Sports Enthusiast_1

2004年09月29日(水) 産業再生機構

報道によると、マンション開発最大手の大京が産業再生機構の下で経営再建されることになった。大京はUFJ銀行グループの大口債務者であり、債務超過と言われるほど、経営は悪化していた。簡単に言えば、大京は国家により管理されることになったのだ。
次はいよいよ、ダイエーの番だ。ダイエーは大京と同様、UFJ銀行グループの大口債務者だから、大京が産業再生機構に入った以上、同じ道を歩む可能性が高まったと見られる。一企業が国家管理される(税金が投入される)以上、その企業の経営実態が明らかにされる。すなわち、球団経営の実態も透明化されるはずだし、球団運営に関連して行われた不動産投資の実態も明らかにされる。かりに球団経営に関連して不正が発覚すれば、ダイエーホークス存続の大義はない。
過去はともかく、今後のダイエー経営と球団所有の関係に限定するならば、球団経営は小売業経営にプラスになる、という考え方があることはよく、知られている。優勝セールや球団グッズ、選手のサイン会等で店頭に客が集まり、売上アップに貢献すると言うものだ。しかし、一見ありそうな話だが、球団所有のコストが売上増に見合っているか計り難い、というよりも、球団所有コストの方が売上増による粗利益増を上回るのではないか。なくていいものなら、買い手があるうちに譲渡したほうがいい、という考え方もある。
経営に窮している企業が年俸億単位の選手を抱えること自体、誤りであるという価値観もある。私は国家管理される企業が球団経営をすることに反対だ。プロ野球は「国民文化」だという詭弁があるようだが、プロ野球は人気スポーツだが、倒産して税金の支援を受ける企業が宣伝材料で所有することは到底許せない。それよりも、ダイエーは球団を所有しない時代、すなわち、小売業の原点に戻り、地道に売上増、利益増に励むべきなのだ。売上を上げ、経営が軌道に乗った時点で、球団所有を検討すればいい。
ついでに言えば、私は選手会がストを敢行したとき、反対だとこのコラムで書いた。繰り返せば、年俸にして億を超える選手と一般勤労者が、たとえ法的には同じ「労働者=組合員」であったとしても、選手会が自分達の年俸を既得権として言及しないのならば、選手会の「スト」は、一般勤労者の労働組合運動の現実とは乖離している。一般勤労者の組合は、雇用の確保を優先するとき、経営者側の賃金カットの要求に応じているのが現実なのだ。
かりにダイエーが産業再生機構の下で球団所有するならば、選手の年俸は国民が納得できる水準でなければならない。その額は、平均1,000万円台を超えることがあってはならない。その水準以下が一般勤労者の年俸の現実なのだから。
低年俸ではやっていけないと選手会が主張するならば、ダイエーは全選手を自由契約とすべきであり、その結果球団が消滅することは正しい選択であって、「文化破壊」ではない。社会は、プロ野球という「国民文化」を守ることよりも、一般勤労者の生活をかけた組合運動をこそ支援すべきだ。Y新聞を除く日本の大新聞は、プロ野球選手会のストを支援する報道キャンペーンを張った。ならば、大新聞は、市井の労働者のスト及び労働組合運動をあまねく支援すべきだ。私はプロ野球選手の生活と同様に、すべての勤労者の生活が守られるべきだと考える者である。大新聞がそれをしないのならば、その報道姿勢は著しく歪んでいる。「文化」よりも勤労者の生活の方が大事ではないか。



2004年09月28日(火) 楽天神戸は危なくないか

サッカーのJ1神戸が27日、成績不振を理由にイワン・ハシェック監督(41)の辞任を発表した。後任監督は未定で10月2日の東京V戦は松山博明サテライトチーム監督(37)が暫定的に指揮を執るという。
神戸の成績は、第1ステージ12位、第2ステージは9月26日の磐田戦に敗れて15位と、降格圏内。
神戸は言うまでもなく、ライブドアーと並んでプロ野球に参入を申請した楽天が今季から経営参加したクラブ。参入当初、日本で若い女性に人気のあるイルハン(トルコ代表)と契約して話題をさらったが、イルハンはケガを理由に退団し、チーム構想は前期数試合経過時点で崩れた。その後、後期には元カメルーン代表FWエムボマ(前東京ヴェルディ)、元チェコ代表MFホルヴィらを獲得して戦力強化を図ったが、ハシェック監督のイメージするチームづくりは進まなかったように思う。私は、ハシェック氏の神戸監督就任を最良の選択の1つと、当コラムに書いただけに、今回の辞任は残念でならない。
成績不振の責任を監督がとることは一般的だが、私には、楽天が神戸というサッカークラブを強くするための本質的方策を持っているようには見えていない。その根拠として、イルハンの獲得が、チーム力アップという有機的な波及力をもつものではなく、集客宣伝材料に終わっているように思えたことだ。当コラムで書いたことだが、かつて磐田は元ブラジル代表キャプテンのドゥンガ選手を入団させた。彼は一戦力の加入にとどまらなかった。彼のサッカーへの取り組みは、磐田の全選手の意識を改革したと言われる。名古屋のストイコビッチ選手にも、そのような傾向が認められると言われる。チームを強くするためには、手本となる選手が効果的なのだが、神戸はそういう外国人選手を獲得しようとしていない。それだけではない。ベテラン日本人選手で他のクラブから放出された名選手たち、たとえば、秋田(鹿島→名古屋)、中西(市原→横浜)、山口(名古屋→新潟)といった、現役選手でありながら、チームリーダーとなれる選手の獲得に真剣に動いているようにも見えない。その一方で、超ベテランの三浦(カズ)選手の存在を私は理解できない。私は三浦(カズ)が神戸というチームにどのような影響力を与えているか知らない。もちろん、彼が戦力としてチームの顔であるわけがない。神戸というクラブが、三浦(カズ)選手に何を期待しているかがわからない。もちろん、私は三浦(カズ)選手がだめだとか、早く放出せよとかと言っているわけではない。
神戸というクラブは、ハシェック氏という有能な指導者に、その能力を発揮させるだけの環境を整備していなかったのではないか。マネジメントできる(チームづくりを総合的に進められる)人材がいないのではないか、あるいは、そのようなポストをそもそもクラブとして用意していないのではないか。私の推論が間違っていることを望むが、もし当たっているとしたら、この先、いくら有能な監督が就任しても、神戸の成績は上がらない。
豊富な財源をチーム強化のために有効活用できなければ、楽天M社長の道楽、散在で終わってしまう。楽天が話題づくり先行のサプライズ戦略の失敗を反省せず、プロ野球でも同じ体質を引きずるようであれば、楽天のスポーツビジネスにおける赤字が本体の経営を圧迫するようになり、楽天はスポーツビジネスから撤退せざるを得なくなる。そうなれば、サッカー界、プロ野球界に大きな不幸をもたらすことになる。失敗の正しい総括をせず、監督だけに責任を負わせるような体質では困る。



