与太郎文庫
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1957年04月18日(木)  ドイツァーのチェロ教則本

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570418
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html
 
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19570418
 Ex libris Web Library;DOTZAUER Exercises for Cello(要所に日付あり)
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/4113240019
 
── ドッツァウアー《チェロ練習曲集 1 20060719 全音楽譜出版社》
 Dotzauer, J. J. F.《113 STUDIES Book 1 for Cello 18‥‥‥ Klingenberg》
 Dotzauer, Justus Johann Friedrich 17830620 Germany 18600306 77 /Cellist
 (ドッツァー、ドーツァウアー)
 
 いまも与太郎は、ドウツァーと誤ったまま発音するように、無味乾燥
の練習曲に聞えるが、白石 将氏は「楽しくてしょうがない」と評した。
 詰将棋のように、ある水準に達した人だけが楽しめる仮想空間らしい。
 
…… サン=サーンス《組曲・動物の謝肉祭》における無能なピアニス
トが、無味乾燥な《チェルニー》をくりかえすのに比べて、チュリスト
はいかにも恵まれているようだ。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19710701 弓弦十話 (その3)
 
…… チェロのレッスンに、運わるく、さきに山田くん母子が来ていた。
 いつも母上のピアノ伴奏で、上手に聞こえるのは、ずるいと思う。
 母上のピアノまで誉める先生は、ぼくにはケチばかりつけるのだ。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19870604
 山田家の人々 〜 風流堂眷属 〜
 
 野村 武二  チェロ 1932‥‥ 長野 京都 19811015 49 /急逝
/1956‥‥ 京都市左京区下鴨東岸本町24 新井 覚 方、才能教育研究会・京都支部
 画像;鈴木チェロ教室(P26)20131225, 20141218 小林 俊一氏資料
 
…… ぼくは(十字屋の音楽教室で)才能教育研究会から派遣されたチ
ェリスト・野村 武二氏に教わったから、佐藤 良雄氏の孫弟子にあたる。
ならば“カザルスの曾弟子”を自称しても許されるはずだ。
 
 下鴨の下宿先をふくめて合計5回のレッスンで挫折してしまったが、
その後の最新情報によると、このころ野村先生は亡くなられたらしい。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19550324
 佐藤家の人々 〜 りんご園の少年チェリスト 〜
 
(20110810)(20150110)
 


1957年04月14日(日)  表紙画の女たち

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570414
 
 中学生(実は高校生)だった与太郎は、女流ヴァイオリニストを描い
た宮本 三郎の作品を覚えていて、三十歳のころ(19690712)巌本 真理
との対談にあたって思い出した。概してインタビュアーは、相手が気難
しいことを予告されるので、こんども例外ではなかった。
── 《天才少年少女伝・草稿 19950506》
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19690712
 日本の弦楽四重奏談 �ヾ猖椰人�弦楽四重奏団
〜 巌本 真理・黒沼 俊夫 両氏をたずねて 〜
 
 インタビューに先だって、朝日新聞社本社に寄ってみる。
 彼女が描かれた週刊誌の表紙を思いだしたので、見せてもらいたい、
と云うと「そんな古いものは残しておりません」と断わられた。
 
 巌本さんに「それで、あの絵は貰ったんですか?」と聞いたところ、
女流ヴァイオリニストは「呉れるもんですか!」と答えた。
 その後(テレビやネットで)いろいろなことが分ってきた。
 
 そのときの表紙は、著名な女性と画家の組みあわせで競作し、読者が
人気投票するという、まことに通俗的な趣向だった。
 どうやら表紙の原画は、投票した読者の一人に与えられたようである。
 
── ばくぜんとテレビを見ていると、二つの記憶が突然むすびついた。
《週刊朝日》表紙コンクール第一位は、女優・富士 真奈美に決まった
という。そこで彼女いわく「小磯 良平先生に、あげるっていわれたけ
ど、欲がなくて、ことわったのよ」
── 《ビジュツ館街道 19950417 10:25-10:55 西日本TV》
 
 小磯画伯が富士 真奈美に「あげる」と云ったのは、思いちがいか?
 巌本 真理を描いて「くれる」と云わなかった宮本画伯は、十年前も
《主婦の友》の表紙に、わずか五歳の山東 昭子を描いている。
 
