短いのはお好き?
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信号が青にかわり、車道を横切るあゆむの耳に先刻の医師との対話が聞こえてくる。
「あなたがここにこうしていらっしゃるということ、そのこと自体がすでにあなたが治癒に向かって第一歩を踏み出したという証しなのです。どうです、そろそろほんとうのことを話していただけませんか。どうしてそれほどあなたは自分自身を責め苛むのか…」 そういって医師はあゆむに煙草をすすめた。 あゆむは刑事に訊問されているような気がして苦笑いし
「その手にはのりませんよ。でも、カツ丼食わせてくれたら喋ってもいい」と言った。
「そりゃいいや。ぼくもちょうどカツ丼食いたかったんですよ。昼にはまだまがあるけどシーメにしますか、アッハッハ」
医師の歯はやけに白くって、こいつもアパガードかとあゆむは思う。
それっきり会話は途切れ、重苦しい沈黙がふたりの頭上に降りてくる。
あゆむが記憶しているのはここまでだ。
忘れることは素敵なことだと誰かがいっていたっけ。
チ・ヨ・コ・レ・イ・トっていって、あゆむはチヨコレイト分だけ前に進む。
棒切れを拾い上げ、それを医師に見立てて話しはじめる。
「先生、先生は人を死ぬほど愛したことがおありですか?」
棒が言う。
「ほう。そうきましたか。しかし、それは*千日手ですよ」
「茶化さないでください」
「いや、失礼。…そりゃまぁ、そんなこともありましたっけかね」
「過去形ですね。今はもう愛してないんですか?」
「妻と結ばれるときにはそういった感情を抱いていたのかもしれません。ほら、よくいうじゃありませんか、結婚は恋愛の墓場だって…」
あゆむは棒をぶんぶん振り回す。
「それで満足なんですか? 人とは常に誰かを愛していなければ生きてゆけないのではないのですか?」
「そう。ぼくもそんな風に考えていた時期もありましたよ。でも、それは幻想です。すべては自己愛に還元される愛なのです。人が人を愛すのは、自分を愛してほしいから愛すのです」
「でも、無償の愛もあるじゃありませんか。子を思う母の愛は見返りを期待する愛ではないはずです」
「それはそうです。でもここで今あなたが話しておられる愛は、男女間の愛のことではないのですか?」
「アハ。そうでした。でも先生、男女間の愛ってほんとうの愛っていえるんでしょうか。無償の愛こそが真の愛と呼べるんじゃないですか?」
「同道巡りですね。…つまり、男と女の間に生まれる愛は偽物だというわけですか」
不意にアクトミニシアターで観たグリフィスの「イントレランス」が目に浮かぶ。
あの有名な超ロング・ショット。
ついでにオサムのことも思い出した。オサムはactのことをエーシーティーって博 多訛りでいっていったっけ。
風が冷たくなってきた。
「私にもかつて愛した女がいました。そう。仮に名前をクミとしましょうか。いや、ナミのほうがいいかな、それともリサ? ミサ? ミキ? ミカ? マユ? モエ?」 あゆむは突然走り出し、両手を握り締めて大声を上げる。
「ウォー! 海のバカヤロー!」
学生やOLたちが笑っている。リーマンたちは顔をそむけ、足早に歩き去ってゆく。
「ごめんなさい、その、つい…あのいろいろあって…男と女ってうまくいかないもんですよね。いや、そうじゃなくって、なんでしたっけ?」
棒はだまっている。
「そうだ。あの…愛しても愛しても、いや愛すれば愛するほどに孤独が深まってゆくばかりなんです。愛すれば愛するほどに相容れないものをそこに感じ取ってしまうんです。そしてある時、その溝を埋めることは絶対不可能だと気付いたんです」
「なるほど。…愛すれば愛するほど溝がふかまってゆく。相容れぬものの存在を感じ取るばかりだというわけですか」
「そうです。人を愛することによって孤独が癒されるわけではないんです。愛しあっていながらひとりでいる孤独などよりも更に深い孤独を覚えてしまう。私はこうこれ以上底無し沼のような孤独に耐え切れないのです」
「…愛したくとも逆に孤独が深まってゆくばかりだから、愛せない。そのジレンマに苦しんでいるんですね…。ですが、人生とはそういったものではないですか。愛すれば愛するほど理解すれば理解するほど愛するもののなかに他人を見てしまう。人生なんてそんなものだとぼくは思っています。
セーラー服の女のコたちが、あゆむを追い越してゆく。
「先生、つまりそれは妥協ということですか」
そういいながら、あゆむは棒を固く握り締める。
「そう。そんな感じかも知れません。人はこの世に生を受けなにかしらこの世にかかわってゆきます。人を愛すること。仕事に就くこと。その他様々な形で世の中とかかわってゆく。そうしてそのことによって己の存在を確かめ、生きているという実感を得る。しかし、人はどこまでいっても孤独です。互いの魂がひとつに溶け合うことなどありえないんです」
「なぜなんです? 愛しあうってことはひとつになるってことじゃないですか」
「形の上ではそうです。でもそれは分かちがたくひとつに溶け合うということではないんです。たとえ形の上ではひとつになってもあくまでも男性であるあなたは陽であり、女性は陰です。だからこそ引き合う訳ですが、どこまでいってもプラスはプラス、マイナスはマイナスです。だから、プラスである男性のあなたがマイナスである女性に対し俺のようにプラスになれというのは愚かなことです。もともと男女は陽極と陰極を持つ一本の磁石なんです。その磁石は形の上では一本のもの、ひとつのものです。でも、対立する両極を持つ、それは一本の棒なのです。つまり、男女はひとつのものの両極なのです。だからこういってしまうとおかしいかもしれませんけれど、ひとつのものの両極であるが故に、あるいは10円玉の表と裏であるが故にひとつに溶け合うことのない対立する存在なんです。 だから、ひとつになりたいのに理解すれば理解するほど互いの異なる部分を発見することになるのは当たり前のことなんですよ」
母親に手をひかれた男の子が、すれ違いざまママにいう。
「この人、変だね。ひとりでぶつぶつ言ってるよ」
あゆむはその声に振り返り、バイバイってする。
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
「恐れずに愛してください。たとえ孤独に苛まれようが、打ちひしがれようが、愛することです。人を想う、その想いがあなた自身を逆に救ってくれるはずです」
ほんとうだろうか、とあゆむは思った。
自分を愛することも出来ない自分に再び人を愛することなどできるのだろうか。
柔らかな冬の陽射しをPコートの背中に感じながら、あゆむはまっすぐ歩いてゆく。
車道の信号機の赤が、滲んで見えた…。
*千日手:将棋で双方が不利を避けて同じ指し手を繰り返すこと。3度繰り返した場合は無勝負・指し直しとなる。
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