日記帳




2006年12月10日(日) 停滞と失踪の狭間

ひとつ前の日記の日付を確かめることすら気が引けるほど、ご無沙汰しておりました。
これはもはや「停滞」の領域ではなく、「失踪」と呼ぶべきではなかろうか、と良心が囁いています。

古いファイル類をがさごそとかき回していたところ、2002年に書いたクリスマスストーリーが出てきました。かれこれ四年間、お蔵入りさせたまま、顧みられることもなく眠っていたものです。
そしてさすがお蔵入りさせていただけあって……という出来ではあるのですが、もう二度と表舞台に出すこともないでしょうし、師走の恥はかき捨て、供養の意味も込めて、ここに復活させてみようと思います。


***

『garden』

 十字路の向こう、人ごみの中に、彼女を見つけた。


 初めて出会ったあの日と同じ場所に、彼女は立っていた。


 彼女は、真っ赤なコートの裾を風に遊ばせていた。
どんよりと重い寒空の下、グレーや黒ばかりに身を包み、冷たい風に俯く人々の中、凛と前を見据えて立つその姿はあまりに鮮やかで、僕は彼女から目を離すことができなかった。


 十字路の真中、すれ違うその瞬間、彼女が淡く微笑んだような気がした。
“きれいなセーターね”


 そうして、僕と彼女は出会った。
今からちょうど二年前。今にも雪が舞い降りてきそうな、クリスマス・イヴのことだった。


 あの日、僕は若草色のセーターを着ていた。


 クリスマス・イヴに僕らは出会い、クリスマス・イヴに、また離れ離れになった。


 ボストンバッグひとつに詰めた衣服と歯ブラシ、そして空になったバニラエッセンスの瓶。彼女の持ち物は、それだけだった。
“バニラエッセンスの空瓶?”
“ええ。これにね、花を生けるの。甘い香りがうつるような気がしない?”


 彼女は、甘い香りのする花が好きだった。
“でもね、お花って、誰かからもらうものだと思うの”
 そう言って、彼女はミルクティーを啜る。
“自分で買うのは、少し寂しいわ”
 彼女の淹れたミルクティーからは、ほのかにバニラの香りがしていた。


 彼女の誕生日は、クリスマス・イヴだった。街がイルミネーションや賛美歌で彩られるこの季節を、彼女はこよなく愛していた。
“だって、世界中のひとが、私が生まれたことを祝福してくれているみたいじゃない”
 ツリーも、リースも、季節はずれの果物で飾られたケーキも、街を白く染める雪も。


“だけど、ひとつだけ、残念なことがあるの”
 暖かい空気に曇った窓ガラスを指でなぞりながら、彼女は言った。
“クリスマスと誕生日のお祝いがいっしょになっちゃうじゃない? プレゼントもひとつ、ケーキだってひとつ。「おめでとう」の言葉だって、ひとつ”
“だけど、心がこもっていれば、数なんて関係ないんじゃないかな?”
 まるで、幼い子どもが拗ねているような彼女の口調が可笑しくて、僕はからかうようにそう言った。
“ひとつきりでも、十分に幸せな誕生日だよ”
“じゃあ、その「ひとつ」さえなかったら? それでも、幸せなの?”
 痛いくらいに真っ直ぐな目で、彼女は僕を見据えた。


“来年のクリスマス・イヴは…”
 すっかり冷たくなった彼女の指先を両手で包み込んで、僕は約束した。
“二回、お祝いしよう。クリスマスと、君の誕生日と”
“プレゼントとケーキは?”
 真剣な顔で問いかける彼女に、僕は微笑んで見せた。
“もちろん、ふたつ用意するから。たくさん、お祝いしよう”
 こくりと頷いて、彼女は目を閉じた。その睫毛が少し濡れているような気がして、僕は黙って彼女の額にそっと口付けた。


 一度だけ、彼女の部屋へ行ったことがある。彼女と出会ってもうすぐ一年が経とうとしていた12月の初め、細かい雨の降る午後だった。


 小さなテーブルと、ベット、それから本棚がひとつ。ベージュ色の絨毯、灰色のカーテンとベットカヴァー。彼女が無造作に床に脱ぎ捨てた真っ赤なコートだけが、古い映画のワンシーンのように鮮やかだった。


 彼女が台所に立ってコーヒーを淹れている間、僕は手持ち無沙汰に部屋の中を見回していた。ポスターも、カレンダーも貼られていない、無彩色の壁。ただひとつ飾りと呼べそうなものは、本棚の一郭に置かれたガラスのドームだけだった。僕は立ち上がり、本棚の前へと歩いて行った。


 持ち上げると、ドームの中で作り物の雪が舞った。僕は、ガラスの向こうに広がる風景に目を凝らした。緑の丘の上に、白い三角屋根の家がぽつんと一軒。他にはなにもない。家のドアは少し開いていて、今にも中から誰かが出て来そうだ。


“きれいでしょう?”
 いつの間にか、彼女が僕のすぐ側に来ていた。
 彼女は僕の手からガラスのドームを受け取ると、同じようにじっと中を覗き込んだ。


“この家には、どんなひとたちが暮らしているんだろうって、ひとりで想像するのが好きだったの。たぶんね、真っ赤なほっぺたをしたお母さんと、逞しい手をしたお父さんと、編物の上手なおばあさんと、きらきらした目をした子どもたち、そんなひとたちが住んでいるのよ”
 彼女がドームを傾けると、柔らかな雪が地面から空へと舞い上がった。


