呼ばれる場面が多くなり、川柳が事実ならば 「 馬鹿になりつつ 」 あるらしい。
若い頃、ある人から 「 人間の欲望とは、20代、30代はお金の欲、40代、50代は地位の欲、60代以降は名誉欲だ 」 という話を聞いたことがある。
たしかに、20代の若者に 「 お金の伴わない地位 」 など与えても喜ばないだろうし、40代を過ぎた会社員なら、多少の肩書きも欲しくなるだろう。
私なんぞは 「 小者 」 なので、40代半ばの今でも 「 地位よりお金 」 というタイプなのだが、いかんせん 「 付き合い 」 というものもある。
また、「 今まで幸せに生かしてくれた社会 」 に対し、そろそろ多少の恩返しをしてもよい頃だという考えもあり、ちょっと 「 先生 」 も始めてみたのだ。
大企業を離れた今、生活の糧はすべて 「 自分自身の活動 」 に掛かっているわけで、勤め人時代にも増して、西へ東へ走り回っている。
けして、他人様の心配などしている余裕はないし、いわゆる 「 名誉職 」 なんてものには今のところ、まるで興味も無い。
それでも、自分のことを 「 比較的、余裕がある 」 と見る人や、自分の経験を他人に役立てられると思う人がいたらしく、「 白羽の矢 」 が立った。
仲介した人への義理もあり、報酬面で魅力を感じられない仕事だが、他人様の相談に乗ったり、ちょっとした 「 教育を施す 」 事業に参加している。
当然、自身の事業は続けないと生活に窮するので、余暇や休息の時間をそれに当てるわけで、かつてないほど目の回る忙しさが予定されている。
有り難いことに私の両親は、私を 「 健康で、無理の利く体 」 に産んでくれたようで、契約期間においては、多分、それなりの貢献は果たせるだろう。
また、「 新しいことに好奇心をもって挑戦する 」 という気性も、おそらく遺伝的に備わったものだと思う。
今までは、それを自分のためだけに使ってきたし、これからも自分のためであることに変わりはないが、「 何パーセントか 」 は社会に奉仕してもよい。
きっと、それは 「 税金 」 みたいなものだろう。
今のところは、厄介な話だなぁという感覚も強いが、いつか恩着せがましく 「 してやってる 」 という意識が消える頃には、自然に順応できるのだろう。
少し前、他の先生方との 「 顔合わせ 」 を行ったのだが、事前に聞いていた通り、皆さん 「 私よりも、ずいぶん年上の方 」 ばかりである。
実際、40代は私一人で、いわゆる 「 最年少 」 にあたる。
学校の教師がそうであるように、50代、60代の 「 同僚 」 からも 「 先生 」 と呼ばれ、慣れていない私には、どうにも感覚的にこそばゆい。
ちなみに、生徒さんの大半も 「 人生の大先輩 」 が多いのだが、「 先生 」 と声を掛けられても、なかなか自分のことだとは認めにくい次第だ。
なんらかの形で 「 頼りにされている 」 以上は、恐縮してばかりもいられないし、かといって偉そうに構えると生意気っぽいので、スタンスが難しい。
かつて 「 年上の部下 」 を指揮したことはあるが、「 年上の生徒 」 の面倒をみた経験など皆無なので、いささか対応に苦慮している。
契約上の守秘義務があるので、詳しい事情は話せないが、高齢化社会が進む中で、おそらく 「 私の新しい仕事 」 を担う人物は増えてくるだろう。
そこに必要な資質は 「 経験と円熟度 」 なのだそうで、「 円熟している 」 という評価を喜んでよいのか、悪いのか、ちと悩むところだ。
同世代の中では 「 若くみえる 」 ことを自慢にしたり、競い合ったりしていたつもりが、50代、60代に劣らぬ 「 円熟度 」 で、この度は評価された。
わずかな救いは、「 同僚 」 の諸先輩方が、けして実年齢どおりに老け込んだり、熱意を失ったりされていないところだろうか。
それでも、この仕事を引き受けて 「 よかった 」 と思っている。
一般的なボランティアや、社会奉仕活動と違って、「 自分が社会で身に付けた特徴といえる部分 」 を、より端的に役立ててもらえそうだからだ。
それを、「 社会に対する感謝の還元 」 などと位置付けるのはおこがましいけれど、もっとシンプルに 「 借りを返す機会 」 とは考えられる。
生きていくということは、両親や、周囲や、他人や、社会に 「 借りをつくる 」 ことでもあり、それを返す実感があるならば、気持ちの上で満足できる。
ただ、「 労多くして儲からない 」 のもやっぱり事実で、その点を不満に思うのは、まだまだ 「 円熟 」 とは程遠い存在なのだろう。
( 今日のおさらい )
「 生きることは、借りをつくること 」
* ご利用は計画的に
「 人生は生きることが大事なのです。いつも好奇心を持ち続けることです。
どんな理由があっても、けして人生に背を向けてはいけません 」
エレノア・ルーズベルト ( フランクリン・ルーズベルト夫人 )
Life was meant to be lived, and curiosity must be keptalive. One must never, for whatever reason, turn his back on life.