2004年09月26日(日) 天国のアンディは何を思う

きのうのK-1GPに首をかしげた人が多いのではないか。なかでも、曙の戦いぶりについては、期待を裏切るどころではない。K-1はキックボクシングだから、言うまでもなく、キックとパンチのスポーツ。曙はその二つが素人以下である。K-1のリングに上がるべきでない。曙を見て、天国のアンディ・フグは嘆いている。K-1をこれ以上、汚さないでくれと。
曙に罪はない。負けると思ってリングに上がるものはいないだろう。彼なりに自分の力を信じているのかもしれない。しかし、こういう戦いを見せられる側はたまらない。
K-1は華麗であり、凶暴であり、それらが重なり合って、エレガントなシーンを見せてくれるときもあった。しかるに、曙に関しては、醜悪であり悲惨である。
K-1(へビー級)が抱えている問題は、タレント不足である。対戦相手はいつも同じ。だから、ボブサップや曙といった、色物だが知名度のある人材を必要としている。話題づくりが必要なのだ。K-1は一気に人気スポーツに躍り出たが、その基礎は脆弱であることがはっきりしてきた。華やかなうわべとは裏腹に、没落がもう始まっているのかもしれない。



2004年09月24日(金) もとにもどったか

スト直前で、機構(NPB)と選手会が7項目で合意した。その骨子を見てみよう。
(1)NPBは2005年シーズンにセ、パ12球団に戻すことを視野に、(新規参入球団の)参加資格の審査を進める。
(2)審査は審査小委員会が担当、1か月をめどに答申する。
(3)加盟料・参加料を撤廃、預かり保証金制度を導入。
(4)小委員会の審査過程を透明化。
(5)来季参入が可となった場合、NPBはその参入が円滑になされるように協力。
(6)分配ドラフトへの新規参入球団の参加を認め、戦力均衡を図るために協力する。
(7)NPBは、選手会との間で、プロ野球構造改革協議会(仮称)を設ける。
7項目中、注目すべきはもちろん(1)で、来シーズンの体制は、今シーズンと変化がないことになった。近鉄・オリックスの合併で1つ減ったかわりに、ライブドアーあるいは楽天がオーナーとなる1チームが加わるわけだ。来シーズンのパリーグはおそらく、新チームの動向に注目が集まり、今シーズンよりは盛り上がるだろう。6チームならばプレイオフも継続となる。
なお、話題の交流試合については触れられていない。
こうなると、ライブドアー、楽天、どちらの加盟申請が認められかに興味が移ってしまったが、それについては、(2)の審査小委員会が審査を進めるという。(4)で審査過程の透明化がうたわれているので、同委員会の委員をだれが何を基準として任命するのか、同委員会がどのような審査基準を設けるのか――といったところがポイントになる。
今後の展開としては、同委員会の立ち上げは遅くとも、10月上旬。そこで審査基準を策定するから、審査開始は10月中旬からだろう。約1カ月間の審査を経て、結果発表は早くて11月中旬以降。それを受けて、新球団はチームづくりに着手することになる。キャンプインは来年の2月だから、約3カ月間で監督、コーチ、選手、スタッフを集めてプロ野球球団としての体制を整えなければならない。
選手集めの手段としては、近鉄・オリックスの分配ドラフト、新人(ドラフト、自由枠)、金銭トレード、外国人などか。たった3カ月でプロ野球チームがつくれるものなのか、素人の私にはわからないが、急造チームの実力は未知数だが、話題性、同情、地元の支持などで1年間は順位に関係なく、観客動員が期待できる。
さて、プロ野球はスポーツだから、もの珍しさで集客しても内容がつまらなければ、早晩球場に閑古鳥が鳴くことになる。新規参入候補の1つである楽天は、Jリーグのヴィッセル神戸では、トルコのイルハン選手の獲得がサプライズだった。しかし、イルハンは2~3試合Jリーグの試合に出ただけで帰国してしまった。楽天は、外国人選手及び代理人に手玉に取られ、かなりの月謝を払ったようだ。もちろん、プロ野球で同じ失敗を繰り返すわけにはいかないから、サプライズはない。おそらく、地味な立ち上げになるだろう。もう1つのライブドアーについては、何をするか予測がつかない。
新球団に選手を供給できる有力な既存球団といえば、読売をおいてほかにない。パリーグから獲得した、清原、ローズ、小久保、工藤、シコースキー、前田をパに戻してもいいし、セからは、かつてのホームラン王・江藤(広島)を放出してもいい。江藤の実力ならば、新球団の4番を打てる。読売が新球団に協力して有力選手を放出すれば、新球団の形は円滑に整えられる。
フランチャイズは仙台が有力視されている。Jリーグのベガルタ仙台(今シーズンは2部)が成功をおさめているところから、プロ野球もいけという読みか。人口100万の大都市だから、もちろん地元に根付けば、近鉄よりは集客するだろうが、黙っていても地域住民が球場を訪れるという甘い考えは禁物だ。集客は、球団の努力如何だろう。



2004年09月23日(木) 楽天は巨人になれない

近鉄撤退後のプロ野球のあり方をめぐる混乱が収束しそうだ。機構が選手会の要求をほぼ認め、今週末のストが回避された。マスコミは大喜び、ファンの声が選手を後押し、「経営者」が「組合員」に屈服したと「庶民」の心情を「代表」するかのような論調が紙面に溢れている。
この団交の副産物が、ライブドアーに代わる楽天の登場だ。どうやら、近鉄撤退後の新規参入は楽天で決まりのようなのだ。ということは、私が昨日、当コラムで書いた推論が全く外れたことを意味しているのだが、もし、ライブドアーを退けて楽天を認めるのならば、今回の機構の決断は、機構の自殺行為にほかならない。
機構は、新球団設立の申請者であるライブドアーと楽天の2社を審査して、パリーグ6球団に戻すと言っているようだが、審査基準とは何か。常識的に見れば、参入者は2社であって、パリーグは7球団にならないか。
機構の今後の動きとして考えられるのは、①新規参入が認められるのが05年シーズンからならば、セ6、パ7の変則になる、②審査でどちらかを不適格にして、パを6球団に戻す(どうも楽天が受理されて、ライブドアーが落ちそうだが)、③2社の加盟を認めるが、業務開始を06年シーズンからにする、つまり、05年シーズンはセ6、パ5(既存の5球団のうち1社が撤退することを見越しての処置)、④どちらか1社を05年シーズンに加盟させ、もう1社を06年からにする――などが挙げられる。
いま現在有力なのは、②の「審査でどちらかを不適格にして、パを6球団に戻す」だと思われる。しかし、こうなれば、機構は中世のギルド、貴族社会のサロンのような密室の世界であることを自ら認めたことになる。
ライブドアーがだめで楽天ならばいい、となれば、審査過程、審査結果が公表されたとしても、納得する人は少ないだろう。入社試験で実力に優劣をつけられない学生2人のうち、コネのある奴が採用されたような後味の悪さが残る。2社のうち1社を選択する決定打がみつからない。
もっとも、ライブドアーにしてみれば、申請が退けられても世間の同情を集めて企業イメージが上がるのだから、いい宣伝(パブリシティー効果)になることに変わりない。つまり、どう展開しようとも、ライブドアーの企業マーケティングは成功であることに変わりない。
きのう、ライブドアー1社の新球団設立を認めるのは不適切だと書いた。同様に、楽天1社というのも不適切だ。本来なら、近鉄撤退が決まったとき、オリックスと合併ではなく、近鉄球団を譲渡する方法があった。譲渡は公開入札、オークションなどによれば、ライブドアーと楽天が公正な競争により、新規参入できた。
さて、私は、まったく根拠のない推測で言って、ライブドアーという参入者に不審感を抱いている。ミエミエの結果論で恐縮だが、ライブドアーが新規参入を表明したとき、機構はすぐ参入を認めればよかったと思っている。この参入者の成功、失敗を見届けるという考え方も成立したはずだ。
なぜならば、ライブドアーが本当にプロ野球経営をする気があるのならば、新規参入を表明する前に、機構はじめ関係各所に根回しをしたはずだが、どうもその形跡が認められない。ライブドアーのH社長は、機構側から相手にされなかったと言われるが、私の感覚では、H社長がどういうルートでどのように機構等と接触を求めたのか――その方法が適切か否かが問われると思う。ビジネスにはルールがある。プロ野球界だって同じだ。それが為されなかったであろうことに、私はライブドアーという参入者に違和感をもっている。はっきりいえば、パブリシティー効果狙いが半分以上だったのではないかと思っている。
しかし、既存のルールを無視するのがベンチャーだ、という強弁もなりたつ。マスコミに打って出て、世間の注目を浴び、パブリシティー効果をつかって一気に自分の道を開いていく、というやり方がないわけではない。そんなのは、IT産業では当たり前だよ、と言われるかもしれない。とにかく、部外者の私にはわからないのだが、IT産業で当たり前であっても、多くのビジネス社会の一般ルールがそうでなければ、一般ルールを遵守すべきだと私は思う。
ライブドアーのまいたえさに、ダボハゼのように群がり、こんどは楽天だと騒ぎまくるマスコミはともかくとして、真にプロ野球の将来を考えるスポーツ愛好家ならば、機構がライブドアーを入口で締め出すことだけは阻止すべきだろう。資本主義社会では失敗をする自由は保証されているし、その一方、失敗者を救済する安全網の整備も求められている。ライブドアー?どうせだめだから、門前払いしとけではなく、自由にやらせて、結果を見る度量も必要だし、失敗を修復するノウハウも大事なのだ。
それだけではない。ライブドアーを締め出したとしたら、近い将来必ずや直面するであろう、ダイエーの撤退に対処できなくなる。ダイエーの撤退はない、という確たる見通しがあるのならば、今シーズンを境に撤退問題は起こらないのかもしれない。楽天を加えたパ6球団、セ6球団で長期安定なのだというのならそれでもいい。しかし、セの2球団を除いた赤字は改善されるのだろうか。楽天がパリーグの巨人になれるとは思えない。世間の風は、球団を増やせばいい、という方向に流れ出したが、プロ野球および球団経営の抜本的改革(とりわけ、所有と経営の分離)に目を向けなければ、赤字球団が増えるだけではないのか。



