僕は禿げる。(中略)それでも歌を聴いてくれますか?
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今回から「七階の山場」→「ななかいの山場」という名前に変わりました。「ななかい」というのはもちろんセブンスフロアの事で、通いなれている方々がこのスペースを呼ぶ時に使う隠語の様なものです。僕が最初セブンスフロアで公演を始めた頃、良くわかってないんですが、どこかに表記される事よりも話し言葉で主に出てくるこの言葉はみんな平仮名のイメージで発している様なんですね(そんな事はないとおっしゃる方もいるかな)。だから、もう随分前から平仮名にしたかったんです。
平仮名にするのを期に内容も今まで以上に挑んだ物にするつもりです。異種格闘技的な交流もしたいです。今回はその第一ということで、ひとりきりで七時半ぐらいからぐわーーーーっと長く歌おうかと思ってます。百人組み手の前の様な気持ちです。初心に返った��(高)山をお楽しみ下さい。
一月三十一日 作戰本部にて
| 2003年01月27日(月) |
勘違い 2(肥後もっこす) |
前回からの続きです。 ある人に「前回言いたかったことは要するに『客観視』についてだろう」というメールを頂きました。ありがとうございます。大きい意味でそうだと思います。
ケミカルウォッシュのニューヨーカーも、ヤンキー夫婦も、ストッキングデニム女性もみんなある程度の客観視と世間とのリンクを保つ事ができていれば起きなかった悲劇(?)かも知れません。自分にそれが似合うのか?世間はどう見るのか?世間はどう動いているのか?世間を追うことが目的になってないか?もっともっとみんなが意識すれば世の中は良くなっていくと思うのです。僕は今回こんな事を本当に書きたいのでしょうか。違う気がします。じゃあ何を書きたいんだろう。
思い出した気配がします。でもきっとまとまらない事でしょう。このテーマに対し、僕は見事なまでに無力でした。いつも無力ですが、今回は特にそれを感じます。
見た目の勘違いをする人と別に自意識過剰な人がいます。この方々は暗い夜道で僕が偶然後ろを歩いていると一目散に駆け出したりします。よくある事です。成人式に騒ぐ子供らもこの部類かもしれません。「注目を浴びたいのなら何か芸事をやりなさいっ!」と有無を言わせず「僕が歌うようになってある程度の人数のお客さんがライブに来てくれるようになるまでの長くも険しい(?)「塩かけ御飯の日々」についての説教を椅子に縛り付けて聴かせたほうが良いでしょう。自分が注目される権利を元々持っていると勘違いしているのなら、それは天才か大馬鹿だからです。
彼ら彼女らは世界を表す文章の総ての主語が「自分」なのかもしれません。きっと小さい頃にかまわれすぎたのではないかと勝手に思います。もしかしたら幼児の頃は抱き癖がついていたかも知れません。ちょっとでも泣いたら「乳母(うば)」が来て、「べろべろ」と言い続けたことでしょう。「べろべろ」と言いすぎてその「乳母」が死んだら、労災はおりるのでしょうか。大変心配です。
電車の中で独りで転んで何の関係もない会社員のおじさんに舌打ちをしたおばさんがいました。照れ隠しとかそんな表情ではなく、「なにすんのよ!」な顔でした。居酒屋で、僕が置いていた荷物の上に荷物を置き、帰る段になって自分の荷物を取ろうとすると「俺の荷物に何するんだ!?」と言うような顔で荷物を引き寄せた若者がいました。隣りにいた女性が「この人の荷物が下にあるんだよ。しっかりしてよ!」と言ってくれて事なきを得ましたが、その気遣いに、僕はこの女性と人生を共にしようと思いました。運命という物は残酷で、僕らはもう一件飲みに行かなければなりませんでした。彼女にはそこで飲む仲間がいます。気持ちは通じ合っているのにすれ違う二人…。切ないです。 僕の妄想(彼女と気持ちが通じ合ったという事実はなかった事が証明されています)はさておき、こういった被害妄想というのも性質が悪いですね。「馬鹿にされた気がした」と言って殺人を犯す人もちらほらいらっしゃいます。そんな主観で毎回殺されたらたまったもんじゃありません。「國賊だと思うから『天誅』と叫んで斬り殺す」というのと一緒です。その位思い込みが強いのなら「殺した」と思い込めば良いのにと思います。「あいつは俺が殺した。なのにあいつはまだそこにいる。ぎゃああ」と、いずれにせよお狂いになるんでしょう。
このように、外界からのインプットが壊れた方は心のIPアドレスが「169…」ですので、オフライン作業であたかも接続している様に表示されてますが、初めて表示するリンクに飛ぶことは出来ません(最近覚えた言葉の羅列)。 おっと、これも外界との相対性を欠く表現だっ!というか、この連載自体が勘違いじゃないんだろうか?心配になってきた!