ELEANOR ROOSEVELT
留守中に各方面からメールをいただき、ご返事が遅れてしまった。
その一部は、日記サイト 『 エンピツ 』 さんからのお知らせだった。
内容を拝見すると、過去日記の一部表記について、削除するようにお願いしたいというものだった。
思い当たる フシ もあるが、記述の正当性を訴え、削除の必要などないわと反論したい意向もあり、ちょいと悩んだのだが、依頼を認めることにした。
日記サイト 『 エンピツ 』 さんは、私のような素人の日記書きに対し、独自の運営努力を以って、無料でスペースを提供してくれている。
今回は、議論しても勝ち目がないと悟った者が、「 お母ちゃん、助けて 」 と 『 エンピツ 』 さんに、どうやら泣きついてきた様子である。
波風立てる気も無いし、ましてや日頃からお世話になっている 『 エンピツ 』 さんのお手を煩わせるのは忍びないので、ご要望に対し素直に応じた。
断っておくが、個人のサイトを中傷したり、攻撃する意図はない。
ただし、それを「 表現の自由における制限 」 として削除を要求するからには、何を書いても許されるわけではないことも、同時に理解できるはずだ。
ある特定のサイトに対して 「 問題がある 」 と指摘した背景には、それなりの理由があることも、できればご理解いただきたい。
人が 「 どのように生きるか 」 は個人の自由だが、与えられた生命をまっとうするのは、人として最低限の責任ではないかと思う。
それを軽んじて否定したり、また別の日には 「 生命の大切さ 」 を主張したり、翌日には自殺を美化するのは、どう考えても問題があるはずだ。
もちろん、「 誰の目にも触れない 」 のなら問題は少ない。
しかし、ネットで公開している以上は、読む人もいるだろう。
もっともらしい 「 生命の大切さ 」 を語る文章で読者を募っておいて、いきなり 「 生きてても仕方ないよ 」 と漏らすのは、ルール違反のように思う。
それで 「 洗脳される 」 ような人は少ないと思うが、社会的に プラス となる行いではないはずで、誰かが注意したほうが望ましいのではないだろうか。
また、私が注意を促したことについて、こちらが悪意を持っているように思われているようだが、実際はまるで 「 逆 」 である。
名前も顔も知らないが、我々は同世代で、どうやら同じような環境のもとで類似した体験を持ち、同じ時代を共に戦ってきた 「 同志 」 のようだ。
余計なお世話だと思われるだろうが、「 これ以上の恥 」 をかかせたくない。
また 「 個人攻撃 」 と判断されるのは遺憾なので詳細は避けるが、多くの人が 「 かの日記 」 について、私と同様の評価を寄せている。
願わくば、もう少し人生を 「 前向き 」 に考えてはどうか。
それが 「 私のメッセージ 」 だが、それも、今回を最後とする予定なので、否定するなり、再び削除依頼をするなり、後はご自由になさればよい。
もう一つ、興味深い方からのメールを頂戴した。
それは、同じ 『 エンピツ 』 さんの日記仲間である 名塚元哉 さんから頂いた初めてのメールで、正直に申し上げると、ちょっと驚いた次第である。
