マキュキュのからくり日記
マキュキュ
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【なに? この店!!】

 案の定、仕事を一本化した途端から、店への不信感は倍増した。
女の子は皆酒を飲む為、女の子の送り迎えは社長がしており、私は開店の準備が有るので一番乗りで迎えに来てもらう。私を店に下ろしてから、社長は次の女の子達を迎えに行くのだ。
店に入り、店内の掃除を終え、厨房で付き出しなどを作り、ボトルの整理などをしだした頃、ポツリポツリと順番で女の子達が揃い出す。ママが来るのは大体一番後だ。だから口開けは私一人だけの事も多い。
 ある日一人の女の子がママを尋ねて来たのだが、ママは留守だと告げると、浮かぬ顔で帰って行った。
それ以降も彼女は幾度となく訪れ、私は気になり飲み物を勧め「何か有ったの?」と聞いて見た。すると彼女は言い難そうにこう言うのだ。
「私、以前この店に勤めてたんですけど、実は未だにその頃のお給料を貰えてないんですよ。どうしたら良いのでしょうかねぇ」と。
「・・・!?」私は不安になり、詳しく彼女から事情を聞いた。
 彼女の話に寄ると、過去に何度か給料の遅配が有り、未だその頃の給料を全部貰えてはいないと言う。彼女の話に私は漠然とした不安を抱えた。友人はそんな内情は私には一言も話してくれてはいなかった。
そしてその後、店に入ろうとすると度々【家賃滞納六ヵ月! 払えないなら即出て行くように!!】などと言う大家からの貼り紙がされるようになった。あんなに客から取っているのに何故? と、とても不可解だ。
社長に貼り紙を見せ「こんな貼り紙が有りましたけれど・・・」と言っても、彼は鼻先で笑い「大家とある事で揉めていて、単なる毎度の嫌がらせだから全然気にするな」と言うだけだ。
 私はこの店に居て本当に大丈夫なのかと心配になった。しかし、もう後の祭りである。昼間の仕事も辞めてしまったのだ。とりあえずは此処にしがみ付いて居るしかないではないか。
社長はそんな私の弱みに付け込み始め、益々私に対する言葉や態度が粗雑になる。
「殺すぞ、テメエ。この馬鹿女!」
これは社長の口癖で、ママは始終社長にこう怒鳴られていた。
最初にそれを聞いた時は耳を疑った。
【良くもママは平気であんな事を言わせているなぁ】と呆れ返り、それをママに言うと「あの人の昔からの口癖だから全然気にならないわ」と平然としている。
【あんな言葉を当たり前に吐ける人の何処をそんなに好きになったの?】とも聞きたかったが、さすがにそれは遠慮した。
そしてついにその言葉を、私にまで向けるようになったのだ。
店の売り上げ計算や、経理や従業員の給料計算は、全て社長が行っている。
一度どう考えても給料の額がおかしかったので友人にそれを話すと社長に伝わったらしく、私は社長に電話でこう怒鳴られたのだ。
「俺が間違うとでも思ってんのか! この馬鹿女! ブッ殺すぞ、テメエ!」私には「殺すぞ」では無く、ご丁寧にブッまで付いていた。(笑)
この時は名誉毀損か侮辱罪で、本気で訴えてやろうかと思ったくらいだ。
私はこのかた、親にも夫にも過去の恋人にも、友人にも、そんな口汚い言葉で罵られた事は一度も無い。こんな言葉を吐くような人間とはそもそも付き合いもない。
おまけに、社長からこんな事まで言われた。
「ママが何て言ってアナタを誘ったか知らないけど、俺はアナタをチーママだなんて思った事は一度も無いからね。アナタみたいな年の人間を誰が使うと思う? ただママが、マキは料理も上手いし客もソコソコ持っているって言うから、仕方なく使ってるだけだよ」だと・・・・・・。
 これにはさすがの私もキレ掛けた。本来ならその場で「ふざけんな! 上等じゃねぇか! こんな店こっちから辞めてやらぁ!」等と啖呵の一つでも切って辞められたらどんなに気分が良かった事だろう。
私の客だけで、多い月は30%近くも売り上げが増加したと言うのに、余りに人を馬鹿にした酷い言葉ではないか・・・。
頭に来て友人に話すと「あの人は、口は悪いけど、腹はそれほど悪い人じゃないのよ。マキの事だってあれで随分心配してるんだから・・・」と苦笑しながら言う。
私は怒りに震え、店の使用人ではなく友人の立場として、再度友人に忠告した。
彼女はきっと、あんな社長でも心底惚れているのだ。そういう気持ちは私にも解らないでもない。私も人の反対を押し切り、今の夫と一緒に居るのだから偉そうな事は言えない。ただ、彼女と違う所は、夫に悪い所があれば、夫との別れも覚悟で相当にきつい事も言う。彼女は社長の悪い部分を知って居ながら、いつも言いなりなのだ。
「惚れた弱みだけに流されていると、行く末とんでもない事になるよ」私は友人にかなりキツイ忠告をした。
それ以来、年下の私に忠告をされた事が気に障ったのか、使用人に苦言されたのが癪だったのか、友人の態度も意地悪な物に変わり始めて来た。
私の客が来ている時でさえ、私をあえて厨房から出せなくしているのかと思うくらいに次から次へと底底意の悪いオーダーの取り方をする。しかも客からの頼みでは無く「私お腹が空いちゃった。オムライス頼んでも良い?」等と自分の食事を作らせるのだ。
【自分で作れよ! このタコ!】心の中でそう思いながらも、私は黙って作った。
以前のように私の客が来れば代わってくれるなどという思いやりは、もう皆無だった。
厨房は任せられる。客は呼んでくれる。給料は格安で使える。店に取って私はさぞかし都合が良いだけの人間だっただろう・・・。
私の中に、以前友人に抱いた不信感が再び蘇って来た。
この人は前もそうだったった・・・。不幸せな状態に居る人の前で、平気で自分の幸せをアピール出来る人なのだ。人を利用し、人を見下し優越感に浸れる類の人間なのだ。それで私は彼女から離れたんじゃないか・・・・・・。元のままだ。
こんな扱いを受けながらも店を辞める事も出来ぬ自分の立場が悔しくて情けなかった。
お金が無いという事が、こんなに人を惨めな気持ちにさせるのが悔しかった。
屈辱に耐えながら半ば意地だけで働いていた頃だった。更に容赦なく追い討ちが掛かるような出来事が起きた。


続く


2006年12月29日(金)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【二足の草鞋】

 私はブティックに勤め始め、一年半が経過していた。
夫は肉屋をリストラされてから約一月後、夫の高校時代の親友の紹介で、再びユニットバスの仕事に就く事が出来た。そこは新規に起こした個人会社らしく、社員は社長と親友と夫の三人だけだった。親友と同じ会社に勤められ、今度こそ心機一転頑張りたいと、夫もかなり張り切って仕事に行き始めたのだ。
一方私も少しでもお金を稼ぎたかったので、昼はブティック、夜は友人のスナックと、二足の草鞋を履き始めた。
友人の店はスナックと言っても、かなり広い店だ。ホステスがテーブルに付いて接客サービスをするという類の店で、形態はミニクラブと殆ど変わらなかった。しかしセット料金は三千円と言う安値らしく、可愛い女の子も居るので、私も勤めた以上は少しでも売り上げに協力したいと思い、極力お客さんを呼ぼうとした。
しかし、その店には社長と呼ばれる友人の彼氏が居て、ホールには滅多に顔は出さぬ物の、毎日厨房に陣取り、仏頂面をし、金(売り上げ)計算ばかりしている。
ママを呼び付けては「○番テーブルの売り上げが少ないから、何かオーダーを注文しろ」だの「女の子にもっとドリンクを飲むように言え」だの「もう直ぐ終わる筈だから、ボトルをガバガバ注げ」だのとママに細かく指示を出している。ママは「ハイ解りました」といとも素直だ。
その男は、ママよりかなり年下なのにママに横柄な口を聞き、ホステスや私の前で、平気でママを怒鳴り付けたりもするのだ。
【何て嫌な奴だろう・・・】私は彼の人格その物に不快感を覚えた。
友人から恋人(社長)が居る事は聞いていたが、まさか彼女が選んだ恋人がこんな気質の持ち主だとは思いもしなかった。
客を客とも思わず、冷酷で、威張り屋で、私が最も敬遠する類の人間だ。
しかし、今この店を辞めてしまったら途端に支払い困難になる。いくら長年の水商売経験者とは言え、この年の人間を使ってくれる夜の仕事など、そうは無いだろう・・・。
私は馬耳東風を決め込み、社長を気にせず、自分が任された仕事だけは文句を言われぬようにちゃんとこなして居れば良いのだ。そう自分に言い聞かせ、様子を見ることにした。
何かが有れば友人に相談すれば良い。友人は私を頼っているのだ。もしかしたら彼氏がこんな人だから、私を心の助人として迎え入れたのかも知れない。そう思った。
「マキの事は絶対に私が悪いようにはしないから、社長の毒舌は気にしないで私を信じて頑張って」彼女もそう言ったではないか。
ただ、私が働く条件として、一つだけは約束して貰う事にした。
私の客からは絶対にボッタくったりはしないよう、それだけは社長にもママにもしっかりと釘を差して置いた。もしも私の客からボッタと事を感じたら、私は客を呼ばないとハッキリ言っておいた。
私は厨房も任されていたので、自分の客が来ると厨房に回ったり客席に出たりと忙しかった。それでも最初の頃は私の客が来れば社長が代わってオーダーを作ってくれたり、ママが代わりに作ってくれたりと、それなりに私に気を使ってくれていた。
そんな形でスタートした夜のバイトだが、やはり社長の事はどうしても好きになれない。
人を食ってると言うか、ひねくれてると言うか、反抗心が旺盛で、元不良だった私から見ても、非社会性人間過ぎるのだ。
 私に集客力の手応えを感じたのか、その店に勤め始めて一ヵ月半が経過した頃、ママから昼間の仕事を辞めて夜だけに絞って欲しいと頼まれた。正式にチーママとして来てくれと。そうすれば給料も上げるし、昼夜仕事をするよりは身体も楽でしょうし、生活も潤うでしょうと言う。
でも社長への不信感や嫌悪感が強かったので躊躇したのだが「私だけを信じてれば良いじゃない。私はマキを悪いようには絶対にしないのだから」と押し切られた。
当時は何しろ収入を増やす事が先決だった。昼間の仕事は立ちっ放しなので腰痛に拍車を掛けたし、身体もその方が楽にはなる。
私は友人の言う通り、ブティックを辞め、夜一本に絞る事にした。
しかし、あれだけ悩んだという事は、きっとぐうたら神が何処かでストップを掛けて居たのかも知れない・・・。
【金よりももっと守るべき物が有るぞ】と、ぐうたら神がモールス信号を送っていたのかも知れない。
一本化した事を、後にとても後悔する事となった。


続く


2006年12月28日(木)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【何か書いてみよう!】

 夫は、私に貯金が全て無くなった時、ようやく重い腰を上げ、仕事探しをし、生肉業の仕事に就いた。個人経営の肉屋だ。
その仕事はハローワークで見付けて来た仕事なのだが、夫は直接肉屋に電話し、ハローワークを通さず入社してしまった。
彼は高校を卒業した後、東京の親類が勤めている青山の肉屋さんで数年間修行した経験を持っている。だから一応は経験者だ。数ヶ月の見習い期間がいるのだが、半年ほどで正社員にして貰えると言う。
夫はあれで中々腕っ節は強い。ヒモなどと書いたのでひ弱で蒼ざめた優男を想像する人も居るだろうが、体形は大男でかなり力持ちだ。
 一方私もいよいよ貯金が無くなり、とあるショッピングセンター内のブティックで店員のパートを始めた。ただ私には若い頃からの持病である腰痛が有り、癌の手術以降、それが悪化していた。それでも二人で働かない事にはもうどうしようもなくなっていたので仕方が無い。
やる以上は頑張ろう・・・。そんな気持ちで勤め始めた。 
 二人が仕事に就く前、かなりすったもんだの喧嘩をした。どんどんお金が無くなっていると言うのに、何時までも悠長に構え続けている夫に私は我慢出来なくなった。
私に一銭たりともお金の残っている内は、きっと夫が仕事はしてくれないのだと思い、最後の貯金を全て叩き、私は半ばヤケクソでいじったこともないパソコンセットなる物を購入したのだ。しかし、それにはある目的が有った。
 ある日、ふと本屋で目にした公募物の月刊誌で、ドキュメントエッセイの原稿を募集していたのだ。大賞賞金は百万円。
それを見ていたら、何故だかやたらに文章が書いてみたくなった。
遺書のつもりでこのシッチャカメッチャカな生き様を書きつらね、応募してみたいと思ったのだ。もしもそれがボツになったら、私は死ぬしかないくらいにまでスッカラカンになってしまっていた。
一か八か、書く事に賭けてみよう・・・。
 とは言う物の、私はまともな文章など書いた経験など無い。小学校の作文とて三行書ければ良い方だった。国語の成績もずっと2だった。でも、私に出来そうな事は他にはもう何も無い。
中卒で、病み上がりで、何の才能も無く、極度の腰痛持ちの年増女に出来る仕事など知れている。
ブティック勤務も会社の内情を知れば知るほど働く事に虚しさを感じていた頃だった。
ただ、もし死ぬとしても、何かの可能性にチャレンジしてからでも遅くない。そう思った。
 いよいよパソコンが届けられ、私は恐る恐るキーを打ち始めたて見た。たどたどしく一本指で、あ・・・い・・・う・・・と言う具合に。
【これじゃ応募用の原稿が書きあがる前に乾びてしまう・・・】
 ふと取扱説明書を見ると、そのパソコンに、音声認識ソフトと言う便利な物が入っていた。
言葉で喋ればそれが文字となって勝手に出て来てくれるのだ。これは便利とばかり使い始めては見たのだが、私の発音が変てこりんなのか、ソフトがアホなのか、変な変換ばかりで出てくる。
 当初手始めに、原稿用紙十枚ほどの短いエッセイにでも挑戦してみようと、シリアスな闘病記か何かを書いていた。
しかし「慣れ親しんだ病室に」と言ったつもりが、出て来る文字は【値上げして死んだ病室に】となっているし「子宮摘出手術」と言ったつもりが【至急的主張術】などと出てくるし(どんな出張術なのだ!)「止むに止まれぬ心境だった」などは【ジャムにマーマレードの宗教だった】などと、訳の解らない文字となって出て来る。
一番酷かったのは「目の当たりに感じた私は」が【マンの辺りに感じた私は】などと出てき「朝っぱらから何てぇこった!」と、私は一人でゲラゲラ笑い転げてしまった。
これじゃ使い物にならぬと、音声認識ソフトは諦め、キーボードを練習する為、思い切ってパソコンをネットに繋げチャットなる物を始めてみたのだ。
 昼は腰痛に嘆きながらも何とかパートを勤め、夜になるとキーボードをコツコツ打つ。それが私の毎日の日課になった。
 夫も偶に痛風の発作には悩まされていた物の、肉屋では真面目に働いてくれていた。
 私は公募誌を毎月買うようになり、短いエッセイやポエムなどの募集を見付ては応募するという日々が続く。
 そして書き始めて3ヶ月が経った頃、ついに私は生まれて初めてエッセイで入賞し、佳作だったが、賞金五千円と言う現金を手にしたのだ。
文字数規定は原稿用紙僅か一枚分と言う短い物だったが、応募要項は桜にちなんだエピソードの手紙文を大切な人に贈ると言う物だった。そこで私は、花見の大好きだった亡き母に宛て、その短い手紙文を書いたのだ。それが初入選した。
この時は涙が出たほど嬉しかった・・・。
今でもその時の五千円は大切にアルバムに貼ってある。
その他には私のポエムが一度ラジオで紹介されたらしい。しかし放送地域が違うので残念ながら聞く事は出来なかった。
 後は泣かず飛ばずで、こんな生活が一年半ほど続き、何とかギリギリの状態で暮らしていたのだが、ぐうたら神はとても底意地が悪く、又崖っぷちから突き落とされた。
 丁度日本に初めて国内で狂牛病が見付かり、日本中が震撼させられていた頃だ。狂牛病騒ぎでの業績赤字を理由に、突然夫は肉屋をリストラされてしまったのだ。しかもバイト扱いのままだったので退職金も何の保証も無かった。
痛風が起きようが、何時までも正社員にして貰えなかろうが、お金にならぬ残業ばかりさせられていようが、経営者の質が悪かろうが、ずっとずっと我慢をさせ、二年間も辛抱させて来たのに・・・・・・。
結局夫は安い賃金で良いように使われただけである。
 この辺りから私達は再び多重債務に追われる生活が始まった。
 私のパートだけでは家賃と光熱費で精一杯だ。食費や生活費や返済金まではとても出ない。
夫の次の仕事が見付かるまでの生活費や返済金は、再びサラ金から工面するしかなかった。
土地も家も何の財産も持たぬ二人には、安い利息の銀行では生活費も借りられないのだ。
 ある日私は行きつけのスーパーで昔とても親しかった友人にバッタリ行き会った。母が店を始めた時代からの友達で、昔は互いの家に泊り合ったり、旅行に出掛けたり、一緒に教習所に通ったりと、親友のような付き合いをしていた友達だ。でもその後、ある出来事で失望し、私は彼女とは十数年も疎遠のままになっていた。しかし、久振りで会う彼女は仲良しの頃と変わらぬ親しみ感で話しかけてき、懐かしく、一連の出来事は私の中から瞬時に消滅した。
そして彼女に誘われ、後日二人で改めて食事に行ったのだ。
彼女は駅前でスナックを経営しているらしく、人手が足りないのだと言う。そして私に彼女の店を手伝ってくれないか? と言うのだ。
昼間働いている事を言うと、昼間の仕事をしながら、週に三日でも四日でも良いから来て欲しいと言われた。
私が料理好きな事も知っているし、長年店を経営していたので、多少の客は呼べるだろうという目論見も有ったのだろう。なので自分が留守の時でも、安心して任せられるチーママ的な存在が必要なので、是が非でも私に手伝って欲しいと言う。
私も何とか今よりも収入を増やしたいと思っていたので、私に取って見れば願ってもいない事だった。そして私は二つ返事でOKし、夜のバイトも始めたのだ。
しかし、この辺りから私達の人生は再び歯車が狂い初め、惨憺たる物になっていく。


