Sports Enthusiast_1

2003年05月30日(金) 外れてしまった。

Jリーグは前期の長期中断。あいかわらず、わけのわからぬ日程である。選手もたいへんだろう。
さて、ここまでのところの順位をみると、私の予想はずいぶんと外れてしまった。わたしが1位に押した清水はなんと、13位。下から4番目。さらに3位に押した京都が最下位。韓国人選手の移籍が響いた。予想外は市原の2位(予想:10位)だろう。上位では、2位と予想した鹿島が3位。4位とした磐田がトップ、名古屋、横浜Mもそこそこで、このあたりは大きく外しようがない。
いずれにしろ、京都、清水、東京Vがここまで順位を落とすとは思ってもみなかった展開だ。
この先、どうなるかといえば、清水、東京Vは順位を上げるだろう。清水は守備が安定したし、東京Vはエムボマが活躍しだした。問題は市原だ。どこまでこの調子が続くかは、崔の活躍次第ということになる。
現在の順位は以下のとおり(  )内は私の予想順位。
�“愿帖複粥豊∋垳供�10)��鹿島(2)�ぬ掌轍亜複機� �ゲI唯諭複供豊η陝�15)�В誕膾紂�14)�┌禿豕�(12)��浦和(9)��G大阪(7)��神戸(11)��仙台(13)��清水(1)��東京V(8)��大分(16)�圧�都(3)



2003年05月29日(木) 鈴木を使え

読売に珍しくスピードのある新星が現れた。鈴木だ。足の速い左打者で肩も強い。足が速いからといって、上体を打つ前から1塁側に開いて、当てるようなことはしない。レフト方面に鋭いライナーが打てる。ちょうど、マリナーズのイチロー(彼の本名も鈴木だった)に近い。ポジションはもちろん、外野がいい。
いまの読売は右翼ぺタジーニ(いま現在登録抹消)、左翼清水、中堅高橋で固定されているに等しいが、右翼のぺタは清原がいなくなれば1塁にもどるので、斎藤とのポジション争いか。斎藤も悪くない選手である。もったいない。斎藤が3塁にコンバートされる噂もあり、そうなれば、衰えた江藤の後にぴったりはまる。
前天才監督が大金を使ってFAでとった清原、江藤はお払い箱。代わりに斎藤、鈴木が不動のレギュラーとなれば、読売もなかなかのチームになる。鈴木が2番に定着して、送りバンドなどせず、攻撃的な走る野球の中心的選手になってほしい。もちろん、1番ならヤンキ―スのソリヤーノだ。2番清水は、鈴木の出塁で1−2塁間が大きく広がりヒットゾーンが拡大するので、年間200安打を苦もなく達成する。
やっと読売に応援したくなる、2人目の選手が出てきた。1人は不良債権処理投手の桑田だが、彼は経済人の鏡。鈴木のほうは正真正銘、スポーツ選手である。
原監督よ、鈴木を使ってくださいね。