2004年09月20日(月) 選手会は間違っている。

きのう一日の学習期間により、プロ野球選手会と機構との対立点が判明した。選手会側が05年シーズンから新規参入を認めろ、と主張している一方、機構側は06年以降、新制度で球団増を受け入れる、と主張し対立しているようだ。05年、セ6球団パ6球団が選手側、セ6球団パ5球団が機構側というわけだ。
なるほど、機構側が譲れない事情は理解できる。仮に選手会の主張を認めると、パリーグの近鉄・オリックス合併後に新規参入したライブドアー(便宜上、チーム名も「ライブドアー」にしておこう)は注目の的になり、パリーグの人気を独占する。ファンもマスコミも応援する。しかも彼らはインターネットを使った販売手法でグッズ(MD)やチケットを売りまくり、新球団を黒字経営に転換させるだろう。ライブドアーに賞賛が集まり、機構側5球団は、経営者失格の烙印を押されるばかりか、パリーグ、強いてはプロ野球総体を新規参入者に乗っ取られる。機構としては許せないばかりか、これまで赤字覚悟で球団運営してきた数十年がすべて無に帰すことになる。ファン・マスコミは、「ライブドアー」が勝っても負けてもヒーロー扱いすることは目に見えている。
機構が05年、パリーグは5球団と譲らない理由はもう1つある。マスコミは言わないが、ダイエーの処遇だ。ダイエーの経営再建が産業再生機構に委ねられたならば、ダイエーのバブル時代の経営実態が明らかになり、巷間言われているところの、ダイエーの不動産投資の不透明性と広い意味での球団経営の関係が明らかになる。そうなれば、ダイエー球団が福岡・九州地区で地元密着の球団経営を軌道に乗せている現実とかかわりなく、球団を維持する大義を失う。ダイエーグループは解体され、ダイエーホークスはパリーグから撤退する。
だが、いま現在、ダイエーが産業再生機構に委ねられるのか民間主導の再建かが決まっていない。もちろん、ダイエーおよびダイエー球団は、ダイエーの大口債権者であるUFJ銀行の動向と運命共同体にある。産業再生機構、民間主導のどちらになるかが決まらない状況では、ダイエーホークスの存続も決まらない。産業再生機構ならば、ダイエーホークスは無くなるというのが一般的な見方だが。もっとも、民間主導だからといって、ホークスを保有するかどうかはわからない。
ダイエーホークスが売りに出されれば、プロ野球機構、すなわち球団経営者、なかんずくパリーグ球団経営者は、05年はライブドアーにかき回され、06年はダイエー撤退問題の処理に当たり、2年続けて混乱を引き受けることになる。2年も混乱を繰り返せば、どうしようもない。プロ野球、少なくとも、パリーグはファンから見放される。
だから、プロ野球機構の描く第一のシナリオ次のとおりだ。いまの混乱がひとまず収束すれば、ファンもマスコミも冷静さを取り戻し、05年シーズン、セ6球団、パ5球団でのりきって、途中、ダイエーの撤退が決まれば、1リーグの流れが自然に形成される。「巨人人気」にすがって、しのいでいこうというものだ。
もう1つは、ダイエーの撤退が決まった後、06年にパリーグに2球団の新規参入が見込まれれば、セパ6球団の現状に復帰することができる。そのときは、ライブドアーだけに、おいしいところをもっていかれることはない。新規参入が2球団ならば、マスコミの注目度も50%ずつ分散するわけだ。ライブドアーともう1つの参入者が、同じインターネット業界の楽天だ。楽天が唐突に新規参入を表明したのは、05年以降のダイエーの受け皿だと思われる。楽天のM社長は興銀出身者で、ライブドアーのH社長とは財界の受けが違うと言われている。楽天が急に参入を表明した裏には、オリックスのM社長が動いたという噂もある。
つまり、06年の新規参入はダイエーの撤退が決まれば、ライブドアーと楽天の2社が有力。どちらもIT勝ち組だが、ライブドアーが06年まで球団経営の情熱を維持できるのかどうか見極めることもできるし、IT系2社の参入なら、マスコミもライブドアー1社をヒーロー扱いすることがない。世間は冷静に新規参入者を迎えることができる。
ここまで書いたところで、このたびの選手会のストの無益さに改めて心が痛む。スポーツマスコミがいま、パブリシティー狙いの企業戦略から新規参入してきたライブドアーをヒーロー扱いし、これまで赤字ながら球団を維持してきた近鉄はじめとするプロ野球球団経営者を無能者扱いする報道に驚きを禁じ得ない。確かに、球団経営としては無能だったけれど、球団経営はメセナ事業(文化的社会貢献事業)に近かった。メセナは宣伝費換算をしないことが原則だが、球団所有もそれに近かった。大企業がメセナ(スポンサード)として球団経営を行ってきたことに、一定の評価を与えてもいいと私は思う。利益還元として、地域住民に長年、娯楽を提供してきたのだから。それができなくなって、つまり、メセナ事業から手を引いて、何が悪いのだ。
結論として、選手会が05年にこだわる理由がわからない。これまで何度も書いてきたように、プロ野球からの撤退は、今年の近鉄1社にとどまらない。近々、ダイエーも撤退する可能性があるし、他の球団が続く可能性にないとは言えない。いま、ライブドアー1社だけに新規参入を許せば、ライブドアーの企業マーケティングにはまることは目に見えている。本来ならば、新規参入者を複数募り、資格審査等を行う機関を設け、球団譲渡や新球団の創設を諮る制度をつくったほうがいい。また、05年1年間をつかって、プロ野球の未来構想をじっくり錬ったほうがいい。5球団なら終わりだ、と主張をする評論家がいるようだが、パリーグは6球団でも5球団でも赤字経営の実態は変わらない。
いま選手会が主張しているのは、ライブドアーという選択肢ただ1つ。しかも、新規参入を表明する前に街頭インタビューでその企業名を尋ねたとしたら、100人中90人が知らないような企業だけなのだ。
近鉄の代わりにライブドアーを補充すれば、形の上では、現状復帰するが、プロ野球の未来構想を描く動きは止まるばかりか、ライブドアー1社が独占的に目的を達して、収束してしまう。それは、ライブドアーの描いたシナリオどおりの展開なのだ。
私はライブドアーが胡散臭いから注意しろ、と言っているのではない。ライブドアーの企業戦略は鮮やかであり、日本中がそれにのったことが残念でならない。だから、ライブドアーの参入表明後、楽天やシダックスが参入者候補として現れてくれたことにほっとしている。
これまで、ロッテ、ダイエー、オリックス等が球団を買い取ったが、財界という密室のなかの出来事だった。ライブドアーは、マスコミを使って、財界という密室をこじ開けたという意味で評価できる。けれど、本来ならば、球団売買はオークションこそが望ましい。オークションができないならば、複数の候補者からプロ野球機構が選択できることが望ましい。もっといえば、前に書いたことだが、球団の単独所有から、所有と経営の分離の形態が望ましい。所有は証券化を含めた、市場的であることが望ましい…
選手会が05年の6球団にこだわることは間違いだし、それを理由にストを実行したことを遺憾に思う。
プロ野球について、多方面にわたり研究しなければ、これから先、球団維持はさらに難しくなる。経済学者、経営学者、経営コンサルタント等を含め、プロ野球の経営のあり方を研究しなければ、選手会は永遠にストを打たなくてはならなくなる。繰り返すが、6球団・6球団という現状復帰だけではだめなのだ。05年シーズン、6球団、5球団という変則であることは、一見、整わないようだが、そのほうが新しい方向を模索するには好都合なのだ。



