刑法奇行
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2003年06月09日(月) どうしてこんなに悲しいんだろう

 先週の金曜日に、佐々木史朗先生のお別れ会が、喜寿パーティと同じアルカディア市ヶ谷で開かれた。とにかく悲しかったし、泣けてきた。親父が死んだときは、ただ呆然として、お通夜・告別式と忙しくて、泣くことはなかった。泣く余裕がなかったのかもしれない。数日経ってから、親父の好きだった「寅さん」をテレビで何気なく見ていたら、涙がポロポロこぼれてきたのである。そういうものなのかもしれない。先生が亡くなって、1月以上も経って、事態を客観的にみれるから、悲しみがドッと押し寄せてくるのかもしれない。

 この人が死んだらきっと自分は泣くだろうな、という「この人」は確かにいる。関係が深ければ深いほど悲しみも深いという比例性はあるのだろうか。もらい泣きもあるから、比例性は疑わしい。また、本当に悲しいときは涙もでないともいわれている。「私にはよくわからない。」(異邦人)

 いずれにせよ、日常性がまっている。日常性とは残酷なものだ。すべてを流してしまう。日常性を破壊することが必要だ、とかつての全共闘は叫んでいたのである。高校紛争をもろに受けた世代として、今この年になって、あの時代が無性に懐かしい。まあ、クラス会ばやりもそのせいかもしれないし、カラオケで、岡林の「私たちの望むものは」とか「友よ」とか、歌うだけであるのだが・・・。この間の刑法学会前日、K斐さんやM生さんらと歌った岡林はよかった・・・自画自賛である。

 14日は、水戸の常磐大で被害者学会である。13日に1泊しなければならない。「犯罪被害者と刑罰」というシンポの司会をやる。ゼアの『修復的司法とは何か』も販売するようだ。私の『修復的司法の探求』もついでに販売する、とT子変酋長も言っていた。もう数部しかないらしい。これに対して、『共犯体系と共犯理論』は、1988年刊にもかかわらず、いまだに在庫があるのは、なんでだろう、なんでだろう、なぜかなんでだろう〜。

 水戸といえば、納豆である。以前、納豆料理のフルコースを水戸で食べたことがある。納(豆)得できなかった料理の一つであった。

ジャーニー to 悲しくてやりきれない


norio

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