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昨日、ゆきちゃんがやって来た。ちょうど、最近見ないけれど元気にしてるんだろうか、と呟いたそのタイミングを狙い済ましたように、現れたのだ。厳密には「だろうか」を言い終わるか言い終わらないかの瞬間、ふと目をやった応接間のガラス窓越しに、黒い湿った鼻と鋭角三角形の耳が覗いていて、私は思わず尻尾を踏まれた猫のように飛び上がってしまった。ゆきちゃんはいつも、思わぬ時に思わぬ場所へ姿を見せるのである。その神出鬼没っぷりがどれほどのものかは、追って話そうと思う。 ゆきちゃんは、私の家の近所を根城とする中型犬である。首輪はしていないから、恐らく飼い犬ではないのだろうが、どうやら私の家の何かがお気に召したらしく、思い出した頃にやって来ては、しばらくの間まるで我が家の家族のごとく振舞って、また去っていく。 「ゆきちゃん」という名前は、誰が名付け親なのかは知らないが、その毛並に由来しているのだろうと思う。詩的と採るか安直と見るかは微妙なところだ。 名前から推測できるように、ゆきちゃんは大抵の場合、白い犬である。でも時たま、見慣れない姿をしていることもある。一例を挙げるならば、私が初めて遭遇した時のゆきちゃんは、全身真っ黒の硬そうな毛に覆われ、顔の中心部だけがふわふわと白い、ハスキー犬ばりにいかつい姿をしていたものだ。昨日はちょうどその「当たり日」で、ゆきちゃんは滑らかそうな短く白い毛並みのところどころに、茶色いぶちをあしらって現れた。その辺りの仕組みは、私の想像力など及ばない領域に属している。だが母に言わせれば至極単純で、すなわち「ゆきちゃんだってお洒落したい時もあるでしょ」ということなのだという。母の、大胆なのか合理的なのか分からない発想も、私の平凡な想像力を凌駕してあまりあるもののひとつである。 ゆきちゃんの特技は「扉抜け」である。閉めたはずの扉をいつの間にか潜り抜け、涼しい顔で隣に寝そべっていたりするのだ。一体どうやって入ってきたのか、まるで見当がつかない。母は、ゆきちゃんは器用なのねえの一言で済ませていたが、これは「器用」の一言で片付けられるような類の現象ではないはずだ。 きっと何かトリックがあるはずだ。そう考えた私は、それからというものゆきちゃんの一挙手一投足を気取られないように観察し始めた。けれども敵もさるもの、ゆきちゃんはまるで熟練した手品師のように、決してタネを明かそうとはしなかった。私とゆきちゃんの攻防は、数ヶ月ほど続いたと思う。 しかしある日、とうとう私は見てしまったのだ。ゆきちゃんの秘密を。 その時、私は洗濯物を干していた。ゆきちゃんは、洗い立ての湿ったバスタオルを引きずり回して遊ぶのが大のお気に入りだ。けれど、せっかく綺麗になった洗濯物を玩具にされては少々困る。そんなわけで、ゆきちゃんは物干し場に続く引き戸の前でしばらく待ちぼうけを食らっていたのだ。 私が背を向けていると思って、きっと油断したのだろう。引き戸と壁の隙間、ほんの数センチしかない間を、ねずみほどの毛玉になったゆきちゃんが潜り抜けてきたのである。 これで謎は解けた、と私は思った。ゆきちゃんの体は伸縮自在なのである。 そして昨日も、私は物干し場へ続く入り口の前にゆきちゃんを残し、洗濯したばかりのシャツを干していた。引き戸はぴっちりと閉めてある。さて、ゆきちゃんはどうするか。横目で様子を伺っていると、引き戸と床の間、ほんの僅かな空間から、白いぺらぺらしたものが滑り込んできた。ゆきちゃんだった。するめのように薄っぺたくなったゆきちゃんだった。 するすると音もなく進入した白くて薄べったいものは、すぐに何事もなかったかのように膨らんで、いつものゆきちゃんになった。私は素知らぬ顔で振り向き、あれいつの間に入ってきたの、と驚いてみせたのだった。少し、わざとらしかったかもしれない。 そんなわけで、ゆきちゃんは不可解な生き物である。でも私たち家族は、ゆきちゃんの来訪をいつも心から楽しみにしている。そういえば、ぶちの毛皮のままぺらぺらになったゆきちゃんは水玉模様のタオルに似ていた。シャツのしわを伸ばしつつ私は、きっと肌触りも良いに違いない、とこっそり考えていた。 *** 昨日見た夢の話でした。 ![]() ![]() ![]() ![]() |