スカーレットの心のつぶやき
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2004年05月31日(月) 私の悪い癖

私には悪い癖がある。

それは、何か一つのことがあると、

それが良いことであれ悪いことであれ、

全てだと思ってしまうことだ。

「一事が万事」の人なのだ。

でも、よく考えてみると、

良いことでも悪いことでも、

それは全てではなく、

物は色んな方向から見ると違っているものなのだ。

このことに気づいたのは、

昨年の苦い経験の後だった。

もっと早くに気づいていれば、

傷は浅かったはずなのに・・・

ヴァイオリンの練習でもそうだ。

今いくら練習しても上手くいかないと、

私はこのままずっと永久に駄目だと思い込んでしまう。

大げさに言えば、

一つの失敗で人生は全て駄目になると思ってしまう。

「こんなにできないのだから、もう無理だ」とか、

次から次とできない箇所があると、

「私にはヴァイオリンの素質は皆無だ」とか。

そういう考え方をするから、

嫌になってしまうのだということはよく分かっているのに、

何か悪いことがあると、

もういい方向へ頭も心も行かなくなってしまう。

一つの夢が挫折したから、

もう二度と夢は持ちたくない、

人を愛したのに、その愛をなくしたら、

もう二度と恋はしなくない、

そして最後には、

私のように不幸な人間は居ないなんて思ってしまう。

でも、こんな考え方はやめよう。

今は出来なくても、

また悪いことが起きていても、

いつか良いこともあるだろうと思いたい。

負ではなく正の方向を見て行きたい。

後ろだけではなく、

前も横も見ながら歩いて行きたい。

私は自分の悪い癖を分かっているのだから、

それを直せばとても気持ちが楽になるはずだ。

自分で自分の首を絞めているような、

生き方をするのをやめよう。

色々なことがあるから人生は面白いのかもしれない。

そう思うと、嫌だと思うことも嫌でなくなるかもしれない。


2004年05月30日(日) 腹を立てる前に

あの有名なローマ皇帝でもあり、

また哲学者でもあるマルクス・アウレリウスの言葉に、

「もし、君にできるのならば、

悪いことをした人間を改心させよ、

もしできなければ、

かかる場合のためにこそ、

寛大というものが、君に与えられているのだ、

ということを思い起こせ」という言葉がある。

人間は相手との係わり合いにおいて、

大抵は自分が正しい、相手が間違っていると思うものだ。

だからこそ、相手の考え方が自分と違っている場合、

相手を批難し、相手を変えようとする。

でも、人が相手を変えようと思うことこそ、

とても傲慢だと思う。

例えば、相手のやることなすこと全てが
、
自分の気に入らないと思う人は、

どうにかして相手を変えて、

自分の思うようなやり方をさせたいと思うだろう。

それは所詮無理なことなのに、

自分なら相手の間違った考え方を変えることが出来ると思ってしまう。

しかし、人の考え方ややり方は皆違う。

だから、相手がもしも何か非なることをしていたら、

相手に言ってあげるのが親切だという場合もある。

腹を立てる前に、

もう一度原点に戻って考えるのも良いのではないかと思う。

どうしても気になって仕方ないのなら。

それは割り切って縁がなかったと思えばすむものだ。

もっとシンプルに考えてみたい。

腹を立てるのは結局自分の損なのだから。


2004年05月29日(土) 私に今出来ること

衝撃を受けた。

人の力に感動した。

人の心の強さに感激した。

私は今何をしているのだろう?と改めて考えてみた。

毎日を無事に過ごすこと、

毎日毎日を大切にして生きること、

今の私はこのことで手一杯の感じだ。

それでも良い、

人は人だから、私は今の私で良いのだと思っていた。

でも、昨日、ある本を読んで私の非力さを感じた。

障害者一種一級は同じなのに、

私は手も足も動く。

物も言えるし目も見える。

走ることや泳ぐこと、山を登ることは出来ないけれど、

そのほかのことは普通の人のように出来る。

もしも、自分の意思で体が動かず、

どんなに辛くて死にたくなったとしても、

自殺することさえ出来ないとしたら、

どんなに悲しくて情けない気持ちになるだろう。

自分が確実に死に向って体が動かなくなっていくことを思うと、

いたたまれない気持ちになる。

死刑を宣告されて死刑執行を待っている囚人のような気持ちと

同じ気持ちになるのは当然だと思う。

一時は自暴自棄になったとしても、

その後生きる光を見つけ、

それに向って明るく歩いていっている彼らの姿に

私は神の姿を感じた。

健康であるとか、元気だとかは問題ではないのだと思う。

今、自分が生かされているということこそ、

本当に素晴らしいことなのだと思う。

私も何か少しでも今私にしか出来ないことを見つけたい。

そして、弱音を吐かず、諦めず、出来る限りの努力をしたいと思う。

素晴らしい本、素晴らしい人にめぐり合えたことを、

こころから嬉しいと思う。


2004年05月28日(金) 心を伝える

私の知っている人に、

毎日誰か3人に手紙を出し続けている人が居る。

今まで20年続いていると聞いた。

簡単に20年と言ってしまえばそれまでだが、

一日3人×365日、

一年365日×20年、

計算したら、彼が出した手紙の数は物凄い数になる。

何がきっかけで書こうと思ったのかは知らないが、

やはり人との交流をしたいと願う気持ちからだろうと思う。

私は、今はPCや携帯電話でメールをしているが、

本当はペンを持って便箋に向うのが好きだ。

でも、最近は手紙を書くことは少なくなってしまった。

その代わりと言っては変だが、

絵手紙を描いている。

絵手紙は手紙のように長い文章ではないけれど、

やはり、自分自身の気持ちを相手に伝えるという点においては、

封書の手紙と変わりはしない。

今、私は少なくとも、

一週間に6〜7通の絵手紙を描いている。

そして絵手紙の良さが分かるにつれて、

余計に手紙の良さを感じ始めている。

私も一日3人とはいかなくても、

せめて一人だけでも手紙を書くことができたら、

どんなに良いだろうかと思う。

人は自分の心を相手に伝えるために言葉を使う。

言わなくても分かるというのは傲慢だと思う。

やはり気持ちは言わなくては相手に伝わらない。

気持ちを伝えることによって初めて、

その人との心の交流が始まるのだ。

だから、

言わなくても分かるというのではなくて、

言うからこそ伝わると思いたい。

心を伝えることはとても大事なことだ。

言葉は相手の心にとって薬にも刃にもなりうるものだ。

だから、その言葉を深く考えて欲しいと思う。

人と人とのコミュニケーションをはかるためにも、

心を手紙に託して伝えたいものだ。

メールとも電話とも違った良さを思い出してほしい。

相手の書いてくれた一文字一文字の中に、

相手の心が入っている。

私のことを思ってくれながら書いてくれたのだと、

思うだけで嬉しくなる。

これからどんな世の中になろうとも、

手紙は人の心の交流の原点として、

いつまでも残るものだと思う。


2004年05月27日(木) 幸せ

幸せは待っていても来はしない。

もしも、自分が幸せになりたいと思うなら、

自分の足で幸せに向って歩いていこう。

幸せになりたと思うなら、

自分でつかみとろう。

ただ、幸せってそんなに大げさに考えるものでもないような気もする。

幸せって自分の心の中にあるのだから、

その人の心が満足すれば良いのだと思う。

作家、武者小路実篤は、

「幸福を感じるのには童心とか、無心とか、素直さとか言うものが必要である」と言っている。

自分が幸せだなあと感じるときってどんな時だろう?

