マキュキュのからくり日記
マキュキュ
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■ 【バカ簡単料理】 青海苔ライス


私が小学校の頃発案した料理で青海苔ライスと言うものがある。
まぁ、小学校の5年生頃に考えた料理なのでバカ簡単なのは言うまでも無いが、あのグルメ思考だった義父もはまり、良くリクエストされて作っていたなぁ・・・。
この前それを思い出し、常連客の二人(D)&(T)に出したら、案外受けた。(笑)
金の取り様が無いほど質素な物だが、私の手間賃と、穢れ無き追憶料として500円ずつ頂いてしまった。

そんな青海苔ライスの作り方を紹介したい。

【材料】

冷ご飯  茶碗1杯半
バター  適量(少し多い目のほうが旨い)
コショウ 結構たっぷり目
醤油   大さじ1
青海苔  大さじ1
好みでにんにくみじん切り 小さじ2


【作り方】

☆ フライパンにバターを熱し、冷ご飯を入れて良く炒める。
☆ ご飯がほぐれたらコショウと醤油を入れ、最後に青海苔をたらふく掛けてよく混ぜて終わり。

と、まぁ・・・、作り方を書くまでの物でもなく、味付けは醤油とコショウだけだが・・・これ、案外旨くてはまります。
にんにくを入れる場合は、最初ににんにくを狐色になるまで炒めてからご飯を入れると良いでしょう。
青海苔は買い立て、封の開けたてが一番良いと思われ、醤油とバターと青海苔の風味が合い交わって、バカみたいに簡単なチャーハンなれど激ウマです。

是非おためしあれ。


2007年01月31日(水)
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■ (日記) 又一軒軒をおろしてしまう・・・・・・


私の店は隣の店のママと共同で水道代を割って払っている。
それが今日集金に来て、ママが、「長い事お世話になったけど私の店、今日で終わりにする事にしたから・・・」と言うではないか!!
「30年近くもやってきた店なのに何故!?」と聞くと、この不況に耐えられない事と、年のせいか身体の自由も利かなくなってしまって来たのだと言う。
ただでさえ不況だった近年だが、飲酒の取り締まり強化から尚更客足が減り、もうそろそろ引き時だと引退を決意したそうだ。

「アンタの所からはしょっちゅうカラオケの音が聞こえてくるけど、お客が入ってて良いわよねぇ・・・」と、集金に来るたび言われていたが、ウチだって平日は暇だし、客単価の安い店なので何時もギリギリの状態で回してきた。
ただアタシはこの仕事が好きだし、この店を無くしたらもうやれることも無さそうだし、他では生きてはいけないという所で踏ん張っているだけだ。
「ママの所もアタシの店も一緒だよ。お互いに頑張ろうね」そう言ってはお互いにため息をついていたのだが・・・・・・。

しかし、寂しくなるなぁ・・・・・・。
隣のママさんは豪傑ママで、面倒見も良かったし、東京で言うなら下町人情に溢れていたような気質の人だった。
アタシは結構好きだったのになぁ・・・・・・。

この所で知り合いの店が一軒、又一軒と軒をおろしている。
明日は我が身なんだろうかなぁ・・・・・・。


2007年01月30日(火)
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■ ヽ(▽^〃ヽ)ヽ(〃^▽^〃)ノ(ノ〃^▽)ノ ワーイワーイワーイ♪


1年ほど前、息子にお古のプレステ2を貰った。
殆ど亭主の玩具になっているが、アタシラ良い年こいたゲーマー夫婦は、もっぱら日曜日になるとミンゴルで負けた方が食事担当と言うようにそのゲーム機を幅広く活用していた。
今年の正月、息子が帰ってきてアタシラ夫婦に一つずつ、コレマタ中古のゲームソフトをプレゼントしてくれたのだ。


亭主には「龍がごとく」と言うヤクザ系バトルゲームで、アタシには題名は忘れたが、オカルチックな謎解きゲームで、互いに夢中で励んでいたのだが・・・・・・、なぜか良い所で読み込まなくなってしまった!!!
プレステ2なのにプレステ1用のソフトは読み込むのに、2用のソフトは全く読み込まない。

折角あそこまで進んだのにぃ〜〜〜〜〜〜っ!!
ストライキを起こしたままウンともスンともいってくれない。
この歯がゆさ、悔しさ、無念さ、解ります???
むろん中古のゲーム機とて貧乏で買えず、おまけに今月で切れる車検代を必死でためている最中なので、ずっとずっと我慢の子(イヤイヤ、我慢のジジババ)だった。

それがな、な、ななんと!! 先日来た若いお客がプレステ2を5千円で譲ってくれるというじゃぁ〜ないか!!
しかも殆ど未使用だそうだ。

ありがたや〜ありがたや〜♪ 
なんたるラッキーババアなのだろう。

ぐうたら神も捨てたもんじゃないなぁ・・・・・・。


2007年01月26日(金)
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■ (日記) うん十年振りのミュージカル


昨日友達の(Y)とミュージカルを観てきた。おととい別の友人から市民劇場(会員権を購入し定期的に観劇を楽しむ集い)のタダ券を貰ったのだ。
正直、ミュージカルは苦手だ。子供のころ伯父の家に送られてくるチケットを貰いたびたび従姉妹と観に行ったことがあるのだが、あの大げさな台詞や歌がどうも性に合わず、ましてや大抵は最前列のど真ん中の席で、出演者の(ニカッ!)っとした異様な笑顔やウインクを何度も送られ、どう対処していいか解らず、こっ恥ずかしい思いをさせられた。宝塚などはもっとダメで、泣きたくなった事すらある。
それでも芝居自体は好きだし、タダだし、たまには気分を変えるのも良いかなぁと思い、恐々行ったのだ。

主人公は前田びばり。その他出演者は全部で10人ほど。
ストーリーをかいつまんで説明すると、売れない我侭ミュージシャンを恋人に持つ主人公は、母親代わりの年配ピアニストと共にタップダンス教室を営んでいる。その教室に通う生徒達はそれぞれ個性が強く様々な悩みも抱えており、踊りも下手で、てんでまとまりが無い。
自らも恋人との行く末に大きな絶望を感じながらも、大きな大会出場の目標に向かいメンバーたちを元気付けながら育て上げていく。
出演者一人一人のクローズアップシーンなどを交えながら物語は徐々に進んで行く。
やがて大会の日が来、あれほどバラバラで酷かったメンバーたちが一致団結し、それぞれの問題も乗り越え、素晴らしいタップを繰り広げるというものだった。

サテサテ・・・、私がおどろいたのは前田びばりのプロポーショんの良さと相も変らぬ美しさや存在感だった。
特別好きな女優ではなかったのだが、その生き様がスタイルに現れているようで一気に好感を持った。
多分彼女は60近い年齢ではないだろうか?
あの年齢までスタイルを保持し続けるのは並大抵の努力ではないだろう・・・・・・。努力家でプロ意識の強い人なんだろうなぁ・・・・・・。
ストーリーの既存性や展開の無難さはさて置き、最後のシーンには華々しさがあり、それなりに感動させられた。
ミュージカル嫌いがミュージカルもたまには良いかも・・・に変わりつつある。

カーテンコールでは前田びばりが投げた花束を我が友(Y)が見事キャッチし、今私の店に飾られている。

昨日は店も案外忙しく、懐かしい人も来てくれ、総体的に楽しい一日になった・・・・・・。


2007年01月25日(木)
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■ (日記) 矛盾だなぁ・・・


不二家の騒動・・・、なんか辛すぎるなぁ・・・・・・。
あの報道過剰は何とかならないもんだろうか・・・・・・。
消費者だって賞味期限から少しくらい過ぎたものを平気で食べてる人だって大勢居るだろうに・・・・・・。(物にも寄るがアタシはもったいないので家ではなるべく食べているけど・・・)

昭和30年生まれのアタシに取って、不二家はなじみが深い。
不二家と言う店はアタシにとってチルチルミチルのお菓子の家そのものくらいの憧れの建物だった。
4〜5歳の頃の写真には大箱のミルキーを持った写真もある。
ミルキーの千歳飴も好きだったなぁ・・・。

当時、共働きだった母が、たまの休みにチョット財布の機嫌がいいと「今日はお出掛けしましょうよ。どこに行きたい?」と聞く。
私はそんな時決まって「ディズニーの映画見てぇ・・・、その後は不二家!!」と答えていた気がする。
お子様ランチかグラタンか、それにデザートはペコちゃんサンデーが大のお気に入りだった。
それなのに・・・ああ、それなのに・・・・・・。
あんな不祥事をしてしまってもったいないなぁ・・・・・・。

つい先日、何かのTVで日本の食の豊かさや贅沢さを皮肉るような番組を見た。
日本人はあちらこちらの貧しい国から魚介類の良い所取りをし、金に任せて旨い部分だけを掻っ攫っているそうだ。その貧しい国の人たちは魚の身はめったに口に出来ず、余った魚の骨や、その皮から油を取り、それを食したり加工して僅かなお金を稼ぎ空腹を満たしているのだそうだ・・・・・。
日本のゴミの半数以上が食べ残しの残飯や期限切れの食物で、その残飯で何万人の貧しい国の命が救われるだろう・・・などと司会者が言っていた。

片や、日本人は贅沢すぎると批判する人が居て、片や賞味期限に目くじらを立てる。
どこか矛盾してるよなぁ・・・・・・。

もちろん衛生管理やねずみの駆除なんかには神経質になるべきだと思うが、賞味期限や消費期限って、そこまで頑なに守らなければいけないのかなぁ・・・・・・。
昔、とあるハム屋さんに友人のお母さんが勤めていた事があり、賞味期限切れのハムやソーセージを分けてもらっていた。
アレは有って無いようなもんなのではないかなぁ?
切れて一週間程度なら何の問題も無くアタシたち家族は食べていたよなぁ・・・。冷凍保存すれば何ヶ月先のものも食べられていた。

まだまだ食べられるものをそうやって神経質に捨てている事自体に問題が有るような気がする。
食糧難だった頃の人たちはどう見ているのだろうか・・・?