続く


2006年12月27日(水)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


第五章 再び借金地獄の前兆現る。
【西暦2000年到来】

 退院後、クリスマスは夫と二人だけで瀟洒なレストランバーに出掛け、ロマンチックで美味しくステキな夜を過ごした。
諏訪で彼女と過ごすと言っていた息子には奮発し、ノートパソコンをプレゼントした。
そして正月こそは、私の快気祝いを兼ね、西暦2000年と言う、正に歴史的にも記念すべき年なので、何時までも心に残るような正月にしようと内心ワクワクしていた。
 新年は息子も松本で迎えると言うので、暮には皆で正月用の買出しに行き、少し奮発し、しめ飾りや豪勢な食材を買い揃えた。
 正月の準備にお金の心配が過ぎらなかったのは、きっとこの年が最初で最後ではなかっただろうか・・・・・・。
 まだまだこの時期はお金に余裕もあり、私の癌以降、まともな仕事をしていなかった夫の事も【早く仕事を探してくれよ】とは感じていたが、然程深刻ではなかった。
私も夫も性格的に、あまりお金に執着心が無い。二人とも一緒に居られれば楽しく、後先の事は余り考えていなかった。
ギャンブル人生と言うか、ケセラセラ人生と言うか、無計画人生と言うか、本当にしょうがない物である。
気持ちの中では【こんな事をしていては、又あの地獄が来る】と恐れては居るのだが、まだ焦らなくても良いか・・・。まだまだ余裕は有るんだし・・・。と、タカをくくっていた。
無論、夫だって新年が明ければ本格的な定職に着いてくれると思っていたので、少しは貯金も残せるつもりで居たのだ。
いよいよ新年を向かえ、友人達も招待し、愉しく賑やかな正月を迎えた。が、正月が終わっても夫は口先ばかりで一向に仕事を探そうともせず、私と一緒の時間を惜しむかのように常に私に寄り添っているだけだった。
一緒に起き、一緒にTVを見、一緒にご飯を食べ、一緒にゲームをし、時たま一緒に出掛け、夜食を食べ、ふざけ合って一日が終わる・・・。いつもかつも金魚の糞のように、私達は一緒に居た。
何時まで経ってもそんな夫に、私は我慢の緒が切れ、再び仕事の事での喧嘩が始まる。
 どうしてこの人は、お金に対し危機感と言うものを全く感じてくれない人なのだろう。
何故お金がとことん無くなってしまうまで働こうとはしてくれないのだろう。
これじゃまるでヒモだよ・・・。
夫は私にお金が有れば私のお金で暮らせば良いし、夫にお金が有ればそれで暮らせば良いと思っている。イヨイヨ無くなったら無くなったで、つつましい生活をすれば良い。そんな考え方なのだ。どちらかの物は全て二人の物なのだ。なのでドラマに出てくるほどの悪質で悪どいヒモでもない。所謂、単なる怠け者なヒモなのだ。
夫が仕事をしている時は、私に給料袋をそっくり渡し、決して小遣いも欲しがらない。
お金を勝手に持ち出し、自分の物を買って来るとか、友人と飲みに行くとか、そんな事も一切しない。タバコすら一人では買いに行くのが億劫な、そんなものぐさ人間なのだ。
ともかく私と一緒に居れさえすれば、後はどうでも良いらしい。
別に一緒に居るからと言って、ベタベタイチャイチャしている訳でもなく、扱下ろし合い、サッパリした仲なのだが、再びあの悪夢のような生活が訪れると言う不安を何処かに追いやりながら、もう少しこのままで居るのも良いか・・・などとついつい流されてしまう。
 私は何故こんなにも夫と居る時間が好きなのだろう・・・。夫と居ると気楽に安らげる。
夫も兄弟が多く、子供時分は親が共稼ぎだった為親に甘え切れて居なかったのだろう。
きっと互いに子供の頃に子供らしく居られなかった分、今、互いの存在に甘え、子供時代を取り戻している気になって居るのかも知れない。
私達はもしかしたらAC(アダルトチルドレン)で、共依存なのかも・・・。そう思う事がある。 
私自身の身を削り作った誰はばからぬお金。それを自分達の為に使い果たしてしまっても悔はない。それが無くなれば今度は夫が助けてくれるに決まっている。もしもどうしようもなくなったら、人知れず手を繋いだまま二人で干乾びてしまえば良い・・・。
 どうせ私は近々癌が再発し、やがては天に召される。今は息子と夫との楽しい時間だけを優先し、私が天に召された後は、夫と息子には保険金が僅かに残る。それを二人で分け合い、その後の人生は何とか上手くやって行くだろう・・・。そう思っていた。
しかしそんな生易しいセンチメンタルなシナリオ通りに事は運んでくれなかった。
私は癌がすっかり治ってしまい、その後も元気なままで、いくら待っても癌の再発は起こりそうも無く、清らかな死も訪れる事は無く、とんだ計算違いをした為、以前よりももっと苦しく救いようの無い、借金地獄に落ちる事になって行くのだ。


続く


2006年12月26日(火)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【抗がん剤治療&スモーキーズ】

 いよいよチョッピリ不安だった抗がん剤の点滴治療が始まった。
それは朝から開始され、夜まで費やし、一日がかりで四〜五本ほどの点滴を打つと言う物なのだ。
その点滴類には、毒々しい色が付いている。
まるで子供の頃の飯事(ままごと)で、色紙を水に浸して作ったジュースみたいだ。赤あり青あり、黄色あり。その中には吐き気止めや、その他の点滴も含まれているだろうから、どれが抗がん剤だったのかは良く判らないが、多分赤いのと紫が抗がん剤だろう。いかにも毒薬的な色だもの。
皮膚に垂れると皮膚が腐ると言う物が自分の身体の中に入って行くのだ。考えただけでも空恐ろしい。人間の身体の内部って物凄く頑丈な物なんだなぁ・・・。
私は癌を扱った様々なドラマのシーン等を思い浮かべ、内心憂鬱で不安だった。
私は血管が細くて出難い。途中で点滴が落ち難くなったり、腕がパンパンに腫上がったりと、治療中多少の困難はあった。しかし何とか無事にクリアした。
夜になり、点滴から開放されれば、後は二週間ほど治療後の数値を見る為の静養期があるだけだ。
そして結果オーライならば二週間ほど家に帰れ、自由な時を過ごせる。そして又、抗がん剤治療の為に入院するという工程を数回繰り返すのだ。
いよいよドラマに出てくる猛烈な吐き気や脱毛に襲われる頃だろう・・・。もう直ぐか、何時なのか・・・。
しかし思いの外、大した吐き気も起こらず、多少の食欲減退は起きた物の、私は今まで通り普通に食堂に出掛けては、蕎麦や寿司やビーフシチュウなどをパクついていた。
夫や息子は見舞いに来ては「相変わらずいつ行っても部屋に居ないし・・・。お前さんは他の患者から比べると、すこぶる元気だなぁ」と、半ば呆れていた。

 当時の大学病院には病棟内にも数箇所ほど喫煙所があり、ヘビースモーカーの私はそこの大常連だった。看護婦や家族等も、私が病室に居なければそこに居ると判断し、迎えに来る。それは暗黙の了解だった。 
酷い時には抗がん剤の点滴をぶら下げてまでタバコを吸いに行ったものだ。
喫煙所にはベンチソファーとテーブルが有り、ジュースの自動販売機などが置かれている。
 常に顔を揃えるメンバーは十人ほどで、大体は顔ぶれが決まっており、食事時間が終わると各病棟からゾロゾロと人が集まって来るのだ。
皆、病気や状態はそれぞれ違うのだが、大学病院に入院しているくらいなので深刻な病気を抱えている人が多い。
でも、そこに集まる人々は、一様に明るくフレンドリーで、皆、誰もが直ぐに仲良しになった。
そんなメンバー達を私は自分で勝手に【スモーキーズ】と名付けていた。
スモーキーズ達は当時、ちょっとした家族のような存在だった。
 その中に毎回一緒になる若い男の子が居て、彼は世界でも珍しいと言われる腸の難病を抱えていた。一定の時期が来ると口からは一切物を入れられない。そして治療の方法もまだ今の医学では定かではないと言う難病なのだ。
彼は点滴で栄養分を採り、鼻の管から液体の栄養ジュースを採るのだ。自分でそのジュースを調合したりも出来るのだそうだ。
「今日のジュースはイチゴ味なんですよ」とか「今日は葡萄味だけどまずくてね」等と笑っている。
「鼻から入れるのに味が判るの?」と聞くと、「味と言うよりも微かに香りがするんで、昔味じわった感覚を思い出すという感じかなぁ?」等と笑いながら教えてくれるのだ。
そんな辛い病気にも拘らず、彼はとても無邪気で明るい。彼は常にジョークを言い、皆を笑わせている。彼は人気者で皆に可愛がられていた。
 他にも常連スモーキーズの中には肺癌で、余命二ヶ月と宣告された爺ちゃん患者や、極度の拒食症で身長が百六十センチも有りながら、体重が三十キロにも満たない若い女性やら、三度も四度も癌が再発し、入退院を繰り返している患者やら、怪我でミイラのように全身を包帯でグルグル巻きにされた人やら、私の婦人科と同病棟の小児科に、娘が白血病で入院していると言う、付き添いの若い母親等、様々な人が居た。
皆の話を聴くと、癌の私が軽症なほどだ。
スモーキーズ達は皆、命に限界が有るという不安を抱えながらも、じたばたする訳でも無く、悲観する訳でもなく、大きな覚悟を胸に、少しでも好きな事をし、自分らしく生きようと言う健気な人間ばかりだ。
そして日を追う毎に気を許せる人々の集まりだと感じるせいか、皆、自分が経験してきた人生のドラマや失敗談等、包み隠さず奥の深い話まで話してくれるのだ。
 そんな彼等を見ていると、胸が張り裂けそうになるほど堪らない親しみを感じた。
命に関わる大きな修羅場を体験した人々の一種の誇りや尊厳。本当の意味での寛大さや優しさ、人間味に触れる事が出来、私は病院内で【喫煙所】と言う病院には似つかわしくない俗物的なその場こそが、神聖な懺悔室のような気がして感動を覚える事が多かった。
 何時も揃うメンバーが暫く来なかったりすると、皆、本気になって心配した。
久々の患者が再び顔を出し「いやぁ、借り出所(仮退院)して、久々に家に帰って来たんだよ」などと聞くと、一様に皆、ホッ! と胸を撫で下ろした物だった。
それでも肺癌の爺ちゃんだけは、ある日を境に来なくなり、そして二度と現れる事は無かった。
どうやらあの爺ちゃんは、タバコも何も必要としない永遠の楽園に一足先に旅立ったようだ・・・・・・。 
 抗がん剤から四日程経った頃、TVドラマよろしく髪の毛が抜け始めて来た。が、しかし、私の場合は、あんな風にお岩さんみたいにごっそり抜けると言う訳でもなく、毎日毎日少しずつ抜け、徐々に薄くなる程度だった。
やはりドラマは少し大げさに出来ている。
そして私の場合、最後までツルツルになってしまう事も無く、まばらに薄くなった。
息子と夫は私の頭を見るなり、ヒナ鳥みたいで可愛いと腹を抱えて笑いやがった。
「お前ら、笑い過ぎだよ!」
「わぁ〜い♪ わぁ〜い♪ ピヨッパゲェ」二人は、容赦無く私をからかう。
その日を境に、二人で私を「ピヨちゃん」「ピヨちゃん」と呼ぶようになった。
【こん畜生メ! テメエラ覚えてやがれ!】
でも、二人に言わせると、何故かその禿具合がとても可愛く、似合うらしい。
ドレドレ? と鏡を見ると、自分でも本当に可愛くて似合うじゃん! と思ってしまった。
 私は二度目の入院の頃から、息子が世話になっている(Y)さんに紹介されたアガリクスと言う茸の煎じ汁を飲んでいたのだが、そのお陰か、抗がん剤の副作用もあまり無く、治療後の白血球やらその他の数値もすこぶる良好で、その後の毎回の退院も入院も、全て予定通りに難なくクリアする事が出来た。
抗がん剤治療も予定より早く終わらせる事が出来、治療期間は半年間に短縮され、私は全ての工程を無事に通過した。
そして癌発覚から約九ヶ月の月日を経て、一九九九年のクリスマス直前、私はいよいよ長い長い闘病生活から開放され、晴れて完全退院する事になった。


続く


2006年12月25日(月)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【膀胱訓練】

 私は入院中、すこぶる優等生患者だった。
術後の翌日には歩行器を使い、もう院内をソロリソロリと歩く事も出来るようになった。
若い担当看護婦が自慢げに「この患者さん手術から、まだ二日目ですよ。凄いでしょう。皆さんも見習って頑張ってくださいね」と、行く人行く人に告げていた。
私の身体はフランケンシュタインの様に管だらけだ。オシッコを取る袋。ドレーン。心電図・点滴。その他の管で訳がわからない。そんな自分の姿を見、哀れっぽくて痛々しくて、ドラマチックだなぁ・・・・などと満更でもない気分だった。
子供の頃、人の関心を集めたく、目も悪く無いのに眼帯をしたり、チョットの擦り傷でも包帯をグルグル巻きにしていたような大げさな子供だった。なのでチョット嬉しい。
 術後の経過は大変順調で、一週間ほどで大部屋に移されたのだが、暫く大部屋に居る内、私はやはり個室が良くなり、入院費が高くなるのを覚悟で個室に入れて貰い直したのだ。
 私には見舞いに来る友人も多く、同室の人も落ち着かないだろうし、母が入院していた頃から大部屋の雰囲気は何となく苦手だった。
 見舞い客などが、他のベッドの患者にも気を使い、お菓子やら饅頭やら、果ては自分が作ったと言う惣菜などまでを分けてくれるのだが、それが患者にとって結構苦痛でもあるのだ。いささかありがた迷惑なのである。
私は甘い物を殆ど好まない。引き出しには貰い物のお菓子や果物が溢れ、それを捨てに行くのも心苦しく気を使うのだ。食べたフリをし、適当な感想を言い、たまにはお返しもしなければならない。他の患者の見舞い客にお返しをする為、わざわざ自分が食べもしないお菓子を買いに行ったりもした。
 お見舞いの品は花と果物とお菓子と大体相場は決まっているが、癌患者の中には抗がん剤が始まっていて、食べ物や花の僅かな臭いだけで吐き気が止まらなくなる人も居る。なので私の場合、テレフォンカードやTVのカード。読みたかった本やミニチュアのゲーム。お洒落なバンダナや下着などをお見舞いに持ってきてくれる人に出会うと、さすがぁ、入院患者の心理を良く判っている人だなぁ・・・などと嬉しくなった物だ。
 サテサテ、一つ二つと、管も外され、完全に管から開放された後、術後の難関に膀胱訓練と言うものがある。
子宮の全摘手術の場合、膀胱近くの神経が刺激される為、神経が馬鹿になり、一時期尿意を感じられなくなってしまう現象が起こるのだ。
所謂あの「ああ、オシッコしたいよ。もれちゃうよ〜」的な、膀胱キュンキュンモジモジ感が全く無くなる時期がある。
膀胱にはかなりのオシッコが溜まっているはずなのに、今までオシッコってどうやって出してたんだっけ? と言う感じなのだ。
そのまま感覚が戻らなければ、やむなくオムツ生活になるか、自ら管を使った導尿生活になる。
あの頃、同じ時期に手術を受けた婦人科患者達の合言葉は「オシッコ出せた?」だった。
早い人で二ヶ月ほど、遅い人になると半年くらいは普通にオシッコが出せないみたいだ。その感覚を取り戻すため、膀胱訓練と言う体操や膣の凝縮訓練などをする。私は難関をクリアした先輩患者達からコツを教えてもらったりした。
トイレでやたら踏ん張ってもオシッコは全然出て来ない。水の流れる音などを聞きながら、膀胱から尿道へオシッコが通り抜ける感覚をイメージし、その時の感触を思い出すのだ。踏ん張ってみたり、膣を引っ込めて見たり、試行錯誤をしている内にその感覚が鮮明に蘇って来た。
一度自力で出せさえすれば、後はスムーズに出るようになる。私は一ヶ月足らずで、無事にその感覚を蘇らせたのだ。
そして術後三ヶ月ほどで、オシッコしたいモジモジ感も自然に蘇って来た。
その時の猛訓練のお陰で、私は膣の締りも大変良くなったみたいだ。(笑)
サテサテ、膀胱訓練は難なくクリアしたのだが、今度は極度の便秘に長い間悩まされた。私は今まで便秘をした事は一度も無い。この時が生まれて初めての便秘経験だった。
便秘と言うものがこれ程苦しく、辛い物だったとは想像も出来なかった。
一時間もトイレから出られず「いい加減に出てよ〜。頼むから出てよ〜。お願いだから出てよ〜」と独り言を言い、やっと用を足し、トイレから出た時、あまり見知らぬ見舞い客が椅子に座って待っていた時は、どうしようかと思った。
 人間の身体って、無駄な物は何一つ無いんだなぁ・・・。何かが抜けると、他の機能までが調子を狂わせる。神様って人間の体を作り上げる為、かなり緻密な設計をした物なんだと感心する。
病気になるとそんなありがたみを感じさせられ、病気も満更悪い事ばかりではない。
 私は個室に居たので自由な時間が多かった。
自由に動き回れるようになると、抗がん剤治療が始まるまでは特に何もする事も無く、退屈だ。なので私は良く部屋を脱走した。
「アナタは殆ど部屋に居た事が無いんだから・・・」と担当看護婦に良く苦笑された物だ。
メモ帳にどこそこに居ますと言うメモだけを残し、病室を抜け出しちゃう。
こんな不良患者でも仲良しになってくれる看護婦が多く、何かとあれば私の病室に遊びに来、愚痴をこぼしたり恋人の話などの雑談をして帰る若い看護婦なども居た。
婦人科に、私が特別仲良しだった医師が居て、その先生などは暇さえあれば深夜と言えど、しょっちゅう顔を覗かせてくれる。
「此処に酒とカラオケ持ち込むか!」
「良いアイデアね。此処で商売しちゃったりして・・・。患者達だって退屈だろうし、本物の店より繁盛しちゃったりして♪」などとジョークを言っては笑い合っていたので、○×さんの病室は何時も夜中が賑やかね。などと他の患者に皮肉を言われた。
 他の入院患者に比べ、知人が院内に多いと言う事は何て恵まれている事だろう・・・。
知人も居なく、話相手も居なく、見舞い客も少なく、孤独や病気への不安と一人で戦っている患者が多い中、私は自分の置かれた立場を心から感謝した。
私は幸せ者だ・・・。つくづくそう思った。
今は知らぬが、当時はまだ病棟にソーシャルワーカーなど居なかった。患者は医師や看護婦に聞きたい事や話したい事が山ほどあっても、事務的な応対などを受けると、次からは遠慮して聞けなくなる物なのだ。それらに対する愚痴もあるだろう。心の不安や病気の不安を、本音で思い切り話せる人が居たら、患者は随分と気が楽になり、入院生活の苦痛も減るのではないかと思う。
なのでその点、私には沢山のカウンセラー的存在が居てくれて本当に幸せ者だった。
サテサテ、不良患者の私は相変わらず病室には納まっておらず、地下の喫茶室・食堂・十階のラウンジレストラン・売店・喫煙所などに出没している事が多かった。
病院食はまずく(失礼!)食べたくない物も多く、その割に結構な値段なので、食事制限などが無い私は入院中の食事は取っていなかった。それに昔からの習慣で一日二食食べれば十分だった。
私は院内の食事処で好きな時間に好きな物を食べて居た。
 もう直ぐ抗がん剤が始まる。そうなれば暫くは食べられない日が続くだろう。今の内に栄養を付けておかなきゃね。


