ゼロの視点
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| 2003年12月07日(日) |
二つの椅子の間に座る |
10月10日〜12日にかけて、ノルマンディーのMG別荘でうけた霊気の第一段階イニシエーション。そして、12月6、7日と再び私たちは友人Pと一緒にノルマンディーに出向き、今度は、第二段階のイニシエーション。
土曜日の早朝にMG宅へ3人で到着すると、MGがいつものように笑顔で迎えてくれる。他の参加者は?!?!?!、と周りを見渡すと、クルマがない。MG曰く、奇妙なことに、私達のほかに参加するはずだった3人は、昨夜同時に急用ができてしまって、来られなくなってしまったとのこと。
そんなわけで、今回はMG、P、そしてわしら夫婦の4人だけの週末になった。参加者が7人もいると、会話が盛り上がってそれはそれで楽しい。が、4人となると、会話が盛り上がると同時に、どんどん色々な話題を掘り下げて話すことができるので、非常に感慨深いものがある。
知っていたつもりのMGや、Pの新たな側面もわかるし、議論の進み方次第では、夫の新たな側面を発見できるし、夫も私の新たなソレを発見したようで、なかなか面白い。4人のメンバーは、それぞれが独立して議論進行役になれるというところが拍車をこの楽しさに拍車をかけているのだと思う。
実は私、最近色々と気分的に解放されてきている。長年堰きとめられていた何かと和解できたかのように、気分がいい。パリにすみ始めて5年と半年でようやく、本当の意味で自分に自信が持てることができたような感覚。
恐らく、今まででも色々と出来ていたのだが、それでも頭ではまだ自分をどこか否定していた・・・・、といえば伝わるだろうか?。とにかく、頭と感情がバラバラになることが多々あった。
フランス語で書く、という仕事をしていながら、実はフランス語で日本語のようにバンバンメールを書くことをしたくなかった。というより、気分的にできなかった。今までも、議論や何かに参加して、たくさん発言してきたが、それでも自分の中では、まだまだだ・・・・・、とそれを否定するところがあった。
それなりにたくさんいる非日本語兼の友人・知人達。しかし、夫はもっともっと“異様な”ほど社交的。それはそれでいいことだ。が、そこに、私としての友人なのか、それとも夫の妻として、私は彼らと友人なのか?、と時に浮かぶ疑問・・・・。要するに、アイデンティティーの問題。
母国で暮らし、母国語を介して、思う存分楽しんだり、苦しんだりしている夫にしばしば嫉妬に似た感情を抱いたりしていたこともあった。
私のように、夫と知り合ったからフランスで暮らしている、という人間にとって、それ以前の人間関係は、フランスにはない。すべてが、夫に導かれて始まったものなのだ。夫といるからできるものなのか、一人でも可能なのか?、そのあたりの境界が、いまひとつ自分のなかでしっくりきていなかった。
そんなところで、夫がへまをしたりすると、心の奥底で“何一つ不自由がないくせに、こんなことしやがってっ!!”とカチンとくる自分もいたことをここで白状しておく。ようするに、自分が解放されてないと、相手にキツク当たってしまう(寛容になれない)という典型的な例。
こんなふうに考えてやすい傾向がある一方、実際では私は色々とやってはいた。が、自分自身でこうやって否定、もしくは完璧主義を求めていると、そのジレンマから抜け出せられないのは自明。
自分自身を取り戻すことに焦りを持ち始めた私は、その最終手段として、夫自体の存在を極端に否定するということを無意識にしはじめていたのだろう。
そして、つい最近、本当にこれらのことが難なく受け入れられるようになった。それはある日突然やってきた。未だに自分でもビックリしている。『史上最悪の大喧嘩』というタイトルの日記でも書いたが。
あなたがいるから、わたしがいる、相手の悪いところがあっても、そこは目をつぶるから、私の悪いところにも目をつぶってね・・・、とにかく二人で一緒・・・・、と聞こえはいいが、これを続けていくと、共依存(縛りあい)にどっぷり陥る危険性がある。私はこれがたまらやく嫌な人間だ。リスクがあっても、それぞれの存在の自由を尊重したかった。
ただ単にバラバラに過ごすというのでもなく、だからといって縛りあうのでもなく・・・・・。その微妙な二つの境界線上にある関係。
こんなことを考えているうちに、私は、未だにフランスに住んでいること自体、完全に受け入れてなかった、という衝撃の事実を発見した。今だからこそ非常に笑えるのだが、いつでも帰ってやる、という感覚でしか暮らしてなかったということ。ここに大きな矛盾がある。
フランスでの生活を着々と築き、その一方で、そこからいつでも逃げようとしている私という存在。もうギャグでしかない。“しっかりと何かを築く作業”からいつも逃げようとしているわけだ。それは、夫婦のコミットメント問題にも、あきらかに悪影響を与えてくる。
"être assis entre deux chaises"(直訳・二つの椅子の間に座る)という言い回しは、どっちつかずの不安定な状況を言い表す言葉だが、まさしくこれが私だった。日本語でも、腰がすわってない、等の言い回しがあるように、じつにフラフラしていた自分をこれらの表現に見出すことが出来る。
これら諸々のことが解消された現在、今まで以上に、ノルマンディーでの議論も楽しむことができた。気持ちがよいほど議論しまくってきた。そして気持ちが良いほど、色々なことを学んでくることも出来た。
霊気第二段階のイニシエーションが終わった時、どんよりとしたグレーのノルマンディーの空に、太陽が燦燦と輝き出した。
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