2007年07月07日(土) |
毎日は昨日のくりかえし |
一週間が一瞬で過ぎてゆく今日この頃、あっという間に2007年も折り返し地点を過ぎてゆき、活況を呈していた香港映画を観るためだけに旧正月.夏休み、年末と、年に3度も渡航していた香港も返還の年以来行かなくなって早10年。
返還翌日、統治国だったイギリスに行くため早めに重慶マンションのスリランカ人宿を後にして、まだ閉鎖前のカイタツ空港へ向かう途中にヤウマティの映画館でウォン・カーワイの『ブエノスアイレス』を観たのが懐かしい。英語も広東語も理解していなかったけど、これから向かう未知の大陸への込上げる高揚感、異国ながらも1・2年の間に5・6回も訪れまほど近所の様に親しんだ香港を後にする言われの無い郷愁は、レプリカントと街から逃げ出す「ブレードランナー」のハリソン・フォードになった様な気分だった。
最近の日本も、香港や台湾の様に一年のほとんどが温暖になり、四季の風流も衰えつつ有る。そのせいではないのだが、ここの所殆ど目的も無くただ日々をやり過ごしている。実は、ずっとそうなんだけど特に先月ぐらいからグっと無為の日々に拍車がかかっている。この調子で行くと、十代の頃ゲームから足を洗った様に、一昨年ぐらいに演劇から足を洗った様に、映画からも足を洗ってしまうのではないだろうか?寧ろ金もかからなくなって歓迎なのだが、そんな事をしてはとうとう、完全に禁治産者で無趣味な人になってします。
でも、取り敢えず今日はまだ、趣味:映画鑑賞、ってことにしておいてください。『しゃべれども しゃべれども』と『図鑑に載ってない虫』を観てきました。
『しゃべれども しゃべれども』 題材は今、女性に大人気の落語では有るが、その落語界の一端や現状をさりげなく見せてくれるのには関心しますが、ドラマとして微妙です。如何せん主人公が浮世離れしすぎている様な気がして腑に落ちなかった。浮世離れっていうか、30過ぎて二つ目で悶々としている落語家にしちゃぁ恵まれた環境なんじゃぁないですか?それに、主人公のみならずヒロインもニートだし・・・。
なんかねこの主人公の人間関係って、凄く小さい世界なんですよ。余り知った風な口はきけませんが、落語家さんって人間観察も勉強の一つなんじゃ無いかと思うんですが、そんな事微塵も気にかけてない、って言うか自分の事ばかり。それを、落語に真剣に向き合っているので周りが見えない真面目な性格って言う風に読み取らせるんですが、う〜ん、今時それで良いの?
もちろん本作のテーマの一つ、って言うか主人公の当面の目標となるのが“自分らしさ”だったり“自己表現”や“自己主張”ってとこかとは思うんですが、どうも”自己中”って感じに見えてしまう。だって、最後の色恋のオチが「俺の家に来るか?ばあさんいるけど」みたいな感じなんですが、どうよ?
ドラマ部門は置いておいて、題材にしていた下町やそこで暮らす人々の生活、寄席や落語の世界なんかは(多分)誇張も造り込みも無くサッパリとしていて、それで居て同じ東京に暮らしていながら殆どそこいら辺に足を運んだ事の無い人には、とても新鮮にみれて面白かった。
役者も、「舞妓Haaan!」に続きベテランの多芸を魅せてくれる伊東四朗。この人は本当に器用で佇まいも堂に入っていた。不謹慎な言い方だが、この人が死んだ時は昭和の喜劇人の最後なんじゃないかと、最近よく思う。歳を感じると言う点ではないのだが、八千草薫の品の良さはどうにかならないだろうか?もう、あれでお茶目な演技をされるこっちが気恥ずかしくなる。ヤバいくらいにいいおかぁさんなのだ。でも、あの歳(70ちょと?)では本当はオバァちゃんでしょう?この人の跡を継ぐのは、(岸恵子も良いのだが)市毛良枝かな。
あとは山本浩司、山下淳弘監督と共に着実にキャリアを重ねて、今や邦画界の若手名バイプレーやとして多忙な日々なのではないだろうか。えいが、とういか緊迫した演技の時でも彼画で来るだけでヌキの一瞬ができて映画に緩急が出る。
国分にしても香利奈もたいして期待はしていないし、TVドラマとかでも殆ど観た事無いんですが、一番上手かったのは関西弁の子役くんですね。もう、子供ではないけど当時子供で「金髪の草原」なんかにも出ていた“りあるキッズ”と同じぐらい生き生きとしていた。
国分は前半の落語と、最後の「火炎太鼓」では確かに調子が違うのが解るのだが・・・あそこは話を1本まるまるノーカットで納めて欲しかった。そうしないと今一つ成長が解らない。確かに、興行的な問題も有るけど、先程言った通り人間関係では真の成長を感じ取れなかっただけに、主人公の姿勢や成長を映す鏡としての落語でしっかり見せて欲しかった。
あと、香里奈は取り敢えず化粧をなんとかすればもちょっと人当たりが良くなるんじゃないですか?特に眉とか。
『図鑑に載ってない虫』 ダメジンの時も同じ川崎の湾岸・工業地帯をロケ地に使っていたみたいなのだが、この無国籍感&時間を超越した感じは、映画の質は極端に違うのに、「叫」などで特に感じられた黒沢清の舞台設定に通じる所が有る。ある意味、日常の生活感を排除した所に純粋な人間の恐怖であったり滑稽さであったり生からにじみ出る感覚がライブに見て取れるってことなんじゃぁ?
なんて、意味深な事は多分無いと思うのですが、乞食の巣のシーンはあれ「地獄の黙示録」のパロディでしょ?で、その後は「バットマン」だったり。ネタ解析でもクドカンとはまた違った奥深さが有って今回もゆる〜く楽しめました。
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