名塚さんは、『 あんた何様 』 という超人気サイトの管理人さんで、私よりも一回りはお若いと思われるのだが、聡明で見識豊かな御仁である。
タイトルの 『 あんた何様 』 の由来は、あくまでも推測だが、辛らつなご意見の 「 エクスキューズ 」 にされているのではないかと思っている。
事実、忌憚無く社会情勢を鋭く検証される手腕がお見事で、しかも内容が的を得て、論拠も充実しているため、大勢のファンを虜にされている。
実は、私自身もファンの一人なのだが、いわゆる 「 隠れファン 」 である。
堂々と明かさなかったのは、彼の文章が私なんぞの 「 くそ面白くもない 」 文章とは異なり、一種の 「 エンターティメント性 」 を備えているためだろう。
時事問題を 「 読み物として楽しめるエンターティメント 」 にするためには、どうしても 「 インパクト 」 や 「 過激さ 」 が求められる。
そのあたりの 「 さじ加減 」 は難しく、一つ間違うと 「 嫌悪感 」 に変化したり、それこそ 「 あんた何様? 」 と突っ込まれる危険も大きい。
うちのような、「 当り障りのないように、まとめようとする根性無し 」 とは違うので、なかなか 「 お仲間に入る勇気 」 を逸していたのである。
以前から、「 リンクさせていただくかどうか 」 という点で悩んでいた。
文章というものは、読み手側の心理や許容範囲によって、同じ文面でも伝わり方が違ってくる可能性を秘めている。
個人的には、ほぼ毎日のように拝見していたのだが、「 人にすすめる 」 ということになると、「 読み手の層 」 も考慮する必要がある。
特に、面白い日記ほど 「 ユーモア と 悪ふざけ は 紙一重 」 という点に配慮しなければならず、書き手の技術以上に、読む側の条件が影響する。
けして、当方の読者が 「 ユーモアを解さない 」 とは思っていないが、こんなジジ臭い日記を読んだ後では、刺激が強すぎるという心配もあるだろう。
そんな私の心配を知ってか知らずか、最近の 『 あんた何様 』 を読むと、随所に柔和な表現が取り入れられるように変化してきた。
それで、そろそろ 「 リンクさせてください 」 とお願いしようとしていたところ、思いがけず名塚さんからメールを頂いたのである。
しかも、当方の稚拙な日記に対し、余りある賛辞の数々を頂戴し、光栄の極みであると同時に、なんとも照れくさい思いをした次第だ。
また、私の欠点でもあるのだが、せっかくの有り難いメールに対し、社交辞令ではなく、正直な 『 あんた何様 』 の評価なんぞ書き綴ってしまった。
きっと、名塚さんの懐の深さがご容赦くださるだろうと期待しているが、この場をお借りして、どうか、ご無礼の段をご容赦願いたい。
( 今日のおさらい )
[ ユーモア と 悪ふざけ は 紙一重 ]
* 北陸の U さん、三回は音読して覚えておくように。試験に出るよ。
「 死とは、ピクニックのとき、遠くに聞こえる稲妻の音 」
W・H・オーデン ( 作家 )
Death is the sound of distant thunder at a picnic.