2003年05月28日(水) 何をいまさら

某大新聞のスポーツ欄のコラムに、JリーグがVゴール制度を廃止しておもしろくなった、と書いてあった。次は前後期制度の廃止、とある。おやおや、いまごろなにをねぼけたことをおっしゃるのだろうか。この新聞、ついこのあいだまでは、Vゴールがなくなり引分けが増えると客が減る、などと書いていたのだ。
大新聞が引分けの必要性を認めたことは、あまりに遅いけれど、とりあえず進歩である。しかし、その分析はお粗末極まりない。90分になったので選手が力いっぱいプレーしているから、試合がおもしろくなったとある。ま、それもあるだろう。否定はしない。けれど、この新聞記者には、戦略の多様化、戦術の変化を楽しもうという基本姿勢がないのだ。90分間、スタミナを使い尽くし、精一杯プレーするから白熱した試合が増え、それがサッカー技術の向上につながり、ファンも支持すると思っているのだから、あきれてしまう。この新聞、スポーツすべてが、自社開催の高校野球報道のレベルで終わっている。スポーツといえば、なんでもかんでも「熱闘甲子園」か。
何度も書いていることなのだが、サッカーは、引分けがあることにより、多用な選択肢が生じるのである。たとえば、リーグ戦全体の乗り切り方としての戦略、1試合の戦術、選手起用(ベンチ入り)、選手交代(試合中)など、マクロからミクロにまで至る。監督、チームスタッフ、選手を含め、さまざまな展開を考慮して、ことに当たことを促す。たとえば、どうしても勝ちたいチームが引分け狙いのチームとどう、戦うか・・・。かりに0−0で残り15分を迎えたとき、Vゴール制度(最大延長30分間)のもとでは危機感が生じない。あと45分あればなんとかなるでしょう、では。勝ちたいチームは残り15分で、打てる手をすべて打つのである。それが、サッカーでなくてなんであろう。
さて、次に、前後期制度について――。この大新聞の記者は、<引分けあり>の<1シーズン制>が世界標準であるから、日本もそれに合わせなければいけない、と書いている。が、こういう単純な主張をわたしが受け入れることは難しい。日本(Jリーグ)がVゴール制度および前後期制度を導入してしまったのは、日本のサッカー関係者およびファンのサッカーに対する考え方が、世界(とくに欧州)と違っていることに起因する。その違いとは、日本がサッカーをイベントとして位置付けていることだ。日本では代表が出るWカップ、オリンピック、企業の冠付の国際試合が好まれる。代表以外では、リーグ戦を2つにわけて、その優勝者同士の戦いを「冠大会」にして、企業に売りつけている。この体質が世界標準(の流れ)と違うのだ。
欧州の(正式な)代表の大会は、W杯と欧州選手権。いずれも4年に1度だから、代表単位のビッグイベントは2年に1度となり、オリンピックへの関心は薄い。それ以外の国際試合は、すべてフレンドリーマッチとして位置づけられている。
欧州では、代表よりも、クラブ単位の大会の方が権威がある。クラブ対抗大会への出場権は、リーグ戦上位チームであることが条件になっている。厳しいリーグ戦を戦い抜き、その上位クラブがさらに覇権を争う。加えて、2年に1度の代表のビッグイベント。それぞれに、予選がある。繰り返せば、真剣勝負のクラブのリーグ戦、その上位者同士のクラブ対抗戦、代表同士の欧州選手権とW杯。それぞれの予選・・・とあれば、リーグ戦を2つに分けて、前後期の優勝クラブが争う冠付の決戦など、見たいと思うファンはいない。リーグ戦は1シーズン1回、その勝者は1チームなのだ。なお、フレンドリーマッチの代表同士の冠大会など、遊びとはいわないが、真剣勝負と考えるファンもいない。
というわけで、日本の前後期リーグが、いかに愚かであり、世界標準と隔たったものであるかが理解できる。ただ、Jリーグを含めて欧州とアジアとでは、サッカーの歴史が違いすぎる。真剣勝負をいかに作り出すかがサッカー関係者に問われているのであって、冠大会を売ろうというのでは、サッカー技術の向上は果たせない。だから、日本の優秀な選手はできるだけ、欧州でプレーしてほしい、と私は常々思っている。それがいまのところ最善の技術向上の方法である。