“どうしたら、このドアの向こうに行けるんだろうって、いつも考えていたわ。寒い寒い雪の夜にね、私はドライフルーツのたくさん入ったケーキと、上等のワインを一本持って、この家を訪ねるの。道に迷ってしまいました、このままでは凍えて死んでしまいます、どうか、一晩だけここに泊めてくれませんか、って。この家のひとたちはみんなとても優しいひとだから、きっと中に入れてくれるわ。そして、暖かいスープを飲んで、ふわふわした布団にくるまって眠るの。もう二度と目が覚めなけりゃいい。このまま、ずっとこうして眠っていられればいい。そう、思いながら……”


 夢見るような瞳で、小さな家のドアを覗き込む彼女を、僕は何も言えずただぎゅっと抱きしめた。そうすることしか、できなかった。


“私は、ずっと旅の途中なの。私の帰る場所は、ずっと昔から決まっていて、そこへ戻るために、私は旅を続けているの。今は、少し立ち止まって休憩しているだけ”


 繰り返し、繰り返し、彼女はそう言った。何度も、何度も、まるで、自分に言い聞かせているように。
“この場所も、この世界も、私にとっては止まり木のようなもの。いつかは、またここを離れて、私の居るべき所へ戻らないといけない。でないと、私はきっと跡形もなく消えてしまうの。粉雪のように。砂糖菓子のように”


 楽園。彼女はその場所を、そう呼んだ。いつか、必ず戻るべき、約束された、その場所。
“そこは、私にとっての楽園なの。他の誰のものでもない、私だけの楽園”
“僕は、そこへは行けないの?”
“そのドアは、私にしか開かれない。例え、あなたであっても”


 “もしも、辿り着けたなら、あなたにクリスマス・カードを送るわ”
“そこは、クリスマスの国なの?”
“だって、私のための楽園だもの。……約束するわ。私は元気でいますって、ここで、幸せに暮らしていますって、カードにいっぱい詰め込んで、あなたに送るから”
 けれど、僕はその場所に辿り着けない。そこは、彼女のためだけに存在する楽園だから。その場所で、彼女がどれだけ幸せであっても、その同じ幸福を、一緒に分かち合うことは、できないのだ。


 あの日も、空は鈍い灰色に染まっていた。僕と彼女は、足早に歩く人々の流れに逆らうようにして、ゆっくりゆっくりと歩いていた。繋ぎ合った手は冷たくかじかみ、その細い指先を少しでも温めたくて、僕は何度もしっかりと彼女の手を握りなおした。


 彼女は、もう片方の手に旅行鞄を下げていた。何も言わなかったけれど、彼女はもう行ってしまうのだと、息苦しいくらいはっきりと、確信していた。


 彼女はもう、行ってしまうのだ。
 そしてもう、戻って来ない。


 十字路の手前で、彼女は僕の手を離した。
“そのセーター、あなたにとても似合うわ”
 にっこり笑って、彼女は僕に背を向けた。鮮やかな赤いコートが、鈍色の街に消えていく様をぼんやりと見送りながら、やっぱり古い映画のようだと、僕は思った。


 その日、僕は若草色のセーターを、箪笥の奥深くにしまいこんだ。


 ふたつのプレゼントは、公園のベンチに置き去りにした。


 ふたつのケーキは、受け取り手のないまま、ケーキ屋の隅に取り残された。
 

 信号が変わった。ポケットに両手をつっこんだ彼女は、横断歩道の手前で突然くるりと踵を返した。僕は、慌てて彼女の後を追う。あの時、人ごみに溶けてしまったその背中を、今度は見失わずに済むように。


 そこだけスポットライトが当たっているかのように、彼女の姿は僕の目に焼き付いて離れない。
 どんなに、目を逸らそうとしても。もう、追いかけるのはやめにしようと思っても。


 彼女の楽園。彼女の幸福。どこまで行っても、交わることはない。


 一軒のアパートに辿り着いた。
 彼女は軽い足取りで螺旋階段を上り、突き当たりのドアの向こうに消えた。最後、視界の隅を掠めた真っ赤な残像に、軽い眩暈を覚えた。


 僕の楽園。僕の幸福。どれほど求めても、届くことはない。


 その部屋は、長い間誰にも使われていなかったようだった。分厚いカーテンのひかれた室内には、しんとした空気が重く降り積もっている。うっすらと埃に覆われたテーブルの上には、一枚のクリスマス・カードが置かれていた。何の変哲もない、
ありふれたカード。柔らかそうな雪に覆われた丘と、その上に立つ白い三角屋根の家。


 家のドアは、大きく開け放たれていた。その向こうに、暖かそうな暖炉と、一客の椅子。


 椅子の背には、赤いコートがかけられていた。



“メリー・クリスマス”
 一言そう書かれた文字は、記憶の中と同じように、少し右上がりに傾いでいた。


 彼女は、辿り着いたのだろうか。


 彼女の夢見たその場所に、辿り着けたのだろうか。


 本棚の一郭、かつてと同じ場所に、ガラスのドームは残されていた。薄く開いたドアの向こう、そこに、彼女の夢見た幸福は、待っていてくれたのだろうか。


 このドアは、僕を受け入れてはくれない。ここは、彼女のためだけに開かれた、楽園のドアなのだ。


 そう。


 彼女の楽園は、いつも手の届くところにあった。


 そして、僕にはあまりにも遠い。


 あまりにも、遠い。

***

当初はもっと行間空けの大盤振る舞いだったのですが、慣れない空白行はなんとはなしにこそばゆいです。

年内には、なんらかの活動報告が出来れば、と切実に願っています。毎年恒例(?)の、クリスマス本読書もじわじわと進行中です。
とは言え、次回いつお目にかかれるかは未知数ゆえ。一足お先に年末のご挨拶をしたためておきます。皆様、よいお年を。年末までに、またお会いできれば幸いです。






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