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No-Mark Stall *




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神々の系譜。 | 2005年04月27日(水)
碧く透き通る世界に、ゆらめき差し込むのはあたたかな陽のひかり。
凍りついたような静寂の中、ひとりの青年が湖面を見上げていた。
その遥か頭上を真紅の色鮮やかな魚の群れが音もなく悠然と泳いでいく。

水底に沈められた楽園の如き小さな庭園。
積み上げられた石も半ば崩れ朽ちかけ、廃園のような有様の庭で動いているのは彼ひとり。

「……神の力で護られているとはいえ、水の中にいても息が出来るということはいつまで経っても慣れないものだな」
小さな苦笑は響かない。
水面の波紋に合わせてゆらりひらりと揺れる陽光が彼を射る。
目を眇めると、彼は踵を返して神殿の回廊を歩き始めた。

壁に嵌め込まれた雪花石膏に彫られているのは、神話を題材とした秀麗なレリーフ数々だ。
その中のひとつの前で彼は立ち止まる。
左手には何かを抱いて眠る女神。そのすぐ横で、彼女の眠りを守り魔物と戦う番人の姿が描かれている。
かの女神は愛と罪とを司る麗しの女神ウェハーリネ。
もとは愛のみを護る無垢なる神と讃えられていた彼女は、あるときひとつの罪を犯した。
それによって彼女は穢れた一面を持つことになり、世界で一番美しく残酷な牢獄で今も罰を受け続けているのだと神話は伝える。

世界で一番美しく、そして残酷な牢獄。
一瞬、湖に沈められたこの箱庭を連想して彼は僅かに顔をしかめた。
女神の浮き彫りから目を背け、傷付いてなお魔物に立ち向かう番人を見遣る。
彼が守るのは女神の眠り。
彼女の心棒者であり守護者であり、そして想いびとでもある番人は一体どんな気持ちで眠る恋人を見つめていたのか。


――愛の女神は恋を知らなかった。
人間たちの報われぬ恋を幾千となく叶えながら、彼女本人はその感情を知らなかったのだ。
そうしてあるとき出会った青年に、一目で心を奪われた。
規則に囚われない天真爛漫たるウェハーリネは、神と人間の恋が禁忌であることも忘れて彼の元に走った。
彼女をただの人間と信じて結婚したコルトニーゼは、産まれた子供が神たる力を持っていることに腰が抜けるほど驚いたのだという。
すぐにそのことは神々の坐す天上に伝わり、出奔した女神を探し回っていた神々は早々にふたりと子供を天に引き上げた。

そうして罰は下された。

ウェハーリネには永き眠りを、コルトニーゼにはその番を。
恋を叶えられなかった者たちの悲哀と恨みから生まれた魔物を、死ねぬ身体となった彼は追い払い続ける役目を負わされたのだ。
最も傍にありながら真実の意味で逢うこと叶わぬその罰に、ウェハーリネの親友であった幸せを運ぶ春の女神レティアが酷く嘆き悲しんだ。

<大神ラーオよ、お願い致します。どうか彼女をお赦し下さい>
<ウェハーリネは大罪を犯した。それを何故赦しを求めるか?>
レティアは地上を覗く水鏡を指して泣き伏した。
<愛の女神が消えたことで、結ばれぬ運命を背負わされた者たちが増えております。恋の女神ひとりでは手が行き届かず、また妾の力ではどうすることもかないません。どうか彼らを救って下さいませ>
ひとびとに幸せや笑顔を振りまくことを仕事とする彼女は、どれだけ力を尽くしても憂いが消えぬひとびとを想って酷く心を痛めていた。
伏して懇願するレティアの痩れた姿にさすがにラーオも心動かされたのか、彼はしばらくの沈黙の後に重い口を開いた。

<……よかろう。彼女の眠りを解いてやる>
しかし、と彼は続けた。
<それは一年の間に一夜のみ。それでよいなら許そう>


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昔の話を見つけて思わずうろたえてしまいました。2002年って。
そのまま載せるのはさすがにはばかられましてちょっとリライト。
written by MitukiHome
since 2002.03.30