続く


2006年12月21日(木)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【手術日の、とある事件】

 二度目の入院では、約8ヶ月の治療スケジュールが組まれていた。かなりロングランの闘病生活になる。
再入院の日、私が婦人科病棟に戻ると、前回同室だったメンバー達が不思議そうな顔をして出迎えてくれた。
「あらあら? 折角退院したのに一体どうしちゃったって言うの?」
「カクカクシカジカドウコウで・・・、出戻ってまいりました。これでやっと皆と同じ立場になれるわ。又仲良くしてくださいね♪」
 皆、嬉しいような、懐かしいような、かと言って再会を素直に喜んではいけないと言う、遠慮っぽい複雑な笑顔で迎えてくれたが、同じ工程をこれから歩で行くと言う仲間意識が生まれ、彼女達との友情や絆は以前より深まったような気がする。
共通の痛みと恐怖感を共有できる戦友のような間柄。一生涯の友人になり得る人々だ。
私の手術は一九九九年の七の月に行われる事になった。何とノストラダムスの大予言の月と同じだ。私は自分の手術日の事は一生忘れなくて済む事だろう・・・。
 先ずは検査のみの日が数日続き、そしていよいよ大手術の日を迎える。その後、術後の経過を見て、抗がん剤治療へと移行する。
コバルト照射がない分、私は救われた。
抗がん剤を打った後は安静が必要で、二週間ほど入院し、その後検査をし、白血球やその他の数値が正常ならば、やはり二週間ほど家に帰れる。その工程を4〜5回繰り返すらしい。なので通算八ヵ月くらいの長い長い治療期間を要する訳だ。

 信大病院は母が入院していた病院でもある。院内の構造は熟知していた。母の店にも私の店にも信大関係のお客は多く、医師・職員・学生等、顔見知りが一杯居る。
その中でも一際仲良しな、母の店からの大常連で、母を含め殆ど身内のような付き合いをしてきた(K)と言う男性職員が居る。
彼は私よりも一つ年下で、彼が母の店に来出したのはまだ彼が二十四〜五歳の頃だった。多分当時は大学の職員になったばかりだろう。彼は大変人懐っこくサバけた性格だ。
母も又、学生や若い常連客からは【松本の母ちゃん的存在】と慕われていたので、母の家に行くとチャッカリ彼等がご飯を食べているなどと言う場面にも良く出くわした。
私と(K)は母を通じて知り合い、互いに恋愛感情こそ一度も抱いた事は無かったが、扱下ろし合える従兄妹関係の様に接して来た。
二人が余りに親しげな毒舌会話を交わしているものだから、夫は真っ先に(K)との関係を疑ったほどだった。
私が入院していた頃には夫の誤解もすっかり解けた後だったので、夫も彼の存在をとても頼りに有難く思っていたのだが、夫と付き合い始めた当時は完璧に(K)との仲を疑っていた。
それは今でも笑い話として引っ張り出され、夫は未だ(K)にからかわれている。
 彼は母の時も私の時も、常に病室に顔を覗かせてくれ、からかうような励ますような、愉しい憎まれ口を叩き、場を和ませては職場に戻って行く。色々な手続き等も懸命に手伝ってくれた。
揚げ足取りだけど憎めず、本当に気の良い人間なのだ。
病院内に彼のような知り合いが居てくれる事は、心細い入院患者の立場から見たら、大変心強く、嬉しい貴重な存在だ。

 サテサテ、いよいよ私は手術の日を迎えた。
手術は結構大掛かりなものらしく、八時間ほど掛かると言う事だった。
この日、私が麻酔で夢うつつの頃、実は又々大変な事態が起きていたらしい。
私は手術前、夫と息子を呼び出し神妙な顔をしてこう告げておいたのだ。
「ドラマや何かで良く有る話なんだけど・・・。もしもお腹を開いて見て手の施しようもなく手遅れの状態だった場合、きっと手術から一時間ぐらいで家族が呼ばれ、このまま手術を続行しますか? それとも閉じるだけにしますか? と、聞かれると思うのよ・・・。そしたら迷わずそのまま閉じてくださいって言ってね。それなら無駄に弄繰り回されずに済むし、傷も浅く一週間ほどで退院出来るからね。間違っても『気休めでも構わないから手術を続行してください』何て事、絶対に言わないでよね」そう念を押しておいた。
 そしていよいよ私は、息子・夫・(K)等に手を握られ、励まされ、ドラマさながら手術室へと入って行ったのだ。
 夫達はこれからの八時間ほどの時間をどうやって過ごそうかと地下の喫茶室でお茶を飲みながら相談していたと言う。
そして私が手術室に入って丁度一時間あたりが経過した頃、全館放送で(○×△□様のご家族の方、○×△□様のご家族の方、いらっしゃいましたら婦人科ナースステーションまで至急おいでください)と言うアナウンスが流れたそうだ。
誰しも耳を疑がい、しかし、放送されたのは紛れも無く私の名前だったと言う。
時間的に見ても、状況から見ても、彼等の脳裏には瞬時に最悪の事態が浮んだみたいだ。
「やっぱ手遅れだったか!」
皆一様に互いの顔を凝視し合ったと言う。
夫と息子は生きた心地がせず、ナースステーションに向かう足が縺れたと言う。
そして恐る恐るナースステーションにたどり着くと、困惑顔の婦長からこう言われたそうだ。
「あのぉ・・・、他の承諾書は全て揃っているのですが、一番肝心な手術の承諾書だけが何故か提出されておらず、麻酔までは掛け終わっているのですが、手術藩がメスを握れずに困ってしまっているんです・・・。なので至急手術の承諾書に記入、捺印お願いします」
 息子は思わず失禁しそうになり、(K)はコケ、夫などはワナワナと手が震え、承諾書の文字も書けぬほどの取り乱し振りだったようだ。
後に解ったのだが、手術の承諾書は私がハンドバックに仕舞い込んだまま忘れていた。
 手術が再開され、無事に九時間が経過し、手術室からVサインで戻って来た私の顔を見るなり、皆に異口同音で文句を言われた。
「お前さんは本当にぃ・・・・・・。いつだって必ず、何かしら仕出かしてくれるわ!」
「ん? 何かあった?」
「何かあった? じゃなよ! まったくぅ」
その一連の出来事を聞いた途端、術後の痛みと可笑しさに、身を捩りながら笑い泣きした。
「皆どんなに心配したと思ってるんだよ!」泣きながら私の顔を覗き込む息子の顔を見て、私はとても嬉しかった・・・・・・。


続く


2006年12月20日(水)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【全摘手術&フルコース】

 診察室で待っていたのは担当医の(T)と(K)教授だった。夫は死刑宣告を受ける囚人のような面持ちで堅く眼を閉じ、私と並んで椅子に腰掛けていた。
一呼吸置いてから(T)が説明し始めた。
「実はママの癌はもっと小さいと思っていたので、前回の手術で完全に取りきれる物だとばかり思ってたんだけど・・・、全然ダメだったのよ。思いの他癌が大きくて、円錐形に切り取った部分の殆どが癌だったんだわ・・・。増してや少し気になるのは、ママの場合、血液中にもポツリポツリと癌細胞が混ざっていてね・・・。なので#$△◎ё★Й□×・・・・・・」
 私はこの時、不謹慎ながらも(T)の話には上の空で【これで癌保険の保険金はちゃんと下りる】そう確信し内心は喜んでいたのだ。
夫は蒼ざめ、もう死刑宣告されたような面持ちだ。
「・・・それで、もう一度再手術をしなければならないんだけど、出頭は(K)教授が担当してくれます。手術形態は、子宮の全摘手術と、卵巣も全摘。リンパの一部も切除。そして抗癌剤もやらなければならない・・・。所謂フルコースと言う訳だ。ママ、フルコース大好きでしょう? アハハハハ・・・・・・」
(T)の目一杯の気遣いジョークが不気味だ。
彼の説明によると(K)教授は日本では三本指に入るほどの子宮ガンの権医だそうで、そんな人に手術を出頭して貰えるなんて、とても私は幸運な事だと言う。
「まぁ、私はまな板の鯉ですもの。寿命は神のみぞ知るものだから、言われる通りにお任せし、命預けますよ」と、私は案外スッキリした物だった。
「それで・・・、フルコース終了後の五年生存率はどれくらいなの?」
「う・・・・・ん、六十%位かな・・・」
「約五分五分かぁ・・・」
 この時正直、命の終わりも考えなかった訳ではない。死ぬのは怖かった。幾人も癌で見送っている経験上、母の最期の頃の姿や、自分が末期の癌に喘いでいる姿なども頭に浮かび、センチメンタルな気持ちになった。
でも癌になった以上、じたばた騒いでも喚いても、成るようにしか成らないのだ。楽しい事のみを考え、運を天に任せるしかない。
ならば余計に、折角ぐうたら神様が与えてくれた持参金付休暇だもの、身体を動かせる内に余生を思い切り楽しんで過ごそうじゃないか・・・。そんな気分だった。
「再入院まで一ヶ月くらい間を置くから、旅行にでも行って楽しんで来れば良いよ」先生のその言葉が、尚更命の終わりを物語っているような気がし「う、うん・・・、そうだね。アハハ・・・ハハ・・・」私は不器用に笑った。
 家に戻り、夫と二人、終始無言の時を迎える。様々な思いが過ぎり不覚にも涙が落ちる。
「考え込んだって、後悔したって始まらないんだから仕方ないわ。今更可愛そうな事をして来たなんて思ったって遅いわよ。良いじゃん? 私の癌のお陰で仮にも大金が入る訳だから? 思い切り余生を楽しんで私は安らかに天に召されるよ」
夫はどう返事をしてよいのか判らず、ただただ頭を垂れ、涙ぐんでいる。
 後日諏訪から息子を呼び寄せ、診察の報告をし、家族会議を開いた。
そして今度こそ三人で思い切り愉しい旅行をしようと言う事になり、私達は旅行先を神戸に選んだ。
「金に糸目は付けないから、思い切り贅沢に遊んでこようよ♪」
 皆の不安を他所に、私は一人ではしゃいでいた。
 過去二度ほど、一泊でスキー旅行くらいはした事もあるが、常にお金の心配が付き纏ったケチケチ旅行だった。なのでこの時の神戸旅行が私達三人の最も贅沢で豪華な旅行と言えよう。
最初で最後の一家団欒旅行。最初で最後のリッチな家族旅行。私は思い切り楽しむつもりで居た。

 常にお金に怯えた生活をしていると、新幹線に乗るだけでも嬉しい物なのだ。出張などであちらこちらに行かされ、鉄道移動や飛行機移動にうんざりしている人の話を聞いていてさえも、羨ましいと思っていた。
私達三人は童心に返り、旅行中はしゃぎまくった。
普通、旅行と言うと片田舎の温泉地にでも行くのだろうが、私は東京生まれの都会っ子。やはり都会的な洗練された雰囲気や、夜の喧騒が懐かしく恋しいのだ。旅行先に選ぶのは、どこも派手やかで、賑やかな場所ばかりだ。
 神戸では最高級のステーキを初め、中華街やフランス料理店、有名なイタリアンなどに足を運び、食いしん坊な私達はやはりグルメに一番の重点を置いてしまう。
その他には異人館を見学したり、遊園地などにも足を運び、やはりナイトクルーズなども楽しんだ。
当時まだ十八歳だった息子も一緒にjazzのライブバーに連れて行き、あの独特な素晴らしい雰囲気を教えてあげた。息子もJazzバーの雰囲気は大層気に入ったらしく、さすが私の息子だ。ノリノリで聴いている。
息子と夫がリズムを刻み、同方向に揺れている姿を見ながら、私は心の底から、
【今、私は最高に幸せだ・・・】と感じていた。
私はこの時初めて、私を癌にしてくれた事をぐうたら神に感謝した。
こんな時間をもっともっと三人で沢山持ちたかった・・・。このまま時が止まってしまえば良いのに・・・。 私は心の中でそう呟いていた。
何時だって、辛い事に耐えている時間は永過ぎるほど永く感じるものなのに、愉しい時間はアッと言う間に過ぎてしまう・・・・・・。
 最高に愉しかった四泊五日の神戸旅行は、瞬く間に終わってしまい、私達は後ろ髪を引かれながら現実が待つ松本に帰って来た。
さぁ、いよいよもう直ぐ本格的な闘病生活が始まる。覚悟を決めなきゃね・・・。
 私はTVドラマの主人公に自分の身を置き換え、癌の闘病生活を私なりに楽しみながらリポートするつもりで挑んでみる事に決めた。
 しかし、私って本当に単純だ。お金の心配さえ無くなれば、癌さえ何のそのだ。
あの頃散々鳴いたカラスが、もう笑っている。お金って本当に必要不可欠な物なのだ。
例え身体が元気でも、お金の苦労は人を弱らせ、心を憔悴させ、卑屈にさせ、生きる望みまでも奪ってしまう。
お金の苦しみさえ無ければ人生はこんなにも愉快で愛しく、有意義に過ごせる物なのだ。
大金持ちになんかなれなくても良い。でも、最低限、人間らしく生きる為には、楽しみの為に使うお金や心の余裕は絶対に必要なのだ。
金は天下の回り物。
ケチケチせずに使う時には使っちゃえ。無くなったら無くなったで又考えりゃ良い。
私はずっとそんな考えの持ち主で生きて来た。
その甘さが命取りになった。
数年先に訪れる第二の借金苦がもっともっと苦しみを齎すことも知らずに、私はまだまだ余裕をかましていた。


続く


2006年12月19日(火)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【癌は思いの他大きくて】

 保険金が下りぬという失望の中、それでも私が嬉しかったのは私の癌を知った時の息子の反応だった。
もしかしたら、内心ではザマアミロと思っているかも知れない、私はそう思っていた。
しかし息子は涙を流し、意気消沈し、心の底から私の事を心配してくれ、私の病気を悲しんでくれたのだ。
 入院の日が決まり、その前に手にした立退き料の一部で、一度くらいは皆で一緒に旅行らしい旅行にでも行きたいと思い、勿論私は三人で行きたかったので、先ずは息子にその話をした。
でも息子は遠慮し「一度くらいはオヤジと夫婦水入らずの旅行に行って来な。今まで何時も三人一緒だったんだから、偶には良いじゃん?」と言うのだ。それを夫に話すと、今度は夫が遠慮し「俺は良いからお前ら親子水入らずで行って来いよ」と言う。
息子はまだ、三人で行く勇気が無いのだ。そして夫は息子に先に話した事で、少しスネて居るのだ。
(何だかなぁ・・・。この期に及んでどうして何時もそうなるのかなぁ・・・。
もしかしたら私は死ぬかもしれないんだよ? アンタ達二人が和解し、仲良く楽しんでいる姿を焼き付けて置きたいからこそ、三人で行きたいんじゃないか・・・・・・。三人で行かなきゃ何の意味も無いんだよ! そんな気持ちくらい読めよ!) 私は憮然と肩を落とした。
でも・・・、無理やり三人で楽しもうとするのは、まだ焦り過ぎなのかも知れない・・・。
私はそう思い直し、結局は今回、仕方なく私と夫だけで行く事になり、私が大好きな街、横浜に四泊で遊びに行く事にしたのだ。
生まれて初めてお金を気にせず遊べる旅なのに、三人一緒ならばどんなに楽しかっただろう。
そんな思いを抱きながら少し切ない気持ちになり、それでも私は横浜を心行くまで楽しんだ。
普段持ち慣れないものを持つと嬉しくて仕方が無い。私は余りお金に執着が無いのだ。
 中華街ではフカヒレやツバメの巣に舌鼓を打ち、TVで見た高級イタリアンにも行き、夜は洒落たラウンジで飲み、大好きなジャズのライブバーも数件梯子した。
夜のナイトクルーズなどにも出かけ、私はプチリッチな気分を心行くまま満喫した。
 人間と言うものは借金や生活に追われ、ただただ暗澹たる気持ちで働いているだけではいけないのだ。偶にはこうしてリフレッシュしなければ、どんどん人間が荒み萎縮する。
神が与えてくれた、人生においての持参金付大型休暇だ。思い切り楽しまなきゃ。
私は自分にそう言い訳していた。
そして横浜の最後の夜、私は、まだ無傷な女としての最後の身体を夫に差し出し、優しく、そして愛しく慈しんで貰った・・・・・・。
 夫は「どんな身体になってもマキュキュはマキュキュ。俺はマキュキュの身体ではなく、マキュキュ本体が好きなんだから、何も心配しないで手術を受ければ良い」そう言って優しく抱いてくれた。

 ついに入院の日はやって来、私は病室の四人部屋に案内された。
隣のベッドには(M)さん。斜め前には退院間近のお婆ちゃん。そして向かい側には(K)さんと言う女性が居た。
(M)さんと(K)さんは、ほぼ私と同年代。そして皆、同じ病気だ。
しかし、誰もが一様にとても元気で明るい。癌という病気になったと言う悲観や暗さはどこにも無い。
私達は直ぐに仲良くなり、新参者の私に皆で手術の事や治療の過程などの予備知識を教えてくれる。
「貴女はどんな手術をするの?」と聞かれ「円錐切除術だそうです」と答えると「それなら盲腸の手術よりも簡単よ。あっという間に終わってしまうから全然心配ないわよ」と慰めてくれた。
 私の手術はお腹を切る方法ではなく、膣側からの手術だそうで、所謂、中絶手術のような形で行われるのだそうだ。
膣から器具を挿入し、子宮の入り口を円錐形に切り取り、それは検査と治療とを兼ね備えた手術だそうで、大抵はその手術だけで癌は綺麗に取れてしまうらしい。
入院翌日からCT・MRと様々な検査をし、
いよいよ手術の当日となり、その手術中、私はとても怖い夢を見た。
白衣を着た数人の不気味な化け物が「もう二度と生きて帰れないよう、たんまり料理してやるからな!」と言って嘲り笑っているのだ。
 手術が済み、病室に戻り、意識を取り戻すと息子と夫が心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
「意識が戻った! あぁ、無事で良かった。 お前、実は大変な事になってたんだぞ!」夫がそう言うので「何かあったの?」と聞くと、手術中、麻酔が効かずに私が痛がって暴れたため、メスが深く入り過ぎ、太い血管を突き破り、大出血を起こしていたらしい。
術後も止血が上手く行かず、何と私は「今夜が山」とまで言われて居たのだそうだ。
「へぇ〜。私、死に掛けたんだ。どうりで手術中とても怖い夢を見た訳だわ・・・。でも、円錐切除なんかの簡単な手術で私が死ねば、医療ミスで沢山お金が貰えたのに、アンタたち一寸残念だったねぇ・・・」と、皆にジョークを言うと、皆は「ヤレヤレ、これなら大丈夫だ」と苦笑していた。
 手術中のアクシデントの割には術後の経過は大変良好で、手術から十日ばかりで私は本当に退院する事が出来た。
同室の皆にお別れを言い、私は晴れ晴れとした気分で退院したのだ。
 息子も私が癌になってから、諏訪と松本を始終行き来してくれるようになり、息子と夫との壁も徐々に低くなって行った。
何はともあれ、私の癌は家族の絆を良い方向に齎すきっかけとなってくれたようだ。
 退院後、半月程が経ち、これからどうして行こうかなどと考えながら皆で話し合っていたら病院の(T)から電話があった。
「病理検査の結果が出たんだけどさぁ・・・、チョットまずい事になってるんだよ。ママの癌、殊の外大きくてさ・・・。何はともあれ、ちゃんと説明したいから明日病院に来てよ」彼は言い難そうにそう告げた。
 私は受話器を持つ手が震えた。この震えは恐怖と安堵と両方の性質を持つ震えだった。
もしかしたら保険金が入るかもしれない!
そして、もしかしたら私は死ぬのかも!