何かステキなものに出会った時、

幸せそうな人を見た時、

美味しいものを食べたとき、

綺麗な花を見つけた時、

心がほっとする音楽を聞いたとき、

一日の仕事を終えて、お風呂に浸かってのんびりしているとき、

風呂上りに好きなビールを一杯飲んだとき・・

自分が幸せだと感じるときは、

人それぞれで違うとは思うけれど、

その時は誰でも心の中で、

「ああ〜嬉しいな」

「ステキだな」

「幸せだなあ」

「いいなあ」などと素直に感じているからだと思う。

昔、加山雄三の「君といつまでも」という歌に、

彼が鼻に手をやって、照れくさそうに言うせりふがある。

「幸せだなあ・・・僕は君と居る時が一番幸せなんだ・・・」

まさにこの気持ちだと思う。

これが反対に、

「こんなのは変だ」とか、

「もしかして、間違いかもしれない」とか、

「いつまで続くのだろう?」とか、

「もしも今のこの幸せを失ったらどうしよう?」などと考えると、

その幸せをあまり感じられなくなってしまう。

幸せは素直な心にしか感じられないのかもしれない。

ちょっとした幸せ、

何気ない幸せ、

これを感じ取れる人こそが幸せになれる人なのではないかと思う。

幸せを感じるのには理屈は要らない。

只、素直に感じることが出来れば良いのだ。

余計なことを考えると、幸せだと感じる気持ちも減るだろう。

大人になっても、いつまでも子供のように、

素直な心で幸せを感じることができたらどんなに良いだろう。


2004年05月26日(水) よく生きる

哲学者プラトンの言葉に、

「一番大切なことは、単に生きることそのことではなくて、善く生きることである」

という言葉がある。

よく生きるということはどういうことだろう?

一生懸命に生きること、

人のために何かいいことをして生きること、

目標を持って生きること、

自分らしい生き方をすること・・・

これらの生き方をすることが、

よく生きるということなのだろうか?

言葉にすれば簡単なことに思えるが、

実際に毎日の生活を送るとき、

一生懸命に目標に向って、

自分らしい生き方をするって難しいなあと思う。

私は今まで一生懸命に生きてきたつもりだ。

現に私の座右の銘は「一生懸命に生きる」だった。

でも、時々一生懸命になりすぎて、

途中でギブアップしてしまったことも度々ある。

だから、今は適当に一生懸命になろうと思っている。

目標を持って生きるということは大切なことだと思う。

只毎日を無意味に過ごすのとは違い、

何か目標に向って、

一歩ずつ歩いていくことは素晴らしいことだと思う。

その途中では休むことも大事なことだ。

休みながら、それが遅い歩みであっても、

いつか叶うことを信じて投げないことだ。

自分らしく生きることは、

一見我儘な生き方に思われるかもしれない。

でも、人生は一度きり、

自分の人生の中で自分が主人公なのだ。

人まねではなく、

「私にしか歩けないという人生」を見つけたいものだ。

そして、ただなんとなく生きるのではなく、

少しでもよく生きようと心がけることが大切なのだと思う。

自分が望む生き方を示し、

それに近づこうと努力しながら生きることが

本当の生き方なのだと思う。

それが幸せをつかむ第一歩なのかもしれない。


2004年05月25日(火) 自分をしっかりと

誰でも人に嫌われたくはないはずだ。

出来れば人に好かれたいと願うだろう。

でも、人は自分と同じ考え方をしないし、

感性も違っているから、

自分が良いと思ってしたことも、

相手には反対に取られるときがある。

好意的にしたことでも、悪意に取られるときもある。

そして、その時に自分が言ったことや、

した行為について反省し、

落ち込むこともあるだろう。

でも、いくら考えみても、何が悪かったのか?

何が相手の気を悪くさせたのかわからないこともある。

寧ろ、その方が多いと言っても過言ではない。

悲しいことではあるけれど、

それは仕方のないことなのかもしれない。

穿った見方をすれば、

相手に嫌われたくないとか、

相手に良い様に思われたい、

相手に好かれたいと思う気持ちは、

自分がないということでもあると思う。

自分自身をしっかり持っていれば、

こちらに悪意がなく、

好意的に言ったりしたりしたことについて、

後悔する必要などないと思う。

自分が正しいと思ってすることに、

もっと自信を持ちたいものだ。

「人の口に戸はたてられない」という言葉があるが、

本当にそうだと思う。

人が何を言おうがそれをいちいち気にしていたら、

この世の中を生きていくのは難しい。

こんな偉そうなことを言っている私は、

昔は人の気持や言葉に左右される人間だった。

だから、人一倍神経を尖らせて、

そのために自分の心を傷つけて病気になってしまった。

人を変えようと思ってもそれは無理だ。

人を変えたいと思ったら、

まず自分自身が変わらなければいけない。

そして自分に素直に正直に生きていくことが、

必要なのではないかと思う。

今年、娘の中学の地区の役員になったけれど、

他の役員の人との付き合いにおいて、

今のこういった気持を忘れずに接していきたいと思う。

そうすれば一人でも平気だし、

もしも何か言われたとしても、

私は私の道を歩めると信じている。



2004年05月24日(月) 一つだけ

私には誰にも負けないと思うことが一つだけある。

人が聞いたら、「なんだ、そんなことか!」と

笑われるかもしれないことだ。

でも、私は何所へ出ても決して恥ずかしくないくらいの気持ちがある。

それは、ご飯を食べるときのお箸の持ち方だ。

私は外で食事をする機会があると、

必ず周りの人の箸の持ち方に目が行く。

私の経験では、10人の内、上手に箸を持っている人は、

3人くらいしか居ないように思う。

箸の持ち方くらいどうでも良いじゃないかと思う人も居るだろう。

「誰にも迷惑なんてかけてないよ、あんたに言われる筋合いのことじゃないよ」

という声が聞こえてきそうだ。

確かに、その人がどんな箸の持ち方をして食べていようとも、

他の人に迷惑などかけはしない。

だから、私が気にするほうがおかしいのかもしれない。

でも、日本人としてこの国に生まれ、

箸を使う食事をする以上、

見ていても綺麗に持つということは、

食事のときのマナーでだと思う。

そしてある意味でとても大切なことではないだろうか。

見ていると「あれでよくご飯を食べることができるな!」と

思うような箸の持ち方をしている人が居る。

握りこぶしを作るように握っている人、

そこまでひどくなくても、

人差し指が親指の上に数センチ出る持ち方をしている人も居る。

うどんやそばなど麺類を箸で食べる時など、

箸で挟むのではなく、

箸に引っ掛けてすすっている人が居る。

はっきり言って見苦しい。

そんな箸の持ち方はやめて欲しい。

変な箸の持ち方をしている人は年配の人よりも若い人に多いと思う。

昔の人は親からちゃんと躾けられてきた。

私も食事の時に父に厳しく言われたのを覚えている。

まさに「箸の上げ下ろし」までうるさく言われた。

でも、そのお陰で私は綺麗に箸を持つことができるようになった。

今の若い人を見ていると、

この人たちが親になったとき、

わが子に箸の正しい持ち方を教えることができるのだとうかと、

将来がとても心配になってくる。

日本人として、

これからの日本人に伝えたいことの一つでもあるように思う。

私が自信のあることなんてこんなことしかないけれど、

大切なことだと思うんだ。


2004年05月23日(日) 花の名前

昨日立ち寄った本屋で、

さも私に買ってほしいと言っているように並んでいる

「花色図鑑」という本を見つけた。

なんと2000種類の花の名前が出ているという。

花の名前に疎いと思っていた私は、

嬉しくて手にとって見てみた。

色とりどりの花々が厚い全体に載っていた。

私は、最近デジカメで写真を撮るようになってから、

以前よりも花を好きになってきている。

今までも見てはいたのだが、

今は余計に道の端に生えている花にも目が行くようになった。

散歩の途中では綺麗な庭の花に惹かれるようになった。

そして、私がいかに花の名前を知らないのか!