── 宮本 三郎《巌本真理 19570414 週刊朝日》表紙コンクール作品
── 《週刊朝日 19570414 朝日新聞社》\800 ヤケ綴穴
http://homepage3.nifty.com/kano-/asahi3.htm 雑誌 週刊朝日3
 
── 昭和28年5月30日。雑誌『週刊朝日』関東地区愛読者大会が東京
の歌舞伎座で開催されました。これは、吉川 英治の「新・平家物語」
連載3周年と徳川夢声の「問答有用」連載100回を記念したもので、さ
らに、当時行われていた『週刊朝日』表紙コンクールの抽選会を兼ねて
いました。
 表紙コンクールというのは、期間中に『週刊朝日』の表紙を飾った画
家の絵を対象に読者投票を募り、投票者の中から抽選でその絵の原画を
プレゼントするという企画。この時が第3回で、対象となる画家には
片岡球子や曽宮一念などの名があります。
 寄贈者の方は、読者欄の投稿者の中から編集部が選んだ全国12地区の
読者代表のうち、東海地区代表としてこの愛読者大会に招待された方だ
そうです。 ── 《草思堂から: 200602‥ 》
http://yoshikawa.cocolog-nifty.com/soushido/2006/02/index.html
 
 この表紙コンクールは、その年の秋“高校文芸誌の表紙コンクール”
という思いつきに発展し、全国の高校文芸部に呼びかけている。
 与太郎の担当する表紙を、ことさら自慢するだけに終わったが……。
 


 小磯 良平  洋画 19030725 神戸 19881216 85 /異19881206/1983文化勲章
/《個展 〜 木炭裸婦 〜 1951ca‥ 画箋堂》を鑑賞(金谷先生と)
/京都市下京区河原町五条上東側 075-341-3288
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 宮本 三郎  洋画 19050523 石川 19741013 69 /《週刊朝日》
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♀巌本 真理 Violin 19260119 東京 19790511 53 /巌本真理弦楽四重奏団主宰
/《週刊朝日》表紙競作「G線上のポーズが辛かった」
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♀富士 真奈美 女優 19380115 静岡 /《週刊朝日》表紙競作一位
/富士市出身[A]籍=岩崎 真奈美
/父=光好は東洋音楽学校でバイオリンを学んだ。のち労働運動で投獄。
母=浪江200010中ごろ没。「木枯しや、焼かれて薄き喉仏‥真奈美」。
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♀山東 昭子 元女優 19420511 東京 /自民党参議院“タレント議員”
/文化学院卒1974全国区初当選1996衆議院落選20010729比例区再選/科学技術庁長官
────────────────────────────────
♀吉永 小百合 女優 19450313 東京 /19730803岡田 太郎の後妻
/196704‥大阪毎日ホールでコンサート(京都十字屋でサイン会)
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♀藤田 弓子  女優 19450912 東京 /城南高校卒/籍=河野 弓子[A]
/《赤胴鈴之助 19590101 TBS》オーディションで吉永小百合と二人が
残った。あきらめて帰りかけると「ラジオですから」と云いながら関係
者が追ってきた。吉永小百合は、千葉周作の娘さゆり役にまわった。
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 大幡 季生 JEUGIA 19430915 京都 /立命館大卒196604‥十字屋楽器店入社
/1970《音楽京阪神》編集長/198702‥総務部長198711‥取締役総務部長
/19‥調律部門社長。常務を経て200106‥専務20030627社長

 
 なお、吉永小百合が京都十字屋に立寄って、急遽サイン会を開いた日、
与太郎が居あわせたことがある。誰かに招かれて会場に行ってみると、
いつのまにか彼女の真うしろに立つことになった。
 
 背後に立って上から眺めると、彼女の首筋はとても疲れているようで、
肌に色艶もなかった。しかし、真摯な態度で一人一人に握手する姿は、
確実にファンを増やしていった。
 
 わかい男たちが、階段の通路にひしめきあって順番を待っていた。
 マネージャーらしき男の大声が聞こえる。
「色紙を買ってください、他の紙にはサインしません。並んで並んで」
 