アタシの婆ちゃんなんか、カビが生えたパンを削って食べていたのになぁ。
その頃の人の方が、免疫も強く、身体も丈夫だったじゃないか。


2007年01月23日(火)
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■ エッセイの講評


出版社からの講評

◇市井にあって数奇な波乱万丈な半生省を送ってきた著者の自伝エッセイ。
売れない俳優を両親に持ち、小学三年時には親の離婚を経験、少女時代は友人達と大いに遊んできたという著者。その後も夫の浮気による自身の離婚、借金苦に自殺未遂、最愛の母の死、新しい夫の失業、癌発病・・・・・・と、次々に苦難に見舞われる。しかしどれほど辛い状況に陥ろうとも必死にもがきながら乗り越えてきた著者は、読むほどに独自の感性と個性を身に付けているとの印象を持った。波乱ずくめのダメ人生と自嘲気味に語りはしても、逃げずに歩んできた人生記は気概ある大人のそれである。いわば自身をも笑い飛ばすような形で読者にも励ましを与えるようなユニークな作品だ。

◇著者は「ぐうたら神」に生かされてるという(P1)。貧乏神で疫病神、死神でもあるとんでもない存在だが、「時に私と大喧嘩をし、時に私を絶望の淵へと沈め込み、(原文のまま)、時に仲良く寄り添い、時に親身に叱ってくれ、親代わりとして様々な人生ドラマを体験させてくれる」(P15)というように、著者の創作となるこの神様により、実は「生かされている」のではなく、自らの人生を自分自身の手で「生きている」と言えるのだ。よく自分に降りかかる困難を、社会が悪い、運が悪い、周りが悪い、と総て他者のせいにしてしまう人も居るが、著者は「総て自分が蒔いた種」(P286)と理解した上で、「ぐうたら神」という架空の存在を置き、自身の状況を見詰めているのである。ページを覗くと度々顔を現す気まぐれな神様が作品にユーモラスな味わいを添え、深刻な話も悲壮感を漂わせずに読者に読ませてしまう。著者の懐の広さや潔さがにじみ出ている。

◇50年に及ぶ著者の人生は文字通り波乱万丈であるが、常に誇りを失わず、筋を通し、常に前を向いてきた姿勢は胸を打つ。専門学校で卒業を間近に控えながらも、校長の犬への接し方に衝撃を受け、退学してしまうこと。借金を抱え、幼い子供を乳児院へ預けて働き通しでも被害者として泣くよりは幸せになろうと踏ん張ったこと。女の武器を使い経済力で男を選ぶのではなく、対等な関係を築き、人間性に価値を置くこと。癌に冒されても、家族と過ごす時間に幸せに感じ感謝すること。相手のことを考えきつい言葉もはっきりと伝えること。金や生活の為とはいえ、人格を疑う人の下では働けないこと。義捐金を出してくれたホームページ仲間をはじめとして、お世話になった人のためにも頑張り続ける腹を固めていること・・・・・・等など。
人は窮地に陥っている時ほど楽な方向に流されやすく、近視眼的にもなりがちだが、著者は惑わされず大切なものを捨てないで対処してきた。借金苦や仕事がうまくいかないなど困難は多々あれど、そんな人生に対峙する凛とした姿勢が見えてくる。

◇ただ、生硬な部分も残している。自分の人生を振り返り、愚痴らず余裕を持って語った本作であるが、終盤、心情を一方的に吐露するような書き方になっているのが惜しまれる。
P285ではホームページを介した仲間に対する語り口調になっているため、読み手は放置された気分になる。続く私の志もそれまでの読者を意識した文体から、自己の心情吐露に終始した台詞調に変化しているので、作品全体のリズムや風合いを崩さないような書き方の修正が望まれる所だ。
なお、書籍化に際しては一部の表現表記を改める必要が有る旨は予めご了承いただきたい。

◇とまれ、周りの人への感謝を忘れず、謙虚な気持ちで此処まで歩んできた著者である。不器用で生き方が下手な人、自分を卑下している人、そしてそうと知りながら日々を無為に送っている人にも、著者のとことん頑張る姿、決して諦めない姿勢は大きな励みであり、刺激となることだろう。編集者の意見を交えて修正点を調整し、是非世に問うてほしいものである。


以上、原文のまま。


2007年01月22日(月)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


このエッセイを読んでくれた人へ】
    (後書きのような物)

 このつたないエッセイを最後まで読んでくださりありがとう。心より感謝します。
昨年十月末、某出版社のサイトで偶然にエッセイの公募を知り、このエッセイだけはどうにか書き切ろうと思ったのは、善意の人々にプレゼントされた店を私なりに頑張ってはいたものの、もう無理なのかも知れないと諦めの境地に居た時期だった。
 折角皆が貴重なお金を出し合って、私の働く場である店を与えてくれたと言うのに、一時的に酷く暇になり、家賃も溜まり始め、完全に自信喪失してしまっていた頃だ。
自信喪失というよりも極度の恐怖感にさいなまれ、店に出る時間になると震えが来るほどだった。
私の店だけじゃなく、今はそういう時期なのだと業者や他店を経営している人から言われ、その場は安心するのだが、客が一人も来ない日が3日も続くと、世間全体から見放されたような暗澹たる気持ちになる。
最後の砦のつもりだった店を失ったら、私はこの先どうやって生きていけば良いのだろう・・・。
そんな時期にこの公募が目に飛び込んできた。
公募テーマを見てみれば、(人生色々)と有り、あなたの人生をお聞かせください。と言うものだった。
締め切りまで三か月ほどしか無く、書き切れるかどうかは解らなかったけれど、ともかく私は書き始めてみる事にした。
シンクロニシティという言葉があり、私の人生は良くこの、シンクロニシティとやらが起こる。これは単なる偶然ではなく神様が仕組んだ意図的(必然的)な偶然なのだと私はそう解釈している。
今回この公募を偶然知ったのも、ぐうたら神が私に、書け書け! 時間が無いぞ。とにかく書き切ってみろ! と私の尻を叩いたからだと思う。
このエッセイに書いた通り、私の人生は本当に情けない。でも、自分の人生が結構好きで、私に関わった人たちの事も好きだ。亡き父も母も大好きだし、夫も息子も大好きだし、友人も、店に来るお客さんも喧嘩別れした人も、不義理をして会い辛くなっている人も、私に意地悪をした人も、私を責めた人も、みんな私に必要だから会えた。  奇麗事に取れるかもしれないが、その人達全てとの出会や関わりが有ったからこそ、色々なドラマが生まれ、反省させられ、又場合によっては自分の正しさを再認識できた事も有る。 大きな挫折感や喪失感や自己嫌悪が私に物を書かせるきっかけを作ってくれたのだとも思う。
店も危なっかしい時期を過ぎ、少しずつ盛り返し、常連客や新規の客とジョークを言い合いながら自分でも楽しんで仕事をしている。
私の人生はこの先どうなって行くかは解らない。このまま一筋縄に良くとも思えない。ただ、店を何とか守る事と、絶対にいつか物書きになる! と言う夢だけは捨てたくない。
もしも・・・、この先私が書いた物が本になるような事が有ったとしたら、お願いですから回し読みだけはお控え願いたい。あなたの大切な誰かさん3人に買うように、あなたから勧めてください。
【これじゃまるでネズミ講だわ!(笑)】
 サテサテ・・・冗談はさておき・・・・・・。
これを最後まで読んでくださったあなたはとても優しい人です。
本当にありがとう。          2006・1・25