そして僕は問うのです。
「ねえ、僕って勘違いしてないよね?」
| 2003年01月24日(金) |
勘違い(肥後もっこす) |
最近の世の流れとは全然関係ないんですが、ニューヨークのテロを伝えるニュースの映像を見ていて、テロと関係ない所で不謹慎ながら驚いた事があります。瓦礫と化した貿易センタービルを映し出すカメラ。次に恐怖を訴えるニューヨーク市民を映し出す。ケミカルウォッシュと思しきジーパンに、やけに派手なTシャツの裾をケミカルズボンにキチキチに入れた若者が何人も…。嘘っ!ニューヨーカーはある程度スタイリッシュなんじゃないの?うちの親父でさえこんな格好しないし、最近日本でも府中市で一二度しか見たこと無い!これを見た時、僕のアメリカに対するほつれた部分はすっきり解けてしまいました。
こういったあまりにも切ない景色や状況を作る人が多々います。自分もその一員になってないか冷や冷やして、たまに人に聞いたりします。「俺って勘違いしてないよね?」
やけに赤茶けて親父狩りでもしそうな色の髪で、近くのスーパーで買ったであろう黒人まがいの服を着た、あまり若くない夫婦(子供はジャンボ尾崎カットだったりする)。トイレの香水のように強烈な香水で自分の周囲に空気の層を作り、それをたなびかせながら移動する、うら若くない女性。吉野家で見かけた古びた鋲つきの皮ジャンに皮パンを着た、メタルなストレート長髪お兄さん。(これにデニムのパンツの下にストッキングを履き、パンプスを履く人を加えようとしましたが、各方面の圧力で却下されました)
「『外見で人を判断するのは良くない』とよく言うが、それは嘘だ」と大変信頼する友人が言ったことがあります。言われてしばらく実感はなかったのですが、時が経つにつれそれは真実なのではないかと思うようになりました。服の高い安いとか、メーカーの有名、無名などのその物の持つ意味ではない価値観で着ているものはある種情報を出しているという意味なのではないかと考えるようになったのです。その人がどう見られるか、どう見られたいかを表しているはずなのだと考える様になりました。
前出のいくつかの例に共通する要素の一つに「外界からの情報のインプットが壊れてしまっている」という点がある様に思います。インプットはあってもそれを吸収する力が弱ってるのかもしれません。外界からの情報に対して毎回細かにリアクションをとっている状態であれば、気づかずに浮世離れしたセンスを持つ事はないだろうと思うのです。どちらにしろ「どう見られたいのか」という意思+「相対的に自分を見られるか」という力の加減が人の外見を作るのに重要な働きをしていることは間違いないと考えるのです。
深読みしすぎて迷宮にはまる癖はまだ続き、昔何故か早く目が覚めた朝に観た「テレビ寺子屋」に出てきたやけに流暢な日本語を喋るコミニュケーションの研究をしているという西洋人の言っていた事を思い出しました。それは「コミニュケーションというのは自分が意図して出す情報に限らず無意識に出した情報まで含むものである。」というような感じの内容だったと思います。たとえばベンチに誰かがしばらく座ってたとします。その人が立って去っていき、その後に別な誰かが座って残った温かさを感じたとします。それは彼の言い方ではコミニュケーションなのだそうです(例は��(高山)が勝手に考えました)。この考えに僕は大変感動しました。この考え方は実に人間同士の関係を大切にする「面倒くさい」考えで、田舎の人付き合いを理解するのにも大変有力な物だと思ったのです。結局今この文を読み返してみると、結局友人とテレビ寺子屋の西洋人の言っている事が入り混じって今回の内容になっているような気がしてきました。萎える気持ちを奮い立たせて、果たしてきちんと結論まで辿り着けるんでしょうか。不安ですし、途中まで打って消えたら嫌だと思って日記ページの登録ボタンを押したので、内容が途中までのこのページへアクセスしてしまう人がいるかも知れません。心配です。でも負けずに続けます。 (続く)
実は去年の暮れから喉を壊してまして、やっと回復した様なんですが、元の声には戻らず、何度目かの声変わりをしました。
声変わりというのはもちろん思春期に起こるあれとは違いますが、人前で歌うようになってからも何度か大きな変化を迎えてます。声変わりするたびに恐らくポリープみたいな物が声帯かその周辺に増えてるんだと思います。声変わりまでの順序としては
�”�邪や歌いすぎなどで声が枯れる→�¬詰�して歌う→声が出なくなる→��少し休む→かすれているが声が出る様になる→�だ縞僂錣蠅靴神爾�出る
という具合で、その度に声がハスキーというか、太いというか、倍音が多い声になっていっている様です。実際声変わりだと認識できている訳ではないので、毎回「声が出なくなったら…」という巨大な恐怖心にやられそうになり、声が出る様になって初めて「声変わりしましたぁ」なんてのんきな事を言えるわけですが。その過程も最終段階を迎え、もう作品集、「山羊と私」の頃とは違う声になりました。そう思っているのは本人だけかなあ。変わりましたよね。
昨日、ななかいでマヤマさんの後輩(位置付けはこれで合ってるんでしょうか)の公演を観てきました。声が良くて上品でなんか良かったです。そこで公演が終わった後の「後座」で歌い初めをさせて頂きました。
実は年末からの声変わり過程の今��少し休むの段階だったので、今回声変わり後初の人前での歌唱+ホントの「歌い初め」でした。正直不安だったんですが、評判も良くて少し安心。「教育」「掻き消された声」「あいうた」の三曲を歌いました。急な依頼だったため教育で使うハモニカがなく、ホーミーもどきで前奏をやりましたが、声変わり前より良く出ていて自分がビックリ。思わず「モンゴルの方、ごめんなさい」と言っちゃいました。
昨日いらした方でこの頁をご覧になる方が何人いらっしゃるかわかりませんが、昨日の三曲の感想も「紹介」頁の「山作戰��(高)山公演御意見調査」からメール下さい。設置時期が微妙だった事もありますが、まだ誰もあの頁から情報をくれた方はいません。
( ;∀;) カナシイナー。 。
今朝、作戰本部の前の道を見下ろすと老人たちが列をなしてうじゃうじゃと歩いており、失礼ですが気味が悪かったです。映画「黄泉がえり」は観てないけど、こんなのかなあと思いました。
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