2004年09月19日(日) プロ野球は、文化ではない

スト2日目の日曜日、朝からテレビでは「プロ野球論」が花盛り。評論家、文化人諸氏がプロ野球論を戦わせていた。私はこの問題の論点整理をするほど、日本のプロ野球に詳しくないのだが、マスコミが大いなる誤解をしていることが気になったので指摘しておこう。その1つは、プロ野球は国民的スポーツではないということ。日本には多くの「巨人」ファン、阪神ファンと、少数のマニアックな「その他球団ファン」で構成されているという事実だ。「国民的」という言葉はいい加減だが、真に国民から支持されているスポーツならば、12球団中10球団が赤字であるわけがない。近鉄バファローズが撤退せざるを得なかったのは、ファンの支持がなかったからだ。ファンが球場に足を運び、バッファローズ・グッズを買い、テレビ放映を望んだならば、近鉄は存続しただろう。近鉄の球団経営がまずかったということも事実だろうが、では、オリックス、日ハム、西武、ロッテの経営はどうなのだろうか。この4球団は今現在、本社のバランスシートが球団所有に耐えられる状況にあるだけであって、ファンから支持されているわけではない。
言ってみれば、巨人・阪神を除いて、ファンから支持されている球団はない。阪神だって、巨人あっての阪神である。だから、野球文化と言ってはいけない。いまのプロ野球は、読売新聞がつくった「巨人文化」にすぎない。
その「巨人文化」=「プロレス野球」についてはずいぶんと書いてきた。そこで問題になるのは、なぜ、「プロレス野球」を大衆が求めるのかということだ。日本には、相撲という芸能がある。相撲はもちろん、スポーツではない。相撲レスラーは強くなるために、過酷な練習(稽古)に励むが、相撲がスポーツでないことは常識の範囲だろう。相撲、プロレス、巨人野球の3つは、よく似ている。横綱が絶対で、横綱は負けない。「強いものが勝つ」という構造である。アメリカのプロレスは、強いものが勝つ場合が多いが、それだけではない。米国では、プロレスはソープオペラと呼ばれるようだが、米国のレスラーは複雑な役割分担をもっていて、ベビーフェイスが最後には勝つことが多いが、絶対的ではない。ベビーフェイスとヒールが入れ替わったり、ベビーフェイスが短期間で入れ替わる。巨人野球はどうなのかというと、巨人軍はベビーフェイスであり横綱であり、人気者として、半世紀以上の歴史の中で絶対的な地位を日本中に築いてきた。このことは、読売がマスコミ企業だからできたのだ。PR、宣伝、広告、パブリシティーといった、あらゆるメディアを駆使した結果だ。マスコミュニケーションによる価値形成プロセスの生きた事例のようなものだ。ナチスドイツ、共産党、宗教団体の広宣活動に似ている。しかも、読売が築いた巨人市場に他のマスコミ企業がのっかって、巨人崇拝が拡大再生産されてきた。もうかればいいのが日本のスポーツジャーナリズムであって、読売を非難できるマスコミは、敵対関係にある朝日だけだが、朝日は高校野球で同じようなことをやっている。
巨人ファンだけで占められた異様な「スポーツ」を国民的文化と呼んではならない。それこそ、読売の思う壺だ。
その読売がストに抵抗しているらしい。あいにくと、読売新聞を読んでいないので論調は不明だが、テレビ報道によると、社説で選手会のストを非難しているらしい。読売のスト非難の論点は、ファンに対する裏切りということのようだが、読売がせっかく半世紀以上の歳月をかけて培ってきた「巨人文化」が崩壊しようとしているのだから、抵抗するのはよくわかる。ただ、読売が培ってきたはずの「巨人野球文化」の主役である「巨人」軍選手、「巨人」ファンがストを支持しているから不思議なものだ。読売のプロ野球戦略が通じなくなったということは、日本のプロ野球が新しい地平に到達したことを意味している。
ストを機に、巨人野球が崩壊し、新しいベースボールが始まるのか、巨人幻想の崩壊とともにプロ野球が消えるのか、大変興味のあるところだ。幻想が消えれば、復活することはまずあり得ないのが一般的だから、いずれにしても、巨人プロレス野球が日本から消えることだけは間違いない。
私は「プロ野球」が崩壊してベースボールが始まるまで、けっこうな時間を要すると思うのだが、いかがであろう。