出版社の講評へ続く


2007年01月20日(土)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【私の志】

 こんな風に場当たり的でもあり、ギャンブル的でもあり、常にハラハラドキドキの崖っ淵人生ばかりを歩んできた私だが、ちゃんと志は持っている。
ともかく生きる為のお金を正当な方法で稼ぎ出し、先ずは暮らしを立て直す事。そして最後は自分の人生に自分でちゃんとケリを付ける事。
この二つだ。
私は自分の身に起こった数々の困難と引き換えに、人間関係だけにはとても恵まれ、心優しい仲間や友人にたくさん出会い、支えられ、そして救われて来た。
ぐうたら神のせいにばかりして来たけれど、困難が多い人生なのは結局は全部自分が撒いた種なのだと思う。良い事にせよ悪い事にせよ自分の身に起こる事というのは、自分が選んだ道に沿って歩いてきた生き様の結果でしかない。
そんな事は自分自身でも良く解っている。
でも、人間には出来不出来があり、バカと利巧が居て、能力も技能も思考も千差万別だ。出来ない人は何をどうあがいても無理なのだ。50年間ダメ人間だった私が、急に立派な生き方などできるはずもない。
だから私はきっとこの先も本能の向くまま、危なっかしい道を歩み続けるかもしれない。
それでも、こんな私を多くの人々が未だに支え続けてくれている事が嬉しくもあり、心苦しくもある。
もしかしたら、事の大小に関わらず、私に起こる苦悩と同じ数だけの人間が一人・・・又一人と、私の元へ送り込まれ、その人達もぐうたら神の手下で、私に何かを気付かせてくれたり叱ってくれたり勇気付けてくれたりする役割を命ぜられているのかもしれない・・・などと想像してしまう。
宇宙最大の総神様は、同じ量の幸せと、同じ量のチャンスと、同じ量の試練を平等に人々に与えるのだと聞いた事がある。
私の幸せと不幸せは、あまりに両極端過ぎるが、いつも手酷いアクシデントとの背中合わせに、究極の幸せがくっ付いていた。
多分ぐうたら神は、そんな両極端な人生シナリオをわざと提供し、私に物を書く生き甲斐を与えたのかもしれない。
何とかコイツの出来そうな事は無いものだろうかと、彼も必死で考えてくれたに違いない。
そこでとことん私を痛めつけ、物を書かざるを得ないような人生を歩ませた。
書く事で人を笑わせ、時に泣かせ、楽しんでもらう。これが、私がこの世に産み落とされた理由(役割)のような気もする。そして物を書いたからこそ私は店が持て、生かされたのだ。
考えてみればこのズタボロ人生が今では結構愛しい。
 私は身内の恩恵をあまり受けられなかった分、多くの赤の他人が手を差し伸べてくれた。だから私も何かで人に手を差し伸べられたら良いと思う。私と同じような不器用で生き方がヘタクソで、お金の苦しみに喘いでいる人々に、何とか元気を与えたい。
落ち込んでいる人に、アナタよりもっともっとダメな人間が此処に居る。それでも僅かな生き甲斐を見出し、こうしてヘタレながらも生きてるんだと言う事を知って欲しい。
 そしていつか私の書いた物が売れたとして、お金が儲かったら会社を作りたい。
感性豊かで無邪気な大人たちを集め、皆を楽しませるような施設を作る。
才能を持っていながらもそれを発揮できぬ人、多くの夢を持ちながら挫折した人、優しいゆえに蹴落とされてしまう人、それぞれの特技や感性を活かし働けるような施設。
そこには子供達が安心して遊べる公園なんかも作り、昔のような楽しい外遊びを教える先生達も居る。先生と言っても若い保母さんなどではなく、メンコやビー玉や凧揚げの上手なお爺ちゃんだったり、お手玉や手まり遊びの上手なお婆ちゃんだったり、かくれんぼや、靴隠しや、缶けり、ハンカチ落としなどを教えられる熟年層の人々だ。
絵の上手な人や、歌の上手な人や、物書き志望者も集め、本や音楽で人を楽しませるのも良いかも知れない。ホームレスのような究極の体験をした人に愚痴吐きコーナー等も作ってもらい、少しの事で悩んだりへたれている人などに生身の人生経験を話し伝えてもらい、元気を与えるなんていうのも良いかも知れない。
誰も彼もが楽しみながら自分の好きな事に磨きを掛け、利益が云々ではなく人が喜びそうな事に生き甲斐を見出しながら働けるような会社。そんな会社が出来たら良いだろうなぁ・・・と思う。
そんなワクワク感が多くの人々に連鎖し、来る人も社員も元気になる。そこを訪れると誰もが無邪気な子供に戻れるような癒しの空間・・・。そんな施設を作りたい・・・・・・。
しかし夢の又夢だなぁ・・・。
と、此処で現実に引き戻されてしまった!(苦笑)
今尚、私は綱渡り人生の真っ只中なのだ。来月どうなっているか、明日どうなっているかも、ぐうたら神の気分次第である。
先ずは店を繁盛させ、生活の基盤を作らねば。
ぐうたら神に生かされている限り、自分に与えられた出来る事を、出来る範囲で精一杯こなし、魂の中のフツフツとした夢に憧れながら生きて行きたい。
こんな私でもせっかく五十歳まで生かしてくれたんだもの。命は大切に使い切らなきゃバチがあたる。
まだまだ発展途上のつもりだからこの先何がどう転ぶかも解らない。
運を天に任せ、出来る限り楽しみを見出しながら、人生の終盤を生きて行きたい。
ぐうたら神と手に手を取って、これからもダメ人間をまっしぐらである。

終わり

(後書きへと続く)


2007年01月18日(木)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【蓋を開けば厳しくて】

 松本は地下鉄もなく交通網が限られているので、圧倒的にマイカー通勤者が多い。
不況に併せ、飲酒の取締り強化も手を貸し、夜の賑わいは年々寂しくなって行く。
皆それほど懐の余裕も無く、外で酒を飲まなくなっているのだ。
 私の店の場所は駅前からは少し離れており、お城や市役所の近くでは有るのだが、わざわざ目的を定め出向かなければならぬと言う中途半端な場所にある。町名は【旧東町】と言い、母の店が有った場所と同じ通りである。
この店を選んだ理由は、駅前よりは家賃がずっと安いという事と、私達の原点の場所だったからだ。
 店に隣接する通りは【裏町】と呼ばれ、昔は飲み屋街としてかなり賑わっていた通りがある。
昔は小股の切れ上がった芸者姿なども良く見掛けたが、今はその面影は全く無く、外人の店ばかりが軒並み増え、閑散とし、情緒もへったくれも無くなってしまった。
キャバクラやホストパブ系の呼び込みのお兄ちゃん達が呼び込む客も無く、皆でコンビニの前に屯し、寒そうに身を屈めながら不況の厳しさを愚痴り合っている。
 私の店はエポック時代、グループで飲みに来る若者客が多く、恋人同士や夫婦者も多かった。客席での接客や色気は無用の店で、それを求めるような客筋も来ない。
エポック当時、大人数の男女グループで飲みに来ていた常連はそれぞれが所帯を持ち、子供がまだ小さく、今では皆が一斉に集まれる機会が殆ど無くなったようだ。
そんな事も影響し、意気揚々と店を開いては見たのだが、やはり現実は厳しく、時々言い知れぬ恐怖感に包まれる事がある。
それでも昔からの常連の一部が、未だ引き続き店に来てくれ、エポックの再来と喜んでくれている。過去からの常連に加え、新たな常連になってくれる人もポツポツ出来始め、もちろん赤字の月もたくさん有るが、パートを渡り歩いていた頃に比べたら心身共に充実感はある。
とは言う物の、やはり水商売なので時期によって売り上げにかなりのバラ付が有り、正直、お盆過ぎに静かな日々が続いた時には店の家賃の遅れが出だし、やはり店を持つ事は無謀だったのかと暗澹とした気持ちが続いた。
何日も暇な日が続くと世間全体から阻害されているような気持ちになり、自分自身を攻めまくるのだ。
私は一時期ノイローゼ常態になり、夫との口喧嘩の後、咄嗟に諏訪湖まで車を走らせ、湖畔のベンチに座り半日考え込んでいた事がある。
此処で飛び込んだら自分からも逃げる事になってしまう。でもきっと、楽にもなるんだろうな・・・。
しかし私はある事を思い出した。
【私、泳げるし、水中バレエやってたし・・・、きっと飛び込んでも世間を騒がせるだけで死に切れないんだろうなぁ・・・】
やはり死んではいけないとも思う。何とかしなければ・・・・・・。しかし何をどうすればいい? ずっと暗い湖を見詰めながら自問自答していた。
 ネットの仲間や地元の友人達に店を潰したと報告した事を想定すると、皆の落胆した姿が目に浮かび、誹謗中傷した人がザマァミロと悪魔の槍を持ち、高笑いしている光景が目に浮かび、私は何処かに穴でも掘り、このまま埋まってしまいたかった。
店の状況や客とのエピソード等、遠くで来られぬネット仲間に、店の風景を知って貰えるよう、店での出来事を日々日記に書いていたのだが、暇な日が続くと、何をどう書いたら良いか解らなかった。
一時期、無料の電話カウンセリングを受け、カウンセラー相手に、生きる事に自信が無くなったと泣いてばかりいた。
しかし、11月辺りから再び店は活気付き、十二月が結構忙しく、それで何とか暇な時期の穴埋めが出来たのだ。
私はお金の苦労を散々している癖に、お金の稼ぎ方がとても下手だ。持って生まれた性格なのでどうしても変えようが無い。
余った食べ物等が有れば捨てるよりは客に喜んで欲しく、押し売りではなく、ただで振舞たりしてしまう。
電話やメールで客を呼んだりするのもあまり得意ではない。
若く綺麗なオネエチャンから呼ばれるならともかく、電話などしても迷惑だろうと思ってしまう。それを営業努力が足りないとか、奇麗事で商売なんかやってられない。と言う人も居るだろうが、来たい人は呼ばなくても来てくれるだろうし、来られない時にはいくら電話しても来られないと思うのだ。あまり物欲しげな商売をすれば余計お客が逃げるとも思う。人々にだって都合と言うものがあるのだから・・・。
なのでついつい、来る者拒まず去る者追わず的、自然任せの商売法になってしまう。
やりもしないうちから諦めてしまう処が、私の人生が上手く行かない最たる要因なのかも知れない。
それでも人が来てくれれば嬉しくて、自分も客と一緒になって楽しんでしまい、美味しい手料理を作る事と、良い歌を聞かせて少しでも楽しんでもらえる事にだけは一生懸命全力を尽くしている。
 もしも私なりに頑張って、頑張って、それで、どうしてもダメだったら、皆に謝罪し、店を明け渡し、再び就職活動をするしかない。
そうならないように出来る限り頑張り続けなければ・・・・・・。