続く


2006年12月18日(月)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


第四章 癌で命が救われる
【天罰か? それともご褒美か?】

思いもよらぬ展開で束の間貧乏から脱出する事が出来たのは、息子が家を出てから半年が過ぎた頃だった。
県の道路拡張の為、店と住まいを立ち退きしなければならぬという話が急浮上したのだ。
もう、宝くじに当たるか、死ぬより他に膨らんでしまった借金を精算する術は無いと思っていたので、その立ち退き話が来た時は、余りに悲惨な私の生き様に同情し、初めてぐうたら神が、神様らしい事をしてくれたのだと思った。
九死に一生を得るというのは正にこんな事ではないのだろうか? 
最後の数年は赤字続きになったとは言え、十三年間も必死で守り通してきた宝物だ。
僅かながらも立退き料が出るという事が嬉しかった。
 私の唯一の財産であり唯一の生活資金源である店を手放すのは惜しいし辛いが、そんな事を言っている場合ではなかった。
これで少しは纏まった借金が減らせる。そう思って判を押す事にした。
そして皮肉にも、立ち退きが決まってからの数ヶ月、店は再び活気付き、蝋燭が消える前に、一瞬明るさを放つような輝きを見せた。
 店の最終日の前日、閉店後店に残り、十三年間の様々な想い出を廻らせながら、私は朝まで一人飲み明かした。
大きな期待に胸を膨らませ、意気揚々と開店したあの日・・・。
母の癌を知り、自棄酒を飲みながら大泣きしたあの日・・・
大勢の客と愉快なスタッフに囲まれ、一斉を風靡したあの頃・・・。
一周年記念の最初で最後のシャンソンライブ・・・。
母の追悼パーティー・・・。
夫と飲みながら愛を語り合った日々。
様々な人々との出会いと別れと、沢山の人間ドラマを展開させて来たきたこの店・・・・・・。
そんな愛しい想い出を沢山残してくれた店との別れを、私は一人ゆっくり惜しんだ。
店の打ち上げの日は、大勢の客やOBスタッフ達が花束を持って集まってくれ、皆で深夜遅くまで盛り上がった。
この店はエポックと言う名の通り、画期的な瞬間を作ってくれた。
「十三年間、私の生活の糧となってくれて本当にありがとう。長い間お世話になりました」
私は愛しい店に心の底から礼を言い、エポックはついに十三年間の幕を閉じた。

 実はこの時、私にはある計画があった。
エポック�兇麓衒�す事になるが、もう一店舗の母が残してくれたエポック�気髻∋笋楼�き続きやるつもりで居たのだ。
バブル崩壊後の大不況の中、家賃も安く、人件費を掛けずに一人でやるには、カウンターだけの店は妥当だった。
 母が亡くなってからもずっと苦しい中、家賃だけは払い続けて来た店だ。やり手が居ない時も家賃だけは払い続けてきた。私はそこでささやかに稼ぎ、夫にはちゃんとした定職に着いて貰おう。そう思っていた。
しかし、それが計画倒れとなった。

私に天罰が下ったのか、ご褒美なのか、長年のお金の苦労がストレスを生んだのだろう。私も母と同じ子宮癌になったのだ。
立ち退き後、家も引越し暫くした後、生理でもないのに不正な出血を見た私は、私はもしかしたら癌? と不安になった。
生理はとても規則正しく、過去そんな不正出血など無かったのだ。
私の店には幸いにも大学病院の婦人科班が常連で通っていたので、後日一人の医師を呼び、それを話すと、直ぐに病院で診て貰えと言われ紹介状を書いてくれた。
 私の家系は母を初め、癌で亡くなっている身内ばかりだ。母を亡くした次の年には、東京の伯母が癌で亡くなり、その次の年にはその伯母の娘である従姉妹までが癌で亡くなった。いつ私が癌になっても決して可笑しくは無かった。だからこそ、転ばぬ先の杖だと、どんなに苦しい状況でも私は保険だけにはきちんと入って居た。
 店の常連だった医師の一人が私の担当医になってくれ、検査を受けた結果、やはり私は初期の子宮頸癌だと診断された。
「間違いなく癌でしょうね?」
私の質問に先生は「残念ながら・・・」と頷く。
「良かった! これで命が助かるかも!」
(?)先生はキョトンとした顔で凝視する。
この時、私は正直、癌を喜んだ。
癌になった事を喜ばなければならぬ程、私はお金の事で切羽詰り、辛く苦しい思いをしていたのだ。
皮肉な事だが、自分の唯一の財産である店を失った事と、一粒種である息子に見放された事と、命を失うかも知れない大病を与えられると言う究極の交換条件で、ぐうたら神は私に大金を渡す魂胆らしい。
私はぐうたら神が悪魔に見え、それに魂を売ったような気持ちだった。
総額一千万円チョットで私は自分の命をぐうたら神に売るのだ。安いのか高いのか?
まぁ正直、そんな事はどうでも良かった。その時は命よりも金の方が大切だった。
担当医の(T)は未だ「後にも先にも癌になってあんなに喜んだ人間は、ママだけだよ」と苦笑している。
 病院の喫茶室で結果報告を待っていた夫に、「やっぱり癌だったよ」と告げた。
夫は最初ジョークだと思っていたらしいが、嘘ではないと判ると、相当にショックを受けたらしく、大きく首を垂れた。
「今更そんな顔しても遅いわよ。見なさいよ、アンタが散々ストレスを掛けるから癌になっちゃったじゃないよ!」そう言って私は夫を睨め付けてやった。
 先生が言うには、癌はゼロ期で、本当に軽い物だと言う。円錐切除術と言う簡単な手術だけで全てが採り切れるだろうと言われた。入院も十日程で済むそうだ。
 私だって癌が全く恐く無かった訳ではない。
誰だって癌になれば怖いに決まっている。
【癌+辛い治療=死】と言う単純な方程式はどんなに馬鹿な私にだって浮かぶ。
何人も癌で見送って来たのだ。末期時の悲惨さも恐ろしさも知っている。
でも、当時の私は癌よりもお金の苦しみの方が怖かった。しかし喜んだのも束の間。癌がゼロ期だという事で、保険金支払いの対象から外れると聞かされた! 
 えっ!? とうとう癌にまでなったと言うのに? ま、ま、まさか! 嘘でしょう!


続く


2006年12月16日(土)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【母親失脚!】

 息子のガールフレンド(M)は高校のクラスメイトだった。
何度か彼女の家に遊びに行く内、彼女の母や家族や、隣町に住む彼女の叔母である(Y)に大変可愛がられるようになり、家族同然のように扱われるようになったと言う。
中でも一際(Y)は息子の良き理解者だった。
(Y)は私と同じ年で、数年前にご主人を亡くし、自分の両親との三人で暮らしていた。
(Y)は子宝には恵まれず、自分の子供は産んでいない。なので息子の事をまるで我が子のように可愛がってくれていたそうだ。
(Y)は息子の悩みや愚痴などを聞いている内、息子に同情するようになり、息子の事を放って置けなくなったと言う。
「折り入ってお母さんに話したい事があるのですが」との連絡を受け、私の店に初めて(Y)姉妹が訪れ、初めてその話を聞かされた時は、正直、物凄くショックだった。
息子は自分の家には僕の居場所が無い。僕が例の事件に巻き込まれたのは、精神が不安定だったからなのだと切々と泣きながら彼女らに訴えたと言う。
息子は軽い心身症に掛かっており、このまま松本の家に置いておくのは息子の為にも良くないと言われてしまった。
確かに暮らしは荒んでいたし健全な家庭環境とは言えない。何をどう言われても、当時の私には弁解の余地は無かった。でも、息子が少し大げさに話している事は、母親の私には解るのだ。
息子はあれで中々の知能犯で、演技者だ。一寸自分の立場を良く見せようとし、悲劇のヒーローを装う傾向も有る。
きっと彼女達の同情を引きたかったのだろう。
(Y)姉妹は私の事を、男の為に自分の息子を邪魔物扱いしている鬼母なのだと、そう思っていたに違いない。
 だけど事実、私は息子を邪魔に感じた事など一度も無い。息子と彼を心の中でどちらが大切などと量りに掛けた事も無い。息子への愛情と彼への愛情は異質だが、私は二人とも同じように大好きで同じように大事に感じていた。息子が悪い事をすれば息子を怒鳴るし夫が悪けりゃ夫を怒鳴る。子供を阻害し、夫とだけ仲良くいしていた訳では決してない。
夫だって息子を甘やかすときは甘やかしていたし、叱る時は叱っていた。普通の家庭だってそういう物なのではないのか?
(Y)姉妹は、息子さんの為に彼と別れる事は出来ないのかと私に聞いた。
何故どちらかを選ばなければならないのだろう。夫と別れたくはないと言う事は、何故息子を見捨てる事になるのだろう・・・。
正直、私はどちらとも離れたくはなかった。どちらが欠けても生きては行けないと思った。
経済状態が良くなり、皆の気持ちに余裕が出れば此処まで家庭がギクシャクする事も無くなるのだ。
息子には乳児院に預けなければならないと言ったハンデを背負わせてしまっている。私自身も家族の団欒とは無縁の子供時代だった。だからこそ、二親が揃った家庭の味を息子には味あわせたかったし、三人で仲良く暮らしたいと、それが私の一番の望みだったのに。
 夫は息子に対し、確かに意地悪だった時期が有った。息子に嫉妬していた時も有った。でも彼は息子に対する愛情だってちゃんと持っていた。彼自身わざとらしい愛情表現は苦手なので、息子に毒舌だったが、息子とは本音で関わっていたはずだ。
息子が理不尽な事で学校に呼び出された時などは、息子を庇い、先生に食って掛かろうとまでしてくれた。お金も無い癖に私に内緒で息子に小遣いを渡したり、二人で私に内緒でゲームセンターに出掛けたり、彼等には彼等男同士の秘密の共犯があり、友情なり愛情なりは芽生えていた筈なのだ。
どうして世間は、なさぬ仲だと言うだけで、全てを悪い方向ばかりに捕らえるのだろう。当たり前の理由で叱った事さえも虐待のように受け取られ、血の繋がりが無い事だけで冷酷な継父呼ばわりされてしまう。
息子にだって長所と短所が有るのだ。私から見て好きな所も嫌いな所も有る。それは家族なら皆、互いに有るのではないのか?
息子の悪い所を夫が叱ったら、血が繋がらないだけで虐め扱いになるのか?
一度、私と夫が大喧嘩をし、いよいよもうダメかと思い別れる決意をし、夫を本気で家から追い出した時がある。そうしたら息子が泣きながら「オヤジを追い出すなら僕も出て行く!」と彼を追って一緒に出て行ってしまった事が有る。暫くし、息子から電話が入り「お願いだからオヤジを許してあげてよ」と、泣きながら訴えられ、私は根負けした。
なので息子だって夫を嫌いなだけではなかった筈なのだ。
それでも、私達と一緒に暮らしたくないと言うのも、認めたくは無かったが、息子の本音なのかも知れない・・・・・・。
金も無く、息子にあまり手も掛けてやれず、殺伐とした放任主義のあの家に居るより、ガールフレンドや優しいだけの人々に囲まれ、大事に取り扱われる事に、息子は本当の幸せを見出したのかも知れない。
嗚呼・・・、とうとう私は息子にまで見放されてしまった。自分の最愛の息子にまで・・・
 あそこまで破綻し掛けた家に息子を繋ぎ止めて置く資格など私には無いのかも知れない。
(Y)の方が経済的にもずっと恵まれているし、息子に対する物腰も、世話の焼き方も、話し方も、ずっと柔らかく母性的だ。
私にまるっきり勝ち目は無いと思った。
「別におっ母ぁの事もオヤジの事も嫌いで出て行く訳じゃないんだし、松本にはしょっちゅう遊びに来るから、そんなに深く落ち込まないでよ」そう言う息子に、ただただ私は仕方なく首を項垂れ「アンタがそれを望むなら勝手にそうすれば?」そう言う以外に無かった。
ついに私は母親まで失脚してしまった!
自分のたった一人の子供を、自分だけの手で最後まで育て切る事すらも出来ない私は母親ですらないのだ。 
その日、思い切り夫を罵倒し、彼の胸倉を殴り付けながら私は思い切り泣いた。
「皆アンタのせいよ! アンタのせいで息子まで失った。アンタは私からどれだけの物を奪えば気が済むの? いっそ私を殺したら良いじゃない!」
私は泣きながら夫を責めまくった。夫を攻めながら、私は自分自身の事を攻めていた。


続く


2006年12月15日(金)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【家庭崩壊】

 夫との年月を費やせば費やすほど、月々の支払いは苦しくなって行くばかりだった。貧乏な処へ、尚更貧乏神のような男が転がり込んだのだ。雪だるま式に暮らしは荒んで行った。
店や家の家賃の滞納が増え、支払いも溜まり出し、もうニッチもサッチも行かない状態になって行った。その時点での借金総額は六百万を超えて居たと思う。一箇所に纏めれば返済不可能な金額ではないのだろうが、あちらこちらと細かい支払いが嵩んでしまうので月々の支払額が膨大なのだ。しまいには何処かの返済のために何処かから借りると言う自転車操業になっていた。
月々、生活費や人件費を含んだ全ての支払い合計が百万以上は要ると言うのに、店の売り上げが七十万を割る事も有った。するとその三十万余りの不足分が又借金になるのだ。
私は夫に、安定収入を得られる仕事を探すようにと毎日口うるさく言い続けた。
夫には時々ユニットバスの仕事が人づてに舞い込んでは来ていたが、毎日有る訳じゃなく、たまの仕事では焼け石に水なのだ。しかし、短時間で高収入を得られる手馴れたその仕事から、夫は足を洗おうとはしてくれない。それでも限界を感じたのかやっと他の仕事を見付けはしたが、長く続かず夫は仕事を転々とする事になる。
彼は若い頃から痛風と言う持病を持っていて、特にこの時期、彼は頻繁に痛風の発作に悩まされていた。
折角雇ってくれた会社も、やっと仕事に慣れた時期になって来ると、図ったようにその発作が出る。発作が出れば十日は動けない。なので会社にも迷惑が掛かり、居辛くなるのか、結局はそのまま給料も貰わず辞めてしまうと言う悪循環が続いた。
 せめて働いた日数分だけでも給料を貰って来てくれれば良い物を、それさえ言うのが嫌なほどの格好付けたがり屋なのだ。物欲しげに見られる事が嫌なのだと、こんな所で虚勢を張る。
痛風は食生活を改善すればある程度防げる病気だ。自業自得な病で有り、同情の余地などない怠慢病だ。
その事でも私達は良く大喧嘩をした。
何とかしなければいけない。何とかこの状態から脱け出さなければ・・・・・・。気持ちばかり焦り、店を売ろうにも世の中が不況に喘ぎ始めた時代でやり手の無い店は沢山余っていた。借金額に見合う買い手など付く筈も無い。
それでも何か出来る事は無いかと思い、昼間は昼間でランチなどを始めて見たりもした。しかし近くに会社が無い事などで昼間の売り上げは殆ど望めなかった。
息子が中学に通っていた頃が一番苦しかった。給食費が払えぬ事もあり、家に居ても電話に出るのも怯え、チャイムが鳴れば息を潜めると言う、犯罪者のような気持で暮らした。支払いの事ばかりが重く圧し掛かり、何をする気力にもなれなかった。
ある日、そんな状況下の中、それでも店だけは開けなければと店に下りて行くと、店の電気が止められており、冷凍庫の中身が溶け出し、懐中電灯を照らしてみると、店の厨房が大変な様になっていた。
私は真っ暗闇の異臭を放つ厨房にペタリと座り込み、人生の破綻と、得体の知れぬ脅迫感に襲われ、狂ったように泣き喚いた。
全て自分が招いた結果だった。
もう生きている事が無意味で、これ以上生きて居てはいけないような気持ちになった。
何故私の人生は何時もこんな風になってしまうのだろう・・・・・・。私の何がいけないと言うのだろう・・・・・・。
 もう彼を殺し、私も死ぬしかない・・・。
頭の中にはそんな最悪のシナリオばかりが浮かんで居た。保険金で全ての債務を清算するより他に何の術が有るのだろう。
そんな最悪の状況下の中、息子は中学を卒業し、調理科を目指し受験していた私立の高校に合格した。折角希望校に合格したというのに、合格祝いをしてやる事も出来ず、それよりも何よりも、入学金さえ作れない状態だった。
我慢の限界を感じ、私は夫に叱られる覚悟で、木曾の夫の実家に友達を伴い、彼の両親に相談しに行ったのだ。
彼の実家には過去何度か連れて行って貰った事が有る。彼の両親はとても温厚で優しく、田舎特有の素朴な善人だった。私の事は結構気に入り信頼してくれており、事情を話せばきっと夫に意見してくれると思ったのだ。
初めて実家に連れて行ってもらったのは、確か彼の祖父の十三回忌だった。その時も、あの子はガッタ坊主(ワルガキ)だから、人生経験や苦労を積んだ年上くらいの人の方が良いのだと、二人の事をとても喜んでくれたのだ。
 夫は二男二女の四人兄弟の下から二番目。
姉も妹も嫁いでおり、兄も家庭を築いていた。兄弟達との交流は何か大きな行事が有る時くらいだったが、彼は中々の親思いで、実家には年に数回私と息子を伴い、顔は出していた。
しかし夫は、自分達の状況がそんなであれ、親に対しても兄弟達に対しても、忠告されるのが嫌なのか何なのか「ちゃんとやっているから大丈夫だよ」と、何食わぬ顔をしている。
 家族に心配されたく無いと言う虚勢は解るが、それなら私や息子に苦労を掛けるのは良いのかと言う、理不尽な矛盾にいつも憤りを感じていた。
私は、彼の実家に行く度、いつも皆の前で「本当は違うの! 苦しくて仕方ないの!」そう叫び出したくなるのを必死で堪えて来た。
 夫は人に頭を下げ、人に弱みを見せる事を極端に嫌う。
どんなに自分達が困り果てて居ても、それが例え自分に原因が有るとしても、自分から何とかしようとは絶対にしてくれなかった。
 私だって年老いた夫の両親にそんな事を言付けなければならないのは嫌だった。でも、もう他に、誰に言えると言うのか・・・。
私に親は居ないし、彼との暮らしを反対し続けてきた親類になど言える訳も無かった。既に一人の従姉妹や、私の友人からはお金を借りてしまっていた。それもまだ返せていないのだ。
人に頭を下げ、お金の都合を付けて来るのは何時だって私の役目だった。支払の言い訳をするのも、いつもいつも私の役目だった。夫は小遣いなど一切強請らない代わりに、タバコ一つ買いに行こうとはしない人間なのだ。全て私任せだ。
 私は彼の両親に包み隠さず現状を話した。
彼が安定した仕事を探してくれない事、息子の入学金も無い事、腹を立てると手に負えない事、経済的に行き詰っている事等、あるがままの現状を言い付けた。
両親は驚き、夫に憤慨してくれ、息子の入学金を貸してくれたのだ。
 しかし息子は一学年の終わり、とある事件に巻き込まれ、高校を中退せざるを得なくなってしまった。この件に関しては数人の息子の学友も絡んでいる事なので書き控えるが、息子はもう松本に居るのは嫌だと言い、憔悴し、当時付き合っていた諏訪に住むガールフレンドの家族に救いを求めたのだ。