2004年09月18日(土) 磐田、スタミナ切れ

磐田vs鹿島、G大阪vs神戸の2試合は壮絶な点の取り合い。死力を尽くしてとはおおげさだが、4チームの選手はよく頑張った。技術的未熟さやミスなど指摘してもはじまらない。とは言うものの、磐田の前田選手が、磐田4-1リードの局面で犯したハンド(2枚目のイエローカードで退場)はいただけない。磐田は、前半3点差で鹿島をリードしたにもかかわらず、このミスを境に追いつかれてしまったのだ。
しかし、一人少ないとはいえ、4-1リードの磐田が鹿島に追いつかれた要因を、ミスをした前田一人に負わせるのは酷というもの。前田が退場になったとき、磐田の新監督・鈴木氏がどのような指示を出したのか。磐田のフォーメーションの変化がTV観戦では認められなかった。新監督が選手以上にあわててしまい、指揮官の任務を全うできなかった可能性もある。
そればかりではない。後半、磐田の選手の身体は、動いていなかった。この試合は高温多湿の中、午後3時のキックオフ。前半とばした磐田だが、ベテラン勢のスタミナが持たなかったように思う。一方、鹿島はFW鈴木の気迫溢れるプレーが代表していたように、よくシェイプアップされていた。磐田が前半、強いプレスで鹿島を圧倒し大量リードをしたものの、残念ながらスタミナが続かなかった。新監督を迎えた磐田の選手達のモチベーションは高かったのだが、体力が追いつかなかったわけだ。磐田の高齢化を象徴するようなゲームだった。
さて、3連休の土日はプロ野球がストで試合がない。ゆっくりしたプロ野球のリズムよりも、攻守の切り替えの激しいサッカーのほうが見ていておもしろい。両者を運動量で比較すれば、圧倒的にサッカーだ。サッカーは世界に開かれていて、日本国内に閉じこもったプロ野球が漂わせている閉塞感がない。プロ野球には、ドンズマリのような重たい空気を感じる。
そう感じる理由の1つが、ドーム球場の存在だ。ドーム、人工芝で行われるプロ野球は、スポーツの爽快さがないし、スライディングをすると、摩擦熱で火傷をするというから、安全性に問題がある。
ストを契機に、プロ野球がスポーツの原点に戻ることを希望する。それには選手が安全にプレーできることは最低限の環境上の条件だ。ドームを壊し人工芝をはがすことだ。野球がスピードと運動量を競うようになるならば、人気回復は意外と早いのではないか。



2004年09月17日(金) スト決行、プロ野球の落日

プロ野球、史上初のスト決行――テレビ画面の上に短いテロップが流れた。プロ野球凋落の歴史がこの瞬間から始まったのだ。
私は日本のプロ野球を「プロレス野球」だと書いてきた。そのプロレスについて私の知る限りの歴史を書いておこう。もちろん字数の関係で、その全てを書くことは到底できないが。
日本が敗戦から立ち直りつつあった1950年代中葉、力道山を中心としたプロレスが日本中の人気をさらった。力道山がシャープ兄弟らの大型外国人レスラーを蹴散らして、毎日毎日「勝利」を上げ続けた。そのときの日本人は、プロレスをショーとは思わなかった。力道山が体力に勝るアメリカ人を空手チョップでKOしたと思ったのだ。プロレスが人々の敗戦体験を癒したのだ。
1960~1970年代、覆面レスラーのミスター・アトミック、鉄人ルー・テーズ、噛みつき魔フレッド・ブラッシー、力道山亡き後、四の字固めのデストロイヤー、大巨人アンドレザジャイアントらが日本を「襲い」、日本人レスラーに「撃退」されてきた。
人は真実に突き動かされるのではない。信じたいものを信じるだけなのだ。それがたとえ嘘であろうと。だから、日本人はプロレスの「真実」を無視して、嘘でもいいから、そうありたいと思う幻想を信じたのだ。プロレスは、大衆の見たいものならば嘘でもいい、という無意識に支持されたのだ。
しかし、80年代以降、団体の乱立やスターレスラーの高齢化、力道山の後継者・G馬場の他界などに従い、このショーは次第に色あせ、人気を失って今日に至っている。その間、半世紀、エンターテインメントとしての寿命としては適当だろう。半世紀という時間は、人々がプロレスによる癒しを必要としなくなった時による癒しに等しい。
プロ野球の歴史は、それよりはいくぶんか長い。今年読売巨人軍が創設70年だそうだから、「プロレス野球」もその期間にほぼ等しく、70年以上の寿命を保ったことになる。そして、ついにストにより、人々は「巨人」の呪縛から解き放たれる。「プロレス野球」の終わりだ。人々は、「巨人」の勝利という癒しを必要としなくなったことを知る。
ストの効果を挙げてみよう。まず、「巨人」がストに参加することにより、「巨人」というチームがプロ野球の1球団にすぎないことが周知される。第二に、ストでプロ野球を見ないことにより、それを見なくてすむことが実感される。野球が好きな人はメジャー中継にチャンネルを合わせることもあり得るし、サッカーを見て、その面白さに覚醒することもあり得る。また、カラオケに行って、週末はカラオケと決める人がいるかもしれない。一般勤労者の野球ファンなら、テレビ中継で野球を最後まで見るのは、おそらく週末だけだろう。ウイークデイにナイター中継が見られるサラリーマンは少ないのだ。
第三に、空騒ぎのファンも、プロ野球選手会への支持をやめる。彼らのスト支持は、マスコミの加熱報道がもたらした一時的興味にすぎないからだ。ストという冷却期間をおけば、彼らの熱も冷める。いま騒いでいるファンは、野球よりも、ストの方が見たいだけなのだ。そして、ストが何事でもないことを知る。ストは何ももたらさないという意味で、ファンはストはもちろんのこと、プロ野球の存在すら、忘れるだろう。
そんなこんなで、ストはプロ野球の熱冷ましとしての効果となり、人々の記憶の中からプロ野球を消去していく。プロ野球を渇望する人の声が上がることもあるだろうし、再開後、プロ野球が拍手で迎えられることもあり得る。そんなことは百も承知で言えば、それでも、プロ野球の熱は冷めるとだけ言っておこう。
繰り返せば、人々は見たいものならば、嘘でも代替物でもなんでもよい。だが、プロ野球界は、欲ぼけしたオーナーと既得権確保の選手会による、駆け引きの場にすぎないことがわかったのだ。そこで「百年の恋」から覚めるのだ。かつてプロレスの夢から醒めた日本人と同じことだ。
プロ野球?そんなものに夢を仮託した己に嫌悪しつつ。プロ野球は終わったのだ。