続く


2007年01月17日(水)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【義捐金募集】

 電話の彼は今までにも本や不要のパソコン等、沢山の差し入れをしてくれていた日記の常連読者だった。以前、健康器具の仕事の研修で東京に立ち寄った時、彼のネット仲間達とオフ会をした事も有り顔も知っている。
未返済のお金が溜まってしまい、おまけに仕事まで辞めてしまい、もう、何もかも終わりなのだと話した。とても日記を書ける心境ではないのだと・・・・・・。
そうしたら彼はその不足分と、当面の生活費を送ってくれると言うではないか・・・。
 無論私は返す充てなど無いし、この先どうなるかも解らないからと断った。しかし彼は「どうせ手元に有っても、競馬代や飲み代で消えちゃうお金なんだから、気にしなくて良いんだよ」と言うのだ。
彼は御曹司のようで、自らの仕事でも結構給料を稼いでるので、余裕が有るのだから大丈夫だと言う。
それにしても、ただでさえ世話になってばかりで何のお返しも出来ていないのに、しかも、たった一度しか会った事の無い人間に、そんな大金を貸りる訳には行かなかった。何度かの押し問答の末「それじゃこの先どうするんだよ」と言う彼の言葉に、私は何も答える事が出来ず、絶句した。
「あげると言えばどうせマキュキュは受け取らないだろうから、貸すと言う形にするよ。何年掛って返したって良いじゃないか。取り敢えず、何でも良いから意地張ってないで振込先を教えろ!」そう言切られた。
 私は涙が止まらなかった。私は赤の他人であるネット友達に命を救われるのだ。
そして又、そんな自分が酷く情けなかった。
 ちょうどその頃、掲示板にはもう一人の日記読者から、早くエッセイ集が読みたいから出版料を義捐金で募ってみたらどうかと言う提案をくれた人が居た。それには賛同者も結構多かった。が、しかし、ちゃんとした出版元から本を出すには、自費出版はかなりのお金が掛かる。以前、書き連ねて来たエッセイ群をかき集め、印刷し、出版社に送り込み、読んで貰った事も有る。評価は結構良かった物の、共同出版を勧められたのだ。その共同出版でさえ、確か百万単位のお金が掛かるという事だった。もしも本を出せたとしても全く売れなければ、義捐金は無駄になってしまう。
私は捨て身の覚悟で恥を偲び、自分の希望を読者に訴えてみる事にした。
それは、小さくても良いからもう一度自分だけの城(店)を持ちたいと言う願望だった。
こんな不況の最中に店を持つのがどんなに無謀かと言う事は十分解っていた。六年のブランクもあり、美貌も持ち合わせない五十歳間近の私に客を呼べる自信も正直なかった。でも、私に出来る事はもうそれくらいしかないのだとも思った。自分の店で少しでも生活を支えられたらこんなに嬉しい事は無い。
長引く不況のせいで、今の松本にはやり手の無い店がいくらでも余っていると聞いていた。権利を買わなくても、いくばくかの保証金と家賃だけで出来る店は山ほど有るのだと。諸経費を合わせ五〜六十万ほどの資金さえ用意できれば、店は開店出来ると言う。
もしかしたら失敗に終わるかも知れない。でも、私は一か八か自分の可能性を賭けてみたいと思った。
私は恥を偲び義捐金の募集を呼び掛けてみる事にしたのだ。私にもう一度自由で伸び伸びと働ける場を与えて欲しいと・・・。
そして何と地元の友人含め二十人余りもの人々が協力してくれ、直ぐに五十万もの資金が集まったのだ。
早速義捐金の打ち切りをし、店の契約をし、足りぬ設備を整え、釣り銭も用意できぬほどのギリギリの状態ではあったが、私は念願だった自分の城をオープンさせる事が出来た。
ホームページの読者と私の友人達が皆で出し合ってくれた大切な仕事場。
 開店時には息子も彼女を連れ、泊り掛けで手伝いに来てくれた。夫も張り切って店内を装飾し、開店準備に手を貸してくれた。
店のオーナーは出費者全てであり、私は皆に雇われる店長と言うつもりで張り切ろう。そんな気持ちだった。
 むろん皆が賛同者ばかりではなかった。
少数だが誹謗中傷の声もあった。
一時期はとても仲が良かったにも関わらず、私を乞食呼ばわりし、身体を売ってでもお金を稼げ、と言う女性が居た。
五十歳の子宮と膣を削られた女に、身体を売れと言うのだ・・・・・・。
彼女からのメールは未だに大切に保存してある。
 確かに私のした事は乞食と同じかも知れない。でも、私は何とか生きて居たかった。
夢を追いながら皆と接触の持てる場所を確保しておきたかった。
店を営みながら友人知人との関わりを持ち続け、将来は必ず書いた物でお金を稼ぎ、皆に恩返しをしたいのだという目的をどうしても果たしたかったのだ。返すべき物は全て返し終え、後ろめたくはない気持ちで人生を終えたいと、それが切望であり、私の最低限のプライドである。
義捐金を送ってくれた人は、今までの購読料のつもりなので返却不可。心置きなくマキュキュの夢に役立ててください。と言ってくれる人ばかりだった。
 誹謗中傷ばかりに心を奪われていると自分が卑屈になるので、私は自分の文章を皆が買ってくれたのだ。そう思う事にした。
私はホームページを通じて皆が出してくれた店なので、店の名をエポック�靴任呂覆�、ホームページと同様の【マキュキュのからくり箱】にした。
 去年の三月頭にオープンしたマキュキュのからくり箱は、今月で何とか十一ヶ月目をむかえる事が出来た。
 やはりエポックを辞めてから、六年の歳月が経過しており、不況の度合いもかなり厳しさを増しており、店を維持するのは大変だ。
余裕を持って始めた店ではないので、赤字の月があれば途端に払えないものが出てくる。でも、私は何とかこの店を繁盛させ、協力してくれたネット仲間達に元気に働く姿を見に来て欲しいのだ。
とりあえずの夢は協力者全員を招待できるようにしたい。
 折角皆がプレゼントしてくれた店なのだから、決して潰してはならぬと言う、良い意味での強いプレッシャーが有る。
 しかし、長年経営していた知り合いの店などが一軒、又一軒と無くなって行き、夜の街は閑散としており、私は現実の厳しさに驚愕するばかりだった。