続く


2006年12月14日(木)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【毒食わば皿まで】

 やがて彼が私達のマンションに転がり込むような形で、三人の生活は始まった。
彼は私の家に迷い込んで来た、愛すべき、やんちゃな、手に負えぬ野良犬だった・・・・・・。
彼との愛は様々なドラマの幕開けとなり、とてつもない不幸と、とてつもない幸せを同時に私に運んで来た。
【呆れたあんた】と言う名の、私の大好きな古いシャンソンが有るのだが、彼との生活はまるでその歌詞その物の様な暮らしぶりだった・・・・・・。

彼は以前の夫とはまるで正反対の人間だ。
用意周到で神経が細く、何事にもピリピリと繊細だった前夫に比べ、無計画で事なかれ主義で、何でもアリの天真爛漫な彼。
彼のそのヒッチャカメッチャカで荒削りな大雑把さが、何故か私にはとても心地が良い。
 将を射んとすれば先ず馬を射よで、当初は息子にも大変気を使ってくれ、釣りだのマレットゴルフだのゲームセンターやキャッチボールと、手代え品代え息子とジャレ合い、息子と同等なレベルで遊んでいた。今考えて見れば、息子と同レベルと言うよりは、むしろ息子以上に彼は単細胞だった。
そして彼は何と、一緒に暮らし始めた途端、ユニットバスの組立工の仕事を私に無断で辞めてしまっていたのだ。それは事後承諾のような形でモジモジ顔の彼に報告された。
辞めた理由は元々会社に不満が有ったらしいが、直接の理由は彼の持病の痛風が出た事と、仕事に行くと私との時間が少なくなるから勿体無くて嫌なのだと、平然とした顔で言うではないか!
私は呆れ果てて怒る元気も無かった。
「ただでさえ生活が苦しいと言うのに、なんで仕事を辞めて来ちゃうの!」
私は彼に対し漠然とした不安を抱いた。でも私はそんな彼が憎めなかった。
もしかしたら自分の人生がとんでもない方向に向き掛けているのかも知れないと言う、予感めいた物を感じたが、それでも彼に対する恋心は日々増して行くばかりだった。
 仕方なく、彼を正式に店のマスターとすることにし、友人や客達には夫になったと紹介し直した。しかし、これがとんでもない事になった。
 夫は思いの他コンプレックスが強く、僻みっぽく、イジケ虫で、嫉妬深かった。
被害妄想もあり、来る客来る客、私との関係を疑い始めた。
暮らし始めた当初の彼は、女友達と食事に行くのさえ許さぬほど、私を縛り付けた。
嫉妬と言うよりは自分一人が蚊帳の外という疎外感が我慢出来ないのだろう。例え数分であれ、私に目を向けて貰えぬ時間有る事その物が気に食わないのだ。
夫はまるで子供以下の赤ん坊だった。
仮にもマスターと言う立場なのに、人付き合いに得て不得手が激しく、向こうから寄り付き、心を開いて来る客達に対しては馬鹿ほど愛想が良く、私の許可も得ず、ただで飲み物などを勝手に奢ってしまったりする。
何かを褒められれば私の許可も得ず、物などもどんどんあげてしまうのだ。
そのくせ自分が苦手な、一寸気取り屋でインテリタイプの客等が来ると、途端に仏頂面をし、愛想もこそうも無い。
特に私に親しげな口を利く客などが居ると、ムスっとし、厨房に入り込んでしまうのだ。
店に居る間中、私は客に気を使い、彼に気を使い、いつも神経をピリピリさせていた。
 私は今まで色気で商売をした事など一度も無い。それは最も私の嫌う商売体系であり、私は客に媚びさえ売らない。どちらかと言えば本音で接するサッパリ商売だ。そんな所が、私が稼ぎ下手な所でもあるのだが・・・・・・。
私は客と親しくなればなるほど、ジョークでこき下ろし合えるような気楽な関係に持ち込む癖がある。
ただ、物好きなお客の中には勝手に私に思いを寄せる人だって何人かは居たかも知れない。だからと言ってそれが何なのだ。
私は店のママと客と言う壁を取り払い、私の家に皆が集まって来ると言うようなフレンドリーなコンセプトで店を経営して来た。
私が直ぐに男にしなだれ掛かるような女でない事は、十年も付き合いのある夫なら百も承知のはずなのだ。
しかし世間知らずでボキャブラリに自信の無い夫は、そんな空気に溶け込めぬ自分自身にジレンマを感じ、かなり僻んでいたようだ。
「俺なんかどうせ頭悪いし? 田舎者だし?お前さんのような会話のお手玉も上手に出来ませんからね!」そんな憎まれ口を叩き、機嫌が悪けりゃ厨房に引き篭もってしまう。
そんな彼の様子に客も気を使う。
これじゃ助けになるどころか邪魔をしに来るだけだ。
 そしてその嫉妬心をやがては息子にまで向けるようになり、息子に目を向けている時の私にも辛く当たるようになる。
機嫌の良い時は相変わらず駄洒落を連発し、息子ともジャレ合い、皆で仲が良いのだが、一度機嫌を損ねると、もう、手が負えない。
私達の生活は、彼の機嫌中心に全てが回り始め、息子も徐々に彼の顔色を伺うようになる。
誰かに忠告して欲しく、そんな悩みを打ち明ける度、友人や親類からは彼との関係を反対されるようになり、それも当然の事だった。
夫には内緒で息子と二人だけで美味しい物を食べに行ったり、夫の目を盗んで息子と共有する為の秘密の時間を持ったりし、息子には常に本音で接し「貴方以上に子供の彼だけど、少しの間だけ我慢してね」と、息子の理解を求め、又息子も「オヤジの事は嫌いなだけじゃないから大丈夫だよ」などと言ってくれていたので安心していたのだ。
しかし、あの頃の夫は息子よりも物分りが悪く、随分息子には我慢をさせてしまった。私は母みたいに自分の子供だけには寂しい思いはさせまいと心に決めていた筈なのに、母と同じ道を辿っている。いや、私は母むしろ以下だ! 私は酷い自己嫌悪に陥った。
それでも、自分の見る目が間違いだったとはどうしても認めたくはなかったのだ。
それからと言うもの、私は長い間息子に対し、後ろめたい気持ちを引きずり続けた。
息子は祖母が亡くなり、やっと私の愛情を自分が独り占め出来ると思っていたと思う。それなのに僅か一年余りで、今度はやっとお父さんと呼べる人間が現れて喜んでいたと言うのに、蓋を開けてみれば、こんな我侭で赤ん坊みたいなどうしようもない人間だった。
息子は大きな期待が裏切られたような気持ちで一杯だっただろう・・・。
【今はこんなだけど、あの人の本質を見抜いて欲しい。絶対に私の目に狂いは無い事を証明できる日が来るから】
そんな気持ちが私には有ったのだ。
私は決して彼に多くの物なんか望んでいなかった。息子や回りの人間との和を持ってくれる事と、夫として父として、仕事を優先してくれる事。たったこの二つさえ守ってくれれば、後は全て愛すべき所ばかりなのだ。
私は彼の中に【どうしようもないけど憎めない人】と言う、私の父と同じ魂が宿っている事を確信していたのだ。
そして何よりももう、彼を愛し過ぎていた。
皆を敵に回しても仕方ない。息子に嫌われても仕方が無い。
もしも周りが言うように、この男が本当の悪人で、最低の男だったとしたら、何時かこの男と一緒に私は心中しても構わない。
もう引き返せない。この男と、とことん落
ちる所まで落ちても良い。
そんな覚悟を抱き始めていた。


続く


2006年12月13日(水)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【子宮と心が直結した!】

そんな私だったが、今の夫【未だ未入籍】との出会いには、宿命めいた物を感じている。
彼は私よりも三歳年下で、昔はかなりの遊び人だったらしいが、結婚の経験は未だ無い。
彼は昔からの呑兵衛仲間の一人だった。
彼は母の店にも何度か来ていたし、私の店では大常連になり、常に二〜三人の仲間を伴い飲みに来ていた。
人見知りだけど人懐っこく、慣れれば駄洒落なども連発し、ガキ大将のような駄々っ子さも、いくばくかの不良っぽさも粗野な温かみも兼ね備えている。
基本は荒削りな人間だけれど寛容で、小さな事を気にせず、事なかれ主義の大らか人間だ。
決して知的では無く、インテリジェンスの欠片もなく、きっと少年時代は青っ洟を垂らしながら服をテカテカにして遊んでいた口だ。未だ無邪気な少年性が抜けていない。
きっと彼も、悪人にも善人にもなり切れない半端人間なのだろう。その点は私と同じだ。
男女を問わず飲み友達は多い私だが、その中でも彼の持つ雰囲気には昔から親しみを感じていた。彼は煽てられるとついつい大盤振る舞いで奢ってしまうというエエカッコシイな処が有り、私の父にモロ魂が近い。
 店の経営に限界を感じていた頃、店のアルバイトを二人だけ残し、後は内情を話し辞めてもらった事がある。とうとう人件費を掛けられない状態にまでなって来ていた。しかし広い店なので、私が厨房に入り込んでしまうと店の混雑時には手が回らなくなる。客もついつい放置状態にならざるを得ない。
そんな状況下の中、私は飲みに来た彼に冗談半分で愚痴ったのだ。
「ねぇ? 何処かに困った時や忙しい時だけパッ! と現れてくれる、スーパーマンみたいなバイトって居ないかなぁ・・・。」と。
そしたら「ビールの二〜三本もバイト賃代わりに飲ませてくれれば、俺がただ働きしてあげても良いよ?」と彼が言う。
当時彼はユニットバスの組立工の請負仕事を本職にしていたのだが、以前は居酒屋に勤めていた経験もあり、自分で居酒屋を経営していた事もある。なので料理の腕はソコソコだし、手先はとても器用な彼だ。一通り教えれば直ぐにコツは掴んでくれるだろう。
彼が厨房を担当してくれれば私も表に出られ、会話や歌で客達を盛り上げる事も出来る。
しかもバイト賃がただとすれば、願っても無い事だった。
 そうして彼は厨房担当のスーパーマンバイトとして、私の店に通うようになったのだ。
実は当時彼は、私がとても仲良くしていた同業者(H)のボーイフレンドで、母の入院中、私は子育ての疲れ、母の世話での疲れ、店での疲れを癒す為、自分の店が終わると歩いて一分という(H)の店にチョクチョク通っていたのだ。
 その店は彼を初めとする仲良しグループの溜まり場で、気楽で安く、ホームグランドのような存在だった。
カウンターだけのその店で何時も彼は用心棒のように端の席に座り、好きなビールを舐めていた。
(H)の店は、深夜になると自然に仲間達が集り、皆でチンチロリンやトランプなどをし、飲み物やツマミを賭けたりして遊んでいた。当時(H)と彼は付き合い始めたばかりで、私達はよく二人をからかったり、チャカしたりしていた。
しかし、(H)は私の母がもう直ぐ最期を迎えるという頃になり、彼女の家系的病である心臓疾患で突然倒れ、合併症で脳出血まで起こし、意識不明となり、大学病院に運ばれたのだ。
彼女は数日間生死を彷徨った挙句、三十代と言う若さで、半身マヒと言語障害の身体になってしまったのだ。記憶障害もあった。
彼女が倒れる直前の正月には、自分の店が休みだと言う事で、私の店にバイトに来てくれた。店が終わった後も二人で明け方まで飲み明かし、語り合い、私達は良きソウルメイトだった。
彼女が倒れたのはそれから僅か四日後の事だった。
彼女は母と同じ大学病院のICUに運ばれ、私はオロオロしながら彼女の病室と母の病室を毎日行き来していた。
そして一ヶ月後、母は亡くなり(H)は遠い鹿教湯のリハビリ病院に転送されて行った。
私はこの時、母と同時に親友までを一気に失った事になる。

 彼と私は飲む度その話題になった。彼もまだショックから抜け切れていなく、私達は恋人と親友と母を失ったという共通の喪失感を慰め合い、同じ痛みを持つ親友同士のように労わりながら接していた。
しかし友情から愛情に変わるのにどれほど時間が経った事だろう。
私達は時間を共有する中で、互いの存在に癒され、一緒に居るととても気楽で、こんなにも楽しくホッとした気持ちになれる事に不思議な安らぎを感じるようになった。
そして更に色々な話をして行く内、互いが互いの事をこんなにも前から大好きだったのだという事に改めて気付かされたのだ。
彼は私に取り巻きが多いと諦め、私は私で彼が結構モテていたのを知っていたので、互いの根底の気持ちを隠したまま、何年も何年もすれ違ってばかりいたようだ。
そして直ぐに私達は愛し合うようになった。
 私は息子に真っ先に彼の事を話し、恋人として堂々と付き合うようになったのだ。


続く



2006年12月12日(火)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


第三章  宿命の出会い
   【私の恋愛&セックス論】
      
 母が亡くなってから一年が過ぎた。
でもいつまで経っても私の胸にはポッカリと穴が開いたままだった。生きていた時は、口うるさく、毒舌な母の存在を重く煩わしく感じたりした事も有ったのだが、いざ母が居なくなって見ると、こんなにもひ弱で心細く、何も出来ぬ自分が居た。
やはり私に取って母の存在は必要不可欠だったのかも知れない。
 子育ての悩みや店での悩み、日々の支払いの苦労や日常の出来事と、問題課題は山ほど抱えているのに、一緒に考えてくれる肉親も知恵を貸してくれる身内も居ず、私は松本にたった一人取り残され、天涯孤独になってしまったような、そんな孤独感を感じて居た。
私には母と言う、常に口やかましく小言を言ってくれる羅針盤が居てくれたからこそ、母親まがいの事も経営者まがいの事もかろうじて出来ていたのかも知れない。
 お義父さんは母が亡くなってからは偶に電話で話す程度の存在となり、それもいつしか遠のき、この頃にはもう全くの他人だった。
何かで悩んでいても相談出来るような存在ではなかった。
やはり彼は私のお義父さんではなく、母の愛人に過ぎなかったのかも知れない・・・。
 幸い、私には気の良い友人達や、店の常連客や、アルバイトの子達と言う親しい仲間が居てくれた。でもやはり、言える事には限度がある。ジョーク交じりのボヤキや愚痴は言えても、相手の気持ちが重くなるような深刻な相談まではとても言い辛い。
私は父の性質を多く受け継いだらしく、周りとは楽しい時間のみを持ちたい方だった。
当時は生きる苦痛を分かち合える恋人も居なかった。
そう言えば、いつも大抵は年下の甘えん坊からしか言い寄られた事の無い私が、この頃、一人だけ権力者と呼べる大人の男に言い寄られた事が有ったっけ・・・・・・。
彼は会社役員で、かなりの遊び人だった。
遊び人と言ってもガキの下らぬ夜遊び等ではなく、芸者遊びや料亭遊びや、本格的な料理を求め贅沢な旅行を楽しむと言うような、ハイレベルの遊び人だ。
誕生日には強請っても居ないのに必ずプレゼントをくれ、顔を見れば旅行に行こうと誘って来る。これは完全な口説きである。
顔はともかく、悪い人間ではなかったし、ユーモラスな駄々っ子だし(私は万年少年のような駄々っ子男が好きなのだ)会話や味覚的なセンスも合い、決して嫌いなタイプではなかった。
私達はジョークでこき下ろし合えるような気楽な関係で、何度か食事は共にはしたが、旅行の申し出をされた時、私は彼をアッサリと振ってしまった。  
私は男に甘えられるような可愛気のある女ではないし、友情は感じられても愛情は無理だった。私は友情だけでは男とは寝られない。
例え瞬間でも愛情や情熱で心が重ならない限り、身体も又、重ねられないのだ。
後は感性、感覚、時に一種の寂しさや哀しさや、労わりなど・・・、色々な叙情が伴って、初めて男とのセックに至れる。
元々スキンシップは好きだが、セックス自体私は大して好きではない。セックスは恋に伴うオマケみたいな物だと解釈している。
私は恋愛中、その人の持つ独特な感性に強く惹かれる訳で、セックスは二の次で良い。
無論お金のための割り切った付き合いなど私に出来るはずもなく、又、その人を何れは愛せたとしても、妻やその人が築いて来た物を裏切る形になるのは後ろめたい。
なので女の武器を使い、男を手玉に取り、お金を強請ったり物を買って貰ったりしている甘え上手な女性が居ると言う事は、私には別世界の話だった。
付き合っている人が、例えお金持ちだとしても、その人を愛していれば愛している程、お金で付き合っているとは思われたくない為、三回に一回のデート費は無い袖を振りながらも私が出してしまうくらい、私は男に甘える事が下手だし、男に対し負けず嫌いなのだ。
私も恋をしている状態は大好きなので、夫だけに一筋だった訳ではない。勿論浮気はしなかった。二股を掛けるとかそんな器用な真似も出来ない。しかしこれでも、夫と知り合う前や、夫との離婚が成立してからは、幾人かの男を渡り歩いた経験もある。
ただ男に溺れる事は無く、どこか冷静だった。
私は恋をしても、子宮と心は直結しないみたいだ。
私は男に大した期待も持てない。きっとそれは手ひどい離婚もトラウマになって居たからだろう。どこかでブレーキが掛かるのだ。
男の中には本当の意味で人生に成功しており、金持ちで人間性も素晴らしく、人望も厚く、女にお金を使いながらも全く女に負担を感じさせないような完成された男も居るかも知れない。でも、そんな人間は稀であり、又、そんな男が私の事などを相手にしてくれる訳もない。
ならば付き合う男とは常に同等で居たいのだ。男女の関係に上下関係を作るのが嫌なのだ。
なまじ面倒を見て貰い、物を買って貰い、恩に着せられ、事由を縛られるのが一番嫌だ。
【誰が面倒を見てやってると思ってるんだ】などと言われたひにゃ、百年の恋も一変で冷めてしまう。
そんな男が世の中八割だろう・・・。
釣った魚に餌はやらぬタイプの男が圧倒的に多いと思う。
最初から貧乏だと解っていても、何処かに魅力的な感性を備え、威張りたがらぬ人間に、私は強く惹かれてしまうのだ。
それ故、いつも経済的に頼れぬ男ばかりを選んでしまうようだ・・・・・・。