2004年09月14日(火) 老害、磐田を救えるのは

先日、当コラムでチームの世代交代の難しさについて磐田に触れたが、その磐田の桑原監督が成績不振で解任されてしまった。この措置は当然と言えばそれまでだが、昨年まであんなにも強かっただけに、桑原氏が積極的な手を打てなかったのはやむを得ない面もある。勝っているときにレギュラーを外すことは難しい。いまの日本代表監督は、試合中でさえ、「勝っているときは動かない」と明言してはばからないようだが、頑固さは、骨があるように見えて、サッカーでは危ない。勝負やチームを預かることの難しさについては、いくら書いても書ききれない。監督稼業は素人には無理なのだ。
さて、桑原氏の後任(もちろん、バトンタッチされたのは、鈴木氏だが、鈴木氏の任期は1月1日まで。)は当然、前五輪監督のY氏というのが既定路線と思われたが、どうもそうではないらしい。磐田がY氏と断言しない理由としては、Y氏に火中の栗を拾う勇気がないのか、もっと適当な人材が見つかったのか――のどちらかが考えられる。というのも、磐田の場合、監督としてフェリペ氏を招聘した実績があるからだ。フェリペ氏は磐田の監督を辞した後、ブラジル代表監督で02年W杯優勝、ポルトガル代表監督で04年ユーロ準優勝の実績を残した名監督。もちろん、フェリペ氏は、磐田に来る前に、ブラジルのクラブチームの監督を歴任した人物ではあるが、磐田の人選は的を得たもの以上だった。監督選びに長けた磐田がY氏だけに的を絞らず、広く人材を求めているとするならば、次期監督はきっとクラブの発展に資する人材に違いない。磐田の新監督発表が、おおいに待たれるところだ。
さて、磐田のこの間の凋落については、「老害」に加えて、サイドプレイヤーの西の不調、福西、田中の代表組の疲労といった要因が重なっている。老兵ゴンのスーパーサブも淋しい限りだが、同じくサブの川口も最近、キレがなくなった。しかも、前に書いたとおり、若手とレギュラーの差が縮まらない。悪いことは重なるものだ。
ただ、磐田のチームづくりについて、納得できない面が1つある。それは外国人選手の獲得がないことだ。磐田といえば、ブラジル代表キャプテンを務めたドゥンガ選手を獲得したほど、思い切った補強をするクラブだった。ドゥンガ選手の加入がなければ、磐田はこれほど強くなっただろうか、とまで言われた。つまり、磐田には、優秀な外国人選手を積極的に加入させてきた実績があったにもかかわらず、いま現在、高原の穴埋で獲得したFWグラウ以外、特に優れた外国人選手の加入がない。このことは極めて、理解しにくい。磐田が構造的要因(=世代交代の失敗)により弱体化したことは明らかだが、軌道修正、応急処置を怠ったことも事実。クラブを立て直す積極策を取っていないという点では、監督以外の責任もないとは言えない。



2004年09月11日(土) 巨人という遺産

選手会とオーナー側の話し合いの結果、日本のプロ野球史上、初となるはずのストが回避された。「ファン」とマスコミは満足だが、私は不満だ。すべてが先送りされたにすぎないからだ。まず、来季はセが6チーム、パが5チームの変則で、パが今季から導入したプレーオフ制度は自然消滅の様子だ。チームが減ることを承知しながら、昨年プレーオフ制度導入を決定したパリーグの球団経営陣の頭の中を心配する人は、私だけではないだろう。
また、新規参入の足枷になっていた加盟料の見直しについては、評価する報道が多いが、私はプロ野球の発展とは関係ないと思っている。何度も繰り返すが、プロ野球機構が球団の単独所有にこだわる限り、球団数の減少は避けられない。加盟料に代わる保証金制度が何か新しいことのように言われるが、保証金は球団が消滅したときに有効な担保であって、球団維持に有効な手段ではない。
さて、ご承知の方が多いことだけれど、日本のプロ野球を創設したのは読売の社主・正力松太郎だった。正力はプロ野球黎明期から、読売巨人軍の強化に努め、読売新聞販売拡張手段として、「巨人」を利用してきた。新聞で書けば知名度が上がり、付加価値が上がり、人気が出る。
正力のプロ野球構想は、「プロレス野球」だった。このことは何度も書いたことだが。
強い「巨人」を中心にプロ野球を運営すること――そのためには手段を選ばなかった。正力の構想が現実として花開いたのが、「巨人」のV9だった。同一チームが9年間も日本選手権をとり続けることなど、他のスポーツでは考えられない。「巨人」は、ONという二人のスーパースター、有望新人、「巨人」ブランドに憧れた他球団の実力派選手を無制限に加入させ、チーム強化に励んだ。その間、資金(カネ)こそすべてのプロ野球体質が生まれた。新人選手の契約金が高騰し、契約金にシンクロして選手の年俸が高騰し、球団経営を圧迫した。そこで、ドラフト制度が設けられ、有望新人の均等配分による戦力平均化が促進された。ドラフト効果により、「巨人」が優勝できないシーズンが続いた。読売が意図した、「プロレス野球」が崩壊しそうになったのだ。慌てた読売は、「江川事件」でドラフト制度を形骸化させ、逆指名だか自由枠だかを新設し、さらには、FA制度を導入して、選手漁りを始めた。ちょうど国民的英雄・ミスターが「巨人」の監督に復帰したころだった。こうなれば選手の年俸アップは避けられない。だから、ミスターは読売に対して貢献度の高い人物であることは間違いないが、真に球界のために尽力したかどうかは大いに吟味する必要がある。
読売の“常勝巨人軍構想(=「プロレス野球」の完成)”こそ、今日のプロ野球の退潮――オーナー企業のプロ野球球団からの撤退現象の根源だ。阪急がオリックスになり、近鉄がそのオリックスと来季合併して撤退する。さらにダイエーというゾンビ企業が、そのうち撤退する。このまま経費増(年俸アップ)が続けば、撤退する企業はまだまだ続く。そうした流れを見越して考案されたのが、1リーグ構想だった。これこそ、「プロレス野球」を容認するオーナー側のリストラ策だった。「巨人」に群がり、放送権料等の収入にありつこうという「構想」だ。構想というより、「たかり」といったほうが適切だと思うけど。
選手会とオーナーの話し合いの結果、このまま2リーグ制が続き、撤退企業と新規参入企業の入れ替わりが続くとどうなるか言えば、数年は2リーグが存続する可能性はあるが、選手の年俸アップに耐え切れなくなる球団が続出し、ますます、「巨人」に有力選手が集中する。そのときこそ、かつて正力が目指した究極の「プロレス野球」完成のときだ。「巨人」の常勝が戦力上保証され、V9どころか理論上V∞が続く。
だが、読売の巨人軍V∞のプロ野球が万人の鑑賞に耐えられる娯楽であるかどうかははなはだ疑問だ。多分プロ野球の視聴率は現在の本物のプロレス並みになり、深夜録画放送で一部マニア(「プロレス野球ファン」=巨人ファン)が見るだけだろう。プロ野球のマイナースポーツ化が定着する。いまの選手会の主張は、このような「未来」に向かっている。
プロ野球はいずれにしても、「巨人」という遺産を食いつぶして終わるのだ。終わる前に少しでも遺産にありつこうというのが1リーグ制。自分達だけで遺産を食い潰そうというのが、セリーグ主導の選手会が主張する2リーグ制。ヤクルトはもともと「巨人」と一体の体質で、選手会長のF選手はヤクルト=セリーグであることがそのことを象徴している。パの選手は、1リーグ制を支持した方が、現実的だと思うのだけれど…
真の選手会ならば、その目指すべき方向は、プロ野球をスポーツとして再構築することだ。選手会は頭を使って、日本における、本物のベースボールを提案しなければいけない。もちろん、現役のプロ野球選手が具体的な構想を描く時間がないことは百も承知だ。だから、現役を退いたプロ野球OBが、現役選手たちに代わって、読売の呪縛から離れて自由に発言し、スポーツとしてのベースボールに向かう道筋を語らなければいけない。
そればかりではない。いまこそ、スポーツジャーナリズムの果たすべき役割が大切なときはない。真のスポーツジャーナリストならば、読売の圧迫から離れて自由なベースボール構想を語らなければいけない。さらに、日本に野球解説者と称する人が何人いるか知らないが、彼らが本当の解説をするのはいまをおいてほかにない。プロ野球OB、スポーツジャーナリスト、解説者が真にスポーツとしてのプロ野球の未来を構想するならば、そのあるべき姿が見つけれらないわけがない。