2003年05月27日(火) 地蔵、あたり屋、用心棒

ある夕刊紙が、横浜戦で死球を2度続けて受けた清原を「地蔵」で「あたり屋」と揶揄していた。清原は内角の厳しいところを攻められると、よけられない。だから死球が多いのだという。たしかに、横浜の投手が清原に当てた場面をスポーツニュースで見た限りでは、清原はよけていない。
地蔵というのは、そのとおりで、清原の下半身は機能していないので、よけたくてもよけられないのだ。衰えた下半身で精一杯ふんばって打席に立っているため、内角がこようが外角がこようが、ステップバックが不可能なのだ。下半身を動かさない頭部あたりへの投球には、辛うじて対応可能なので大事に至らないが、厳しい内角攻めへの対応をみる限り、清原は野球選手としては終わっている。
さて、「あたり屋」というのはいうまでもなく、自動車が近づくとわざと車に当たって、法外な示談金をせしめようとする輩のこと。清原は死球を受けた投手から次の打席でヒットを打ったのだが、一塁に走りながらその投手に対して暴言を吐いていた。あたり屋の本領発揮というところだ。清原は常日頃から、格闘技家風の筋肉で肩をいからせ、バンチョーなどといわれて、相手投手を威嚇する態度をとる。朝青龍は品位を欠く、などと発言する読売のオーナーは、まず自分のところの選手の教育からはじめるがよかろう。清原の暴言は野球選手として、いや健全な社会人として許されない。明らかに暴力団、チンピラの態度である。横浜の投手はいかにもひ弱なルーキーで清原と一戦交えるような選手ではなかったが、体力的に引けを取らない外国人投手などなら、清原に負けていない。地蔵のあたり屋は、打者よりも格闘技家としてグランドで暴れたらいい。読売のオーナーも、品位云々などいわずに、プロスポーツのエンターテインメント性に目覚めることだ。
清原は、投手のもつ正当な厳しい内角攻めに対して、フットワークが使えない。そのため、投手を暴力的に威嚇して内角攻めを封じようとしている。卑劣というほかない。相手投手は、こんな卑怯な暴力選手にひるまず、どんどん内角を攻めるべきである。審判もコースがトライクなら、清原にあたってもストライクとコールすべきである。故意の死球は(とくに頭部に対しては)絶対に許されないが、正当な内角攻めは投手の攻めのうちである。それが全部、死球になってしまうのならば、野球の興味は半減する。よけられないのは清原自身が悪いのであって、それを技術ではなく暴力で封じようとするのなら、野球というスポーツから外れている。
もう、野球選手として終わっているこんな選手と読売はなぜ、契約をしているのだろうか。清原がいるとベンチが安定するなどといわれているところをみると、清原は地蔵、あたり屋、用心棒か。



2003年05月22日(木) 故意死球

きのうの西武vs近鉄、西武の投手が、当たっている近鉄の中村に故意死球を投じた。それに怒ったチームメイトのローズが西武投手を突き飛ばし退場になった。西武球団は、ローズを告訴するというから、お話にならない。故意死球については以前書いたことがあるけれど、いま一度、繰り返しておこう。
この場面、まずなによりも、故意死球が問題なのである。当てたほうになんのお咎めもないのでは、打者がたまらない。故意死球を投げるのなら、打者の抗議の実力行使を受けてたつのが前提である。投げて逃げたり、へらへら帽子をとって謝る行為は醜い。報復を受けてたつ根性がないのなら、はじめから投げるな。
日本の投手、とくにパリーグは、伝統的に故意死球が多い。パリーグで頭部への故意死球の常習者だった投手が監督になり、引退後、テレビ解説までやっているくらいだから、この悪しき伝統はなくならない。
故意死球をなくすには、受けた打者が投げた投手を告訴する方法がある。しかし、裁判沙汰はプロスポーツになじまないので、球界が告訴という方法をとらないことで意志一致するならば、残された道は、受けた側の報復を容認することである。反撃の権利を認めることが、故意死球の抑止力となる。具体的には、故意死球を投げたら、味方の打者が相手投手からの報復の死球を覚悟すること、あるいは、故意死球を受けた側がバットもしくはパンチ等で投手に反撃することである。はっきり言えば、「目には目を」だ。この権利が危険球・故意死球の抑止力である。この抑止力を無視して故意死球をあえて投げるというのならば、それはそれで仕方がない。よほどの決意、覚悟の上というわけだ。
投手は打者に向かって、死に至るほどの物体を高速で投じていることを自覚しなければいけない。この自覚がない投手はプロ失格である。そんな者は、プロ最高位のリーグに属する資格がない。プロとして品位のない選手は、ファン、スポーツマスコミ、球団関係者が見放すことである。むろん、球界からの追放こそがふさわしい。監督や解説者として球界に残るなど、ありえない。