と言うことを感じるようになった。

この本はそんな私にぴったりの本だった。

園芸店や花屋さんの店先で見かけたり、

また手に入れる花の名前を知りたいと思うのは当然だ。

この「花色図鑑」と言う名の本は、

そんな花を色別に、また咲く時期別に載せている。

例えば、赤色の花で春に咲く、

マーガレットに似た花の名前は?というときは、

赤のグループの春のページで、

キク科の植物を探せば見つかるという具合だ。

私は花が好きなくせに育てるのが苦手な人だ。

でも、この本では、植物の生育に必要な日当たり、

水遣りの条件、

長く花を咲かせるための説明なども載っているので、

これからは自分でも育てる楽しみも出てくるかもしれない。

やっぱり花は良い・・・

花は心を慰めてくれる。

花によってどのくらい救われたことだろう。

今までは、絵手紙に描くために花の名前を知りたかったのだけれど、

今は自分が撮る写真や、皆が撮った花の写真の名前、

また、よその人の庭先で見かける花の名前を知りたいと思うようになった。

この図鑑は私の力強い味方になってくれそうな気がする。

今日も良いお天気のようだ。

花の名前を知らなくてももう大丈夫。

デジカメ持って散歩でもしてこよう。

花大好き!


2004年05月22日(土) 勉強って? その��

先日、ここに書いた本当の勉強って?に続いてその�兇髻�

今朝こんな言葉を見つけた。

それはあの有名なイタリアの芸術家でもあり、科学者でもある

レオナルド・ダ・ビンチの言葉である。

彼は「食欲なくして食べることが健康に害あることごとく、

欲望をともなわぬ勉強は記憶をそこない、

記憶したことを保存しない。」と言っている。

本当にそうだと思う。

小学生から大学まで一緒だった親友と話すのだけれど、

私達が大学で学んだことって何だったのだろう?

あの4年間をこのダ・ビンチの言葉のように、

学びたい!という欲望を持って過ごしていたら、

今ごろはもっと違う形で知識も残っていたに違いないと思う。

本当に悔しい。

今更言ってもどうしようもないことで愚痴になってしまうけれど、

もしも、今あの時に戻れたら、

私は何かを求めて勉強するだろうと思う。

税理士でも会計士でもいい。

否、公認会計士でも夢ではないかもしれない。

自分が何を勉強したいのか?

勉強は誰のためにしているのか?

何のために学びたいのか?

学んだことをどういう風に生かしたいのか?

そして、最終的に将来は何になりたいのか?

こういったことを明確に分かった上で、

勉強することがとても大事だと思う。

つまり、勉強の目的がはっきりしていたら、

同じ勉強をしても身につく大きさが違っていると思うのだ。

その目的が実現しないかもしれないが、

目的のない勉強の仕方ではなく、

はっきりとして魅力のある目的を持つことで

意欲も違ってくると思うから。

先日再会した友人のように、

自分が納得いくまで追求したい、

知りたいという意欲がとても大切なのだと思う。

今からでも遅くないかな?

私が今何かを学びたいと思うなら、

その目的を明快にして勉強していきたいとつくづく思う。


2004年05月21日(金) 私には私の

何気なく生きていると思うときがある。

こんな毎日で良いのかと疑問に思うときがある。

もっと意味のある生き方をしないといけないのだと思うときがある。

先日23年ぶりに再会した友の生き方を見ていて、

私は正直圧倒された。

何故こんなに一生懸命に生きることが出来るのだろう?

いつも何かを求めて生きていくことが出来るのだろう?

彼女の生き方に比べて、

私はなんと毎日を無駄にして生きているのだろうと思った。

決して私だってぼうっとして生きてはいない。

毎日忙しくとても有意義に過ごしているように思われるようだ。

でも、私の心の中には

いつも満ち足りないものがあるのを感じる。

人の生き方と比べることはいやだ。

人は人、私は私なのだから。

私は、こうして今元気で過ごせることこそが、

私の一番大事な生き方なのだと思うから。

私には私の生き方があるから、

もう人の生き方を見て落ち込むのはやめよう。

幸せは自分の心が決めるものなのだから
、
いくら周りから不幸そうに見えても良いじゃないか!

いくら人が幸せそうにしていたって良いじゃないか!

人は人、

私は私の生き方がある。

今まで生きてきた私の人生に無駄なことなどなかったのだと思いたい。

辛く悲しかったことも私の人生だ。


2004年05月20日(木) 失くしてみて

人は自分にとってそれがいかに大切なものであったかどうか、

失くしてみて初めて分かるものである。

自分自身の心の中で長く温めていた思いも同じ、

物ではなくて形に表せない心を失ったとき、

形としてある物を失ったときとは比べることの出来ないほどの

喪失感を味わうのではないだろうか?