W・H・AUDEN
予告なく、日記をご無沙汰してしまったが、これには理由がある。
メールや掲示板に返信できなかったのも同様で、ご容赦を願いたい。
実は 「 突発的な事情 」 で、海外に飛んでいたのである。
旧知の友人が、異国の地で急逝した。
普段はあまり 「 死 」 というものを直視する機会もなく、なんとはなく平穏な日々を過ごしているのだが、それは常に身近なところで影をひそめている。
同期会の大半は既婚の勤め人で、急には動けない状況にあるため、自営の者が連れ立って、総勢6名の短い旅となった。
日頃の行いが良いのか悪いのか、相次ぐ台風の間隙を縫うように、揺れる機体は東へ向かったのである。
目的地に着くまでは、誰も悲しそうな顔は見せず、むしろ不謹慎なほどに、お互いの老け込みようを茶化しあったり、世間話、バカ話を続けた。
この歳になれば、そりゃあ、死ぬ奴だっているさと、ちっとも不思議な話ではないように、誰を納得させるでもなく、そんな台詞を繰り返していた。
我々の到着を待っていたのは、かつては我々と同じように動いていた 「 屍 」 と、顔見知りの奥さん、子供たちである。
奥さんから訃報を受け取るまで、奴が長患いをしていたとは知らなかったが、家族は既に覚悟ができていたようで、取り乱した様子はない。
遺体をエンバーミング ( 防腐処理 ) して日本へ搬送する方法もあったのだが、故人の遺志により、葬儀は現地で行われることとなった。
単身赴任ではなく、家族も含めた生活の基盤が現地にあるので、一度日本に帰ってから、家族はまた現地に戻るらしい。
その後のことはわからないそうだが、おそらく子供の学校関係がキリのよいところで、また日本に戻ってくるのだろう。
私と同じく 「 宗教に関心のない人間 」 だったので、葬儀等は面倒くさい話がなくてよいが、当然、遺骨は日本の墓に埋められることになる。
たまに、「 太平洋に散骨する 」 なんてカッコいい最期を望む人もいるらしいが、後に残される者の 「 墓参り 」 も考えないわけにはなるまい。
冷たい石の下で、おとなしくしてもらうのが一番のようだ。
40代に入ってから、仲間がぽつぽつと消えていく。
もちろん、生きている人間のほうが圧倒的に多いが、「 人が死ぬ 」 という強烈なインパクトの前では、生きている人間の変化など、些細な事柄だ。
小学校から大学、あるいは社会人時代まで、それぞれの仲間と連絡を取り合い、友達を大事にすることは、とても有意義で楽しい。
しかしそれは、仲間の訃報を如実に知る手掛かりにもなるため、今回のように、悲しいニュースもつぶさに耳に入る仕組みとなっている。
自分が死んだとき 「 誰も知らない 」 というのも虚しい話だが、懐かしい顔が勢ぞろいすると思えば、惨めな最期を避けねばならぬ責任も発生する。
結果主義の世の中で、「 一生懸命 」 なんて言葉は死語になりつつある。
しかしながら、若くして世を去った仲間の大部分は、仕事にも、闘病にも、「 一生懸命 」 に頑張った連中であった。
それを、他の言葉で言い表すことは難しく、すぐには思いつかない。
だから私も、「 Oldsoldier ( 老兵 ) 」 のペンネームに相応しく、最期まで一生懸命に、人生を楽しみ、かつ闘っていきたいと思う。
ただ、「 老後はフロリダのキーウエストで 」 という自分の野心が、数名の友達のフトコロを痛めるだろうなという心配が、少し頭をかすめた。
| 2004年09月06日(月) |
国際社会の生々しい現実 |
昨日に引き続き、ロシアの学校占拠事件について考えていきたい。
考えれば考えるほど、はらわたが煮えくり返る事件ではあるが。
どんな行為にも、たとえばそれが戦争や、犯罪であったとしても、超えてはならない 「 一線 」 というものが、有形、無形に存在する。
目的のためには手段を選んでいられないというケースもあるだろうが、子供を標的にして多くの犠牲を出し、仮に勝利を得たとしても何になるのだ。
攻撃対象が屈服したとしても、首謀者に寄せられる評価は、卑劣きわまりないという恥辱だけで、同じ民族からも賞賛されることなどない。