続く



2007年01月11日(木)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


最終章 読者からのプレゼント
      【聖母バアバの死】

 文章を書き始め、四年近くが経過し、私が利用している日記サイトの文芸部門では、常に人気投票の5位以内を保持するようになれ、掲示板には常連仲間の書き込みが増えて来た。
相も変わらずパソコン技術は一向に向上せず、コンテンツは日記本文と掲示板しか無いのだが、見に来てくれる客は「珍しいくらいスッキリしていて、返って解りやすくて良いんじゃない?」等と、苦し紛れにも慰めてくれる。
掲示板仲間の中には、書面で私が究極に貧乏な事を熟知しているので、酒類を贈ってくれたり、本を差し入れてくれたり、食べ物を送ってくれたりする大変ありがたい人達も居た。
お返しも何も出来ないからいいよと遠慮すると、いつもタダで楽しませて貰っているんだから良いの良いの。単なるファンからのプレゼントだと思って気軽に受け取ってくれれば良いのよと言ってくれる。
そんな心優しい友人に支えられ、私は本当に幸せ者だと思う。
もう私に取って、書く事は一つの習慣であり、生きている証であり、何よりもこの飽きっぽい私が大好きで続けられている、たった一つの事なのだ。
文章嫌いの私が、自分でもこんなに長く書き続けられるのが驚きだった。
 日記はほぼ毎日のように書き続けては居たのだが、私がお金の事やらで落ち込み過ぎ、日記を書けずにいたり、発熱などして日記が滞ったりすると読者が心配し、掲示板に催促に来てくれたりもする。そんな事が死ぬほど嬉しかった・・・。
私の文章を心待ちにしてくれている人が一人でも居ると言う現実が嬉しかった。
私の文章など上手い訳でもためになる訳でも無い。ためになる物が有るとすれば、料理好きの私が定期的に載せている簡単貧乏料理レシピくらいだろうか。
それでも読者は増え続け、最近では毎日100くらいのカウントが回る様になった。
そしてアクセス数ももう直ぐ十万近い。
 夫との貧困生活、日常の出来事、苦悩、飼い猫の事、料理レシピ、仕事上の人間模様、世間への怒り、友人達とのエピソード、失敗談、日頃の喜怒哀楽等、私は思いのまま書き連ねて来た。
文章上で私は、夫の事をフゥーリィーと言うハンドルネームで書いている。ゴロツキと言う意味のフーリガンから捩ったあだ名で、昔の彼は正にそんな感じだった。
彼との夫婦喧嘩や日常秘話などもよく書くので、夫は一切パソコンをいじれぬが、読者には結構有名人なのだ。(笑)
ただ、赤裸々に書くとは言っても、あまり読者達の気が重くならぬよう何処かでクスリと笑えるように・・・と、心掛けているつもりではいた。
しかし文面の軽さとは裏腹に、本当は深刻に苦しく、給料日までまだ間が有るのに、財布の中には数枚の百円玉しか無いなどと言う事も多く、書く事が苦しくなる日も沢山有った。
少しのお金なら気楽に貸してくれる友人は数人居るが、前の分を返せても居ないのに又上乗せで借りる事は出来ない。
私達の暮らしは刻一刻と限界に近づいていた。
いつも、今度こそダメだ。今月を越せそうに無い。明日はもう無いのかもしれない・・・。そう思いながら生きて来た。そしてそのような極限状態まで落ち込むと、何かしらの救いの手が常に差し伸べられて来た。
全く忘れていた保険が満期になったと連絡が有ったり、店の立ち退きが起こったり、癌になれたり・・・。
でも、もう私達にはミラクルが起こる要因は何一つ残っていない。
財産家の身寄りも、私にも夫にも一人として居ない。
悩んだ末、私は友人の紹介の司法書士にお願いし、私名義の借金の破産申し立てをした。しかしその弁護代すらまだまともに払えてはいないのだ。
 夫はコンクリート会社に真面目に通い続けている。今度だけは感心するほど長続きし、仕事も滅多に休まず、あれほど頻繁だった通風の発作もピタリと治まっていた。
夫は仕事が楽しいと言い、夫を慕う若い仲間に囲まれ、活き活きと働いている。
「フォークリフトは俺の天職だよ。お前一度、俺の積み上げたコンクリート見に来て見ろ。そりゃぁ、すんばらしく見事で綺麗だから。俺、今度TVチャンピオンのフォークリフト選手権にでも出てみようかなぁ〜」などと鼻の穴をおっ広げている。
 その頃の私は、丁度旅館に付属するスナックを辞め、最後のパートになったボリママのスナックに勤め始めて暫くした頃だった。
夫がこんなに頑張っているのに、私は再びこの仕事が続きそうもない予感に焦りを抱いていた。
そしてこの頃、思わぬアクシデントが重なった。
 この諸々の出来事は、誰もが通る道でもあり、誰のせいでも誰が悪い訳でもなく、いた仕方の無い出来事ばかりなのだが、何時だってそういう事が起きる時は必ずといって良いほど余裕が無く、一番苦しい時期にピタリと重なるのだ。
 私も夫も軽自動車で仕事場に通っている。私は深夜の仕事なのでタクシー代を考えると致し方ない。夫の会社も交通の弁が悪い場所なので、やはり車で通うしかない。
ある日、もう直ぐプロパンガスが止まると言う葉書が来た。ガス代を支払ったらガソリンが入れられない。ガスが止まれば風呂も入れず料理も作れないが、仕事に通えなければ次の給料が減ってしまう。ガス代を払うかガソリンを入れるかという究極の選択は過去にもまま有るのだが、そんな時期にいつも図ったようにその類のアクシデントは起こるのだ。
これも又、ぐうたら神が如何に底意地の悪い神様なのかの証拠なのだ。
先ずは夫の母が突然心臓病で倒れ、緊急手術をする事になった。
義父も過去に二度ほど軽い脳溢血で倒れており、歩くのがやっとの状態だ。そんな義父と寄り添いながら義母は木祖の片田舎で二人、仲むつましく暮らしていた。義父の世話は義母が一挙に引き受け、それ等が義母の心臓に負担を掛けていたのかも知れない。
義父を一時的に妹宅に預ける事になったのだが、兄弟会議の結果、そのご苦労代や食費として数万ずつ皆で分担し、妹に払う事になった。
そしてそれから一月も経たぬ内、今度は東京の従兄弟から電話が入り、祖母の死を知らされたのだ。
皆から【バアバ】の愛称で慕われていた、あの九十二歳の儀祖母の事だ。
祖母の事は、前のページでも少し触れさせてもらった。血は繋がっていないが、本当に彼女は私が知る限りの人間の中で、一番神様に近い人間だった・・・・・・。
自分の子供は一人も持たず、人の為にだけ人生を駆使し、人を決して悪くは言わず、周り中の人々に愛と元気とやる気を与え、九十二歳の生涯を感謝しながら終えたと言う、正に聖母のような女性だった。
私達の代も、多かれ少なかれ彼女の手を煩わせ、彼女に世話を焼かれ、彼女に大切な事を教えられながら皆大きくなって来た。
多分誰もが、有る意味自分の親兄弟よりも彼女の事を尊敬し、信頼し、慕っていたのではないだろうか・・・・・・。
彼女はこんな私の事でさえ心配してくれ、皆に突っ突かれてばかりいた時も、私を良く庇ってくれた。
彼女が死ぬほんの少し前、普段は電話代を気にし数年に一度くらいしか連絡を取り合う事も無かったのだが、一瞬彼女との電話のやり取りが頻繁になった時期がある。  
祖母も久々の電話に喜んでくれ、色々な話をしてくれる。そんな祖母に中々電話を切るタイミングが計れず、つい三十分、一時間と話し込んでしまう。
それでも私は三日程に渡り彼女に電話をし、祖母と色々な話をしたのだ。
そのつい一ヶ月後だった。彼女の死を知らされのは・・・・・・。
久々の彼女との電話のやり取りは、きっと何かの虫の知らせだったのかも知れない。  
その時祖母は「松本にも可愛い孫が一人いるんだって、いつも心の中で思ってるのよ。もう年寄りだから何の力にもなってあげられないけど、頑張って一生懸命生きなさいね」そう言ってくれたのだ。
「解ってる。頑張ってるから大丈夫だってば・・・」とは応えたが、本当はもうボロボロで約束を果たせそうには無かった。
私は何としてでも彼女の葬儀だけは出ようと思った。彼女と親類達にお別れを言い、私はその後、何処かに消えてしまう覚悟で居た。
友人からお金を掻き集め、私は東京に行き、祖母の葬儀に出席し、心の中で皆に別れを告げた。
葬儀は二日間の日程で、その夜、私は従姉妹の家に一泊し、私達は酒を飲みながら祖母の想い出話に明け暮れた。
従姉妹から祖母は死ぬ間際も私の事を「あの子は生き方がヘタクソだから、心配なのよね・・・」と案じてくれていた事を聞き、私は泣けて泣けて仕方なかった。
 葬儀を終え松本に戻り、私はそのスナックにそのまま出勤していたが、その直後、私は苦かったにも拘らず、やはり我慢の限界に達し店を辞めたのだ。
ママが結婚を餌に金を引っ張り続けていた一人の気の弱い客が居たのだが、ママの冷酷さが我慢できず、きつく意見してしまったのだ。
彼はそれほどの金の有る人間ではなく、彼の年老いた両親も彼のお金の使い振りをとても心配していたそうだ。彼がママに費やした総額は五百万を越えていると言う。五十近くにもなって騙される彼も彼なのだが、やはり騙す方はもっと悪い。
その他にも、頼んでいない物をママが勝手に注文するとの客からの苦情、従業員からの愚痴など、年配で言い易い私にいつも愚痴が集中する。なのでママにそれなりの忠告するのだが、全く聞き入れてようとはしてくれなかった。
店を辞め、収入源を自ら断ち切った私は、唯一の生甲斐であった書く事さえもとうとう辞めてしまった。
いよいよ何がしかの覚悟を決めなければ・・・。私はそう思っていた。
夫は今、一生懸命頑張っている。私が居れば足を引っ張るだけだ。私が居なければ居ないで、何とか上手くやって行くだろう。
死ねたら何処かで死のう。もし、又勇気が沸かずに死ねなかったら、遠くの町でナリを潜め、住み込みででも何でも働けば良い。きっと誰かが拾ってくれるだろう・・・。そんな気持ちで居た。
気持ちとは裏腹に、夫の顔を見る度別れが辛く、寂しく、今日出掛けよう、明日出掛けよう、と、伸ばし伸ばしになっていた。
日記が十日間程停止し、掲示板には心配した読者からの書き込みがズラリと並んでいる。しかし、レスのしようもなく、電話にも出られず、私は一切の連絡網を遮断した。息子からの電話すら出なかった。
 そうこうする内、心配したネット仲間の一人から自宅の電話に留守電が入ったのだ。
「マキュキュ、生きてるか? 頼むから電話に出てよ・・・。一体何が有ったんだ? この電話に出てくれなかったら、俺、警察に電話しようと思ってる」と彼の声が続く。
警察に連絡されるのは困るので、出ざるを得なくなった。
私は溜息を吐きながら、重い気持ちで受話器を取った。