人を想う気持、

人を愛する気持ち、

人を幸せにしようと思う気持、

それらの気持ちが自分の心の中からなくなったとき、

もう二度と立ち直れないくらいの悲しみを覚える。

自分の心の中だけで、温めていたものなら、

相手に通じていない分楽かもしれない。

恋をするなら片思いが一番良いのかもしれない。

恋には相手が存在する。

そして、自分自身が相手を想う気持と同じ気持ちが

相手から返ってきて初めて、

その恋は成就するものだ。

恋は人の心を明るくする。

恋は人の心を暖かくしてくれる。

恋は人の心をやさしくする。

恋は魔物だというけれど、

確かにそうかもしれない。

恋をしていると、

自分の心だけではなく、相手の心さえも見えなくなってしまう。

恋は盲目の言葉の通り、

何もかもばら色に輝き、

相手の欠点は長所に変わる。

何もかも見えなくなって、夢中になって、

そして、ある日突然、まるで風船がぱちんと割れるように

自分の心のあのときめきも消えることがある。

相手の心の中の自分への気持ちだって同じだ。

絶対に嫌いになることなんてないと信じあっていた者でも、

夢中になっている時期を過ぎ、

現実を見るときになって、

色々なことが見えてきて、恋は終わる。

勿論、その恋が永遠に続くと信じているからこそ

幸せなのかもしれない。

恋を失ったとき、

人はこんな辛いことが世の中に存在するのだろうかと悲しみに暮れる。

自分がこの世で一番悲劇の主人公になったような気持ちになる。

そして、食欲をなくし、夜も眠れなくなり、

遂には私の経験した心の病気にさえなることがある。

自分を失くしたまるで抜け殻のような状態で日々暮らすことにもなる。

そしてその恋を失ってみて初めて気づくこともある。

本当にあの時の自分の心に嘘はないだろうか・・・

本当に素直な心だっただろうか・・・

そう思うことで少しずつ自分の気持が冷静になってくる。

そして、悲しみがなんと小さいものかと気づくことさえある。

失ってみて相手の大切さを再認識することもあるだろうが、

多くは大したことではないと気づくことの方が多いと思う。

だからこそ、人は失恋をして一回りも二回りも大きくなれるのだと思う。

そして、また次の恋へのステップを踏み出すことが出来るのだと思う。

失くすことの悲しみよりも、今度得ることへの喜びへ変わることが、

本当はとても大事なことなのかもしれない。



2004年05月19日(水) 心も体も健康で

今日は、一ヶ月に一回の心臓の病院の診察日だった。

朝一番の予約をしているので、家を7時に出た。

実は今朝はいつもの朝と違って、少しこころが滅入っていた。

こころは元気!なんて偉そうなことを言っているくせに、

やっぱり駄目な私だな・・・

何かがあると直ぐに落ちこんでしまって・・・

心身ともに健康であることが、

どんなに素晴らしいことか!をつくづく思う。

世の中にはいくら気持ちが元気でも、

自分の思うように体がついていかない人も居る。

反対に、体はとても元気なのに、

こころを病んでいる人も居る。

今のストレス社会では、

心も健康でいる人の方が少ないのかもしれない。

今日の血液検査の結果、今飲んでいる薬が効き過ぎていることが分かった。

最近は体中に青あざができて変だとは思っていた。

案の定薬が効き過ぎていたのだ。

薬の量を減らしてもらってまた様子をみることになった。

私は毎日の生活の中で、

自分自身が心臓が悪いということをほとんど忘れて暮らしている。

勿論他の人に比べると、

制約されることの多い生活ではあるが、

寝込むこともなく毎日を過ごすことが出来ている。

今、こうして見かけよりも元気で居られるのだから、

心も元気で居たいと思っている私だ。

今朝の少し落ち込んでいた気持ちは

お昼過ぎに解決したことで楽になった。

一喜一憂しないで生きたいと思っていながら、

こうして何かあると戸惑い、揺れる私の弱い心が嫌になる。

心身共健康で居ることは本当に難しいことだと思う。

もう少しで大切なものをまた一つ失くすところだった。

私のいけないところが顔を出し始めていたからだ。

体も元気なら、もっと心も素直になって

明るく人との付き合いをしていかなくちゃと思う。

今日もいい日に!が私の朝の自分への挨拶だ。

本当に心を元気に、体も元気で、

挫けず、負けず、投げないで生きていこうと心から思う。


2004年05月18日(火) 何があっても

人生において自分が予期せぬことに出会うことがある。

それが良いことなら何も問題はない。

でも、生きていると良いことばかりが起きるはずはない。

否、辛いことや苦しいことのほうが多いのかもしれない。

人にとって辛く苦しいことは、

たとえそれが大したことでなくても、

一生に一度の大事になることもある。

毎日の生活の中でいつも自分の心を冷静にしていれば、

もし何かが起きても、

慌てたりうろたえたりすることなく

落ち着いて正しい対応ができると思う。

でも、それは言葉で言うのは容易いが、

実際には簡単ではないように思う。

冷静で正しい判断は一石二鳥に出来るものではないと思うからだ。

いつも自分自身を強く持ち、

どんな状況の中でも生きていける強いこころを養いたい。

今、この年になっても、

こころの中は青春時代の時のように希望や期待でいっぱいである。

何があっても動じないこころを作るには、

やはり辛さも苦しみも経験することだ。

人に振り回されず、自分自身の目で確かめ、

耳で聞いて納得することが大事だと思う。

流される生き方はそれはそれで良いと思う。

でも、やはり一番大切なことは、

何かあってもうろたえない強い心を持つことだ。

そして、その強い心をもつためには、

色々な経験をつんでいくことだと思っている。

人生において、無駄なことなんて一つもない。

生きているということそれだけで意味があると言った人が居る。

本当だとつくづく思う。

自分が生きているということによって、

自分も家族も皆救われる。

生きる目的なんて要らない。

今ここに自分の足で立つことが出来ていれば、

その足を前に一歩踏み出すことが出来る。

そして、それまで自分自身の中に秘めて隠されていた色んなことが、

見えるようになるのだと思う。

何かあったときもお互いに相手をおもいやり、

自己を犠牲にしても相手を助けたいと思う気持が重要なのだと思う。

これは難しいことのように思える。

でも、出来なくてもいい、

時々は自分自身を振り返ってみることによって、

なにも考えない時とは違って、

何かが見えてくると思うから。

たとえ、そうするには時間がかかっても良い、

寧ろ、ゆっくりとした時間が必要なではないだろうか?

何があっても、自分自身が出来るのだという

強い積極的なこころを持って、

毎日を送ることがとても大切なのだと思う。









2004年05月17日(月) 本当の勉強

勉強は学校だけでするものではないと思う。

学ぶということは、一生かけてすることだと思う。

人の人生にとって学歴なんて何も価値のないものだと思う。

寧ろ、学歴がその人の人生を狂わせると言っても過言ではない気さえする。

いつの頃から学歴偏重主義になって行ったのだろう?

猫も杓子も大学へ・・

何を学びたいのか?

何の仕事に就きたいのか?

何も学ぶものもない、

何もしたい仕事もない、

そんな人が今とても増えているという。

働く意味さえわからないと言っている大学生がTVに出ていた。

彼は何のために4年間大学生活を送ったのだろう?

それは目的もないくせに、

只、学歴だけはつけておきたいという

単純な気持ちだったのかもしれない。

また、4年間親の仕送りで楽しく学生生活を送いたい

と思っただけなのかもしれない。

人は皆自分を高めようと願う。

昨日よりは良い明日にしたいと願っているから。

でも、そのことは決して学校で学ぶこととは関係ない。

その人が何かを追求し、

自分自身の中で納得できるようになるまで学ぶこと、

これが一番大切なことのように思う。

本当に学びたいと思ったら、

年齢や経験なんて不必要なものだ。

今勉強のできない環境にいる人も、

その学びたいと思う気持ち、意欲、

これを持ち続けている限り、いつかは花開くのだと思う。

勉強の好きな人はいないかもしれない。

でも、何かを追求することはできるはずだ。

そしてそれはきっと楽しいものに違いない。

人生は一生勉強なのだから、

今出来なくてもいつか自分自身のための勉強はできると思う。

学びたい・・・

そして、追及したいと願う気持ちを持ち続けることが大事なのだと思う。


2004年05月16日(日) 愛することの幸せ

ドイツの詩人ヘルマン・ヘッセの言葉に、

「愛されることは幸福ではなく、愛することこそ幸福だ」

という言葉がある。

人は誰かから愛されていると幸せだと感じる。

確かに愛されることは、嬉しいことである。

人から愛されないで育った子供は情緒が不安定で、

自分も人を愛することができないという。

不幸な結果になるとも聞く。

だから、愛されるということがとても大切だということは分かる。

でも、このヘッセの言葉を考えてみると、

なるほどと頷けることがある。

愛されるということは、

人から受ける行為であるのに対して、

愛するということは自分自身の行為である。

人からの行為は不確かなものだけれど、

自分自身から発する行為は確かなものだといえる。

そして、確かなことだからこそ、

その行為が幸福へつながっているのだろうと思う。

では、自分が人を愛するということはどういうことなのか?