 ひとりの青年が、大型カメラを差しだし、必死の面持ちで頭をさげる。
 すると彼女は、すばやく手を伸ばし、カメラの金属部分に書きつけた。
 ひょっとすると、その青年は報道関係者だったかもしれない。
 
 無事に終わって事務所に戻ると、十字屋の社員が話していた。
「うちの担当者は誰やったんや?」「なんでか大幡くんが座ってたで」
「ふーん、彼なら新入社員には見えんからな」(実は2年目だったが)
 
>>
 
 おもいでのアルバム 〜 宮本 三郎&赤胴 鈴之助 〜
 
 1943年 1歳の昭子 戦争中とはいえこんな写真をとる余裕があったん
ですね。私はきょとんとしておりますが、 3歳上の兄は何故かにらんで
います。
 
 1947年 5歳 「主婦の友」の表紙のモデルになる。そのころは宮本三
郎画伯がこの写真を見て描いて下さった貴重なものです。
 
 1953年11歳 ニツポン放送のドラマ「ポッポちゃん」に出演したとき
の写真。
 
 1957年15歳 マンガ「赤胴鈴之助」のラジオ版に一般からの募集で決
まったさゆり役の吉永小百合ちゃん、藤田弓子ちゃん、3歳年上の私は
芸能界は先輩でちょっとお姉さん風を吹かせていました。
 
 1972年30歳 テニスをしているところです「スポーツ好きの山東昭子」
といったところでしょうか。
 
 1979年37歳 議員生活がスタートしたばかりの頃です。
 
 1985年43歳 国会での本会議(男女雇用機会均等法審議)の際に、演
壇で発言をしているところです。 
 
 1992年50歳 少し前の写真です、今もあまり変わってないと思います
が、どうでしょう?
 
http://www.santo-akiko.com/private.html
── 山東 昭子《ホームページ》
 
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(20060528)


1957年04月08日(月)  落太郎 〜 テっちゃんのホームルーム 〜

 
 新しいクラスの担任は“テっちゃん”こと高橋 哲郎先生である。
 最初のホームルームは、いつもどおりに学級委員の選挙だった。
 落第生が選ばれた瞬間、教壇のテっちゃんは大声で叫んだ。
「この選挙は、やり直しだ、みんなもっと真面目にやれ」
 落第生も黙っているわけにはいかない、挙手して立ち上がった。
「ボクが、学級委員になると、なにか具合が悪いんですか?」
 教室は、意外な展開にとまどって、静まり返った。
 テっちゃんは予想しない反論に虚をつかれ、壇上で立ちつくした。
返答がないので質問者ともども両者は対峙した。
 こうして沈黙の数十分が経過し、ベルが鳴り終わると、テっちゃんは
出席簿を抱えて職員室に戻ってしまった。
 選挙は、したがって有効だったのである。
 
 翌日、文芸部顧問“フクちゃん”こと下村 福先生に声をかけられた。
「キミ、なんでボクが役員になったらいかんのか、言うたそうやな」
「もう、耳にはいってますか?」
「そらもう、早いもんや」(*)
 これで、職員会議から再選挙を命じられるほどのことにはなるまい。
もともと、器楽部の評議員に選ばれることが判っていたので、生徒会の
規約(兼任不可)どおり自動的に、学級委員を辞したのである。
 つぎの新議長・井上君が、遠足の日を何曜日にするかという議題では、
採択の結果、七曜日をそれぞれ九人づつが支持した。困った新議長は、
さきに委員を辞した落第生に助けをもとめたので、信任をうけた落第生
が壇上に上り、決戦投票にいたるルールを説明した。
 めんどうな手続きを踏んだあげく、こんどは三十二人対三十一人に分
かれて、次のような結果となる。
 63=7×9=32+31
 すると、テっちゃんが突然またもや壇上の落第生を押しのけて叫んだ。
「やり直しだ、たった一人の意見で決めるなんてことがあるもんか」
 落第生は、黙ってもとの席にもどり、以後の成り行きを観察した。
 