2003年05月20日(火) パリーグは廃止が望ましい。

パリーグが制度改革として、プレーオフを導入するという。リーグ戦(135試合)2位と3位が戦い、その勝者が1位と決定戦を行うというものだ。この制度、大リーグにならったようにもみえるが、まったく、似て非なるものだ。
6チーム中3位といえば業界用語ではAクラスだが、わたしの感覚では中程度。悪くはないがよくもない。そんなチームがプレーオフに出て何の意味があるのか。米国のように国土が広くてチーム数が多く、しかも、フランチャイズ制度が確立していてれば、地域の代表という名目がたつ。フランチャイズ意識があればこそのプレーオフ制度なのだ。そうした風土性を無視した、形だけの制度改革など、無意味というほかない。
パリーグの新制度の欠陥は、135試合組まれているリーグ戦にいま以上に客がこなくなることだ。はっきりいえば、135試合はオープン戦。
せいぜい3位までという意識が働けば、選手のモチベーションは低下する。3位以内を確保すれば、あとは消化試合だ。そもそもトップになることの意味がないのであって、しかも2位と3位の差もないのであれば、捨てゲームが増えるだろう。
プレーオフでは、リーグ戦トップのチームが、勝率ではるか下の3位チームに負ける確率が高い。野球に限らず、いきなり真剣勝負を戦うより、数試合を戦って勝ち上がってきたチームが調子にのることが多いからだ。人々(マスコミ)は、好奇心から、リーグ戦終了後のプレーオフに注目する。リーグ戦トップのチームがはるか勝率で劣る3位チームにプレーオフで敗れれば、トップチームは笑いのタネだ。
そんなパリーグに愛想をつかした才能のある選手たちは、人気のあるセリーグか、大リーグに出て行くことだけを考えるようになる。パのリーグ戦の試合は、実戦形式で腕を磨く場所として位置づけられ、選手たちはそこで認められて上を目指すか、客の入らないオープン戦もどきのだらだらで無気力なパリーグで選手生活を続けるかの選択を迫られる。パリーグのマイナー化が、いま以上に加速するのだ。
先述したように、結果、パではリーグのゲームの質が低下し、客がこなくなり、いま以上に人々はこのリーグを一段下に見下すようになる。
わたしの持論は前に書いたことがあるので繰り返さないが、1リーグ制だ。パリーグがおかしなプレーオフ制度を導入して自滅すれば、1リーグ制の道が早く開かれることになる。その意味では、このおかしなプレーオフ制度を支持してもいい。