それは人を幸せにするということだと思う。

自分が幸せにしたいと思う人を幸せにしてあげることができれば

自分も幸せだと感じるのだ。

自分が幸せになりたいと願うなら、

まず、人を幸せにしてあげよう。

人との関係によって自分が幸せだと感じることはどんなことだろう?

それは人の役にたつ幸せ、

人に感謝される幸せ、

人に何か喜んでもらえることができた幸せ、

相手に自分が必要と思われている幸せ、

相手と共に幸せだと感じることのある幸せ、

そして究極は相手の幸せを見て

自分の幸せと感じることが出来ることではないだろうか?

それが結局、私がいつも思っている無償の愛なのだと思う。

私はいつも愛されたいと望んで生きてきたように思う。

だから、愛される喜びしか知らないのかもしれない。

愛される喜びよりももっと大きな喜び、

幸福感がほしいなら、

人を愛することをしなきゃ。

これからでも遅くない。

私は人を愛したいと思う。


2004年05月15日(土) 男と女

昔「男と女」という映画があった。

あの映画とは関係ないのだけれど、

最近、男と女について考えることがある。

男と女は生理的に違う感覚があるのかもしれない。

大昔まだ狩猟時代のころ、男は外で狩をしてきて

家族を餓えさせないようにしてきた。

女は子を産み、子を育て家を守ることが当たり前だった。

今もそれは変わらないのかもしれない。

勿論時代が変わるにつれ、男女平等といううたい文句の前に

一見男と女は平等になっているかに見える。

企業、官庁でも女性の管理職が増えてきている。

男女均等雇用法の賜物かもしれない。

でも、家に帰ると女が家事をすることが多いのではないだろうか?

男としては女は家に居て家事に専念してほしいと思うのだろうが、

外で働いて帰ってから家事を完璧にこなすことは容易なことではない。

私は専業主婦だから、外で働いている女の人を偉いなと感心していた。

しかし、よく考えてみると専業主婦の仕事って凄いことだと思う。

休みに家の中に居られることに幸せを感じる人は多いと思う。

それは、日々外で働いているからそう思うのである。

日頃外に居るから、一週間に一日か二日休みの日は、

家に居たい、家でのんびり休みたいと思うのだ。

私のように一年365日家事に明け暮れているものにとって、

たまには家事から解放され外に出て外の空気を吸いたい、

誰かとお喋りがしたいと思うのはいけないことなのだろうか?

男は家庭を大切にしたいという本能がある。

勿論女も家庭を大事に思っている。

でも、たまには家庭を忘れて自由に羽ばたきたいと願うこともある。

特に外で働いていない専業主婦は、

気分転換のためにも外に刺激を求めたい気持ちになることもあるのだ。

それは否定してほしくない。

私は家事をするのは基本的に性に合っていると思っている。

だから、お金のためなら仕方ないが
、
働かなくてもやっていけるなら家に居たいと思う。

夫の働きで生活していることはわかっているし、

十分感謝もしている。

でも、時には外に出て違う空気を吸いたいと思う。

夫以外の男性と話もしたいと思う。

それは許されることだと思っている。

男と女の関係がいつも変な風に思われるのは心外だ。

前に男女間の友情は成り立たないとここに書いたが、

今は反対に友人として、

友情を育てることが出来るのだと思うようになった。

同性であれ異性であれ、

人として人間としての信頼関係を結ぶことは可能だと思うようになった。

だから、これからも良い意味のお付き合いをしていきたいと思っている。

「男と女」という言葉の中に今は新鮮な空気を感じる。


2004年05月14日(金) 外と内

人は誰でも大なり小なり、外面と内面が違っている。

それが極端な人も居れば、そうでない人も居る。

私はどちらかと言えば、後者の方だと思っている。

家の中でも外でもあまり変わらないと思っているからだ。

それに比べると、夫は外と内との違いが激しい。

先日、私の母が病院へ歩いていく途中の道で夫に出会ったらしい。

母は杖をついて片道30分ほどの道を歩いて、

市内の整形外科へ通うのが日課になっている。

夫は多分何かの用事で出ていたのだろう。

母とすれ違う時に、

夫は本当に良い笑顔でやさしく母に言葉をかけたらしい。

「大丈夫ですか?気をつけて行ってくださいね」と。

母はとても喜んでいた。

そして、私にその時の様子を話してくれたのだ。

私には想像できる。

夫は他人には本当に愛想が良いのだ。

だから、とても良い人だと評判も良い。

私と何かトラブルがあると、必ず私が悪者になる。

だから、本当に悔しい思いをすることがある。

昨日の朝もちょっとしたことで、夫ともめた。

私は普通に話したのに、夫はとても無愛想な返事をしたのだ。

この時に思った。

やはり!と。

もしもこれが私ではなくて誰か他の人だったら、

きっと、夫はもっとやさしく返事をしていたことだろうと思う。

何故?