まさに 「 狂気のなせる業 」 で、誰の得にもならない話だ。
こういう事件は、これが最初で、最後になってもらいたいと願う。
テロや戦争が人間の理性を奪い去るという現象は珍しくないが、それでも、小さい子供をみて 「 可愛い、愛しい 」 と思う気持ちは万国共通である。
目的を遂行するため、仕方なく巻き添えにすることはあっても、あえて学校という子供たちの世界を攻撃目標に定め、殺戮を犯す行為は前代未聞だ。
どうやら、「 人間が持つ最低限の良識 」 とか、「 尊厳というものの底辺 」 が、いつのまにか、その ハードル を下げてしまったようである。
過去のような 「 生易しいルール 」 が通用しない、冷酷非情で、残忍な振る舞いが平気で出来てしまう連中が、世界では台頭し始めている。
それでも日本は 「 丸腰 」 で、平和憲法のみを頼りに未来へ進むのか。
戦争に至る経緯は様々で、巻き込まれる理由も様々である。
日本が軍隊を持つことが戦争につながるという意見も多いが、実際のところ、本当にそういうものなのだろうか。
たとえば、子供時代の喧嘩を思い出すと、「 こちらから殴りかかった 」 わけでもないのに、相手に敵意を持たれたり、喧嘩になったことがある。
知らないうちに、相手の機嫌を損ねていたり、悪気はないのだけれど、相手にとって不利な状況をつくってしまうことだってある。
それを 「 逆恨み 」 と言ってしまえばそれまでだし、不当な暴力には武力をもって対抗するだけが手段ではないが、自衛に迫られる場面も多い。
軍隊を持たず、平和憲法を遵守し、デモに参加して戦争反対を叫ぶ人は、すべて平和主義者で、「 戦争の原因 」 をつくることはないのだろうか。
勤勉に働いていたというだけで、「 お前を含め日本人は働きすぎだ。だから生産過剰が起きて他国の経済を脅かしている 」 と恨まれることはないか。
こちらに 「 戦意 」 や 「 悪意 」 がなくても、結果として日本の存在が他国の不利益につながれば、相手が 「 敵意 」 を持つ可能性も否めない。
それは、利益の一部を還元する経済援助や、その他の外交努力によって避けられてきたわけだが、常にその方策が通用し続けるとはかぎらない。
ロシアで起きた学校占拠事件のように、「 弱者 」 や 「 無抵抗の相手 」 に、何の温情もかけずに刃を向ける危険は、日増しに高まっている。
北朝鮮、アルカイダ、チェチェン、テロや戦争は形を変え、手段を選ばない卑劣な手口が横行し始めている。
人間が本来は持っているはずの 「 善意 」 や 「 良識 」 に語りかけ、平和への理想を掲げる方法も、過去においては有効だったかもしれない。
しかし残念ながら、世界も、そこに住む人々も、少しづつ正気を失い始め、昔とはまるで違う実情を、認めざるをえなくなっている。
いまのところ我々は、アメリカや、戦時中の日本のように 「 正義の軍隊 」 を名乗り出る必要はないが、ある程度の武装は避けられまい。
無抵抗な者を狙う連中がいるということは、非武装でい続けることこそが、「 攻撃の対象 」 とされる危険を孕んでいるような気がしてならない。
( 私信 )
メールをくださった 「 Mさん 」 のご指摘どおり、例の日記の 「 父の日 」 に関する記載は削除されているようです。
削除するぐらいなら、はじめから書かなきゃいいのにね ( 笑 )。
しかし、「 ○○○○の日記 」 と書いただけで誰の日記か判るとは、皆さま方、同じような感想を持っておられるのですね。。。
| 2004年09月05日(日) |
世界を敵に回した狂気 |
ヒッチコック作品の一つに、『 知りすぎていた男 ( 1956米 ) 』 がある。
まさに、「 スリルとサスペンスの真髄 」 と呼ぶに相応しい映画だ。
何度も 「 リメイク 」 して再映画化され、また、設定や物語の展開を異としても、明らかにこの作品から影響を受けたと思われる作品が数多い。
ちなみに、この作品自体が、同じヒッチコックが以前にイギリスで監督をした 『 暗殺者の家 ( 1934英 ) 』 という作品の、自身による「 リメイク 」 版だ。