2003年05月18日(日) 引退、待ったなし

わたしが前期優勝候補に挙げた清水が神戸と対戦(清水ホーム)、完勝した。こんないいチームがなぜ、下位に甘んじているのかわからないほどすばらしい出来だった。三都主がみごとなサイドからのアシストであっというまに2点を先行。駄目押しの3点目もいい攻撃だった。わたしの好きな、サイドが基点になった得点である。清水のフォーメーションの変更や選手起用については、別に取り上げることにする。
一方の神戸であるが、前節の勝利が嘘のように連携が悪い。なかでも存在感がないのが、カズである。カズについては、すでに引退勧告をこのコラムで書いたが、再び、取り上げる。
役割が不明確。FWのオディアスがポストプレーをし、岡野は空いたスペースに走り込む。この二人については、それなりにわかる。ところが、カズは前線でなにをしたいのかわからない。これでは、偶然目の前にきたボールをシュートするぐらいしか攻撃における役割がない。前節は右サイドの岡野のセンタリングに走りこんで合わ得点した。しかし、偶然は2試合と続かない。カズがサイドからあるいは後方からいかにボールを受けようとしているのか、それが神戸の他の選手にわからない、というか理解されない。ではカズは自分でドリブルして突破しようとするのかというと、そんなシーンは90分間ゼロである。言葉は悪いが、カズの動きは、ゴール前をうろうろして、おいしいこぼれ球を待っている、まるでハイエナのようなのだ。自ら動かず、待つだけのFWでは、相手のDFだってこわくない。
カズの全盛期はドリブル突破もあったし、マークをはずす動き、サイドを走りこむ動きも俊敏だった。もちろん、体型はいまよりシェイプアップされていた。カズもプロ野球の読売の清原同様、トレーニング方法を間違ったのか、あるいは、加齢とともにシェイプアップが思うようにいかなくなったのか。結果的には、前線で「重い存在」になってしまったのだ。
サッカーにおいて、パワーとスピードの重要性を比較すれば(こんな比較はナンセンスだけれど)、わたしの尺度ではスピードが7、パワーが3ぐらいである。それだけスピードが大事だとわたしは思っている。しかるに、カズは自ら持ち味であるスピードを減速させてしまったように思える。いまからスピードが戻るとも思えないし、中盤でゲームを組み立てる、新たなプレイスタイルを確立できるとも思えない。残された道は・・・



2003年05月13日(火) ドーハの悲劇とは恥ずかしい

元ヴェルディの北沢氏の引退試合にラモス、ロペス、カズらの元代表と、ビスマルクらのJリーグで活躍した外国人選手が出場するという。北沢氏が人望の厚い選手であることはよく、知られている。しかし、わたしには引退試合に出るというラモス、カズ、ロペスらが日本のサッカー界を代表する選手とは思えない。ラモス、カズらはいわゆる「ドーハの悲劇」の代表選手。結果から見ればワールドカップ予選敗退選手たちである。悪いが「負け組」である。みずからの敗退を厳しく受け止め、以後謙虚に選手生活を送るか引退するかがふさわしい態度である。自分たちがサッカー界の重鎮だなんて思ってほしくないし、もちろんそんな愚かな振る舞いはしないだろう。騒いでいるのはスポーツマスコミだけだと信じたい。
なんども書くことだけれど、「ドーハの悲劇」など、愚かなネーミングである。あの試合というか、あの予選については、すべてが日本サッカー界の反省材料である。アジア予選を突破できなかった要因は、選手、関係者の実力・経験の浅さであって、それ以外にない。
さらにフランス大会も同じである。アジア予選は辛うじて突破したが、W杯の予選で勝点0。得点は中山の1点のみ。アジア予選途中での監督更迭、予選通過後の選手選考の不透明さなどのごたごたの連続・・・。アメリカ大会アジア予選からフランス大会に至る10年間というものは、日本サッカー界の未成熟ぶりを象徴する10年なのだ。ただこの時期にJリーグ発足があり、サッカー界がバブルに酔った時代だったことは確かだ。あのころのJリーグには世界的知名度の外国選手がいたことはいたけれど、リーグのレベルは低かった。そんな時代をJリーグの黄金時代に見立てるのは、サッカーと芸能の区別がつかないミーハー発想である。実力的にはアマチュアに毛が生えた程度、アジアの2番手がいいところだった。そのレベルを超えたのがヒデ(中田)の出現であることは、何度も書いたことなので繰り返さない。
日本サッカー界が、「ドーハの悲劇」などと、恥ずかしくて口に出せなくなるときが早くきてほしいものだ。