私にも他の人たちと話すのと同じような話し方をしてほしい。

やさしいいい方をしてほしい。

今朝は悔しくて、

「娘が結婚して家を出たら、離婚したい」と思った。

これは一時的な気持ちではあるが正直な気持ちだ。

言葉は人の心を癒しも傷つけもするものだ。

ちょっとした気遣いと言葉遣いで、

相手に不快感を与えることがある。

たとえ夫婦でも少しは気遣うべきだと思う。

そうすれば良い関係にもなれるはずだ。

外の顔と内の顔を持つのは、

世の中で生きていく上で必要なことかもしれない。

でも、相手に良い感じを与える話し方は家の中でも必要だと思う。

まあ、今更夫に期待しても仕方のないことなのかもしれないが・・・












2004年05月13日(木) 闘病

昨日母の胃カメラで日赤へ行った。

病院へ行くたびに、こうして今私が元気で居られることが、

本当に嬉しいことだと思えて仕方ない。

病院だから病気の人たちが集まっている。

その中には今手術室へ向おうとしている人、その家族もいる。

その様子を見ると、

数年前の私の二度目の手術のことを思い出してしまう。

闘病とは「病と闘う」と書く。

病と闘う大変さは、

実際に経験した人でなければわからないことだ。

私の友人に今難病と戦っている人が居る。

彼は数ヶ月前までは、

本当に健康で病気に縁のない人だった。

仕事も家庭も順調で、孫も出来喜びに包まれていたが

突然の発病、そして入院。

今は治療のための3回目の入院をしている。

昨日母が胃カメラをしている間にお見舞いに行った。

24時間の点滴で薬の治療をしているという。

薬はとても強い薬なので、その副作用も出ているらしい。

あんなに健康であった人が、

今は点滴をしながらベッド上の人になってしまっている。

そんな生活もどんなに早くても今年いっぱいはかかるらしい。

私の励ましの言葉など何の力にもならないかもしれないが、

私の出来る範囲の応援をしたいと思って、

絵手紙を出し続けている。

家に出していたのが今は日赤へ出すようになった。

看護士さんから手渡されると本当に嬉しいと言ってくれた。

私こそ、闘病生活の中で、

少しでも彼の心の支えになれれば嬉しいと思っている。

どうか病に負けないでほしい。

心だけは元気で居て欲しい。

今は苦しくても後ろを見ないで前を見ていてほしい。

朝の来ない夜はないのだ。

この苦しい闘病生活が、

彼にとって人生の中の試練なのかもしれない。

私自身を振り返ってみても、

苦しみと辛さだけの闘病の時があった。

でも、あの時があったからこそ、

今こうして人の心の痛みが分かるようになったのだと思える。

今病と闘っている人たちもきっと同じだと思う。

負けないで、前を見て、

今という一瞬を大事にして歩いて行って欲しいと思う。







2004年05月12日(水) 才能

この数週間ヴァイオリンの練習をするたびに、

私にはよほどこのヴァイオリンの才能がないのだと思えてならない。

今年になって始めたヴァイオリンも、もう丸々4ヶ月が過ぎた。

それなのに、右手のボーイングが上手くできない。

だから、良い音を出すのが出来ないのだ。

理屈では分かっているのに、

いざ右手に弓を持ってボーイングを始めると、

すべったり、真っ直ぐに弾けなかったりする。

当然音色は妙な具合になる。

この4ヶ月の間、一体私は何をしてきたのだろうか?と思うことがある。

ピアノのように鍵盤を弾けば正しい音階が出ることが、

いかに嬉しいことかをしみじみ思う。

再来週にはピアノの調律の予定が入っている。

一年に一度プロの調律士に来てもらって、

音の微妙な変化を正しく直してもらえると、

ピアノの前に座り、弾くと正しい音階を出すことが出来る。

でも、ヴァイオリンは自分で微妙な調節をして。

正しい音を作らなければならない。

それに綺麗な音色ということになれば、

また話は別だ。

だから、一石二鳥には出来ないのが当たり前だとも思う。

始めたときに先生が言った言葉、

「一曲を弾けるのは3年かかる」は嘘ではなかったのだ。

私にヴァイオリンの才能なんてものがあるとは思わないから、

ひたすら練習するしかないのだろう。

ロシアの作家ゴーリキーの言葉に、

「才能とは、自分自身を信じることである」と言う言葉がある。

才能があるかないかの問題ではなく、

その才能を信じて日々磨いていくことが必要なのだと思う。

才能は初めからあるものではなく、

自分の才能を信じて発見するものなのかもしれない。

結局は練習をすることが大事なのだ。

投げず、諦めず、私の才能を信じて頑張ろうと思う。

ああ〜今日は少しはましな音色が出るだろうか・・・


2004年05月11日(火) 母の誕生日

今日5月11日は私の母の83歳の誕生日だ。

大正10年生まれ。

大正時代は遠い昔に感じるようになってしまった。

確実に時は過ぎているのだ。

母を見ていると83年間を母はどういう生き方をしてきたのだろうと思う。

母は裕福ではない農家に生まれ、

義理の姉や兄が居たので、学問も思うようにさせてもらえなかった。

昔の高等小学校しか出ていない。

でも、母を知る人の話によると勉強も学年で一番よくできたらしい。

女学校へ行きたいと思っていたが、

義姉や義兄に遠慮して親に言えなかったらしい。

私の父と結婚する前に一度結婚して満州へ渡り、

私には想像もできない苦労をしてきたようだ。

先日映画「赤い月」が封切られたとき母と2人で見に行った。

舞台が満州だった。

母の心や脳裏にはきっと色んなことが浮かんでいたことだろう。

私は母の昔の話を小さい頃に聞いたことがある。

その話の中で満州の夕日の美しさを知った。

私が母の結婚した年齢になったとき、

その話を思い出し、自分の情けなさを思ったものだ。

母は6年前に大病をした。

でも、今は元気で父と2人で暮らしている。

私の人生にとって、

母の居ない人生なんて考えられないほど母の存在は大きい。

母は私の全てでもある。

母が生きているから私もこうして生きていられると思っている。

母にいつまでも今のような元気さで居てほしい。

そう望むことは無理なことは分かっているけれど・・・

母の死を思うと夜も眠れなくなる。

でもその死を受け入れなければならないときは必ず来る。

その時に後悔しないように、

出来るだけ母との良い思い出を残したいと思う。

私の出来る親孝行をしたいと思う。


2004年05月10日(月) 訃報

一昨日、友人のお母さんが亡くなったと聞いた。

年も私の母と同じ位だったので、

自分のことのように悲しい思いをした。

そのお母さんはお元気だったらしく、

お芝居見物から帰って倒れてそのまま逝ってしまったとか。

残された家族の気持ちを思った。

自分の親が亡くなる時のことを考えると、

私自身の気持が納得できるように看病してあげたいと思う。

でも、看病する期間が長いと、

毎日のことだから、親子の間で色々なことが起きるだろう。

言いたいことをお互いが言い合って衝突することもあるだろう。

そして、親が亡くなった後で、

自分自身の言った言葉や

行った行動について後悔するかもしれない。

そういったことを思うと、今回のように、

闘病生活を送らないで済んだお母さんにとっても、

また残された家族にとっても、

一番良い亡くなり方だったのかもしれないと思う。

人はいつかは亡くなる。

これは避けようもない事実である。

いくらお金を積んでもどうしようもない寿命というものがある。

死は辛く悲しいことには違いないが、

悩み悲しむことによって
、
亡くなった人が生き返るわけではない。

だから、やはり気持ちの整理や切り替えが必要になるのだろう。

私は、母が一番好きで育った母親っ子である。

母の死を考えていると、とても悲しくなる。

夜寝る前に考え出すと一晩中眠れなくなる。

母が死んだら私は生きていけないと思ったりしていた。

でも、そうは言っておれないのが本当だ。

残された人にはすべきことがいっぱいあるから。

私の家族もあるから。

だからいくら悲しくても自分を支えて生きていかねばならない。

年をとることは良い意味で諦め、

まあ良いかの気持ちになることでもある。

生きる知恵かもしれない。

母の日を目の前にして亡くなったことがさぞ残念だっただろう。

心からご冥福を祈りたいと思う。


2004年05月09日(日) 今日は休むぞ!

今日は母の日だ。

毎年、一年に一度この母の日だけは、

家事から解放してもらうことにしている。

娘が小さい頃はこんなことは言っている暇もなかったけれど、

小学生になった頃から、

母の日だけは、私の好きなことをしてもOKという日になった。

普段はしたくてもできない朝寝もOK、

お昼も夜も食事を作らなくてもOK、

掃除も洗濯も何もしなくてもOK、

大したことではないけれど、

毎日、休むこともなく同じことを繰り返している主婦にとって、

家事をしなくても良いということは本当に嬉しいものである。

今日も例年通り、家事から解放されると思っていたが、

今日は娘の模試があるために、

朝もいつもよりも早く起きてお弁当を作らないといけなかった。

いくら、家事から解放されるはずの日であっても、

娘に市販のお弁当を持たすわけにはいかない。

仕方なかった。

でも、この後は何もしないぞ!と思っている。

お昼がお弁当を作ったので何もしなくても良い。

夜は夫と娘と3人で外食も良いかな?

または2人に任せて私はゴロ寝といこうかな?