物語は、アメリカ人医師夫妻 ( ジェームズ・スチュアート、ドリス・ディ ) が、息子を連れてモロッコへ旅行に行くところから始まる。
旅の途中で、偶然に知り合ったフランス人の死に立会い、死ぬ間際に呟いた 「 要人の暗殺計画がある 」 ことを、医師は知る羽目になる。
犯人一味は、医師が計画を暴露することを恐れ、彼の息子を誘拐するが、医師は僅かな手掛かりを基に追い続け、暗殺者の潜む教会へ向かう。
手に汗を握るサスペンスばかりでなく、感動的な親子愛も描かれている。
また、劇中でドリス・ディが唄う、主題歌の 『 ケ・セラ・セラ 』 も大ヒットしたので、映画は観ていないが、主題歌は知っているという人も多いだろう。
実は、この映画の中で、とても印象に残っている台詞がある。
それは、犯人グループの幹部が、子供を誘拐してきた部下を叱りつけるという台詞で、よくは覚えていないが、だいたいは以下のような内容である。
「 馬鹿者め、アメリカ人は子供の誘拐には厳しいのだ。 彼らは国を挙げ、必死になって追いかけてくるぞ 」 というようなものだったと記憶している。
事実、子供を取り戻そうという医師の執念が、最終的に一味の逮捕にまでつながるのだが、誘拐がなければ、医師が活躍することもなかったはずだ。
また、最後のクライマックスで、人質の息子を殺せと命じられた部下の一人が、情にほだされて命を救う場面もある。
要人暗殺を計画しているような悪党でさえ、無垢な子供の命を奪い去ることには抵抗があるはずで、それこそが 「 人間らしさ 」 といえるだろう。
自分の子はもとより、たとえ利害があっても 「 子供だけは助ける 」 ことが、古きよき時代の犯罪映画の美学であり、誇りでもあったようだ。
その 「 タブー 」 を破壊してしまったら、たとえ内容が優れていたとしても、観客には 「 後味の悪い嫌悪感 」 しか残らなかっただろう。
ロシアで、未曾有の惨劇ともいうべきテロ事件が発生した。
犠牲者の数は 「 アメリカ同時多発テロ事件 」 より少ないかもしれないが、私自身として、「 犯人への憎しみ 」 はこちらのほうが強い。
なぜ、子供を標的にしたのか。
同時多発テロは、たしかに悪質ではあるけれども 「 戦争に準ずる行為 」 として、犯行グループの意図を窺い知ることもできる。
当然、子供の犠牲者も数多く出たが、あえて 「 そこを狙った 」 わけでなく、子供を標的にすれば 「 世界中を敵に回す 」 ことを知っていたはずだ。
たとえ、主義、主張、宗教や倫理観を共有する同志でも、このような蛮行を 「 大義名分のため 」 として認める者は少ないはずだ。
チェチェン武装勢力は、この瞬間にすべての 「 マトモな神経の支持者 」 を失い、おそらくはチェチェン領内でも、その立場を失墜させただろう。
ロシアが悪いか、チェチェンが悪いか、そういう問題ではない。
史上稀にみる 「 卑劣で悪質な殺戮 」 の背景には、どんな論理も存在し得ないし、どれほど話を湾曲させても、正当化する術はない。
何を目的として 「 世界中の悲しみと憎しみ 」 を演出したのか、私が納得できるような真相は、永遠に解明されないだろう。
私の好きな映画の一つに、『 フォレスト・ガンプ ( 1994米 ) 』 がある。
トム・ハンクス主演作は当たりはずれが大きく、これは 「 当たり 」 のほう。
この映画の主人公 フォレスト・ガンプ は、知能指数こそ人より劣るものの、ずば抜けた足の速さを持ち、スポーツの世界で才能を開花させる。
そして、それ以上に優れている点は、類稀なる 「 誠実さ 」 である。
最初は彼のことをバカにしていた者や、疎んじていた者たちも、いつしか彼の人間的な魅力に惹かれ、しだいに彼を慕うようになっていく。
そして、彼本人は多くを望まなかったにも関わらず、富と栄光を得て、他人が羨むほどの大成功を遂げていくのだ。
しかしながら、彼が求め続けた 「 ささやかな願い 」 であった初恋の女性が早死にするなど、本当に望んだ幸せは、あまり長くは続かなかった。
劇場公開時の宣伝文句は、「 人生は箱の中のチョコレートと同じで、開けてみなければ中身はわからない 」 というものだった。