続く


2007年01月10日(水)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【仕事転々、心・・・・・・】

 夫婦共々職を失い、個々が仕事探しに必死だった。当月の返済金と生活費を作るため、私達は仕方なく又新たにお金を借りた。
月々の返済額は当時、金融会社の支払いだけで、合わせて二十万近くに及んでいた。
なので夫婦で三十五万くらいは稼がないと、返済しながら生活するのは困難なのだ。
 ある日、ネット検索をし、リストカットのチャットルームを訪れた事がある。そこに行けば死ぬ勇気が貰えそうな気がしたのだ。
その部屋で私は(R)と言う一人の女性と出会った。
 彼女はその部屋の常連ではなく、彼女のネット上の知り合いが何度もリストカットを繰り返しているので、死のうとする人の心境が知りたくて、その部屋に来たと言う。
彼女と個人的な会話を交わす内、彼女は私よりはかなり若いが、しっかりとした意思とバイタリティーを持つ知的な女性だと言う事が伺い知れた。
私達は意気投合し、プライベートな話題に移った。私がどうしてこの部屋に来たかの理由を話し、今絶望中だとも告げた。そして物を書いている時だけが唯一の支えだという事も話した。そうしたら彼女が、是非私の書いた物を読みたいと言うので、唯一の自信作である、懸賞金を貰った時の桜文の文章をメールで送り、彼女に読んで貰ったのだ。
 彼女はそれを読み心を動かしてくれ、彼女のホームページに枠を作るから、あなたの書いた文章をそこで発表してみたら良いと言ってくれたのだ。そして彼女のHPを見せてくれた。
彼女は飼っている愛犬が癌に侵され、その闘病記をHPにしていた。それが全国的にとても支持を得ていて、大人気だったのだ。彼女のホームページを訪れた途端、私は彼女のフアンになった。文章で彼女を目指したい! そう思ったのだ。
文章の上手さもHPのレイアウトセンスも彼女は抜群だった。パソコン音痴の私にとって、彼女は憧れの存在になった・・・。
しばらくし、私は彼女のホームページに間借りをする事になり、自分の文章をそこで発表するチャンスに恵まれたのだ。
毎日毎日、日記形式でエッセイ風の駄文を書いては、掲載させて貰っていた。
その間、夫は初めて自ら両親に頭を下げ授業料を借り、フォークリフトの免許を習得し、市内のコンクリート会社に就職した。
私は私で仕事は見付けるのだが、あまり続く所は無く、今度は私が職を転々とした。
テレフォンアポイント・スナックの共同経営・旅館の仲居・健康器具の実演販売・旅館に属するスナックの従業員、厨房のパート等、ありとあらゆるパートを転々とした。
夫の仕事がやっと落ち着いたのに、今度は私の方が全然ダメだ。何をやっても何処に行っても、心を摩り減らされるような仕事ばかりだった。
仕事を探す時、返済額に見合った収入は得なければならないので、仕事はおのずと限られて来る。しかし思う金額を稼げる仕事は、気持ちがダメになるか、身体がダメになるかのどちらかが多く、自分の無力さや我慢の足りなさに自己嫌悪にも陥った。

 テレフォンアポイントの仕事は、給料は良く座り仕事なので、時間的にも腰痛面でも楽だったのだが、精神面で続かなかった。
その商品や売り込み方に不信感を抱き、電話で良い応対をしてくれる客に対し心を痛めてしまうのだ。
テレフォンアポイントをしながら、電話に出ないで欲しい。私の言う事を素直に聞かないで欲しい、等と願っているようじゃ、成績が上がる訳が無い。
ノルマは無いとされていたのに、それは全くの大嘘で、成績が上がらなければ平気で怒鳴られる。
体育界系の幹部社員が、自分の母親や親父ほどの年齢の人間を「お前は給料泥棒か!」と、椅子を蹴飛ばしながら呶鳴り付けているのを見た途端、余りに虚しくなり、その仕事は即座に辞めた。

知人からの紹介で始めたスナックの共同経営とは、深夜遅くから営業になるホスト系のパブで、12時までの店の空き時間を韓国人の女性が又借りし、スナックとして営業していたのだが、彼女が家賃を払い切れなくなり、家賃、その他の経費を折半で支払い、仕入れは個別で各自の売り上げは全て自分達の物になると言うシステムだった。なので同じ時間帯にママが二人居ると言う形だったが、負担金も少ないので始めてはみたのだが、半年ほどでその韓国女性が引退する事となり、私一人で全額の家賃や経費を払う事は不可能なので辞めざるを得なかった。

 旅館の仲居は家から直ぐ近所で、交通費も全く掛からずで良いと思った。客が居ない日は仕事が無く、それでも給料は出るというのだが、なにせその旅館は客室数が多い割に仲居が私のほかに一人しか居なく、後は金髪の若い板長と補佐が一人、その他はフレックスの番頭爺ちゃんが一人居ただけだ。
経営者の若夫婦は旅館内に自宅を構えているにも関わらず、滅多に手を貸す事は無かった。殆どの仕事は、仲居任せ、番頭任せだ。
なので旅館の混雑時には一人一日十三時間以上の労働にも及ぶ事もある。それが数日間続くのだ。
腰痛悪化で高熱まで出し、ドクターストップが掛かり辞めた。
【この旅館も私が辞めた後、一年弱で潰れてしまった】

 健康医療器具の実演販売の仕事は、数件のホテルや旅館の浴室に備えられた休憩所で、マッサージ器具を無料で試してもらい、気に入ったお客に販売するという仕事だった。基本給十八万、プラス歩合と言う事で借金苦の私には御誂え(おあつらえ)向きだった。
遠い場所の仕事も有ったが、客とのやり取りも楽しく、決して嫌な仕事ではなかった。
ただ、私は強引な売込みが出来ない性格なので沢山稼ぐ事は出来なかったが先ず先ずの成績だった。
しかもこの仕事は諏訪のホテルの仕事が半分有り、当時諏訪に居た息子とちょくちょくデートが出来たので、私は結構気に入っていたのだ。が、入社三ケ月目くらいで完全歩合制にシステムが急変し、基本給も何も無くなってしまった。しかもこれからは諏訪までのガソリン代も自腹になると言う。もしも一台も売れなければ毎日がタダ働きだ。何とか一年半程はしがみ付いて居たのだが、労力の割に給料が五万に満たぬ事もあり、辞めざるを得なくなり辞めた。

 旅館が経営する棟続きのスナックは、定年が六十歳と言う大らかな物だった。(笑)
ハローワークで見付けたパートなのだが、夜の部の責任者が辞めたという事で募集していた。
家から車で五分程の場所なので通う都合も良く、給料は安いが私は早速面接に行ってみた。
そこは年中無休で昼夜営業しているスナックだ。昼の部と夜の部に分かれており、時間が来ると交代するのだ。責任者が各時間帯に一人ずつ、その他手伝いが一人ずつ居る。
店舗はかなり広く、カラオケ設備はえらく豪勢で、今時ミラーボールが回っているような田舎特有の店だった。
その旅館の宿泊客や近所のカラオケ好きの高齢者が屯する、憩いの場のような店だった。
なるほど、面接に行ってみれば、従業員は五十間近の私が一番若いくらいだから驚いた。(笑)
後は六十過ぎの女性が殆どだった。
旅館その物は古く、携わっている人間も客も高齢者が圧倒的に多い。
働き始めて見たのは良いのだが、客も従業員も中々の頑固者が多く、一筋縄では行かぬ気配を感じた。
社長は旅館&スナックの人気の低迷に悩んでおり、それでも私の事は結構気に入ってくれたらしく、私相手に一杯ひっかけては、日々愚痴等をこぼしていた。
この社長、腹は悪い人間では無いのだが、いかんせん、意固地な裸の王様タイプなのだ。
常連客などがアドバイスをしても、何を改善させるでも無く、人の意見に耳を貸すでも無く、売り上げの低迷は全て周りのせいばかりにし、挙句の果てには給料の遅配まで出始めた。
しかも給料当日になって「給料は払えん!」と、頭を下げるどころか反対に威張っているのだ。さすがの私もこれには舌を巻いた。
 皆が愛想を尽かしながらも、辞めれば行き場が無いらしく、そんな社長の傍若無人振りに黙って従っている。しかし、私は給料の遅配が当たり前になられては困るので、辞めた。

