みちる草紙

2002年05月23日(木) 待つわ

“待てど暮らせど来ぬひとを 宵待ち草のやるせなさ”
待つのが嫌いである。待たされるくらいなら、損を承知で引き返す。
並んで順番を待つ福袋なんぞ買ったことがない。行列のできる店なんて大嫌いだ。
集団心理から一人逸脱して、自分が何かいきなり物乞いの最後尾に立ったような
侘しい、惨めったらしい、貧乏くさい心境に、否が応でも陥ってしまうからである。

子供の頃から遅刻魔で、短い半生のうちにどれだけお世話になった人々を
厚かましく待たせてきたか知れないが、いざ立場が変われば、何かを、誰かを
当て所なく待ちわびるとは、およそあれほど苦痛なものはないのではないか。
待つことが苦にならないという人は、倦まずに待つ「コツ」があるなら伝授して
欲しいと本気で思うほど、まず類い稀な才能の持ち主であるとアタシは信じる。

“待つわ いつまでも待つわ 他の誰かに貴方が振られる日まで”
待つという行為のその先には、強かに見越した計算があって然るべきであるが
腰が重いくせに「焦らす」という挑発に遭うと、弾かれたように一転勝負に出る。
これも妙な性癖である。ちょっとだけ大人しく待てば海路の日和であろうものを。
(…とここまで書いて、計算低い自分がオセロで勝てない理由も自ずと判明(-_-;))

象徴的なのは、朝のラッシュ時、魔の通勤電車に乗る際である。
最寄駅は有難いことに始発であるから、その気になれば座って行けるのだ。
ところが、一つ躓けばアウト!という危ない橋を渡る癖のあるアタシには
一本電車をやり過ごせば座れると分かっていても、殆ど毎朝そんな余裕はない。
また、少々早めに着き、ホームに並んで次のに乗っても悠々間に合うという時でさえ
折角早く出たのだから、その分目的地に早く着かなければ損だという気に
なってしまい、結局、既に座席の埋まった電車に乗り込んでしまっている。
乗り換え駅までたっぷり30分立って揺られることを思えば、静止したホームに
ほんの2〜3分並ぶ方がよほど楽なのに、どういう訳だかそれが出来ない。

煮え切らない状態が続くのに耐えられない。身悶えるようなもどかしさに音を上げて
気の変わらぬうちにと、ひと思いに決着をつけようとして、何度早まったことか。
つくねんと待つ間、見る見るうちに膨れ上がる猜疑が羞恥へと変化し、苛立ちが募り
放ったらかされるとは即ち、侮辱に他ならないではないかという思いに固執する
ようになると、あとは躊躇する間もなく決起し、自爆テロへと突っ走る。
持論。愛とは、待つこと、信じること、耐えること… であろう筈がない。
もしそれが真実なら、愛とは、多分に被虐と屈辱の要素を孕んでいることになる。

『久しぶりにかけてみたら、なかなか出ないからさぁ』
「精々3コールくらいで切っちゃったでしょう。全く気の短い男ね!」
『何言ってんだよ、108回くらい鳴らしたよ』「うそだ(`◇´)」
『まあ君と俺とでは、きっとテンポが違うんだよ』

愛とは待つことではなく、待たせた相手を許すことである。


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