2004年09月10日(金) スト?勝手にやればー

プロ野球選手会とオーナーが対立している。日本のマスコミは選手会が「善」でオーナー側が「悪」となっている。もちろん、選手にも生活があるし、これまでの安易な球団経営に非がないとは言えない。だが、選手会を組合と考え、彼らの雇用を確保せよ、という論理はなじまない。一般企業の組合員のなかに、年収にして億を超える組合員はいない。プロ野球選手というエリート集団を一般組合員と同等に考えることは間違っている。
さて、いま現在、日本のプロ野球球団の多くは、スポンサー企業の宣伝費(換算)で運営されている。日本ではジャーナリズムは中立と考えられ、特別な企業の名を伏すのが慣例となっている。たとえば、いま問題になっている公共放送では、化学調味料の代名詞となっている「味の素」という商標名を番組中に使用しなかった。生活過程では、「ちょっと味の素を入れて…」なんてと言うころを、放送では、「化学調味料を小匙一杯」なんて言ったものだ。この論理に従えば、公共放送から大新聞に至るまで、ダイエー、近鉄、オリックス…と、企業名を無料で報道してくれるのだから、プロ野球球団を宣伝費換算すれば、十分黒字と考えられる。
だが、こうした「宣伝」の甲斐もなく、近鉄、オリックス、ダイエー等の本体の経営は思わしくない。これ以上、球団を維持できなくjなった。広告宣伝費を削る必要が生じたのだ。経営を見直すのは企業の使命であり、経費圧縮は当然の策だ。かりに赤字部門の存在により消費者が高い商品を買わされたり、株主が配当を得られないとするならば、企業(経営者)の責任が問われる。球団を手放すか、球団経営から撤退することは仕方がない。宣伝費の削減で売上を減らした広告代理店は数え切れないし、倒産したPR会社や契約を切られたデザイナー、AD、CD等の広告マンもいる。広告代理店には組合のないところも多いし、彼らの年収は概ね、一般勤労者程度だろう。大新聞やファンとやらは、彼らに同情の声を寄せたことがあるのか。一般生活者のリストラを無視して、年収億を超えるエリート達に同情を寄せるのか。そんな、おかしな「倫理観」は私の倫理基準からは遠い。
経営者にリストラの自由は許されないのか。一般企業ならば、組合員を含めた話し合いが行われるのが普通だろう。年収が1千万円に満たない勤労者が大半を占める一般企業の場合、不当な解雇は許されない。経営側、組合員側が痛みを分け合うことが普通だ。
近鉄の場合はどうか。オリックスとの合併という選択から1リーグ制の流れというのは、当コラムで書いたけれど、縮小均衡であり、最善策ではないけれど、現状の窮状を脱する手段である点では評価できる。
最悪なのは、合併はだめ、1リーグはだめ、苦しい近鉄とオリックスの合併もだめ、という無責任な現状維持の主張だ。球場に足を運んだこともない「庶民」とやらが、「ファンの声を無視するな」と、「被害者意識」を表に出し始めた。プロ野球を「市民」がのっとろうとしているかのようだ。
私は近鉄が球団を手放すことは、当然だと思う。いずれ、西武も手放すだろう。それは、東急、西鉄、南海、阪急…と電鉄系企業が球団経営する意味を失ったからだ、とすでに当コラムで書いた。電鉄系の業界団体・社団法人都市開発協会は、すでにその役割を終えたとして、2年前に解散している。それが時代(経済)の流れなのだ。
私は雇用確保から選手会がストをすることは、支持しない。「スト」の主張が、いままで球団から高い報酬をせしめてきた「勝組」の声だからだ。勝組が「実力で競争に勝ち抜いた」のならば、大リーグの門はいくらでも開いているのだから、解雇が予定されている選手達はそこで勝負をしたらいい。いまの選手会の選手達は、競争に敗れた無名の元選手たちを踏み台にして、レギュラーの地位を確保し、高い年俸を得てきたのだ。所属球団がなくなるなら、再び競争が始まるだけだ。それがプロの勝組の論理だろう。いまさら、競争はいやです、などという泣き言は聞きたくない。だから、選手会会長のF選手がテレビに出てきて、正義の味方づらして政治家みたいな応対をするのを見ると、いやな感じがしてしまう。
こいつらの年収はいったいいくらなんだ、組合?ジョーダンジャーネーや、スト?やりゃーいいじゃねーか、勝手にー、おれはどーせ、サッカー見るんだから。



2004年09月09日(木) コルカタ発マスカット行

サッカー日本代表がインドに勝った。敵地コルカタの厳しい気候の中で4点差の勝利という結果は喜ばしいとは言え、最低限の仕事を果たしたにすぎない。日本代表に同情すべきは、湿度90%超、気温30度以上のなか、しかも、途中停電というハプニングに見舞われた点。これらの悪条件を乗り越えたことは評価できるが、オマーンは同日、シンガポールにアウエーで2点差で勝利した。まだまだ、予断は許さない。
というのは、日本代表の試合内容に不安が残るからだ。とくに前半44分間(先制点が入るまで)、インドの守備に手こずった。先制点は、三都主の個人技から。三都主のシュートを相手GKが弾き、そのボールがFW鈴木の目の前にこぼれる幸運に恵まれた。後半の2点目は小野のフリーキックから。この得点が事実上、インドの息の根を止めたことになるのだが、これも、小野のテクニックに依存した結果だ。つまり、日本代表は、アウエーで悪コンディションという同情すべき面はあるものの、チームの形ができていない点が心配だ。FW高原にキレがない点も気がかりの1つ。
インドの実力は、日本に比べれば、かなり低い。にもかかわらず、インドは組織的守備で日本を苦しめた。このことから推察するに、インドに比べてより高い技術をもち、かつ、組織的サッカーをするオマーンとのアウエー戦は、日本にとって、厳しい戦いとなる。試合展開としては、オマーンから仕掛けてくるものとなろう。オマーンは日本に勝たなければいけないので、序盤戦から日本にプレスをかける。それに日本が耐えられなければ、オマーンが一次予選突破国となる可能性が高い。日本が優勝したアジア杯だが、オマーンのサッカーは、東京で戦ったときよりも、攻撃に鋭さが出ていた。ホームという好条件のなか、かれらの力は日本、中国での対戦のとき以上のものとなるだろう。
日本の戦法としては、序盤、オマーンの圧力に耐えつつ、一気のカウンター攻撃が考えられる。となると、ポストプレーのできる鈴木、スピードのあるサイドプレイヤーがキー。日本を救うのは、やはり、三都主か。