実際、彼の母親がそう呟く台詞が、劇中にも登場する。
しかし私がこの映画から受けた教訓は、「 頭が悪いことと、バカなことをしでかすのとは違う 」 というポイントである。
映画では、ガンプの素直で奔放な生き方と並行し、ケネディ暗殺、ベトナム戦争、ウオーターゲート事件など、21世紀アメリカの歴史が描かれる。
そのすべてが、ガンプよりよほど 「 優秀 」 とされる人々が引き起こした 「 馬鹿げた行為 」 であり、ガンプの生涯とは対照的に浮かび上がる。
現実の世界では、何も考えずにぼおっとしているだけでは、なかなか成功することは難しいばかりか、人並みに生きることにも苦労するだろう。
それでも、自分の信条や、他人との約束事に対して誠実で、自分の人生を有意義に過ごそうとする者は、たとえ知能が劣っていても愛されるだろう。
逆に、少しぐらい頭が良くっても、つねに社会や他人に対する悪態ばかりをつき、自分の人生を惨めにしか感じていない者は、まるで尊敬されない。
ガンプのように、恋した女性、友達、肉親などを 「 人生の宝物 」 と感じて、誠意をもって、ひたむきに生きる姿勢こそ、人に感銘を与えるものだ。
それを 「 きれいごと 」 だとしか考えない人々には理解できないだろうが、自分の生まれた土地や、周囲の人間を大切にしてこそ、幸せは成立する。
オリンピックも閉幕し、子供たちの夏休みも終わりである。
まだまだ残暑は厳しそうだが、暦はもう秋に入る。
このところ久々に、高頻度で日記を更新してきたが、9月からはまた、少しペースダウンする見通しである。
というのも、「 新しい仕事 」 を始めることになったからだ。
現在も、細々と事業を行っており、それなりに食べてはいけるのだが、ある企業と顧問契約を結ぶことになり、そちらにもかなりの時間を割く予定だ。
いまさらながら、肩書きを増やしてどうなるというものでもないが、そろそろ、「 これからの人たち 」 に何かを与えるという仕事にも興味が出始めた。
この仕事に出会ったのは、単にお金の問題ではなくて、自分に課せられた使命のような気がするし、引き受けることに決めたのである。
もちろん、日記のほうも暇をみつけて、書き続けていきたいと思う。
私のような者が何を主張しようが、そう世の中に大きな影響はないだろうし、もともと世間に物申すような野心も、暇も持ち合わせていない。
しかし、混迷する時代の中で、他人の意見に耳を傾けたいという人は少なくなく、それに応える文章がすべて、良心に支えられたものとはかぎらない。
人格障害時代を象徴するかの如き 「 自分に甘く、他人に厳しい 」 といった不貞の輩による文章が闊歩する時代に、多少の警鐘は鳴らしたいと思う。
そのような 「 反社会的言動 」 が顕著なサイトに反撥する者がいて、それを支持してくださる方がいるのだから、稚拙な文章でも続けるべきだろう。
私の書く文章は、けして高尚で価値の高いものとは思わないが、少なくとも私自身の良心に反するものではない。
そして、「 私自身の良心 」 とは、生身の私が精一杯に働いて、悔いのないように遊び、人生を謳歌している背景に裏打ちされたものだ。
いくら立派なゴタクを並べてみても、挫折に耐えれず精神を病んだ者や、投げやりに人生を放棄して自殺企図を繰り返す愚か者とは、そこが異なる。
最近、そんな 「 お気の毒な人 」 が、私の文章に何かとケチをつける。
いまは 「 ただの落ちこぼれ 」 でも、もともとは高水準の教育を受けたであろう人物なので、なかなかに面白い指摘の仕方である。
たとえば、以前の日記で 「 公的資金として、国民の税を投入 」 ということを書いたが、それに対し 「 公的資金は国債じゃ 」 という反論をする。
たしかに、それはその通りで、相手の言っていることが正しい。
しかしながら、そんなことはいちいち指摘されなくても、誰しもが知っている事柄であり、「 税金を投入 」 と書いた理由は、「 尻拭い 」 の意味にある。
実際こういう風に、短絡的で 「 一つの言葉から全体を見渡せない 」 ところが、「 お気の毒な人たち 」 が普通の大人と違って、欠落している素養だ。