2003年05月12日(月) 読売以外はみなマイナー

きのう、読売投手陣の崩壊の理由は、読売にマイナーがないことだと書いた。確かにイースタンリーグに「読売」というチームがあり、有望な若手や一軍登録を抹消されたベテランが腕を磨いている。読売系のCSTVでその試合は放送されている。メージャー(一軍)と同じユニホームを着て、一軍が訪れることのない地方で一軍の代役となっている。二軍もやはり、「読売巨人軍」であって、地方では一軍と同じような人気を保っている。「巨人」人気の縮小再生産――、これが日本プロ野球の現実である。
本来のプロスポーツというのは、▽フランチャイズシステムによる地域ごとの実力の分散(水平志向)、▽メジャーとマイナーによる実力の分散(垂直志向)、という二本柱によって成立する。水平と垂直の二本柱によって形成された実力世界の構築こそが望まれる。分散は力の均衡を生じ、均衡から生じる競争が全体(レベル)の上昇を導く。これは、力が一定程度等しいという仮定における水平と垂直の原理であって、どちらか一方に力の不均衡が存在すれば、そこから導かれた図形は、きわめて歪んだものとなる。
二軍は一軍の選手供給源である。一軍で活躍できなければ、二軍に落ちる。それ以外の選手獲得手段は、トレード(FA)である。(無論、海外からの補強もあるが、いまはそれを無視する。)読売が後者に頼った補強を継続したため、他チームは読売への選手供給源となった。相手チームの4番打者やエースが読売に集まってしまった結果、戦力は低下し、並行して野球全体のレベルが低下した。
それで読売が強いチームになったのかというと、そうでないところがスポーツの面白いところだ。4番打者やエースが集まっても、たとえば、投げるほうでストッパー不在であれば、接戦で勝てない。打つほうで、スピードのある選手が不在なら、好調の投手を足でかきまわして崩すことなどができない。勝つときは大勝、負けるときは接戦で、というパターンとなる。もちろん確率では後者の生じる回数が多いので、勝率は上がらない。
読売がカネにまかせて豪華なチームをつくるのは勝手だが、カネで勝利は買えないのである。いまのFA制度では、スピードのある若い選手は集めにくいからである。だから、伸び盛りの選手というのは、自前(マイナー)で育成するしかないのである。優勝したチームの構成をみると、選手の年齢やキャリアが微妙なバランスで成り立っていることに気づく。強いチームは、多くの選手がそれぞれ実力のピークちょっと手前であることが多い。意図してつくったというよりも、自然のめぐり合わせのような感じである。たとえば、数年前、横浜が優勝したときがそうだった。マシンガン打線と呼ばれ、打者ではローズが実力のピーク時で、投手ではストッパー佐々木が伸び盛りだった。。不思議なことに、この二人が退団してしまった翌シーズン、優勝シーズンに活躍した多くの選手が活躍できなくなった。掛布、岡田、バースらが活躍したときの阪神も同様である。
このめぐり合わせ、バランスについては、いまはうまく説明できないけれど、データ的に解明する価値はあると思うのだが、いかがか。