 このあと(よく思い出せないが、みんなが協力して、あるいは延々と
つづく投票にウンザリして)テっちゃんが納得する結果になるように、
按配しながら挙手したのであろう。
 多数決では、しばしば最後の一票が決定する。これを避けるために、
過半数でなく三分の二以上としてみても、原理は変らない。
 最後の一票は、あるいは最初の一票かもしれない。ここには時間的な
概念がない。つまり集団の思考過程は変化しないことになっている。
 しかし、集団の意志は(ほとんどの場合)変化しながら移行するはず
である。もし、このことを認めないなら、投票前の論議は無駄であり、
他人の主張に耳をかたむけることなく、当初の意志表示が繰り返されて
決選投票も成立しないのである。
 
…… タイム誌は「われわれは子供のころから民主主義について学んで
きた。しかし(過半数がない)引き分けのとき、民主主義に何が起るか
は教えられなかった」と書いた。
── 《迷走ドラマ最終幕 米大統領選挙 20001127 山陽新聞》
 
adlib/19570408(Day'1995・・・・ 19970504 19990111 19990706)
 


1957年04月01日(月)  留太郎

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570401
 
 同志社高校生徒自治会では、担任のことを司級、学級委員を執行委員、
学級代表を代議員とよぶ。
 クラスで二人の秀才を選ぶなら、執行委員は内政、代議員は外政向き
がふさわしいはずだが、実態はあいまいである。
 かたや課外活動の各部代表は評議員とよばれ、評議員会は利害の対立
集団である。執行委員会は原案委員会となり、予算会議の議長には生徒
会長があたる。
 代議員会は、翌年度の生徒会長の選挙をつかさどるが、議長は三年生
だから卒業後の人事となる。そこで二年生の中から議長代理を選出する。
これが事実上の選挙管理委員長として、立候補者の認定から立会演説会
を経て投票日を迎え、最後に新・生徒会長の任命、就任演説会をもって
つぎの代議員会に引き継ぐ。
 最高機関としての代議員会では、むしろ二年生の議長代理がもっとも
はなばなしい役割を担当するわけである。
 つまり、生徒会長になるには、代議員会議長代理の支持を得ることが
有利である。逆に、課外活動の予算を確保するには、生徒会長を出すか、
もしくは協力的な生徒会長を擁立しなければならない。
 かつて中学二年の終りに、公安委員長代理として、選挙管理委員長を
つとめたとおなじ偶然的経由で、評議員会の議長代理として、ふたたび
選挙管理委員長を兼任することになった。
 なにしろ、開校以来初の女子生徒会長を、高校でも初の二年生会長を
登場させた経過は、同級生はもとより、一年下の下級生たちの記憶にも
刻まれているはずである。弁論大会やキャンプでのボート・レース優勝
やら合唱コンクールでの優勝、学校新聞の編集長であり、図書委員会や
宗教部オブザーバー、ホザナ・コーラスのゲスト・メンバー、あげくに
文芸部では発禁事件まで引きおこしている。
 衆目のみるところ、とくに成績抜群の秀才ではないにしても、まさか
劣等生であるはずがない。しかし、どこにも事情通は居るわけで、実は
成績不良で落第スレスレの情報は伝わっていたかもしれない。
 しかし、それが事実であることをまざまざと確認したのは、新学期の
二年D組の生徒だった。とくに同志社中学の後輩なら誰知らぬ者はない
“あの上級生”が、おなじ教室の一隅にムッツリ坐っていたのである。
 ふつう学校側では、留級よりも転校をすすめる。いまにいう偏差値の
低い高校(たとえば、おなじ同志社でも夜間高校)に移れば、そのまま
進級できるので、すくなくとも世間体はゴマ化せるのである。
 しかし当人は確信犯で、「なんならウラオモテ何年でも繰りかえすぞ」
などと虚勢をはった。もとアマチュアで、東京芸術大学に往復八年在籍
した指揮者・岩城宏之などの特例を思いうかべていたが、同志社高校の
規定では留級をくりかえす前に放校だ、とおどかされた。
 おそらく、当人の経歴をまったく知らなかったのは、新米の司級ただ
ひとり、なにしろ京都大学理学部を出たばかりだった。
────────────────────────────────
(*)とくに説明する必要も問題もないと考えていたので、笑っていた。
 評議員会では、予算会議の議長である生徒会長と対立することになる。
 この経験から“一票の格差”に気づいて《予算会議の反省》につづく。
 草稿:余太郎民主主義の原理 〜 予算会議の反省・補釈 〜


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