続く


2006年12月11日(月)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【母の最期】

 母と私は良く親類から一卵性親子だと言われていた。顔ではなく、思考や生き様がとてもよく似た親子だそうだ。
互いに素直になれず反発し合いながらも、互いの事が好きで好きでしょうがない処などから、そう言われていた様だ。
私はそう言われるのが余り好きではなかった。母の全てを受け入れていた訳ではなかったからだ。
 小さな頃、私は良く転んだ。すると母は駆け寄って抱き起こし「痛かった、痛かった、ヨチヨチ。可哀想(かわいちょう)ねぇ。チチンプイプイ♪」などと優しく膝小僧を撫でてくれるような母ではなく「何してるの。バッカじゃないの? アンタ身体の蝶番外、何処か外れてるのよ」などとゲラゲラ笑うタイプの母だった。
母方の家系はほぼそのタイプの毒舌家が多い。私自身もやがてそうなった。
別に腹黒い訳でも悪意な訳でもないのだが、ほぼ皆がシニカルな集団なのだ。
誰かがチョット間違った言葉など使おうものなら、直ぐに揚げ足を取られ、四方八方から突っつかれ、笑い者にされる。そりゃ容赦のない恐ろしい集団だ。(苦笑)
誰かが標的にされている時は私も腹を抱えて笑い転げているが、私ともう一人の従兄弟は、ちなみに九割方標的にされていた。
別段嫌なだけでもないのだが、偶に本気で傷付く事もあり、私はよく悔し泣きをした。
母と私もそんなやり取りが当たり前だった。喧嘩をすれば容赦なく相手をやり込め、ケチョンケチョンにコキ落とす。
 女の子という物はある程度の年頃に成長すると、母親の嫌な部分ばかりが見えてくる。子供時代は母親命だったはずが、成長し、母の実態を知るようになり、母の欠点なども知るようになると、多かれ少なかれ母に嫌悪感を持つ物だ。
母親に女を感じ、行動や言動に矛盾を感じたりすると、無性に反発し、わざと逆らいたくなる。
母と私は若い頃、良く取っ組み合いの喧嘩もした。
そんな母と私だったが、反発は愛情の裏返しでもあり、相手が心底憎い訳や嫌いなだけでは無い。心の芯では大好きなのだろうが、やはりお互い今更素直になるのが恥ずかしいのだ。
そんな母の呪縛から解放され、もう二度と文句を言われる事も無くなり、母と喧嘩することも無いのだろう。
でも、そう思うと無性に寂しくて堪らないのだ・・・。
 
此処で母の最期の日の事を書いておこう。
余りにも立派な最期だったから、母を褒めてあげたいのだ・・・・・。

当日朝、担当医師から電話があり、
「今日辺りが生命力の限界だと思われますので、病院へお急ぎください。もしも知らせたい人が居たら呼んであげておくと良いでしょう」と言われた。
いよいよ来るべき時が来てしまった・・・!
私はこの時点で少しだけ泣いた。
親戚中に電話し、熱海の母の友人にも電話し、姉にもお義父さんにも連絡し、そして小学校に息子を迎えに行き、覚悟を決め、母の病室に向かった。
いつもの大部屋ではなく、母は個室に移されていた。それが何を意味するのか、私には解り過ぎるほど解っていた。
意を決して病室のドアを開けると、医者の言葉からは想像も付かぬほど母は元気そうに見えた。
母は右手の親指を上げ「オッス♪ 来てくれたんだぁ」と、おどけて言い、息子の頭を撫ぜ、にっこりと笑う。
「ありゃりゃ? 随分元気そうじゃん!」私がそう言うと、母は「そうでもないのよ」と顔をしかめ「アタシ、多分今日辺りダメみたいよ・・・。昨日なんか食欲旺盛で、カツ丼半分も食べられちゃったのにさぁ」と子供のように膨れっ面をし、口をへの字に曲げた。
下手なごまかしや慰めは無用な親子だ。
私は、表情をわざと変えず。
「そんな予感がするの?」と聞いてみた。
「うん、これが何となく判るんだなぁ〜。自分の命が終わる時って・・・」
母は人事のようにあっけらかんと言う。
「ねぇ? 死ぬってどんな気分なの? 死ぬのって怖い?」私は涙ぐみそうになるのを必死で堪えながら母に聞いた。
「ううん、ぜぇ〜んぜん怖くなんか無い。ただ、痛かったり苦しかったりするのは嫌だよねぇ。もしもアタシが唸っていて痛がってるんだと感じたら、薬(モルヒネ)を足してもらってね」
「うん・・・、解った・・・。そうする・・・・・・」
私は泣いてはいけないと、欠伸の真似をした。
すると母は少し眠ると言い眠りに入った。
私は息子に「御祖母ちゃんの顔をしっかりと覚えておきなさい。御祖母ちゃん、もう直ぐ会えなくなっちゃうんだからね・・・」そう耳打ちした。
息子ももう四年生だ。祖母の病気に付いて理解はしている。息子も必死で涙を堪えている。
私達は母の眠る間、母の寝顔をずっと胸に焼き付けながら、個々に思いを廻らせていた。
二時間ほど眠っていた母が唐突に目を覚まし、私に手招きをした。
「ん? 何?」母の脇に跪(ひざまず)くと、いきなり母は枯れ木のような細い手で私の頭や頬を撫で繰り回しながら、とても柔らかい声でこう言ったのだ。
「アンタ、大変な時期だったのに本当に良くやってくれたよね。ありがとうね・・・。アンタにはとっても感謝してるのよ。アンタは本当に優しくて良い子だ。今まで口うるさい事ばかり言って来てごめんね、でもアンタ生き方が下手糞だから心配で仕方無かったのよ。だからこそ口うるさく言って来たんだから、解ってよね?」
母は一気にそう言うと、静かに泣いた。
 此処で我慢していた糸が一気に切れ、爆発し、私は母の頬に自分の頬を寄せ、思い切り泣きじゃくった。
まるで母の子宮に戻り、私は胎児になり、産声を上げているかのように、私はひたすら大声を上げて泣き喚いた。
 もしかしたらこれは本当の私の産声なのかも知れない。私は泣きながらそう感じていた。
生まれて初めて何の抵抗も照れも無く、母に思い切り甘えすがり、泣いている。
そうだ、これが私の産声なんだ!
母のその言葉で、私は母の全てが許せ、母が堪らなく愛しく思え、母に愛されていたと言う事を純粋な魂で受け止められた。
次に母は息子を呼び寄せ、やはり息子の頭を撫で「お母さんに心配掛けないように言う事を聞いて優しい子に育つのよ。アンタのお母さんは弱虫のダメ人間なんだから、アンタがちゃんと守ってあげなくちゃね」そう言った。そしてしゃくりあげる息子と、指切りげんまんをしていた。
 こうして母は私にも孫にもちゃんとお別れを言い、又少し眠くなって来ちゃったと言い、再び眠りに付いた。
この辺りから母は昏睡と覚醒を繰り返し始めるようになった。
 午後になり、続々と病院に駆けつけてくれた親族其々に、母はお別れの挨拶を交わし、医師の言う通り夕刻過ぎになると母は完全な昏睡状態に陥った。
 そして、母はさして苦しむ事も無く、皆が見守る中、穏やかな顔で眠るように息を引き取った。
 ある意味自由奔放に生き、勝手に病気になり、勝手に死んでしまった我侭な母。
大好きな人々に周りを囲まれ、大好きな事のみを選び、思いのままに突き進んできた母。
最後まで贅沢な暮らしをさせる事も親孝行も出来なかったが、きっと母の人生は、あれはあれで充分幸せだったのではなかっただろうか? そう思える。
彼女は言っていた。
「アンタ達の側で常に見守っているからね。だから幽霊になって出ても怖がらないで」と・・・。
昌子、今まで育ててくれてありがとう。
貴女はやはり、大好きでステキな母親でした。
どうか安らかに永眠してください。
 母昌子死去、享年六十二歳。

続く


2006年12月09日(土)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【笑顔のご対面】

 母は治療の為の入退院を何度か繰り返しながらも、長い年月、小康状態を保っていた。母の療養中、とても好都合な事に、店の有るビルのマンションに空きが出、私達は直ぐに引っ越した。
三階が自宅、一階が店なら、母の事も息子の事も少しは安心しながら働ける。
引越し代は借金の上乗せをする形になってしまったが、これで身体も気持ちも随分楽になれる。
母は退院時には孫の遊び相手になってくれ、体調の良い時は孫と連れ立ち店に降りて来、二人で食事をしたり、カラオケを楽しんでから又三階に上がって行く。
シルバー人材派遣のお婆さんは相変わらず私の家に居付き、格安の給料でお手伝いさんのような役割を果たしてくれていた。
母の誕生日には毎年叔母や従兄妹達が東京から来てくれ、店に集まり、盛大に誕生日を祝った。
夏には親類中が集まり、伯母の箱根の別荘などにも泊りがけで遊びに行った。
たった一度だけだが、母と息子と私との三人だけで、水入らずの一泊旅行にも行って来た。
そして医者から母の命が後半年ほどだと聞かされた時、私達にはちょっとした感動の、再会ドラマが有ったのだ。

実は母には私の他にもう一人だけ、自ら産んだ娘が居る。私と同じ父ではなく、前夫との間に産んだ子で、夫との離婚の際、強引に引き離されてしまった娘だそうだ。
しかし私から見れば父親は違っても、母が産んだ正真正銘の血の繋がった姉である。
彼女は私よりも五歳年上で、母はその子が三歳の頃に離れ離れになっている。
母は彼女の写真を何時も大切に財布に入れていた。私も見た事は有るので、姉の存在は子供の頃から知っていた。
熱海在住で、母とは子供時分からの親友が居り、彼女が松本に見舞いに来てくれた時、「アンタ、別れた娘に会いたくはないの?」と母に聞いたら、母が逢いたいとしみじみ答えたと言う。
それを聞いた母の友人が、熱海に帰った後、あちらこちらに手を尽くし、姉を捜し当ててくれたのだ。
 母は姉が幼稚園に上がるまでの事を知っていた。母の友人はその幼稚園から情報を辿り、姉を捜し当ててくれたそうだ。
私は母が亡くなってしまったら、自分の肉親はもう息子しか居ない。母のお腹から産まれた血の繋がった姉が居るなら、一目だけでも会っておきたかった。
そして奇跡は起こり、姉は見付かった。
 姉は東京の板橋に住んでおり、やはり離婚経験を経て、当時は育ての義母と二人の子供達との四人暮らしをしていた。
お父様、つまり母の前夫は既に何年か前に他界したと言う。
 母の友人に姉の連絡先を手渡され、私は恐る恐る姉に電話をし、母の病状と心情を話した。
すると姉は快く母に会ってくれる事を承諾してくれたのだ。むしろ彼女も母に会いたいと、以前から強く望んでいたと言う。
 後日、新宿のアルタ前で姉と待ち合わせをした時、私に思わず鳥肌が立った。
遠目からだが、私は一目で姉を見付ける事が出来た。何故なら姉は四十代の頃の母そのものだったのだ。余りにも母と瓜二つだった。
私は父親似だが、長年一緒に暮らして来た母と私よりも、母と永い間離れていた姉の方が全然親子だった。
 彼女は二人の子供を連れており、私も息子を彼女達に紹介した。姉の子供は長女が私の息子より一つ上で、長男はもう少し上だ。
TV番組のような涙のご対面とはならず、余りの母とのそっくりさ加減に「ウソォ〜!」を連発し、驚愕笑いの明るいご対面になった。
私達は喫茶店に入り、母の病気の経過を知らせ、姉は、母と別れてからの経歴や今の生活振りなど、詳しく話してくれた。      
 姉は酒が一滴も飲めぬそうで、コーヒー好きでタバコは吸っている。そんな所までが母とまるっきり同じである。そして声や話方までも母そっくりなのだ。
血と言うのは驚異だ・・・・・・。
三十五年間と言う空白が有りながら、こんなにも母に似ながら成長してきた姉を見て、改めて血縁の偉大さを知った気がした。
初対面なのに初対面という感じが無く、直ぐに敬語を排除し、私達は数年来の姉妹のように和気藹々と話をした。
 そしてその足で松本の自宅に行き、母と姉は実に約三十五年振りの再会を果たしたのだ。
この時ばかりは母も姉もうっすらと涙を見せていた。
 姉達はその後も幾度と無く松本を訪れ、息子達も仲良くなり、息子は突然出来た従兄妹達の存在をとても喜んでいた。
 夏休みや冬休みは息子を連れて東京の姉の家に遊びに行ったりもし、私達はごく普通の姉妹のような付き合いを交わすようになった。
 あの頃、後半年と余命を宣告された母だけれど、半年を過ぎた後も母はまだまだ元気だった。
しかし、約一年半が過ぎようとした頃から、やはり母は大分痩せ、食も細くなって来た。
若い頃から体重が四十二キロをオーバーした事が無いというスリムな母は、当時はもう、三十二キロを割っていただろう。
やがて薬の副作用か癌が脳に転移したのか、徐々に母に可笑しな言動が出始め、いよいよ家での静養は無理となった。
母は入院し、多分今回の入院で母は再びこの家に戻る事は無いだろう・・・。私はそんな予感がしていた。
 この頃、丁度バブルの崩壊があり、店を維持するが大変になって来ていた。
人気者だったアルバイトが結婚を期に辞めたりすると、客足にも左右した。店ももう開店してから四年が経過していた為、手直しをしなければならない所なども出始めていたが、そんな余裕はとても無かった。
仕方なくアルバイトの人数を減らしたり、仕入れを抑えたり、経費の節約をしてはみるのだが、それはそれで活気不足という事態を招き、客離れも起こり始めた。
 母の容態が悪化するに付け、私も店に出られぬ日などが増え、益々経営は苦しくなった。
 給料も遅配する事などが度々有ったが、内情を知っているアルバイト達は誰一人文句も言わず、一生懸命私の留守を守ってくれていた。
あの頃の危機を何とか乗り越えられたのは、優しい気持ちを持ったアルバイト達のお陰だ。
 そしてついに発病から四年半の歳月を経て、母は私を置いてきぼりにし、アカンベーをしながら、独りサッサとあの世に旅立ってしまった。
それは雪の舞う2月の寒い日だった。


続く


2006年12月08日(金)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【ぐうたら神よ、いい加減にしろ!】

 私の店が開店して僅か一ヶ月目という時、ぐうたら神は又しても私達に大きな試練を齎した。
何と母が進行性の子宮頸癌に掛かっている事が判明したのだ。医者嫌いだった母を強引に説得し、大学病院で診てもらった時には、もう、かなり母の癌は進んでいた。
 やっと悲惨な形での離婚から立ち直り、息子も引き取れ、私に念願だった店が持て、母もようやく仕事を引退させ、これからやっと私達の暮らしが良くなって行けると言う希望が見え始めた段階なのに何故!
一体私達が何の悪い事をしたと言うのだ!
 ぐうたら神よ、アンタは今迄何度も何度も私に容赦のない意地悪をして来た。私の人生は常に玉突き式踏んだり蹴ったりの連続だった。でも、私なりにその時々、不器用ながらも精一杯頑張って来たじゃないか!
 何故この期に及んで母を癌にした! 何故この時期じゃなきゃいけない? 何故私達に安息の時を与えてはくれない! いい加減にしろよ!! 
私は心の底からぐうたら神を罵倒した。
 息子はまだ小学校に上がったばかり。店と家とは同じ通りのすぐ近所とは言え、夜、幼い息子を一人だけにさせておく訳には行かない。
店は開店したばかりで大変忙しく、料理を作れるのは私だけなのだ。私の存在は店に取ってまだまだ必要不可欠だった。
お義父さんも私達が松本に住んでからは、来る回数もめっきり減り、数ヶ月に一度くらいの割合でしか来られなくなっている。私には誰一人松本に身内も居ない。
こんな状態の中で、一体私にどうしろって言うんだよっ!
どうしたら良い! どうしたら良い! どうしたら良い! 私はパニックだった。
 私はず保険会社を辞め、シルバー人材派遣センターから住み込みのお婆さんを雇い、夜は彼女に息子を見て貰う事にした。
そして母を入院させ、手術を受けさせ、店の管理・息子の世話・食道楽だった母への料理の差し入れ・母の借金も含めた支払いのやりくりと、私がやらなければならない事が急に増え、私は四苦八苦だった。
 折角息子も他人の手を借りずに育てられていたのに、又しても数時間とは言え、他人の手に委ねなければならなくなった。
それよりも何よりも一番厳しかったのは、いくら売り上げが良くても、自分の返済分だけでもやっとだったのに、母の分の返済や、母の店の家賃、入院費、住み込みのお手伝いに支払う給料等が増えてしまった事で、少しも生活に余裕が持てなかった事だ。
店の仕入れや従業員への給料等全て含めれば、月に出て行くお金は膨大だった。
 母はそれでも無事に手術を終え、人口膀胱を着ける身体となったが、元気で退院する事が出来た。
その年の夏の終わり、母の生還祝いと、私の誕生日と、店の一周年記念を兼ね、私自身が歌うと言うライブパーティーを企画した。
 駅前のホテルのラウンジでピアノを弾いていた女性ピアニストの腕前に聴き惚れ、私は必死に彼女を口説き落とし、伴奏を受け持ってもらった。そしてそのご主人にはベースを担当して貰った。
余談だが、彼女は後にジャズ狂の私の従兄弟の口利きで東京に進出し、Jazzのライブハウスでピアノを弾くようになり、やがては外国の有名アーティストに認められ、Jazzピアニストとしてメジャーデビューを果たしている。
私のライブパーティーは、お客様には五千円でチケットを買って貰い、ワインの飲み放題とビーフシチューのディナーを付け、一日二回と言う入れ替制で執り行われた。
チケットは一枚残らず完売し、私はシャンソンをメインに1ステージ十二曲ほどの歌を歌い、とても盛況で感動的なパーティーになった。
ステージの終わりに飛び入り参加をした母は「皆様、一度は三途の川を彷徨って来た私ですが、皆様のお陰で無事に生還してまいりましたぁ〜」と、挨拶をし、母の得意な【ろくでなし】を皆の前で熱唱した。
客達は一様に涙を流し母の生還を喜んでくれ、母は私以上の絶大な拍手を浴びていた。
どうやら母に主役を取られてしまったようだ・・・・・・。
あの時の素晴らしいパーティーを、私は生涯忘れる事は無いだろう・・・・・・。
あの日こそ、私が十三年間経営して来た【エポック】での、一番素晴らしい想い出の日となったのだから・・・・・・。


