忘れたらいけないと思うことがある。
通勤電車で、怖さに怯えてなくばかりの毎日が続いても。 発作に飲まれて、くるったみたいに体中を傷つけて回っても。 人ごみに入るたびに吐き気がこみあげてきても。 みにくくなってゆく自分の姿にたえられなくて、鏡を叩き割っても。 誰か死なせてくださいと真剣に願っているとしても。
この世界で、うまく息が、 できないとしても。
あたしは、病気だけでできているのではないということ。 病気が、あたしなのではないということ。
ばかなあたしはそのことを知っていて、そして忘れる。 忘れて、 そしてときどき思い出す。
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死。「どこからも誰からも完全に遠ざかるということ」
悔やみすぎて 悔やめなかった。
白い骨にかわったあなたをもう一度みることができたのなら この見失ったまま手垢にまみれてしまったかなしみのことばを 洗い上げて青い青い空に高々と掲げて干して、 そしてまっさらにかえせるだろうか。
もしもそうできるなら あたしはあなたに会いにゆきたい。 晴れた日に干したふかふかのおふとんにのこってた 太陽の残り香みたいなぬくもりみたいな そんなはずだった あなたに。
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死。「ひとり置き去りにされ取り残されることの完全なかたち」
置き去りにされるのはこわい。 こわくてしかたない。
こわいあまりに 差し伸べられた腕に気がつかないふりをしてつよがるくらい。 はだしの足を傷つけてもひとりで立っているふりをするくらい。 そして、置き去りにされるときがくるの怖さに 自分から全部を投げだしてこわして、逃げ出してしまうくらいに。
先に走り出したほうが勝ちなのだ。 そんなふうに間違った信念を抱いて。
だけど、あたしはいつもここにいて 誰もが「ここを通り過ぎて」いく。 そしていなくなる。 それがあたしの運命なんだと、 そんな錯覚をどこかで信じきっている。 見境ないあたしのからだを、歌がうちのめす。
空はまるで燃えるようなムラサキ 嵐が来るよ そしていってしまう、いつも ねえ空は遠すぎる (こっこ「焼け野が原」)
そのとおりにいつもあたしは走り出していた。
だけど、 そのあたしなんかよりももっと完璧に走り出し 白い骨になってしまったあなた。 わたしを置き去りにしたあなた。
あなたは、ひとり勝手に嵐を巻き起こして そして誰もがするように あたしをひとりでここに置き去りにしたかったのではないんだと どうか思い知らせてほしい。
だから。
忘れたらいけないと思うことがある。
薄茶にぼやけて、すぐに背景にまぎれてゆきそうで たよりない今日の一日のなかの記憶。
口紅をつけられたこと。 鏡を覗き込めたということ。 指輪を(たとえ半日でも)はめられたこと。 知らない人への手紙を書き上げられたこと。 雨に濡れた黄色い花を、いとおしいと思ったこと。 誰かと、笑いあえたということ。
あたしは、病気だけでできているのでは、ないということ。
夏になりかけている春。 誰かの笑い顔に似てるひだまり。
あたしに、あなたを抱きしめられる腕があったということ。
あたしに、あなたに届けられることばがあったということ。
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