2004年09月06日(月) 王者の受難

欧州の王者・ギリシアが、アルバニアにアウエーで負けた。王者ギリシアは、ホームでめっぽう強いといわれる小国アルバニアに不覚をとったことになる。こういう負けはサッカーにつきものだ。ギリシアチームに緩みがなかったとはいえない。
また、98年W杯・2000年欧州王者・フランスが、イスラエルとホームでドローに終わった。二人の王者が、格下と思われる相手に足元を掬われた感じだ。
しかし、私はギリシアとフランスの不覚は、まったく異なるように思える。とりわけ、フランスのチーム状態の悪さに唖然とした人が多いのではないか。フランスの悪さは、不調というより、構造的なものだと考えられる。フランス開催のW杯当時に上り坂だった選手が代表から引退したが、それを埋めるだけの選手が育っていない。イスラエル戦では攻撃といえば、FWアンリの個人技だのみだった。監督にも批判が集まった。ジダンに代わりゲームメークできるジウリー、ピレスを先発で使わず、いたずらに時間を浪費したというのだ。その批判が正しいかどうかは留保したい。とにかく、私がカウントした限りでは、この試合、フランスの決定的チャンスは僅か2度にすぎなかった。イスラエルは、アウエーで強豪と戦う際の教科書のような布陣を敷いてきたのだが、フランスは最後までそれを突破できなかった。かつてのフランスであれば、2度の決定機のどちらかをものにしたか、もっとチャンスをつくって勝点3を上げただろう。
フランスは明らかに、下降のサイクルに突入した。底はまだ先だから、フランスには、このような引分か負けが、この先も続く。オランダがそうだったし、ドイツにも、いま、その予兆がある。
日本のJリーグでは、磐田が同じような後退局面に入った。中山、名波、服部、藤田らに力の衰えが見え始めたのだが、彼らを追い越さなければいけない控え組の力が弱い。若手が台頭せず、チームが弱体化している。磐田の場合、カレンロバート、菊池、成岡、前田といった若手がいるが、経験不足だったり実力不足だったりで、レギュラークラスとの差が埋まらない。強豪チームが避けたくて避けられない泥沼に足を踏み入れてしまった。クラブチームの場合、外国人の補強で急場がしのげることもあるが、外国人枠は3人に限定されている。磐田の場合、FW高原がドイツに行ったところで、グラウを補強し穴を埋めた。それに加えて、複数のレギュラークラスに翳りが出たのでは、外国人の補強枠では賄えない。
ここで、五輪代表監督だったY氏が磐田の次期監督に就任する、という報道に期待がかかる。私はこのコラムでY氏の監督能力を批判してきた。Y氏が構造的に弱体局面に突入した磐田を再建できたならば、Y氏は自らの監督能力の証明を果たしたことになる。もちろん、そうなってほしいわけで、その意味で、Y氏が磐田の監督に就任する意思表示が待たれるところだ。



2004年09月05日(日) 浦和優勝か

浦和がJリーグ杯で横浜を破った。両チームとも代表を欠いた試合だったが、横浜の方がドゥトラ、ユ(途中退場)がケガで出られず、浦和の若手中心とした選手層の厚さが結果に反映した。浦和の若手はとにかくすごい。セレソンクラスのエメルソン22歳、日本U23代表として五輪代表に選ばれた田中(達)、トゥーリオがいて、五輪代表からスレスレで落ちた、山瀬、鈴木、長谷部がいる。
さらに永井が加わる。永井は不思議な選手で、調子のいいときは手がつけられない。ハットトリックやビューティフルゴールを決める。一方、調子が悪いときはそれこそいるかいないかわからないくらい目立たない。もちろんやる気がないわけではないだろう。だれがみても、調子の波が激しい選手だ。その永井がこのところ安定している。1試合1点とは言わないけれど、大事な試合で決められるようになってきた。
このままいけば浦和が優勝する。浦和の快進撃を支えるのは、私の見方では長谷部だ。彼は山瀬とトップ下を争っていたのだが、ブッフバルト体制でボランチに転向し、能力を発揮しだした。長谷部のボランチ起用により、浦和の攻守にバランスが取れるようになった。守りではどちらかというと、引き気味の浦和が中盤で圧力がかかるようになった。とはいえ、まだまだ守りでは不安定さが残るものの、攻撃に厚みが増し、第二列目のゴールが増えた。山瀬のゴールが増えたのも、長谷部が基点となったものが多い。
浦和には、もちろん三都主、坪井の代表組がいるし、アルバイ(トルコ)が最後列を固める。左サイドプレイヤーには、代表に選ばれないのが不思議な平川がいる。これで優勝できなければ、責任は監督の指揮能力以外に求められまい。ブッフバルトは名選手だったが、監督は一年目。経験がないだけに、この体制で優勝できないとするならば、この一年はブッフバルトの監督修業のための一年だった、ということになる。



2004年09月03日(金) デリマ

アテネ五輪が終わった。ほっとしている。開催中、ワイドショーは五輪関係の報道で騒がしかったし、ニュース番組も五輪報道が多くを占めていた。BSでJリーグ中継がなかった週が続いたのにはまいった。
そんなアテネ五輪だったが、私が最も印象に残った選手は、マラソンのデリマだった。彼はレース途中、トップを走っていたのだが、アイルランド人の元司祭と名乗る男の妨害に合い、銅メダルで終わったことを知らない人はいない。
デリマ選手には、もちろん同情が寄せられた。あのレース展開ならば、金メダルは間違いなかった。私は、デリマ選手が祖国ブラジルに戻り、インタビューを受けていたシーンをたまたまテレビで見た。彼は妨害した人物をどう思うかと聞かれ、「その男に悪い感情をもっていない」と答えた。その他いくつかの質問にも、彼は淡々と答えた。そこには、金メダルに対する執着など、微塵も感じられなかった。
一方、日本では、五輪開催中、娘のレスリング選手にまるで精神に異常をきたしたかのように騒ぎ立てる元プロレスラーの父親がいた。メダル、メダルと騒ぎ立てるマスコミ人、スポーツアナウンサーの絶叫があった。ブラジルで行われた記者会見のデリマ選手は、日本の騒々しいメダルマニア達とは、ほぼ対極的な精神をもった人間のように思えた。
私はデリマ選手がインタビューに答える映像を見たとき、思わず落涙した。精神と身体が完璧に近い均衡をもって存在する人間を見たような気がしたからだ。
もちろん日本でも、メダルを取った選手たちは冷静だった。奢ることもなければ騒ぐわけでもない。謙虚にメダルという結果を受け止めているように見えた。しかるに、スポーツマスコミ等の周辺だけが、メダル騒動を演じ、感動を押し売りし、物語をつくりだそうとする。
それだけではない。デリマから受けた感動は、私のスポーツ観戦の姿勢を変えるだけの力があった。私は、スポーツに必要なことは勝つことだと確信し、勝つための条件を指摘してきた。しかし、デリマ選手の場合は、妨害という、絶対にあってはならない要因により金メダルを逸した。が、デリマ選手は、「世界一の栄光」にいかなる価値があるのか…メダルのためにスポーツをするのではないのだ…結果は結果として、粛々と受け止めるだけだ…という、深い精神のあり方を見せてくれた。
デリマ選手は敗者ではないが、勝者でもない。そのことが、私のスポーツ観戦の前提を越えた。
繰り返して言えば、私のスポーツの楽しみ方は、勝負(結果)にこだわり、勝利に至る課程を評価し、敗北に至る要素を排除した。敗北を招いた選手の怠慢、監督の采配ミス、関係者、マスコミ、サポーターのあり方を批判してきた。そうしたスポーツ観戦のあり方を私自身、反省したことはなかった。
デリマ選手の姿を見たとき、私のスポーツ観戦があまりにも浅いことを反省した。人間が一つのスポーツに打ち込み、頂点に達するような力を身につけたとき、肉体のみならず、精神も変わることを知った。その状態は、達観とか高踏とかいうものとは違う。おそらく、解脱に近い精神のあり方ではないか。デリマ選手の個性は、アスリートを越えた、宗教者のような高みを私に感じさせたた。スポーツ評論は本当に、難しい。


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