2003年05月10日(土) 角度がないか。

読売のストッパー・河原がきのうもリードを守れず、降板した。決め球のフォークが決まらない。ボールになるフォークは見送られ、ストライクになるフォークは球道を見極められ当てられる。前にも書いたことだけれど、ある解説者が、河原の球に「角度」がないと指摘したが、それが当たっているようだ。もちろん、テレビ観戦のわれわれには、河原の球筋の「角度」を見極めることはできない。
さらに言えば、きのうに限れば、キャッチャー阿部の配球も問題だ。アレックス、蔵本に対して、ストレート、カーブ、スライダーを混ぜずに、フォークばかり使った。これもテレビ観戦ではわからないのだが、フォーク以外はこわくて使えない、というのが球を受けている阿部の判断だったのだろうか。
いずれにしても、わたしの予測どおり、読売の投手陣はきのうで、完全に崩壊した。先発陣では、桑田、工藤の脱落、新人・木佐貫の力不足、中継ぎに人材なし、ストッパー・河原の2年連続の活躍なし――と、わたしの予想はほぼ完璧である。入來の故障がここまで長引くとは思わなかったが、これは予想の範囲を超えた問題。
読売の投手陣が構造的問題を抱えている、ということは前に述べた。繰り返しになるが、野手陣とちがって、中堅投手が一人も伸びていないのだ。読売はここ数年、ベテランの桑田以外、工藤、竹田(すでに退団)、前田等のフリーエージェントによる補強と、入來、上原、高橋、木佐貫、久保等の即戦力大学・社会人出の有望新人の逆指名による獲得で、見せ掛けの投手王国をきずいてきた。その間、マイナー(二軍)から上がってきたのは、岡島くらい。木村、柏田、西山らが全然戦力になっていない(例外が真田で、彼は高校出の即戦力という例外中の例外である)。
読売のチーム構成は、前・天才監督の時代に滅茶苦茶になった。そのことに気づき中堅を抜擢して是正を図ったのが原監督であり、その手腕は評価に値する。ところが野手出身の原監督には投手のことがわからない。表面的には華やかな投手陣の顔ぶれを見て、すっかり安心してしまったのではないか。野手陣については、清原の故障、江藤の衰えなどの予兆があり、構造的欠陥がわかりやすかった。ところが、投手陣については、昨シーズン、すべてがよかったため、重大な欠陥に気づかなかったのかもしれない。
マイナー経験のないエリート集団とベテランFA組で構成された読売の投手陣は異様である。エリート集団は先発型ばかり、ベテランFA組は好調が2シーズンと続かない。中堅が伸びず、主力に故障が出ても下から穴を埋める投手が出てこない。その結果、いつの日にか「崩壊」がやってくる。
さて、セットアッパー、ストッパーの問題に戻るが、河原については、わたしの予想どおり、2シーズン続けて好調が続かなかった。これが一般論として言えるものなのかどうかは、先述したように、データがないので結論は保留し、投手分業制の観点から、この問題を見ておこう。
まず言えるのは、読売がセットアッパー、ストッパーの人選・育成に取り組んでいないということだ。昨年の河原の抜擢も、消去法だとわたしは思っている。河原が故障上がりだから、ストッパーに起用したように思える、彼の資質を見抜いて起用したとは思えない。昨年、河原は成功したが、これは偶然、すなわち、結果オーライに近い。スポーツは結果がすべてといわれるが、そういう単細胞にはこう反論しておこう。では、読売のマイナー(イースタン)でストッパーの訓練を受けているのはだれなのか。セットアッパーも同様である。読売が、先発不合格をセットアッパーやストッパーに「まわす」という、むかしながらの起用法を続けているのであれば、どんなに人材を集めても、勝てるチームにならない。先発完投を夢見るのは勝手だが、相手も甘くない。マイナーが存在する意義も意味も、読売首脳陣はわかっていないのだ。



