樹里ちゃん日記
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2003年02月12日(水) |
花組「エリザベート」(1) |
「エリザベート」・・・私を、いつも愛のラヴィリンスに誘うこの言葉・・・ 大きなテーマが「エリザベート」の中にはある。
「愛」だ! その愛はもちろん様々な形を現しながら、「エリザベート」の中から私に問いかけているのだ。
男と女の愛・・・ 結婚を決めてその男と結婚をする。女は生涯をその男と暮らし、添い遂げることを誓う・・・ なぜ、その男が自分の、真実の、最高の愛を育てる相手であるとなぜ、確信が持てるのか? 女には、それがない・・・この男が私の真実の愛の相手なのか?といつも問うてしまう・・
トートは女にとっては真実の愛の象徴として、君臨している。 女の結婚生活をいつも脅かしながら、女を追いかけ続けると言い切る男・・・ この男が真実の愛を求めるのなら、自分はこの男といっしょにいるのが本当の居場所ではないか?と自分に問いかけてなにが悪い? 夫として今一緒に居るこの男は、実はまやかしだったのではないか?と疑って何が悪い? だから、女にはトートが真実の愛の象徴となる。
しかし、 女は「スカーレット」にはなりたくはないのだ。 自分を愛するもの、自分にふさわしい男、自分に似合いの男を見間違えていないか? こんなにそばにいて自分を想う気持ちに気がつかないで、夢の中の理想の男だけを追い続けてはいないか? それが、女にとっての「フランツ」なのだ。
真実の愛の象徴と思うがあまり、本当の慈しみの愛を与え続けるフランツの愛になぜ気がつかないのか? なぜ、目をそむけようとするのか?
いや、フランツの愛には十分気がついている。 ただ、その愛の表現が、足りない! もっと、愛を言葉にして欲しい、もっと君を愛しているとささやいて欲しい。 愛を行動で示して欲しいのだ。 女は貪欲だ。愛が必要と言い続け、求め続ける。とにかく愛されていると実感したい。 いつも愛におぼれていたいのだ。 そう、 フランツ(夫)と腕を組みながら、その肩越しにトート(真実の愛の場所)を見つめる・・これが女、自分だ!
シシィは、女性の観客のとって、自分自身なのだ。 幸せな結婚生活のはずが、夫意外のしがらみから夫との愛とだんだんとすれ違う悲しさ・・・ それを感じているから、シシィに共感してしてしまう。
花組「エリザベート」の功績は、すべての主人公達が「戦っている」と言うことを知らしめたことだと思う。 シシィ、トート、フランツ、ルキーニ、ルドルフ、ゾフィ・・・ 皆が真実を求めて、愛を求めて戦っている・・ 花組「エリザベート」はそういった意味で、一体感(?)が感じられにくいのかもしれない。 それは、それぞれがひたむきに自分を見つめながら、歯を食いしばって真実の愛を勝ち得るために戦っているからだと思う・・・
以前、トートの愛イコールフランツの愛だと言ったことがある。 なぜなら、トートもフランツも同じ真実の愛を求めているってことに他ならないからだ。 だから二つは私にしたら同じもので、最終的にシシィがトートと結ばれても、それが真実の愛を求めた結果だったのだから・・
だから、大鳥シシィの「戦うシシィ」は、私には最高のシシィなのだ。 私の化身として、夫と戦い、姑と戦い、真実の愛を叫ぶトートと戦う。 真実の愛を勝ち得るためにシシィ(私)も戦うのだ!
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