2002年05月21日(火) |
それでも感謝すべきこと |
いとこのメール大激怒カキコで驚いたネッターさん達も多いと思う。 あのメールは到底許せるものではないので、この先 土下座して謝ろうと一生許す気はない。 けれども、それでも、あの家族には感謝すべき事がある。
前にも書いたけれど、どんな人でも必ず良いところがある 筈だし、私は人の欠点ばかりを責める様にはしないように 努力している。
私は家の事情から母方のおばあちゃんと長男である松尾家で 幼少の頃過ごした。だから従姉妹のヒロミ達とは半分兄弟のように 育ってきた。 素早い従姉妹とおっとりの私とはハッキリ言って対照的だったが、 楽しい幼少期だったと思う。 良く従兄弟のこーちゃんとは喧嘩しました。 カズ君やヒロミとは喧嘩した事はないけれども、こーちゃんとは 年が1つしか違わなかったせいか、本当に良く喧嘩した。
おばあちゃんは、私が小学校の中学年の頃、胃癌に侵された。 日本人では、この頃一番癌の死因が高いのがこの「胃癌」だった。 (余談だが、現在は癌死亡の第一位は「肺癌」です) 「ちくしょう!こんな病気に負けるもんか」と言ったおばあちゃん。 この思いをバネに癌を克服したかに思えた。 転移だったのかどうかは判らないが、それから3年程経ってから 大腸癌に侵された。 便が出なくなって病院に行ったのだからハッキリ言って 手遅れである。 大腸癌はまず、兆候として血便が出る。 血便が出てから病院に行っても大体「転移」していることが 多いと聞く。おばあちゃんは随分前に血便が出た筈なのに 病院に行かなかったんだろうね・・・。
おばあちゃんは大腸を取って、袋をさげた。そう、人工肛門である。 お尻から用を足すのではなく、袋に知らないうちに便が溜まる。 便は細菌が多いので、看護婦さんもしょっ中取り替えてはくれるが、 看護婦が忙しい時は家族がその役目を行う。いや、殆ど家族の役目だろう。 入院当初は”大人用おまる”で用を足せたおばあちゃんが、 2週間もしないうちに立てなくなった。 お小水の管が差し込まれ、人工肛門術が施されたのだった。
嫁である叔母(ヒロミの母)は、入院当初から生きて家に帰れない と判っているおばあちゃんを、本当に毎日良く面倒を見てくれた。 一番末のヒロミがまだ小学生か中学生の頃だったと思う。 神奈川では中学生になるとお弁当制なので、もしもヒロミが 中学生ならお弁当も一人で作っていたのではなかろうか。 私は中学生の頃、自分のお弁当を詰める事も面倒でイヤだった。
私は病人の汚れ物を午前中に洗濯して干して、掃除機をかけて、 簡単なお昼のお弁当を作って病院へ行く叔母を何度見たことだろう。 私は既に20歳を超えていたから、当時の事を良く覚えている。 そしてその姿は、今の私と母の姿と何一つ変わらなかった。
バスで横浜市民病院に向かう叔母。 市民病院は三ツ沢競技場の傍にある。大変不便なところに建っていて、 横浜に出てバスに乗るか、横浜か新横浜に出て地下鉄に乗るかしないと ならない。 私や叔母たちが住んでいる所はJRの駅に出るのにバスに乗らないと 出ることが出来ない。私鉄では20〜25分歩いて駅に出る。 また、横浜までの市営バスも通っているが、馬鹿にならない交通費を 抑えるために200円(現在、横浜では初乗り運賃が210円)で行くために 1時間に1〜2本しかないバスに乗って病院へ行く。40分くらいは病院まで バスに乗るだろうか・・・。 私は一緒に叔母とバスで何度か行った事がある。 だから知っているのである。