神経がマトモな人たちからみれば、なんともヘンテコリンな逆襲なのだが、本人は 「 鬼の首でも取ったか 」 のように、さぞや喜んでいるのだろう。
この人にかぎらず、いま、世の中をオカシクしているのは、それなりに教育を施されて、自分の学歴、経歴に過剰な自意識をもった人々が多い。
昔のように、ろくに教育も受けられず、不遇な生い立ちを抱えたままヤクザや裏稼業に手を染めた者たちが、「 秩序を乱す主役 」 ではないのだ。
東大を出て愚劣な猥褻行為で捕まる識者など、「 教育という最大の賜物 」 を無駄にする愚か者の、なんと多いことか。
私なんぞも若い頃には、ちょっとした成功で天狗になったり、なにかの拍子に 「 自分は特別な存在 」 だという錯覚を起したこともある。
それでも普通は、年齢を経て良識を身に付けたり、賢者の意見に耳を傾けることで、だんだん 「 身の程を知る 」 ことができるものなのだ。
身の程を知らないのが、いわゆる高学歴の人格障害者で、いわゆる 「 エリートのなれの果て 」 と呼ばれる人種である。
自分のことを心のどこかで 「 愚民とは違う 」 と過大評価し、また、別の心で 「 自分は最低の人間だ 」 と過小評価する。
その結果、挫折や窮地に立ち会った際、正しい手順で善処するといった 「 ごく当たり前のこと 」 をせずに、首を吊ってみたり、手首を切ったりする。
その心労を、医者に 「 病気です 」 と認定してもらうことで安心感を得ようとするのだが、そんなことで抜本的な解決には導かれない。
なんのことはない、「 身の程を知る 」 というだけで、本人も楽になれるし、他の人と同じように生きていけるのだが、それができないのである。
つまり、そういう人は、プライドと自意識が邪魔をして、「 凡人と同じように汗をかいて努力する 」 ということに、なかなか手がつけられないのである。
勉強して学校を出て、大きな会社に入り不眠不休で働き、早期退職して会社を興し、いまは 「 社長 」 とか、場合によっては 「 先生 」 と呼ばれる。
その結果、得たものは 「 運転手つきの高級車 」 でも、「 プールつきの別荘 」 でもなく、ましては 「 安住の土地 」 でもない。
従業員の女性から 「 掃除の仕方が悪い 」 と叱られ、電車代をケチって次の駅まで歩き、汗をかきながら銀行の窓口で待たされる。
今日も私は 「 すんませんなぁ 」 と愛想をふりまきながら、せっせと机を拭き、靴をすり減らして営業に廻るが、それなりに 「 ハッピー 」 である。
大事なのは、この 「 ハッピー 」 であるかどうかだろう。
もしも私が 「 身の程を知る 」 という資質を欠いていたら、同じ状況でも 「 不幸 」 や 「 憤り 」 を感じたかもしれない。
また、「 自分にとって、本当は何が大事なのか 」 ということが見えない人は、つまらないことを気にしすぎて、やはり 「 ハッピー 」 になれない。
他人の汚した便器を 「 なんで俺が 」 と嘆きつつ掃除するか、「 清掃会社に払う費用が浮いたので、また遊びに行ける 」 と思うかで、雲泥の差がある。
私にも 「 世の中への不満 」 はあるが、悪いことはすべて他人や社会のせいにして、自分は 「 ハッピー 」 じゃないという人の意見よりはマシだろう。
見た目のカッコよさ、頭のよさに騙されてはいけない。
頭がよくても、世の中を嘆いて自殺企図する人には、それが生きるための 「 ツール 」 になっていないわけで、何の役にも立っていないのだ。
いくら 「 自分は正しい 」、「 自分は物知りだ 」、「 自分は頭がいい 」 と連呼しても、彼らの意見はなんの説得力も持たない。
そんな意見を参考にして、感化されたところで、結局はその人が 「 ハッピー 」 ではないのだから、いきつく先は 「 アンハッピー 」 でしかないのだ。
自慢でも宣伝でもないが、事実として私は 「 ハッピー 」 なので、そうありたいと願う人には、こちらのほうが参考になるのではないかと思う。
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