刑法奇行
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| 2003年06月21日(土) |
ゼア刊行でゼアグート! |
ハワード・ゼア著『修復的司法とは何か―応報から関係修復へ』(新泉社)が、やっと刊行された。長いジャーニーだった。そういえば、先日、慶應の刑法�靴旅峙舛虜檗△い弔盥�板を消してくれる女子学生から、「友達から聞いて欲しいと頼まれたのですが、ジャーニーとは何ですか。」と聞かれた。ジャーニーとは旅であり、修復的司法のキーワードなのだ、と答えたのである。被害者も加害者もそしてコミュニティも、そして人間誰もが、様々な旅をしているのである。どこに向かっているのか分からないにもかかわらずである。
通して読むと結構いい本であることに驚く。本の選定に間違いはなかった。翻訳の過程で様々な問題に直面したが、結局、N村先生とH井先生、そして私の「お笑い三人組」を中心とした翻訳者全員の癒し系サークルのノリであったことがよかったのだろう(某イベントサークルとは決定的に違う・・・彼らは、癒されてなかったのであろうし、これからどのように癒されるかが問題だ)。
今日は、上福岡まで行った。J北S玉高校での模擬講義である。90人ほどの高校生が熱心に私の「21世紀社会における罪と罰」を聞いていた。冒頭は、ワンパターンで「学生からは福田官房長官と言われています。」と言って、笑いをとった。インターネットとわいせつ罪の話の際に、芳賀書店の話をしたら、何と数人が笑ったのには驚いた。懐かしきビニ本の世界である。社長の芳賀とは、小・中・高と一緒で、彼は、R命館に行ったのである。彼も、T巳のG藤さんと同じでバレーボールの選手だった。2人とも商魂たくましいのである。
もちろん、講義の最後は、修復的司法の宣伝である。これがまた、先生らに結構うけるのである。やはり、そうでなくてはならないと思っているのだろう。しかし、分かっちゃいるけど、どうしようもないと思っているのだろう。
NHKの「ご近所の底力」は、まさに、修復的司法の理念に基づいているように思われる。NHKは、ずいぶん前から修復的司法に関心をもっている。どう展開するか楽しみである。
さらに、学校の底力、家庭の底力、親子の底力、夫婦の底力、ゼミの底力などなど、こういう基礎的単位の底力を問い直さなくてはならない。そのためには、どうしたらいいのだろう。
もっとも、ジャイアンツにはもはや底力はないことだけは、確かかもしれない。
ジャーニー to 2004年(LS)のペナントレース
| 2003年06月09日(月) |
どうしてこんなに悲しいんだろう |
先週の金曜日に、佐々木史朗先生のお別れ会が、喜寿パーティと同じアルカディア市ヶ谷で開かれた。とにかく悲しかったし、泣けてきた。親父が死んだときは、ただ呆然として、お通夜・告別式と忙しくて、泣くことはなかった。泣く余裕がなかったのかもしれない。数日経ってから、親父の好きだった「寅さん」をテレビで何気なく見ていたら、涙がポロポロこぼれてきたのである。そういうものなのかもしれない。先生が亡くなって、1月以上も経って、事態を客観的にみれるから、悲しみがドッと押し寄せてくるのかもしれない。
この人が死んだらきっと自分は泣くだろうな、という「この人」は確かにいる。関係が深ければ深いほど悲しみも深いという比例性はあるのだろうか。もらい泣きもあるから、比例性は疑わしい。また、本当に悲しいときは涙もでないともいわれている。「私にはよくわからない。」(異邦人)
いずれにせよ、日常性がまっている。日常性とは残酷なものだ。すべてを流してしまう。日常性を破壊することが必要だ、とかつての全共闘は叫んでいたのである。高校紛争をもろに受けた世代として、今この年になって、あの時代が無性に懐かしい。まあ、クラス会ばやりもそのせいかもしれないし、カラオケで、岡林の「私たちの望むものは」とか「友よ」とか、歌うだけであるのだが・・・。この間の刑法学会前日、K斐さんやM生さんらと歌った岡林はよかった・・・自画自賛である。
14日は、水戸の常磐大で被害者学会である。13日に1泊しなければならない。「犯罪被害者と刑罰」というシンポの司会をやる。ゼアの『修復的司法とは何か』も販売するようだ。私の『修復的司法の探求』もついでに販売する、とT子変酋長も言っていた。もう数部しかないらしい。これに対して、『共犯体系と共犯理論』は、1988年刊にもかかわらず、いまだに在庫があるのは、なんでだろう、なんでだろう、なぜかなんでだろう〜。
水戸といえば、納豆である。以前、納豆料理のフルコースを水戸で食べたことがある。納(豆)得できなかった料理の一つであった。
ジャーニー to 悲しくてやりきれない
norio

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