 そして最後に勤めたスナックは、友人の店の殺すぞ社長を女版にしたようなママの店だった。
まだ開店間もないスナックで、ママは若い。旅館のスナックの客で、私を気に入ってくれた女性客が人づてに頼まれ、一足最初にバイトを始めたらしいのだが、一人では心細いので是非私に来て欲しいと言うのだ。
後日ママと面接をしたら、高齢者でも構わないので厨房を任せられる人が欲しいとの事。私を喜んで受け入れてくれると言う。しかし、面接時にママの本質を見抜けなかった事は私の不覚だった。
後日男友達に「新しい店に勤めたので遊びに来て」と電話をすると、何処だと言うので詳細を話すと、いきなり猛反対されたのだ。
彼はママのホステス時代を知っていたらしい。
しかし、間など空けていられぬ状態だったので取り合えずは勤め始めてみたのだ。生半可な事には驚かない免疫も出来ていた。
しかし勤めて見て初めて、友人の猛反対の理由が良く解った。
そのママは美人でもないのに一人女王様気取りのとんだ勘違い女だった。客も従業員も自分の家来扱いだ。
出勤時間は何時も十時間近。スナックだというのにマキシのドレスを着、自分のグラスは客よりも良い物を使い、羽のショールなどをヒラヒラさせている。
客からはボリまくり、一組の客に平気で十万単位を使わせる。この手のボリママはドラマなどでは見た事が有るが、実物を目の当たりにしたのは五十年生きて来て初めてだ。
そのくせ食材の仕入れには、たった千円使うのもケチる。萎びた大根とハムとかまぼこだけで付き出しを作れなど無理難題を言う。
いくら私が料理人とは言え、そりゃ無茶だ!!
ママは何時も九時頃電話をして来、事務的口調で「ご苦労様。客は?」と聞く。
「まだ誰も」と応えると「まさか皆で座ってくっ喋ってるんじゃないでしょうね」などと言い、一分たりとも無駄に時給を払うのが惜しいらしく、造花の植木鉢の葉っぱを一枚一枚拭けだの、五十間近の私を含め、皆に大雪の中、ビラ配りまでさせる。【此処はキャッチバーか!?】
女王様の命令と思い渋々やってはいたが、私なんかがビラを配って、返って客を減らしはしないだろうかとそれが一番心配だった。(苦笑)

金や生活の為には、どんな経営者であろうが仕事内容であろうが我慢するべきだと言うなら、私にはもう働き口などどこにも無いのかも知れない・・・・・・。
考えてみれば、中学迄の学歴しか無く、病み上がりの腰痛持ちで、得意な事といえばソコソの料理と歌くらいしかなく、他には何も出来ない五十バアサンだ。
しかもプライドだけはある程度高く、人の性格に得て不得手も激しい。それに輪を掛け、変な所で正義感が強く、少しでも遣り甲斐のある仕事に就きたい等と望んでいる私に、そんな都合の良い働き口など有る訳も無かった。
仕事を選んでいる立場ではない事などは百も承知だ。人間関係に妥協が必要な事も百も承知。でも、いくら金や生活の為とは言え、人格を疑うような低レベルの人間にハイハイ従い、顔色を伺い、自分を殺しながら働かなければならないのなら、このまま干乾びた方がマシだと、どうしても思えてしまうのだ。
いっそバキュームカーの運転士だろうが、生ゴミ収集だろうが、工場の流れ作業だろうが、ある程度給料が良く、人と関わらずに黙々と仕事をこなせるのならその方が良いと思う。軽蔑すべき人間に謙(へりくだ)らなきゃいけないくらいなら、使ってくれるならその方が全然マシだ。反対に、例え給料は安くても、どこかで尊敬出来るような温かで人間味のある人に使われたいと思う。
ハローワークなどに有る仕事はレジ打ち、掃除婦、ピッキング、荷物の仕分け作業、皿洗いの類の仕事ばかりで、極度な腰痛持ちの私にはどれもこれもが無理そうな仕事ばかりだった。
一度、波乱万丈な私の人生経験を生かし、ストレス社会の今の世の中に役立ちたいと思い【出張愚痴聴き屋】なる仕事を思い付き、始めてみた事が有る。
しかし宣伝費や経費の方が高く付き、辞めざるを得なくなった。
これは、お客様の指定場所まで出向き、喫茶店などで落ち合い、お茶代は各自負担で、一時間二千円で愚痴を聴いてあげるという物だ。カウンセリングよりは気楽で、必要と有れば私なりのアドバイスや苦労経験を話し、少しでも元気になって貰おうと言う物だった。
友人や身内には解ってもらえない事や、親しいからこそ話し辛い事をぶちまけて貰い、ストレスを発散してくれれば良いと思い、始めて見た。しかし、お茶代とガソリン代と地元紙への宣伝費を差っ引くと、赤字続きで、浸透するまでに至らず、余計苦しくなって辞めてしまった。

私にはもう、何も出来る事は無い・・・・・・。
そんな諦めと自己嫌悪の中、書く事だけは益々夢中で楽しくなり、私は独立し、新たに自分自身のホームページ【マキュキュのからくり箱】を立ち上げた。
コンテンツは何も無く、日記と掲示板だけのしょぼくれたホームページだが、私はひたすら日々の思いを日記に綴り続けた。
そうしている内に少しずつ読者が着き始め、カウント数も回るようになって来た。
【正直で飾らないマキュキュの文章が好きです】とか【アナタの文章は面白い】とか【アナタの日記を読み、死のうとしていた自分が馬鹿らしくなり、もう一度頑張ってみる気持ちが付きました】などなど、嬉しいメールなどもポツリポツリ届くようになった。
私は将来、エッセイストになりたい。
書いた物で人を笑わせ、楽しませ、感動させ、人を元気付けたい。
何時しか私はそんな大それた夢を描くようになった。

続く


2007年01月09日(火)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【テメエこそ死ねよ! この馬鹿男!】

