2002年08月04日(日) |
無意識の行動っていいのかな? |
昨日の続き・・・ もちろんRPG的親切などせずとも、無意識に親切が身についていて出来る人は理想です。 でも無意識というのは諸刃の剣である時も少なくないと思うから本当にいいのかどうなのか? 自分にとって心地よいことが必ずしも相手にも快適かなんてわからないのだから。 意識していている方が方向転換も早いだろうと思われる。 だからやっぱり物事は意識して行動に起こした方がいいんじゃないかと確信している。
「・・悪気はないんだけどね・・」というのに似ている。 悪気があったら、自分で時期が来たら、あるいは何かのきっかけで止めることも出来るけど 悪気ないまま悪事を働いていたら、それはよっぽどじゃないと気付かないから治らないだろうということ。 以前よく職場で「根は悪くないんだけど」という評価と同じに引っかかってよく話題になったものである。 根が悪い人という言葉は実際には使えない。 フルーツバスケット1巻でおじいさんが使うのはナイスなんだけど(笑) 表面は善人ぶって、実は悪い人。ということになるのかな?それにしても使いにくい。 根が悪くない人もは露悪主義なのでしょうか?根は善人なんだけど、表面が粗暴? そんなんじゃわかりにくくて誤解されやすくて生きにくい、一昔前の少女漫画のパターンぽい。 つまり現実的でないということ。 ・・一見不良で学校でも一目置かれている少年A。だけど、本当はやさしいところをヒロインが偶然みて・・みたいな。 書いていて古臭くて辛い。(けど嫌いじゃないわ(笑) 他者にとって「根」など関係ないに等しい。表面に現れていることや自分にとってどうであるかが重要なのだ。
もちろん長年、世のため人のためとかいいながら、実は私腹を肥やす人は根が悪いんでしょう。 でもそういうことをやりつづけた人って顔に出てる。表面を取り繕っていても、顔にはエグミが出ているものです。 でも悪の心を自分で意識して抑えながら、表面上はなんとか良い人でいようと努力しつづけてそのまま死んでいったら。 つまり誰にも悪い部分を悟られずに、迷惑かけずにいけたら・・ それはもう根は悪いと思う人もいないので、いいんじゃないかと思う。そんな人いないって? 確かにそれは大げさなんだけど、例えば自分の利己的な、悪い考えや行動を自分で意識してなるべく気をつけようとする人はたくさんいると思う。私もその1人。 たくさんの失敗や黒い考えを認め、ヤバイぁと思いつつ、なるべくそっちに流されないようにしている。 そういう人はでもいつまでも顔が不安定かもしれない。オトナでもなく、子どもでもない。いつも顔が違っている・・と思う。 ではどちらでもない人。何も考えていない人は・・「悪の対話術」福田和也 講談社新書に書いてある通りの顔になるのかな。
なんだかこの文章の着地はどこなんだ。2日続けておいて・・・ ただ単に、いまだにW杯の時に起きたダークサイドな事件を引きずっているというか 今更怒っているのが正直なところ。少しスッキリしたわ。 ハッキリと書けないからこそもんもんとしているのだろうけど。 それを書いてしまったら、私もその人たちと同じレベルになってしまうから書けない。
----------------------------- 今日は旧友と宝塚ファミリーランドに行ってきました。 ホワイトタイガーもレッサーパンダも相変わらずかわいかった。 動物たちはどうなるのかな?
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