今日は残念なことに、お天気が悪いから

何所に行っても楽しくないだろう。

さあ、今日一日を私のためだけに使おう。


2004年05月08日(土) 世のため人のため

よく言われる言葉に「世のため人のため」という言葉がある。

確かに自分のことは二の次にして

世の中のために、人様のために何かをするということは、

とても素晴らしいことだと思う。

小さいころに将来は何をしたいですか?と尋ねられて、

「人のためになることをしたいです。」とか

「世の中のためになることをしたいです」とかいう友人が居た。

私は病気を持っていたから、

自分のことでもできるかどうか不安に思っていた。

ましてや、世のため人のためになど働くことはできないと思っていた。

だから、友人が堂々と言っている言葉に感動したのを覚えている。

先日イラクで人質になった女性もボランティアとして

イラクに渡り活動していた。

外国に行かなくても日本に居ても、

人のためになることをしている人は沢山居る。

その人たちのことをどうこう言うつもりはない。

でも、ここで原点に戻って考えてみたい。

世のため、人のために・・と思う前に、

まず家族のため、つまり、親、子供、兄弟、夫や妻のためを

どれほど考えて生活している人が居るだろうか?

ささいなことで喧嘩や衝突をしていないだろうか?

小さなことでもまず家族のことを思いやり、

慈しみ、敬い、助け合って生活していれば、

家の中は平和だし、

それがおのずと世界平和に繋がっていくのではないだろうか?

世のため人のためと思う前に、

まず自分自身の足元を見つめなおすことが大事なのだと思う。

そして今居る家族をもう一度考えてみる必要があるのではないだろうか?

一番大切なものを改めて考えてみたい。


2004年05月07日(金) 夢って?