続く


2006年12月07日(木)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


 【子育ての憂鬱】

 母の店はいつも様々な客で賑わっていた。
客層は信大生を始め、医者・画家・漫画家・近所の同業者・カメラマン・TV局のスタッフなど、都会的な雰囲気を持つ母は、何処か毛色の変わった客を集めていた。
 私には辛口だけれど、他人には殊の外理解力の有る母は、新宿の母ならぬ、松本の母よろしく、客達の愚痴や悩み事などにも良く耳を傾けていた。母にこき下ろされたり叱られに来るのが楽しみだという学生なども大勢居た。
母の歌のファンも多く、母の歌を聴きながら涙を浮かべている年配の女性客なども何度か見掛けた事が有る。
母は若い頃、進駐軍の慰問などでジャズを歌っており、ソシアルダンスなども得意だ。彼女の持ち歌はサザンオールスターズのレパートリーから始まり、Jazz・シャンソン・時にド演歌等も出没する。母には独特の感性があり、学生達にも若手の客にも慕われ、母はちょっとしたアイドル母ちゃんだった。
 一方私が勤め始めた店も、大きなステージを構えた大型のパブ店で、船内を模った内装に、水兵さんのようなパンツスーツを着た店員達が接客をするというそのユニークさが受け、かなり連日流行っていた。
そのパブは食事も出来、飲んで食べて歌えると言うリーズナブルなパブだ。なので若い女性のグループ客にも人気だった。
母同様、私も歌は得意とし、店では良くお客のリクエストを受け歌っていた。その頃の私は年齢的には二十七〜八の女盛り。まぁまぁスタイルも良かったし、性格的には毒舌で色気は無いのだが、これでも結構モテた方だ。
 そのパブに勤めて二年が過ぎ、借金も大分減り、いよいよ私は二歳に成長した息子を乳児院から引き取る事になったのだ。
どれほどこの日を待ち望んだ事だろうか。
が、しかしだ、いざ「ハイよろしくね」と息子を手渡された物の、嬉しい反面、正直多くの戸惑いが有った。
乳児院にいる間、週に三度ほど面会には行っていたのだが、息子と寝起きを共にしたのは生後二ヶ月までだけだ。二年も離れ離れになっていると、親子と言う感情が希薄になる。
この先、私の手だけで立派に育てて行かなければならないと思うと、不安だらけだった。
 先ずは経済的にまだ余裕が無かった事。私自身が愛情欠落のハチャメチャ家庭で育ったので、自分が受け取っていない体験をどう息子に与えたら良いのか全く解らないという戸惑い。今日から母として生きなければならない事への強いプレッシャー。自由な時間が削られる事への戸惑い、この子に心からの愛情を注いでやり続けられるだろうかと言う漠然とした怯え・・・、等など。
それらが頭を渦巻き、やっと子供を引き取れたと言う喜びとは裏腹に、その責任に重さを感じた。
 母も子育ては決して上手くなかったので母のアドバイスは余り参考には出来ない。
彼女自身も産みの母とは多感な時期に引き離されており、十分な実母の愛情は受けていない。母もきっと、自分が貰っていない物を私にどう与えて良いのか解らないで来たのだろう。
代々がそんな母性愛に希薄な家系なので、もしかしたら私も母も、母性本能その物が無い訳ではないのだろうが、子供との向き合い方がとても下手糞なのだ。
自分達の中に(何をさて置いても先ずは子供が優先!)などと言い切ることが出来ぬ何かがある。
 病気になったらどうしよう、働いている時間はどこに預けたら良い、どうやって育てて行けば良いだろう、何もかもが手探りだった。
 私は取り合えず、引き取った息子を夜は社長宅で見て貰い、昼の勤めの間は母や友人達の手を借り、息子との生活をスタートさせたのだ。
 色々な人の手(愛情)を借り、様々な人間の感性と接しながら育って行く息子は、とてもチャーミングでユニークな息子として成長して行った。
息子は親馬鹿ながら、とても可愛い顔をしている。そして人見知りもしない。なので多くの人に可愛がられた。でもやはり、一番大切な時期に私が傍に居てやることが出来なかった為か、多少情緒に不安定な所も有った。
 一体息子を幼稚園に上がらせるまでに、何人の手を借りた事だろう・・・。
 やがて息子が幼稚園の年長の頃、母の店は数人の大学生に任せ、母を店から引退させ、私と母は一軒家を借り直し、一緒に暮らすようになったのだ。
 母に息子を見て貰い、私は昼夜努めに出る。そして幼稚園への送り迎えも母が担当してくれていた。
ようやく息子も他人の手を借りずに我が家だけで育てられるようになった。
 そして息子が一年生に上がった頃、私にも店を開くチャンスが訪れた。
母の店から徒歩三分。自宅からは徒歩一分という正に好都合な場所に、良い物件が見つかった。不動産屋の案内で見に行くと、そこは和風の造りのスナックだったが、一八坪ほどの広さも有り、家賃は十三万とそう高くはない。
立派な保証人が二人付き、私は銀行から九百万ほどのお金を借り、その店の権利を買い、内装を洋風に変え、兼ねてからの念願だったピアノを備えた洋風居酒屋のオーナーとして、人生の再々スタートを切ったのだ。
店名は母の店と同じ【エポック�供曚箸靴拭�
店内は和風の骨組みを活かし、色彩をモノトーンに統一し、奥の壁際にはピアノを置き、大正ロマンを匂わせるようなアンティークで、それでいてどこか新鮮で温かみがあるような素晴らしい内装の店に仕上がった。
男女のアルバイトも五〜六人揃え、ジーンズに店のロゴの入りのTシャツをユニフォームにし、私もそれと同じ物を着、店は好調なスタートを切った。
店には八畳ほどの厨房もあり、料理の得意だった私は、多種の手作りフーズメニューを店の売り物にした。
客単価二千円〜三千円で楽しく飲んで食べて歌える店として、エポックは人気を集めた。
比較的若い客層が多かったが、フレンドリーでアットホームな雰囲気が買われ、店は連日満席と言う順調さだった。
 この時も、そのすぐ直後に訪れる壮絶な出来事など、私は想像すらしていなかった。

続く


2006年12月06日(水)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【自殺未遂、そして悲惨な離婚】

 新築した家に移り住んだ私達の五年間は、安泰で幸せだった。
 母同士のトラブルも無く、夫婦仲も安定し、家のローンもスムーズに支払えていた。
貯金こそ大して出来なかった物の、それでも生活に困るような事は決して無かった。
 しかし私が二度目の妊娠をし、今度こそ!と、子供を生む決意をし、仕事を引退した後、人生最大の残酷な試練が訪れた。
この時、ぐうたら神が私に与えた試練は、試練続きの私の人生の中でもベスト1だ。
そう、あれは確か私が二十六歳で、妊娠4ヵ月の頃の事だった・・・・・・。
 夫の仕事先の社長が、突如行方をくらませてしまうと言う事件が起こった。いつも通り出勤したら会社が閉まっていたと言う。
結局その後社長の行き先は解らず、夫は突然本職を失ってしまったのだ。
彼の収入はクラブのボーイのバイト代だけとなり、様々な支払いに遅れが出始めた。
慌てて仕事を探すも上手く行かず、徐々に家のローンは滞納し始め、私達の生活は一転した。
 義母はもう年なので働けない。私は再び流産の危機に曝され、一ヶ月ほど入院した。なので退院後も私は安静を強いられており、働く事など到底無理だった。
私の母のパート収入と夫のバイト代だけでは生活費がやっとで、ローンを支払うのもままならず、住宅ローンや車のローンなど、どんどん払えぬ物などが溜まって行く。
その状態に夫はパニックを起こし、なす術も無い。
何度と無くお義父さんの助けも借りたが、彼も決して金持ちの訳ではない。   
お義父さんは以前、実家のマグロ屋を家出同然で飛び出し、自分で事業を興したのだが、大津波が原因でその工場を根こそぎ持っていかれ、倒壊させており、億単位の借金を背負った経歴の持ち主だそうだ。彼自身が未だ返済している身であり、とても経済的に頼れる存在ではなかった。
こんな時こそ夫の踏ん張り時なのに、夫は情けの無い人間だった。
そしてやっと見付けた仕事も昼間の仕事ではなく、クラブが終わった後の深夜スナックのバイトで、夫は益々深夜型の人間になって行く。そしてついに夫は、勤め先のクラブの新入りホステスと不倫関係を持つようになったのだ。
夫の浮気が発覚したのは、やっと流産を免れ安定期に入った直後である。
二人に初めての子供が産まれると言う時になって、何ていう事を・・・・・・。
私はせり出すお腹を見ながら、ショックと不安に打ちのめされた。
そして、たった二百万足らずの滞納金に精神が圧縮状態になった夫は、有ろう事か、自分の母まで家に残し、女性のアパートに転がり込み、殆ど家には帰らなくなった。
相手の女性と夫との三人で話し合い、別れると言う約束を取り付けた事も有ったが、それは単に口先だけだった。
 私は後一ヶ月後に子供が生まれると言う段階になり、絶望感と今後に対する恐怖心で心身喪失状態になり、生まれて初めて手首を切り、安定剤をありったけ飲み、自殺未遂を図ったのだ。
 ベッドが鮮血で染まり、意識が遠のき、私の頭の中には、何故あの時夫と復縁をしてしまったのだろう・・・。何故あの時夫を許してしまったのだろう・・・。そんな後悔の言葉だけがぐるぐると廻り続けていた。
私が死んでも、お腹の子供はきっと医者が助けてくれるだろう・・・。そうしたら二人で一生涯、罪の意識に苛まれながらこの子を育てて行けば良い。それが夫と女に対する最大の復讐のような気がしてならなかった。
しかし異変に気付いた母が救急車を呼んでしまい、私は病院に運ばれ、八針ほど手首を縫い、胃洗浄を行っただけで意識を取り戻し、死ぬ事すらも出来なかったのだ・・・。
それから一ヵ月後、同じ時期に出産予定の幸せそうな夫婦達に周りを取り囲まれながら、一人孤独な失意の中、激しい陣痛と心の痛みを伴い、私は息子を出産した。 
 借金だらけの家を抱え、乳飲み子を抱え、母と義母までを抱え、私はこの先どうしたら良いのか、全く解らなかった。
 病院に入院中、夫は二〜三度ほど顔を見せた。
夫は子供を抱き、「俺にそっくりだな」などと言っていたが、しかし、その後夫は私と母の留守中こっそりと義母を連れ出し、浮気相手の女性と義母との三人で、横浜に駆け落ちしてしまったのだ。
私は友人に伴ってもらい、夫達の行く先を突き止め、私達は正式に協議離婚をする事になった。
夫は家の権利を放棄し、全て私に委ねると言う。しかし借金だらけの家の後始末を一任されて嬉しいはずも無い。 
 家は直ぐに差し押さえられ、競売に掛けられ、母と二人、心身共にボロボロになりながら家具の後始末や家の掃除をした。そして私は二百万の借金を背負わされたまま、家は人手に渡った。
結局私達は住む家も無くなり、母は伯母からお金を借り、アパートに移り住み、カウンターだけの小さな店(エポック)を持った。
そして私は住む場所と仕事を確保する為、後ろ髪を引き千切られる思いで、まだ生後二ヵ月と言う乳飲み子の息子を乳児院に預け、人生の再スタートを切る事になったのだ。
当時私は二十七歳だった。

 私は暫くの間、母のアパートに身を寄せながら、以前勤めていたクラブに戻り働き始めた。 
夫を奪い、私達をこんな目に合わせた女性が勤めていたクラブで働くのは正直辛かった。そして根本的には、客席に着いて接客サービスをするホステスという仕事も私は好まなかった。ただ、その女性の情報を少しでも探りたいと言う気持ちも有り、又、生活の為でも有り、私はあえてその店に戻ったのだ。
夫を奪った女性は元産婦人科の看護婦だった。本来なら産まれて来る子供に何が必要なのか、一番理解出来うる立場の女性である。
彼女は当時、既に夫の子供を妊娠していたらしく、私の子供が生まれた数ヶ月先には、彼女も夫の子供を産んでいる。その後、彼女は更にもう一人子供を生んだらしいのだが、やはり夫とは上手く行かなかったようで、後に二人も離婚をしている。
人を不幸に陥れ、その引き換えに奪い取った幸せが、そう長くは続くはずが無いという事を、私はこの時改めて知らされた。
きっとぐうたら神は、あの二人にも公平な天罰を与えてくれたのだ・・・・・・。

当時、クラブの客に私の事を大変気に入ってくれた人物が居た。彼は松本の水商売の草分けとまで言われていた人で、市内に数店舗の店を経営しており、かなりやり手で名の通っていた人だ。しかし彼は、古き良き時代からの正統派の水商売を全うして来た人で、夜の世界のあくどさや、ずるさや、怪しげな匂いなどは一切放っていなかった。
私は彼に引き抜かれ、新規にオープンすると言うレストランパブの店長補佐のような形で彼の店に努め始めたのだ。そして彼が出してくれた支度金でアパートも借りる事が出来た。
昼は保険会社に勤め、夜はそのパブで働き、深夜は母の店を手伝いながら、私は借金を返済すべく頑張っていた。
 乳児院には週に二〜三度ほど面会に行き、必死で息子との距離を手繰り寄せていた。
しかし、無邪気な息子の顔を見る度、何故この子と私がこんな思いをし、離れていなければならないのだと言う理不尽な怒りが込み上げる。
そして多分夫は、産まれて来たであろう子供と新しい妻と、何食わぬ顔をして何処かで幸せに暮らしているのだ。
夫とその女性の事は一生許さない。私は初めて、人を恨むと言う感情を覚えた。
 一心不乱に私の乳首に吸い付いて来る赤ん坊の顔は愛らしく可愛く無邪気だった。その無邪気さが余計私の怒りを膨張させた。
しかし、何時までも被害者ぶって泣いている訳には行かなかった。
この子の為にも早く立ち直り、幸せにならなきゃ!