 そんな一件が有り、もう私達の精神状態は仮死状態になっていた。
どうして少し良くなり掛けると、何時もこうして奈落の底に突き落とされるのだろう・・・。
私はありったけぐうたら神に悪たれを付いた。
私達はアンタのアメリカンヨーヨーか!
私達はアンタの玩具か!
私達はアンタのゲームのコマか!
いい加減、私達を弄ぶのは止めてくれよ!
毎日眠る時、このまま目覚めないで欲しいと祈り、目覚めれば一日中支払いの事しか頭に無く、思考は全て停止し、店に行けばどの客の顔も集金人に見えて来る。
それでも夫に収入源が絶たれてしまった以上、私は店に出ない訳にも行かず、今日食べる食費さえも無いのだ。
仲良しだった女の子と、ママにだけは夫の一件を話した。
そして食費として給料から二千円分を日払いにしてもらい、残りは給料日にと言う事でかろうじて食べていたのだ。
その時は心神喪失状態で他に仕事を探す気力も、何も無かった。自殺が怖いからただ生きているだけ・・・。そんな状態だった。
店に出れば暗い顔をしている訳にも行かず、必死に平常心を装うのだが、社長の意地悪やきつい言葉に悔し涙が滲む事が増えていた。
 この店で唯一私が救いだったのは、数人の女の子と客の一部が、いつも私の味方で居てくれた事だ。
解ってくれる人は解ってくれている。見ている人は見てくれている。その事だけが、店に出られる唯一の救いだった。
 そんな極限状態の心境で働いていたある日の事。
その日は稀に無い酷い腰痛で立ち座りも困難な状態だった。しかし何とか勤め上げ、何時ものように社長の最終便で家まで送って貰ったのだが、道中、私は車がカーブを切るたび、激痛に耐え兼ねていた。
社長の運転は何時もとても荒いのだ。
腰痛の事はママに話してあったので、私はママが「もう少しゆっくり走ってあげてよ」くらいの事は言ってくれると思っていた。でも、ママは何も言ってはくれず、女の子との世間話に夢中だ。
車が振動するたび、どうしても「アイタタタッ!」と言う声が漏れてしまう。
女の子が降り、ママと社長と三人になった。
それでもママは何も言ってくれず、あえて私は「腰が痛い」と言ったのだ。
そうしたら社長が「痛い痛いって、嫌みったらしいなぁ」とせせら笑うように言ったのだ。
その言葉を聞いた途端、私の中でかろうじて繋がっていた糸がプツリと切れた。
ママが「マキ、今日は腰が痛いんだってさ」と、少し面倒そうには言ってくれたのだが、社長の言葉を咎めてくれる様子も無い。
この女に利用されるのはもう懲り懲りだ。
もう何もかもがどうでも良くなった。
「今日は腰痛が酷い事はアンタも知ってるはずでしょう? 何故一言、もっとゆっくり走ってあげて、くらいの事が言えないのよ!」私は彼女を怒鳴った。
すると社長が「それが店の経営者に向かって言う言葉か? いい加減にしろ、この馬鹿女! ブッ殺すぞテメエ!」と何時もの様に私を怒鳴ったのだ。
【何が経営者だよ。その経営者の事を皆の目の前で散々虐げてるのは誰なんだよ!】
私は腹をくくった。
「テメエこそ死ねよ! この馬鹿男!」
私は捨て台詞を吐き捨て、車を降りた。
 外は酷い土砂降りだった。でも、冷たい雨に打たれながら、私は何故か小気味良かった。
【あぁぁ、私まで仕事を失ってしまった・・・】
私は自嘲しながら、とても清々した良い気分だった。
もうあんな店に居なくて良い! やるだけの事はやって来た。文句を言われる筋合いではない。
私は夫に電話を掛け、見知らぬ路地の階段に座り、寒さに震えながら夫が迎えに来るのを待った。心配そうな夫の顔を見た途端、私は夫にすがり付きウォンウォンと泣いた。苛められた子供が父親にすがり付いて泣きじゃくるように、しゃくり上げながら「悔しいよぉ! 悔しいよぉ!」と泣き続けた。
夫は笑いながら「馬鹿だなぁ、お前が泣く事無いよ。今まで良く我慢したな。そんな店は辞めて正解だったじゃないか」そう言いながら抱きしめてくれた。

後日談だが、この店はその後酷い結末を迎えたようだ。
社長が店の売上金を持ち逃げしてしまったらしい。最後の月には従業員に給料も払うことが出来ず揉めたらしい。その後店は程なく潰れたと、友人が知らせてくれた。
 やはり神様は罰を与えてくれた。
友人も、もしかしたらあの社長の被害者なのかも知れない・・・・・・。
そう思うと少し可愛そうだ。


続く


2007年01月05日(金)
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■ エッセイ  人生波茶滅茶


【もう、二人で死のうか・・・】

 夫は新しい会社に移り、既に数ヶ月が経過していた。
ある月明けの月曜日。何時もなら五時半と言えば帰宅するはずの夫が、いつまで待っても連絡も無く帰って来なかったのだ。
(給料日の筈なのにどうしたのだろう・・・)夫は仕事が終わればいつも真っ直ぐに家に帰ってくる。何処かに寄り道をするなどと言う事は先ず無い。お金を持ち歩かないのも手伝ってはいるのだが、例え友人に飲みに行こう等と誘われても断るくらいに、私と一緒に居る事を好んだ。
 実は本来ならば、その日の五日ほど前が夫の給料日だったのだが、その日給料は渡されなかった。数件の支払いを待って貰っていたので理由を聞くと、「社長の都合で来月の頭になっちゃうらしい」との事。
なので最初は給料でも出て、珍しく友人とでも飲みに行ったのだろう・・・くらいに思っていた。
しかし、何度電話をしても携帯が通じない。メールを入れても返事が無い。飲みに行くなら行くで、電話の一本くらいは入れる人間だ。
私は何か言い知れぬ不安を感じた。
そしてようやく七時前になり、夫から着信があった。
「もしもし?」と言っても夫は黙っている。
「今どこに居るの?」と聞いても無言だ。
「何か・・・、有った?」恐々そう聞くと、夫は消え入りそうな声でこう言うのだ。
「マキ、ごめん。俺、もうマキの所には帰れないよ・・・」
私は咄嗟に夫に女でも出来たのかと思った。
「だから何が有ったって言うのよ!」私は電話口で思わず叫んでいた。
「俺、仕事も信用も失った。もう終わりだよ。山で死のうとしたんだけど、それすらも出来ない俺はもう、どうしたら良いか解らない・・・」夫は涙声になっている。
 過去、私はお金に切羽詰る度、幾度となく死ぬより他に手立てがない、と、諦めの境地に立たされた事があるが、夫はそんな時でも楽天的で「死んだら全て終わりじゃないか・・・。待ってろ! 今に俺がマキュキュを楽にさせて見せるから」等と笑っていたのだ。なので夫の方からそんな弱気な言葉を聞くのはこれが初めてだった。
あの楽天家の夫が死のうとしたのだ!
余程の事が有ったのだと私は気が動転してしまい、言葉を詰まらせた。
 ともかく冷静になって話を聞かなければ何が何だか解らない。このまま夫に居なくなられてしまったら、私はこの年で二人分の借金を抱え、どうやって生ればいいのだ。
「ともかく今すぐ帰って来なさい。アンタには私に理由を話す義務があるでしょ! 一人で死ぬなんてずるいよ。もしもアンタが死にたいなら私も一緒に死ぬから・・・、だからお願いだから、今すぐ帰って来て訳を話して!」それだけ叫び、祈るような気持ちで電話を切った。
 私は急遽社長に電話を入れ店を休ませて貰った。そして不安な時を過ごしながら夫を待った。
一時間ほどが経過し、夫は肩を項垂れながらトボトボと帰って来た。
私は安堵感と共に、とても不安だった。
死のうとした理由を聞くのが恐ろしかった。
「一体、何があったのか正直に話してよ・・・」
夫は蚊の鳴くような声で話し始めた。それは、私が最も恐れていた事だった。
 ユニットバスの組み立ての際、新機種の初めてのタイプの物で、ボードのはめ込みが上手く行かず、思い切り叩いたら、ボードに大きな穴を開けてしまったらしい。ユニットバスのボードは一枚が何十万もする物なのだ。
夫はユニットバスのベテランだ。腕に自信があっただけその失敗は夫にとって相当なショックだったようだ。
その時には社長も苦笑し、故意ではないという事で弁償金も会社で半分受け持ってくれたらしい。そしてその時の弁償金は私には言えず消費者金融から借りて支払ったと言う。
そしてその失敗から僅か一週間後、再び同じような失敗でボードに傷を付けてしまったらしい。しかもそれは一番高いタイプの物だったと言う。
二度も間を空けず同じ失敗を繰り返した夫は瞬間的にパニックになり、咄嗟にその傷をコーキングで埋め、誤魔化してしまったのだ。
しかし良心が咎め、翌日社長に正直に話すつもりで居たらしいのだが、それがその日の内に現場監督に見付かり、自ら話す前に会社に通報されてしまったのだ。
 失敗を隠蔽し、会社の信用を傷付けたという事で居させる訳には行かなくなったと、夫は既に一ヶ月以上も前に会社を首になって居たと言うではないか・・・・・・。
前回給料として私に渡したお金は、会社から出たものではなく、全てサラ金から借りて来た物だったそうだ。
弁償金と給料分で、多分借金は五十万以上増えている計算になる。
 新しい仕事に着き、心から喜んでいた私に、とてもそんな事を言えず、この一ヶ月半の間、夫は普通に会社に行くフリをしてはハローワークや消費者金融やら公園などを転々とし、頭を抱え込んでいたと言う。
そして、社長の都合で給料が遅れていると最後の苦しい嘘を吐き、いよいよ私を騙し切れなくなり、追い詰められた夫は死のうと山に入ったと告白したのだ。
山に行き、ロープが無いので枝に太目の紐を掛け首を吊ったのだが紐が切れたらしい。
「本気で死のうとしたの?」私はチョット疑った。そうしたら夫の首筋には赤くクッキリと紐の後が着いていた。
「じゃぁ、今月の給料なんて一円も無いのね」夫は黙って首を項垂れた。
私は夫が生きていた安心感と行く末の絶望感で、身体中が震え出した。
 借金取りからの電話や集金人に「来月早々に給料が出ると言うので必ず火曜には払いますから」と約束したのに、それが全て嘘になってしまう。
こうしてどんどん世間の信用を失って行くのだ。
「もう死ぬしかないね。このままどこかに行って二人で死のうよ・・・・・・」
 私達は車を走らせ家を出た物の、やはりそんな勇気は無かった。
死ぬ外に無いのだと解ってはいても、自殺が怖くてそんな勇気さえ無いのだ。
 私達はもう死ぬ事も、ちゃんと生きる事も出来ない最低の人間に成り下がってしまった。
一体私達はどうしたら良いと言うのだろう・・・。


続く


2007年01月04日(木)

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