ゼロの視点
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2003年06月13日(金) 13日の金曜日

 午後から、パリへ持ち帰る食料等の買出しと、成田エキスプレスの予約等を済ませて、C神父のところへ向かう。

 教会内にクルマを入れると、さっそくC神父が出てくる。挨拶を済ませ、母にクルマを運転して帰ってもらった。昨日は酒が飲めなくて辛かったので、本日こそはっ!!、というわけだ。。

 さっそく、教会内のC神父の部屋に行き、その後居間でアペリティフ。たくさんテーブルの上に、C神父取って置きの酒瓶をたくさん並べられ、どれにしようか迷う程。酒を飲みながら、神父と会話している夫の顔をみると、あーーら不思議、やっぱり、妻の通訳を必要としない彼の顔は活き活きとしている(笑)。

 アペリティフの後は、C神父に連れられて教会から徒歩5分強のところにある老舗のうなぎ屋へ。一見穏やかな表情の置くに、キラリと光る鋭いC神父の眼光は、生半可は質問等できるのだろうか?、と私をたじろがせたが、とはいえ本来の好奇心がムクムク沸きあがってきたので、徐々に軽いジャブを打っていく。何も質問しないで、人の話を聞くということができない性格なんだと、つくづく痛感。

 C神父は、1954年に中国に赴任するつもりで、渡ったものの、結局共産主義の台頭で日本へ一時的にやってきた、ということは以前の日記にも書いたとおり。私が「本当は日本へは来たくなかったんじゃないの?」と聞くと、ニヤリとするC神父。

 日本へ来てからは、本当はフランスへすぐにでも帰りたくてしょうがなかったそうだ。とはいえ、フランスを去る際に、家族、友人、そして教会の司祭までを含めた、盛大なサヨナラパーティーをあちこちで開催してもらい、そんなことまでされた数ヶ月後に“どんなツラをさげて”帰ればよいのだろうか?、と考えた挙句、意地になって住み続けているうちに、日本に慣れてしまったとのことだった(笑)。

 日本に来た直後に、日本式の信号の仕組みがよく判らず、赤信号にバイクで突っ込み、臨死体験を経験したC神父。事故に合い、飛ばされている間に“ああ、これでフランスに帰るいい理由が見つかったっ!!”と思ったそうだ。実際、誰も助からないと思ったらしく、入院中のC神父の存在があるといのに、あちこちの教会では、彼の追悼ミサの準備がされていたらしい。

 仏教僧の集まりにも参加し、プロテスタント神父の会合にも顔を出す、非常にオープンマインドで、アクティブなC神父。神父の結婚についての議論においては、彼はOK派。ブルターニュ地方の中でも、バリバリに凝り固まったカトリックに慣れた挙句、それに嫌気が差してしまった夫だったが、ここまで思考&行動が狭量ではないC神父の存在に、新鮮に驚いている様子だった。

 うなぎ屋を出て、食後のコーヒーを求め、3人でドトールへ(笑)。まだまだ話は続く。結局閉店になって、店を追い出されるまで話し込んでいた3人だった。神父生活の裏話他、たくさんの面白い逸話が聞けて本当に充実した時間を過ごすことができた。


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