続く


2006年12月05日(火)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【夫に復縁迫られる!】

 松本に来たのは生まれて初めてだった。
四方を山々に囲まれた素晴らしく美しい街で、空気が澄んでいてとても美味しい。
友人の実家はクラシカルな純喫茶を経営していた。私は先ずはそこへご挨拶に行った。
この時にとても面白いエピソードが有ったので、それを一つ書く事にしよう。
店でコーヒーを飲んだ後、店の裏口の玄関に回り、私は玄関先でお父様にご挨拶をしたのだが、持っていた手土産を渡そうとすると、お父様が掌(てのひら)を上下にヒラヒラ動かしながら「まぁ、まぁ、おきましょう」と言うのだ。
「・・・・・・?」
おきましょうって、どういう意味だろうか? まさか玄関に置けと言うことでは無いだろうが、それでももしかしたら松本特有の変わった風習なのかも・・・そう思い、私は首を傾げながらも手土産やらハンドバッグ等を直に玄関に置いたのだ。
そう、匂いを微かに放つ靴と靴の間に・・・。
そうしたら今度はお父様が「・・・?」と首を傾げなすった。
私達は数秒間、互いの視線を絡ませた。
そうしたらお父様がゲラゲラと腹を抱え笑い出したではないか。
どうやらおきましょうと言うのは、物を置く事ではなく「そんなお気遣いはいいのに」と言う遠慮を表す方言だったらしい。
そうとは知らず、玄関の靴類の間にケーキを置いた私は何なのだ!
松本には訳の解らない方言が多すぎる。(笑)
南松本にアパートを借りた友人宅に居候し、私は彼女の伯父さんが教官を勤める自動車教習所に免許を取るべく通いながら、夫との事を考えていた。
そして私の結論は離婚する方向に傾きかけていた。しかしどう切り出して良いのか悩みだった。私は彼を心底嫌っていた訳ではない。面と向かってそれが言えるかどうかだ。
当時、教習所に掛かるお金や食費等は、彼女のお母さんが紹介してくれた市内の古ぼけた小さなクラブで、ホステス兼歌のアルバイトをしながら稼いでいた。
 そんなある日の事。早朝、彼女のアパートのチャイムが鳴ったのだ。時間が時間なので彼女の親類に何かが遭ったのかと彼女が血相を変えて出て見れば、何とそこには私の夫が立っているではないか!
夫はいきなりその場に土下座をし、私に戻ってくるよう哀願したのだ。
 こうなると意思の薄弱な私は、ついつい情に絆だされてしまうのだ・・・・・・。
こんなに遠くまで追いかけて来たこと自体で許せてしまう。
 二日間ほど話し合った結果、双方共親元を一度離れ、二人だけで結婚の再スタートを切るなら復縁しても良いという条件を私は出した。そして彼もそれを納得し、新たな生活を松本で始めたのだ。
 彼女の家にいつまでも夫婦者がお世話になる訳にも行かず、教習所も途中だったので、私は店から前借をし、私達は小さなアパートを借りた。
そして行きがかり上、そのまま松本で第二の人生を歩む事になってしまった。
 私は相変わらずクラブで働き、夫は宝石店に勤め、夜はレストランの臨時ボーイとして働いた。新婚時代は二人だけになれる事があまり無かったので、共稼ぎとは言えど、夫婦水入らずの生活はとても新鮮だった。
新婚気分を満喫し、生活も安定し出し、そんな暮らしが数年続いた。
しかし時が経つにつれ、やはり東京と横浜に置いて来た双方の母達の事が気に掛かる。
 横浜の家も中野の家も借家なので、その場に固執する理由も無く、母達はどこに住んでも同じ事だった。それならいっそ二人共、空気の良い松本に呼んであげちゃうか、という事になり、私達は大きめの一軒家を借り直し、互いの母達を松本に呼び寄せたのだ。
お義父さんも母の事ばかりに気を掛けている訳にも行かず、心の何処かでは微かにそれを望んでいた節も有った。なので母の松本行きには大した反対は無かった。
 夫の母と私の母は、親子ほど年齢が違うし、性格も真反対なので、もしかしたら一緒に暮らしても結構上手くやって行けるのかも知れないと言う思いが有った。
実は彼の母親は彼の実母ではなく、長い間子宝に恵まれなかった初老の夫婦が教会を通じ、ある夫婦の子供を養子縁組し、まだ赤ん坊だった彼を引き取り育てたのだそうだ。夫は本当の両親の顔は写真でしか見た事が無いと言う。
彼の養父は既に亡くなっており、それからは、義母一人の手で苦労をしながら彼を育て上げたのだそうだ。だからこそ、義母に対する彼の愛情や恩義は、一方ならぬ物があった。
彼の母は私達の祖母くらいの年齢で、性格は大人しく、つつましく控えめな人である。
一方私の母は行動的で社交的で現代的な感覚の持ち主だ。なまじ似通った性格でない方が上手く行く場合が多い。
どちらにしてもずっと離れた事の無い母子同士なので、皆で仲良く一緒に暮らすのが一番良い事なのだと考えたのだ。
 二人の母を迎え、私の母はスナックの厨房でパートをし、彼の母には家事を手伝って貰いながら四人の新たな生活が始まった。
 それと同時に私は少し上ランクのクラブに勤め先を変え、後に夫も、その店のボーイとして時々アルバイトをする事になった。
後に夫はその店の常連客から引抜があり、給料の安かった宝石店を辞め、その客の経営する内装会社の営業マンとして勤め始めたのだ。  
彼の母を除く三人が働いていたので、経済的にも余裕が出来、まずまずの生活振りだった。
 丁度その頃、私達夫婦に大手建設会社の部長である常連客から、いっその事頑張って家を建てて見たらどうか? という話が持ち上がったのだ。
 松本はとても家賃の高い地域で、当時の一軒家の家賃も十万を越えていた。
それに四〜五万足せば、自分達の持ち家が新築出来ると言うのだ。
松本駅から車で十分ほどの場所に良い土地が見付かり、私達の夢は一気に膨らんだ。
家を新築する話はとんとん拍子に進み、そして私達は共同名義で家を建て、二十歳代にして一家の主となったのだ。

続く


2006年12月04日(月)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


 【父の死、そして結婚】

 ある日突然、父の愛人から半狂乱な声で私宛に電話が入り「パパが大変! 今すぐ○△病院まで来て頂戴!」と告げられた。
その瞬間、胃の辺りに鈍い圧迫感を感じ、私はとても嫌な予感がした。
父の体調が優れぬ事は度々愛人に聞かされ知っていた。
私は取る物も取らず、慌てて病院に駆け付けたのだが、もうその時には既に父の息は無かった。
あんなに大好きだった父が、あんなに優しかった父が、こんなにもあっけなく死んでしまったのだ!
当時私には婚約者が居り、結婚を目前に控えていた。父の死は、彼の事を父にも近々紹介しようとしていたその矢先の出来事だった。
父の死因は肝硬変。享年僅か四十五歳。
酒の飲み過ぎが原因だった。
いかにも父らしいドジな死に方だった・・・。
その日、大量吐血をした父は、そのまま意識が混濁し、救急車で病院に運ばれたと言う。
以前にも一度、微量だったが吐血をしたと言うので、お酒は控えるようにと散々注意をしていたのに・・・・・・。
病院で昏睡状態の中、愛人の名ではなく私の名を四度呼んだと言う。そして大して苦しむ事は無く、父は息絶えたそうだ・・・・・・。
父の顔は片方だけうっすらと目を開き、唇は少し歪み、私には少し微笑んでさえ居るように見えた。
「ハチ(私のあだ名)婚約おめでとう。絶対に幸せになるんだぞ! パパは先に行くけど、いつもでもお前を見守っているからね!」
父の死に顔はまるでそう言いながら、私にウインクをしているようだった。
私は父の頭を撫でながら、思い切り泣いた。今でもその死に顔は、私の記憶のアルバムの中に、しっかりと焼き付いている。
どうしようもないけど何故か憎めない、チャップリンのようなペーソスを持つ父が、私は大大大大大好きだった・・・・・・。
優しくて、寂しがり屋で、可笑しくて、不謹慎で、情けなくて、面白い事を言って人を笑わせてばかりいた父・・・。
もう二度と父に会えないのだ・・・。
今度こそ永遠のお別れなのだ・・・・・・。
私の結婚式には、私の正式な父として堂々と出席して貰うつもりでいたのに・・・・・・。
私は父の死から数ヵ月後、まだまだ大きな喪失感を抱えたまま、信濃町の教会で結婚式を挙げた。

 私の夫は五歳年上で、広告代理店の営業マンだった。
夫が私の友人に連れられ、中野の母の店に飲みに来たのが彼との出会いだ。
私は自分で言うのもなんだが、中々歌が得意だ。歌う事が三度の飯より大好きなのだ。
それを知っている友人が「今度ギターの上手い友人を連れてくるよ」と言い、彼を連れて来た。
私は彼に先ず一目惚れをした。私の大好きだった映画俳優のピーター・オトゥールに良く似ていたからだ。
彼は人懐っこく、気取らず、ユーモラスで、楽しくて、第一印象も悪くは無かった。
当時はまだカラオケなどは無く、少しお洒落なレストランパブなどに行くと、ギターやピアノの弾き語りが居て、客もその演奏で歌えたりしていた。私は何度か母にそういう店に連れて行ってもらい、いつかは自分でもそんな店が持ちたいと憧れていた。
彼のギターは確かに上手で、彼の伴奏で母や私がジャズやポップスを歌い、満席だった店内は大いに盛りあがり、とても楽しいひと時を過ごした。
聞くところに寄れば彼も母子家庭で育ったらしく、共感できる部分が多く、音楽的な好みも似通っていた。私達は直ぐに意気投合し、強く魅かれ合い、結婚を意識しながら付き合い出したのだ。
何れは二人で小さなステージを構えたお店を持とうと言う夢も語り合った。
ふとした瞬間、彼に多面性が有るのでは?と感じる部分も有ったが、あばたも笑窪で、恋の勢いに乗っている内は短所さえも魅力の一部に思えてしまうものだ。彼に神経質な部分や翳りが有るのは、幼い頃の愛情飢餓から来る物なのだ。等と、母性本能までを駆り立てられる。
そんな部分は時々チラリと顔を覗かせる程度で、どちらかと言えば普段はユーモラスで楽しく三枚目の人間だ。ダメ人間でコンプレックスの多過ぎる私には、勿体無いほどの素敵な相手に思えた。 
そして私達は結婚した。
 互いの家庭は貧乏だったが、愛さえ有ればなんのその・・・みたいなノリの結婚だった。
当時の私はまだ二十一歳・・・・・・。
 しかし、若気の至りの勢い結婚は、直ぐに大きな不具合ばかりを呼びおこす。
二人とも母親思いの母子家庭育ちという事で、どちらかの親を立てると、どちらかの親が立たずのような悩みも有った。
どちらの親も分け隔てなく大切にすると言う約束での結婚だったのだが、それが中々上手くは行かないのだ。
彼の家は横浜で、私の家は中野。そして彼の仕事先は新宿で私の仕事場は読売ランドだ。
最初は横浜に住み、二人とも横浜から仕事に通っていたのだが、双方の仕事の都合上、中野からの方がずっと便利なのだ。なので私達は週の半分以上を中野、週末は横浜と言うような二重生活を送っていた。しかしそれでは先方の母が可愛そうだと言う事になる。
 その頃、お義父さんは一時期、何かの事情で来られないような状態が続いていた為、母の機嫌が不安定な状態が続いていた。なので私は私で母の事が気掛かりだった。
 母は中々エキセントリックな人で、お義父さんとの間で何か大きな不安が有ると、安定剤を多量に飲み眠り込んでしまうような怖い癖が有り、当時目が離せなかったのだ。
そして夫自身の性格も、一緒に暮らし始めたら思ったよりもずっと重く、性格の不一致に悩む事が増え始め、この結婚が本当に正しかったのか? という疑問も抱え始めていた。
親思いだと感心させられていた部分は、驚異な迄の母親依存に見え、私を愛してくれて居ると喜んでいた部分には、陰湿な嫉妬深さが裏打ちされていたり、魅力にまで思えた翳りの部分は演技過剰なナルシストとして映り、結婚後僅か一年で、私は彼との将来に自信を無くし掛けていた。
ただ、根本はとても優しく純粋な人間で、学生時代も全然ワルでは無かったし、ある意味繊細過ぎるくらいに脆い人間だった。
気になる部分さえ直してくれれば、結婚生活を続ける事が苦痛なほど嫌ではなかったのだ。
やがて私が妊娠し、夫もそれを大変喜び、専業主婦になり子供でも生まれれば、もっと二人の気持ちが安定するかも知れない。そう思い、それを期に私は、かなりの未練は有ったのだが、水中バレエを退団した。
だが私は妊娠四ヵ月目でかなりの不正出血が有り、私は考えあぐねた末、やはり中絶を決意した。
もしも五体満足な子供で無かったら? そんな恐怖感と、やはり夫を愛し切れては居ないような不安感が、私にそう決断させたのだ。
この中絶が私達の結婚生活を更にギクシャクさせる原因となった。彼も納得した上での中絶だったにも関らず、彼は酔うと「俺の子供を返せ!」と激しく私をなじり、時には暴力にまで及ぶ事が有った。  
 当時母の店に良く通っていた常連客に、私よりも五歳年上の女性客が居た。
彼女は東京の大学に通う傍ら、司法書士の勉強をしていた。
兄弟の無い私は彼女を姉のように慕い、夫の愚痴や母の事での悩みなどを相談していたのだ。
何度か夫婦喧嘩の仲裁をしてくれた事も有る。
 私が今後どうするべきか彼女に相談すると、近くに居れば情にほだされてしまい、冷静な結論が下せないだろうから、少し離れ離れになって考えてみたら? と提案をしてくれた。
丁度彼女が卒業を期に田舎の松本に帰る事になり、空気の違う松本にでも来て、暫く彼と離れてじっくり考えてみたら? という事になり、私は母と数人の友人だけに居場所を知らせ、彼女に連れられ松本に来たのである。
ほんの一ヶ月ほどで結論を出し、東京に帰るつもりでいた私が、まさかこんなにも長く松本に居座り続けるとは・・・・・・。

続く


2006年12月02日(土)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


第二章  悪夢の離婚

【水中バレエ入団】

 再び中野に移った私は高校には進まず母の店を手伝いながら専門学校に通った。
私は異常なほどの動物好きで、トリーマーを目指すべく愛犬専用の美容学校に入学した。その学校は確か二年で卒業だったが、卒業間近にして、私はその学校を退学してしまう事になる。
 ある日の授業中、校長がトリミングのデモンストレーションを皆に見学させていた最中、教材用のテリアが突如校長の手に噛み付いたのだ。校長の手にはポッコリと穴が開き血が吹き出していた。
すると校長はその犬を執拗なまでに殴り、蹴り、犬が泡を噴き失禁するほど迄にその犬を痛め付けたのだ。
その光景を見た途端、私は大きなショックを受けた。
そしてそれ以来学校に行くのが嫌になった。
人間の勝手な自己満足の為にペット達の迷惑も考えず、飾り立てたり縛り付けたりする事自体に何か大きな罪悪感を感じてしまったのだ。
 暫くの間、私は仕方なく母の店を手伝いながらプータロウを続けていた。
私はある日店を訪れた伯母に、私に出来そうな仕事は無い物かと相談してみたのだ。そうしたら伯母の友人に水中バレエ団の団長さんをしている女性が居ると言う。
「確かアンタ、泳ぎは得意だったでしょう? ならば私が口利きをするから、水中バレエ団の面接に行ってみない?」そう言われたのだ。
「水中バレエ? 何それ?」私はその存在自体知らなかった。
 後日、伯母と従姉妹に付き添われ読売ランド内の水中バレエを見学に行った。
 劇場内は映画館のような造りになっており、映画の画面に値する場所が巨大な水槽のガラス面なのだ。
水槽の周りには【表舞台】と呼ばれるエプロンステージもちゃんと着いている。
その水槽と表舞台を使い、衣装を着けた男女の団員達が二十五分間ずつ、途中短い休憩を挟み二作のミュージカル物語を上演すると言うファンタジックな子供向けのアトラクションだ。
劇のテープが水槽内にも流れているらしく、水中で演技をしている団員達は何と台詞や歌に合わせ、口パクまでしている。
 とても美しく、ファンタジックなそのミュージカルに私は大変感動し、魅了され、思わず胸が張り詰め、涙までこぼれそうだった。
「どう? これをやってみる気は無い?」伯母に言われ、私は二つ返事で「や、や、やる!」と応えていた。
 ショーを見終わり、スタッフルームに通された私は団長である玲子先生に挨拶をし、伯母が既に話を通してくれていたようで、いくつかの説明を受けた。
入団に際してはその場でOKを貰え、翌週から正式な団員として読売ランドに通う事になった。
 私が所属していた頃は【浦島太郎物語】と【真珠貝の歌】という二本立てのミュージカルを上演しており、初舞台に立つまでに約半年間の猛特訓を受けた。
 先ず出勤すると朝の朝礼があり、その後、日舞、モダンバレエ、クラシックバレエなどのレッスンが有り、次に水中レッスンをする。
 水槽の深さは十一、七メートル。横二十五メートル、奥行き十五メートルの巨大水槽だ。
客席から見える位置は、水深一メートルから八メートル辺りまでだろうか、画面に隠れた更にその下には、畳一畳弱ほどのエアーステーションと呼ばれる小部屋が左右前方に数箇所有る。そこに潜り込むと胸から上は空気部屋になっていて自由に空気が吸え、会話が出来るのだ。劇中の出番待ちなどの待機場所として使われている。
先ずはそのエアーステーションまで潜り込む練習をするのだが、水深が深くなるにつれ水圧が高くなり、耳に激痛が走るので、数回の耳抜きをしながら徐々に潜って行く。
私は水泳も潜水も得意だったので、それは難なくこなせた。そしてそれがスムーズに出来るようになると、次にフーカーと呼ばれる空気を吸うための道具の使い方の練習に移る。
フーカーとは、長いホースの先にリコーダーの先のような吸い口が付いており、手元のボタンを押している間だけエアーが噴出する道具なのだ。所謂、団員達の命綱だ。
団員達は演技をしながら、そのフーカーを使い空気を吸う。
 浅い場所で練習している内は良いのだが、深くなるほど水圧が掛かる。深い場所では口を開いた途端、水が勢い良く口の中に押し寄せる。水は飲まずに空気だけを吸うのはとても難しい。私はフーカーの練習中、幾度と無く死に掛けた。
練習中は誰もが水中メガネを付けているのだが、劇中は通常、出演者達はメガネを着けない。メガネを付けられるのは、その他大勢の初心者だけだ。なので殆ど水の中では誰もが盲目状態なのだ。何かの色がぼんやりと大きく膨張して見えるだけだ。
水中バレエ団には出演者達の事故防止の為、潜水服とボンベを着けた【水中要員】と呼ばれる歌舞伎の黒子的な役目を果たす人々が数人居る。
彼らは劇には出演せず、客席からは見えぬ位置で皆の目となり手足となり、常に出演者達の身の安全を守ってくれるありがたき存在だ。
最初はその水中要員がマンツーマンで付き、水中レッスンを受けるのだ。
 水中での初舞台までには半年ほどの練習を要したが、エプロンステージでの初舞台を踏めたのは意外に早かった。
初舞台の日、初めて衣装を身に着け、クレヨンを練ったようなドーランで化粧をし、釣り糸の細い物で出来たようなカツラを被り、きらびやかなアクセサリーなどを身に着け、鏡の前に立って見ると、まるで宝塚の踊り子みたいだった。
 私の出番は二度ほどで、エプロンステージでのチョイ役なのだが、それには短い台詞などもあり、私はアガってしまい声が上ずった。
ショーのエンディングには、SKDのラインダンスさながら、ヒラヒラが付いた鈴を持ち、出演者一同が主役級のタレントの紹介を兼ね、ダンスを踊るのだ。
私は緊張で足はガクガク震えるは、鈴は落とすは、シッチャカメッチャカな初舞台デビューとなった。
 やがて水中練習も順調に進み、いよいよ私は水中での初舞台を踏む事になった。
 デビュー初心者は、最後列で皆水中メガネを着け、小さなボンベを片手に持ちながら踊るのだが、そのボンベが意外に重い。
水中では浮力が掛かるので出演者は皆、衣装の下にウエイトと呼ばれる鉛のベルトをしているのだ。空気を吸うと身体が浮上し、空気を吐くと身体が下がる。なので、呼吸法の調節だけで、定位置にピタリと静止していなければならないのだが、それが最も難しい技である。
増してや腹の位置にボンベを持っているのでどうしても重心が前に掛かる。
本来、その他大勢の踊り子達は最後列で踊るのだが、どんどんボンベの重みで身体が前に出てしまう。
後ろに下がろうと思えば思うほど、身体が言うことを利かず前に出て、私は様々な出演者を追い越してしまった。
挙句の果てには主役の乙姫や浦島太郎までをも追い越し、画面である水槽のガラス面にピッタリへばり付きながら、私は一人身悶えていた。
感動場面のラストシーンが私のお陰で喜劇になった!
その様は初舞台を見に来た母や親類達に大いにウケ、かなりの間、何かにつけ話題のネタにされた。
デビューはそんなだったが、器用貧乏な私の事。一年もしない内に役も付き、某TV局で【水中に舞う可憐な妖精】と題し、とあるバラエティー番組のコーナーで紹介され、TV出演した経験などもある。
 二年ほど水中バレエ団に所属し、その間に私は恋に落ち、結婚し、妊娠を期にバレエ団を引退した。

続く


2006年12月01日(金)

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