夢という言葉はとてもロマンティックな言葉だと思っていた。

夢があるってとてもステキなことだと思っていた。

だから、夢は一生追い続けるものだとも思っていた。

でも・・・

ある人の言葉を聞いてから、

( ̄〜 ̄;)ウーン・・・

ちょっと考えている。

夢という言葉を広辞苑で引いてみると、

*睡眠中にもつ非現実的な錯覚または幻覚。または覚醒中に起る同様の状態

*ぼんやりしたさま、はかないさま、頼りがたいさまなどに使う語。

*心のまよい

とあった。

これを読む限り、あまり積極的な意味のある言葉ではなさそうだ。

寧ろ、消極的で弱い心を表す言葉のように思える。

確かに夢うつつとか夢幻というように、

不確かであやふやなものをいうときに使われることがある。

中村天風先生の「座右箴言」に次の記述がある。

「・・・夢にも口にするまい、 また行うまい・・・」

また、「想像力の誦句」にも次の表現がある。

「夢にも自分の生命を腐らし泥ぬる様な価値のない事は想像するまい」

このように、中村天風先生は夢という言葉を好まないようである。

それならば、夢に代わる言葉として何が適切なのだろうかと考えてみた。

夢=志だと思った。

確かに、志と言う言葉には強い意志を感じる。

ただ漠然とした夢を追うのではなく、

強い意志を持って自分自身の志に向かって

積極的に進んでいくことが大切なのかもしれない。

言葉は言霊というくらい、

ひとつの言葉には意味も心も存在する。

やはりある人が言った言葉に、

「いったん口から外に出た言葉、言霊は、力を持っているのだから、

おろそかに言葉を使ってはいけない」があるが、

私も本当にそうだと思う。

夢じゃなくて、

必ずや実現するぞという強い意志の存在する志を忘れないようにしたい。


2004年05月06日(木) 母の日の

昨日、とても嬉しいことがあった。

娘が母の日のプレゼントを買ってくれたのだ。

娘はまだ中三で、自分で稼ぐこともないのに、

少ない小遣いの中から、

私へのプレゼントを買ってくれると言う気持がとても嬉しかった。

昨日は、最後の連休の一日だったので、

夫と娘と3人で例の文度豆を買い求めた道の駅へラーメンを食べに行った。

その帰りに娘が言ったのだ。

私は全く期待していなかったので驚いたし、嬉しさも倍増した。

何が良いか?と急に聞かれたので

直ぐには答えられなかったが、

丁度春めいた色の口紅が欲しいと思っていたので

その口紅を買ってもらうことにした。

予算は?と聞くと¥1000と言った。

¥1000で買える口紅は、

私が欲しいと思っているものではなかったけれど、

金額の高い安いが問題ではなく

娘の気持ちを考えると、心から有り難いと思った。

買うときに見本の口紅を何本も左手の甲につけてみた。

そして、1本の色が気に入ったので買ってもらうことにした。

娘はレジで勘定を済ませ、サービスカウンターへ行き、

母の日のプレゼント用に包装してもらっていた。

私には「はい」と言って渡してくれただけだった。

きっと気恥ずかしい気持ちがあったのだと思う。

親というものは子供に何かを期待することは全くしないものだと思う。

私も先日母にプレゼントを買ったのだが、

母も私に悪いような気がすると言っていた。

親ってそういうものなのだろうと思う。

親にとって、子供とは、

「無償の愛」を捧げることの出来る唯一のものだからかもしれない。

連休最後の子供の日はとても良い日になった。

本当は昨日は子供の日だったので、

夕食は娘の大好物の、豚肉のピカタと鮭のカルパッチョにした。

美味しいと言って食べている娘の顔を見て、

私のこころは母親としての喜びで一杯になった。


2004年05月05日(水) 豆ご飯

今のこの時期になると私の実家の夕飯は毎日豆ご飯だった。

目にも鮮やかな緑色の文度豆の入ったご飯は、

炊飯器の湯気と共に本当に美味しそうな香りを放ち、

私たち姉妹の食欲をそそったものだ。

豆ご飯は父の大好物だった。

父がお弁当を持って行くときは、この豆ご飯がひと月くらい続く。

母は毎日毎日父のために豆ご飯を炊いていた。

私は子供の頃は、この美味しさが分からなくて、

時には豆の入っていない白いご飯が良いと思った時もある。

しかし、あのなんとも言えない美味しそうな香りに惹かれて

段々と豆ご飯が好きになっていった。

今も、まるで映画のワンシーンのように、

豆の炊ける香りと共に今も私の胸にしっかりと覚えている。

昭和30年代のささやかなでも、何故かほっとする風景でもある。

先月の20日に私の住む家の近くに新しい「道の駅」ができた。

名前を「町屋」という。

私は何所へ行った時も、道の駅に立ち寄るのが好きで、

その土地だけにしかないものを買って帰ることがある。

当地は私が住んでいる土地ということもあり、

珍しいものはないとは思っていたが、

いつもの好奇心で覗いてみることにした。

そして、昨日は朝雨になっていたが行ってみた。

道の駅には市場を通さず農家の人が作って収穫したばかりの

新鮮な野菜や果物や花々が売られている。

そして、今朝取ったばかりの感じのする、

ヘタも青々した新しい文度豆が売られていた。

なんと値段も一袋が150円という安さだった。

早速一袋買い求めた。

隣では、朝海から上がったばかりの魚も売られていて、

ちょうどはまちを刺身にして売っていたのでそれも一緒に買った。

夕食は豆ご飯と刺身とやはり買って帰った新じゃがの煮物になった。

豆を食べていると健康になると言われるが、確かにそうだと思う。

昔から豆を食べて育った人は、肉や魚を食べなくても、

充分たんぱく質を摂っているので元気だ。

お寺などで出る精進料理には豆は欠かせない。

豆の種類はいっぱいあるし、それぞれ美味しさも違っている。

どの豆もそれぞれの味を持っていて、まさに春の味だ。

夕べの豆ご飯は本当に美味しかった。

旬のものを食べることのできる幸せを感じた。

連休の一日の本当にささやかな幸せを感じた。


2004年05月04日(火) どうでもいいことに

自分でも不思議に思うことがある。

あれほど真剣に人を想っていたはずの心が、

今はもうどうでも良いような気持ちに変わっていることである。

時がそうさせたのかもしれない。

やはり人の心は変化するものなのだと思う。

だからこそ、いくら辛く悲しいことがあっても、

また元の元気を取り戻せることができるのだ。

自分で自分の心を支えることが、

こんなにも元気の素になるとは思わなかった。

私はもっと弱い人だと思っていたが、

案外強さを持っている人間だったのかもしれない。

昔の私ならきっと直ぐに逃げだして、

自分を失くすような行動に走っていただろう。

でも、今は自分自身の人生だけではない気がしている。

私の存在は親の存在、夫、娘の存在と、

強く結びついているような気がする。

これが一番大事なことだと言えることを見つけた私。

気づいた時が変わる時と言うが本当にそうだと思う。

気づかずに終わる一生もあれば、

気づいてやり直せる人生もあるのだ。

もう良いやと思う。

決してやけになっているのではない。

心の中で納得したのだ。

これで良い、これが一番良いのだと思う。

私はやはり生きることをしよう。

それも意味のある人生を生きたいと思う。

私にとって大事なものとそうでないものとを、

はっきりと体や心で感じ取って、

要らぬものは捨てることも人生だと思う。

本当に「もう良い」と心から思う。


2004年05月03日(月) 二度と会いたくない人と

人には誰でも一人や二人、

もう二度と会いたくないと思う人が居るのではないだろうか?

そんな時はどうしたら良いだろう?

一言で言えばそんな時にも逃げることをしないのが一番だと思う。

二度と会いたくないと思い込んでいるのは、

きっとその人だけが思っていることであり、

相手は全く想像もしていないことだと思う。

一般的に、二度と会いたくないと感じる人は

真面目で人にも自分自身にも厳しく、

こうでなければならないという

思い込みの激しい人のような気がする。

そうでなくて、自由自在に自分の心を流すことができる人は、

相手に対してもっと寛大な気持ちが持てるはずだ。

真面目で自分に厳しい人にとって、

相手が自分のことを批難する人や抵抗する人は、

とても許せない苦手な人に思えるに違いない。

そして、そんな人からは二度と声をかけて欲しくないと思うだろう。

そんな風に思うことは結局は相手だけではなく、

自分自身の気持もしんどくさせてしまうことになる。

だから、生真面目な人ほどトラブルを起こしやすくもなる。

毎日を満足して生きている人は、

毎日の小さなことでも、自分自身の頭で考え、判断して行動している。

そして、自分で判断し行動している人は、

たとえ、どんなことが起きようと、

自分が行動したことについて後悔をしないと思う。

反対に、一見真面目に見える人は、

いつも自分の周りの目を気にしながら生きているので、

その結果や、他人の評価に拘ってしまう。

その評価が自分に合わないものであれば、

評価を下した相手を悪く思い憎むことさえしてしまう。

そして、そういう相手とはもう二度と会いたくないと思ってしまう。

これはその人にとって、とても不幸なことだ。

生真面目な性格がもたらした災いと言っても良いだろう。

もしも苦手で、二度と会いたくないと思う人と

会わなければならなくなった時、

相手の言葉や態度に左右されないという

自分自身の強い気持ちを持って、逃げずに対処すべきだと思う。

このことを繰り返していくことによって、

いつか苦手な人と会うことが辛くなくなるようになると思う。

そして、結果自分自身がとても楽な考え方をするようになり、

楽しい満足できる人生を歩むことが出来るようになるのではないかと思う。



2004年05月02日(日) 捧げる愛

今の世の中で起きている悲惨な事件の裏には、

今家族の中で一番大切な「捧げる愛」が気薄になっていることが、

原因になっているような気がする。

捧げる愛とは、相手に見返りを求めない無償の愛である。

親が子供に持っている愛情がそうだと思っていた。

今の世の中は確かに豊かになってきている。

周りは物に溢れ、欲しい物はお金を出せば直ぐに手に入るようになった。

日本は経済大国と呼ばれ世界有数のお金持ちの国になった。

しかし、一方では心が貧しくなってきているように思う。

人が皆それぞれ、自己中心的な夢ばかりを語るようになった。

親でさえ、自分自身の幸せを追い求めるあまり、

子供を犠牲にしても仕方ないと思うようになっているのではないだろうか?

離婚が悪いとは思わない。

離婚するのはそれぞれの事情があると思う。

しかし、中には夫や妻が親という立場を忘れて、

自分たちの快楽を求めた結果、家庭が崩壊することもある。

恋愛はステキなことだ。

人の心を幸せにしてくれる。

いつまでも若さを保つ源にもなっている。

でも、恋愛を人生の中心に置きすぎて、

結果として子供に辛い思いをさせている場合もあるのではないだろうか?

見返りを期待せずに相手を愛する気持ちは、

親が子を思う気持ち、

子が親を思う気持、

つまり家族がお互いのことを思う気持だと思う。

今の時代、親だから子供に対して無償の愛が存在すると思うことは、

もしかしたら幻想なのかもしれない。

でも、本当は幻想ではなくて、

人それぞれの希望であり、

目標でもあるのではないだろうか?

家族がそれぞれが自覚を持って、

お互いに思いやる気持ちを持ち、

共に努力をすることが大切なのではないかと思う。

そして、同じような気持ちを家族以外の人たちへも持つことが、

世界の平和にもつながっていくのではないかと思う。


2004年05月01日(土) 家族とともに

今日から5月だ。

5月には母の日、こどもの日がある。

普段は当たり前に感じる母や子供の存在について

改めて考えることも良いのかもしれない。

家族が一番という人も居れば、

自分自身のことが第一だと思う人も居るだろう。

でも、人はみな親が居るから存在している。

親の有り難さは自分自身が親になってみて初めて感じることでもある。

私など一生親になることもないと思っていたから、

娘の母親になってみて、本当に私の母のことが分かるようになった。

私が生まれてきたことが、

母にとって嬉しい反面心配の元でもあったと思う。

それでも、母は今まで私に対してそんなそぶりを一つも見せていない。

この年になっても、私の心配ばかりしている。

母と昨日病院へ行った。

母は年の割にはしっかりしていると思ってはいたが、

やはり最近は物覚えも悪く、

人が言ったことに対しての反応も遅くなってきている。

これは皆、遅かれ早かれそうなることではあるが、

母だけは大丈夫だと思っていただけに少しショックだった。

母は私に全てを任せておけば安心していられるみたいだ。

私も母のことを心配し、面倒をみることができるのは嬉しい。

母が元気なうちに一緒にいろんなところへ行きたいとも思っている。

母の存在は私にとって一番大切な存在でもある。

娘の存在とは比べることのできないものでもある。

家族とは?と考えることも少ない日々ではあるが、

こうして母の日や子供の日を前に、

皆が考えてみるのも良いのかもしれない。


スカーレット