サッカー日本代表が最終段階にきて、混迷している。欧州勢が国内リーグ等を終えて調整に入っているのに比べ、Jリーグは長期中断、代表選手は直前のハードスケジュールで体調を崩し、病人続出である。 トルシエの代表候補の選考方法には一長一短、公平な面とチームとしての熟成不足という欠陥の両面があることについては前に述べたが、欠陥のほうがここにきて露出してしまったようだ。 選考のプレッシャーに選手が耐えられなかったというべきか。いや、やはり、選考方法の不自然さの結果である。「最終試験」が何試合も続けば、選手の疲労もたまるというもの。全試合に絶好調で臨める選手などいない。 一言で言えば、トルシエは選手の実力を正確に計れなかったのである。だから、そのエクスキューズとして、「最終試験」を続けたのである。これは公平のようでいて、公平でない。本当に「最終試験」だったのならば、連続得点なしのFW、鈴木、柳沢が選ばれる理由がない。最初からこの二人を選ぶつもりだったのならば、「最終試験」など不要である。「最終試験」で、他の選手が彼らに勝る働きをしなかったというならば(ドングリの背比べならば)、仕方がないが、リーグ好調の山下を使わない理由が説明できない。もちろん、けがで出られないのは仕方がない。サッカーは危険なスポーツなのだから。どんな選手もけがをする。それは運・不運の問題である。 トルシエの選手選考方法のもう1つの欠陥は、各代表選手が選ばれたことで目的を達したという錯覚に陥る危険性を併せ持っていることだ。「代表シンドローム」である。本番で活躍してこそ代表なのだ、という精神状態を選手たちがもてるかどうか―。私はこのモチベーションを持てないとは言わないけれど、かなり難しいと考えている。日本代表の中で、W杯に集中できている選手は、ヒデしかいないのではないか。 電車のつり広告で見たのだが、ある雑誌が「トルシエ解任」を迫っていた。この考えには一理も二理もある。トルシエが「最終試験」を言い出した、ウクライナ戦の前に解任すべきだった(のかもしれない)。
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