2003年05月06日(火) ディシプリン

きのうは、NHKBSにてスペインリーグ、レアルマドリードvsマジョルカ(レアルマドリード/ホーム)を観戦した。いまや、銀河系選抜(世界選抜より上)と呼ばれるタレント集団レアルマドリード。まさかホームでマジョルカに負けることはあるまいと思ったものの、結果は1−5の大敗だった。
この試合、レアルマドリードの敗因というよりも、マジョルカの勝因を考えるべきだろう。
勝因の第一は、誰の目にも明らかなように、マジョルカのFW・エトー(カメルーン代表)の才能だ。彼のスピードは、世界レベル。しかも、1、2位の実力者である。しかし、エトーの個人技だけでレアルマドリードが負けたわけではない。マジョルカがエトーの才能を生かすため、チームとして、戦略を徹底させたのだ。第一の戦略は、敵陣でのプレスだ。それは後半開始直後だった。レアルマドリードは前半1−0でリードしたため、前半の30分当たりから、自陣で余裕の球回しを始めていた。ダイレクトパスがおもしろいように回り、マジョルカを翻弄したかのように見えた。ところが、一見翻弄されているかのように見えたマジョルカは、密かに爪を研いでいたのだ。
後半開始から10分経過後ぐらいだったろうか、マジョルカはレアル陣内で強烈なプレッシャーをかけ、GKからの中途半端なボールを奪い、一気にゴールにもっていた。狙っていたのだ。解説のH氏が指摘したように、この得点でレアルマドリードは動揺した(と思われる)。
次の戦略は、1−1で並ばれ焦るレアルをカウンター攻撃で迎え撃ったことだ。これがおもしろいように決まった。ここでエトーが活躍したわけだ。
さて、この試合で思い出したのは、アテネ五輪・日本代表のことだった。アテネ五輪・日本代表は、アマチュのミャンマーに2試合とも勝つには勝ったが、前に書いたとおり、とてもほめられた試合展開ではなかった。2試合とも、戦い方に戦略が感じられなかったのだ。相手は守りをがっちり固めたアマチュアチーム。一人一人が個人技でつっかかって、つぶされる。2試合とも、前半0−0だったのは、その結果である。
アテネ五輪・日本代表にチーム戦略がないのは、これも前述したが、監督経験のないコーチが指揮をとっているからだ。報道によると、この監督はミャンマー戦において、「ボールを奪ってから15秒でシュートにもっていけ」という指示を出したという。おどろくほかない。それは一般論なのであって、自陣に10人がはりついた相手に速攻がきく可能性は少ない。「15秒」に縛られた若い選手は焦ってゴールに向かい、ことごとく相手の守備網にひっかかる。そうした単純攻撃を前半45分間も続けたのである。愚かというほかはない。
サッカーのチーム戦略を表現するものに「ディシプリン」という言葉がある。自由な創造性を尊重する現代サッカーでは古くさい言い方かもしれないが、個人の才能やイメージが優先されようとも、サッカーがチームスポーツである以上、相手に応じた規律(統一した戦い方)が必要なのだ。個人プレーを抑制する「ディシプリン」が逆に、個人の才能を生かす基礎になるのだ。もちろん、「ディシプリン」は相手に応じて変わるのであって、一般論ではない。相手に勝つための規律であって、約束事一般ではない。
マジョルカのあまりにもみごとな戦いぶりを見て、思わず「ディシプリン」という古い言葉をを思い出してしまった。



2003年05月02日(金) 組織にあらず。

きのうのサッカーアテネ五輪、アジア地区予選は日本代表が抱える弱点をさらけ出した。相手はアマチュアのミャンマーである。大量点が期待されたが、ミャンマーの組織的な守りを破れない。オリンピック代表がだめなのは、前半、ミャンマーの堅い守りを個人技で突破しようとしてことごとく失敗したことだ。組織が未整備なのだ。相手を甘く見たこともあるだろう。前半、1点もとれなかったのは、このチームが組織的訓練を受けていないことを白日の下にさらした。
まず、五輪代表監督の資質である。現オリンピック代表監督がJリーグですら監督経験がないことは、すでに指摘した。ジーコ代表監督は、若い世代とA代表との連携を頭に置いていないため、監督経験のないコーチにチームをまかせ、有機的な選手育成を怠っている。
トルシエがよかったところは、若い選手の面倒を見たことだ(といわれている)。もちろん部外者の素人にトルシエの監督時代の実態はわからない。でも、結果としては若い世代からA代表までの有機的な選手育成はうまくいった。結果が全ての監督業、ジーコよりトルシエのほうが現段階では上である。現役時代神様であっても監督レベルではただの人、何度もいうように、結果が全ての請負業なのである。
五輪代表で思わしい結果を残せなければ、五輪代表監督、ジーコ代表監督を筆頭に、指導者・スタッフ全員の見直しを図った方がよい。早ければ早いほど、日本のサッカー界のためである。このことは何度も書いたことだが、きのうのミャンマー戦をみていて、わたしの主張が正しかったことを確信できた。


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