夜、面会時間が終わるまで病室にいる叔母に夕飯は娘であるヒロミが 会社から帰ってくる叔父のために作っていたろうと思う。 叔母も栄養が片寄るだろうがカレーや麺類などを朝作りおきしていた ように記憶している。 叔母たちは叔母の生活のリズムがある。 入院患者が出るとその生活のリズムは一気に一転してしまう。 今、私が経験しているように。 それなのに毎日良くおばあちゃんの世話をしてくれたと思う。
「長男の嫁だから面倒を見て当たり前」だとは、私は思わない。 親なのだから、姉妹達もサポートすべきだし、嫁と一緒になって 平等に見るべきだと思う。 これは私たちに限らず、どの家にも言いたいのだが、長男の嫁が 何でもかんでもおばあちゃんの面倒を見なくてはならない筈はない。 「一緒に住んでいるのだから」と全てを任せ、負担の比重を嫁に 多く掛けることは間違っていると思う。
ヒロミも随分不便をしたと思う。 私の母は「勤めていた」からその負担は中崎の叔母よりも軽かった筈だ。 当時はまだ、会社における女性の社会的地位が確立されて いなかったから尚更がむしゃらに母は働いていたと思う。
私も、夜学に通っていながら、最後は寝ずに病床に付いた事がある。 朝、6時50分に家を出て幼稚園へ行き、夜学が9時30分に終わって その足で病院に行って寝ずに付いたり、 日曜日に寝ずに付いて、朝病院の始発のバスに乗って幼稚園に行ったり も何度も経験した。 ”おばあちゃんに育てて貰ったようなものだから”ではない。 確かにおばあちゃんに育てて貰ったようなものだが、 そんな理由からではない。 「孫だから、そうして当たり前」だと思っているから。 20歳を超えた孫が「仕事と学校で忙しいから」というのは 理由にならないと思ったからだ。 おじいちゃんが亡くなった時、小学6年だった私はおじいちゃんの世話が 出来なかった。私はこれを凄く後悔している。 だから、おばあちゃんの時は絶対私も看病には参加すると思っていた。 だからおばあちゃんの時は20歳を超えたのだから体力的にも経済的にも 問題はなかった。
だから仕事を有給で休むが、滅多に休もうとしない母に「なぜ?」 といつも思っていた。「自分の親なのに」と。 「中には仕事を辞めて親に付く人だっているのに、うちのお母さんは なんて自分本位な人なんだろう」と随分思った。 以前、叔母から「もう少し協力的でも・・・」と言われた時は 「そりゃ、そう思うよなぁ」と娘ながら思った程だ。 だから母にあの時の話をする時は
「長男の嫁だからやって当たり前じゃない。嫁だってやらない人は やらない」
と私は良く言う。 叔母はハッキリ言って、財産とかそんなものに目が眩む人ではない。 もし、そんな人ならば、病院にずっと付いている事もないだろうし、 死ぬのを待っている人(家族)なんて、見ていれば直ぐに判るものだ。
叔母はそんな人ではない。
母もあの当時の叔母には今でも(当然だが)感謝している。
袋を交換する時に「汚くないの?」と聞いた母。 「自分の親なのに汚いとは何事?」と憮然と思ったが、 叔母は即座に「汚いと思わない」と言ったという。 便なのだから確かに「汚い」のだが「汚いと思わない」と言う叔母の 気持ちは有り難いと感謝すべきだと思うし、母も馬鹿じゃないから 素直に「有り難かった」と今でも言う。 ただ、それを叔父に中々言わないからいつか機会があったら 言ってみたらどうかと思う。
親戚の仲が拗れ始めてから、中々会って話す機会は無いが、 ハッキリ言って嫁は他人である。 その嫁が最後まで自分の親を見てくれたことは感謝すべきだし、 頭を下げてしかるべきであると、私も思うし母も思っている。
こんな状況では中々言えないけれど、改めて有り難うと言いたい。 私が誰よりも大好きなおばあちゃんだったから、 尚の事、「有り難う」と言いたい。
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