スカーレットの心のつぶやき
つぶやき 目次|過去|未来


2004年06月30日(水) 時間

早いもので今日で6月も終わりだ。

この間お正月の挨拶をして、

桜が咲いて綺麗ねと言っていたのに、

もう今年も半年が過ぎてしまった。

つくづく時の経つ早さを感じる。

今は早いと感じる時間も、

私が子どものころはとてつもないほど長かったように思う。

早く日が経てば良いのにと何度思ったことか。

大昔から今まで時間は、

同じように流れているはずなのに、

どうして幼い頃は時間の経つのが遅く感じられたのだろう。

時間は同じ時間でも、

時には嘘のように短く感じる時と、

反対に途方もないくらい長いと感じる時がある。

例えば、自分が辛い、悲しいと感じる時間は長く、

楽しい時間は短く感じられる。

悲しみに耐えている時間は長く、

幸せだと感じる時間はとても短く感じられる。

昔、恋人とどこかへ行った時のことを思い出してみよう。

この幸せな時間が永遠に続けば良いと誰も思う。

でも、時間は二人の思いをよそに確実に進む。

そして別れの時がすぐに来る。

昔見たTVで「時間よ止まれ!」と叫ぶ少年の姿を覚えている。

もしもこの、幸せな気持ちのまま時間が止まったら、

どんなに良いだろうと思った。

大好きな人と過ごす時間は永遠につながっているという、

愛の錯覚が生む気持ちなのかもしれない。

反対にどこかが痛むとき、

その痛む時間の長さは本当に長く感じる。

実際に測ったとしたら数秒の痛みでも、

感じるのは数分の痛みだ。

辛さや悲しみは自分自身には必要ないものだから、

少しでも早く去って欲しいと願う。

だから余計に長く感じるのだろう。

こうして今、

時の過ぎるのが早く感じられるということは、

考えようによれば、

今の私自身が幸せな日々を送っているからかもしれない。

年をとると時間の経つのが早く感じる人は、

昔よりも今の自分が良い時間を過ごすことが出来ているのかもしれない。

そう思うとなんだかちょっぴり嬉しくなってくる。

そして時の流れを少しは受け入れることが出来る。

私は今きっと幸せなんだ・・・





2004年06月29日(火) 旅

時に旅に出たくなるときがある。

どこか見知らぬ町へ行ってみたくなる。

知らない人と話してみたくなる。

人は何故旅に出たくなるのだろう?

現実からの逃避?

夢を見るために?

何か嬉しいことがあったときよりも

心が淋しいとき、

心に何か大きな穴がぽっかり空いたとき、

人は旅に出るのではないだろうか。

また何も目的のない旅もある。

景色風景を楽しみたくて旅に出る人も居るだろう。

新しい経験を求めて、

新しい出会いを求めて、

自分自身を浄化したくて出る人もあるだろう。

人それぞれではあるけれど、

旅に何かを求めていることは確かだ。

イギリスの古いことわざに、

「人は旅をして、ついにわが家へもどる。

 人は生きて、ついには大地へもどる。」という言葉がある。

どんな目的であれ、

人は旅に出る。

そして日常から非日常の生活をする。

でも、人は最後には帰る家があるから

こうして旅に出ることが出来るのだと思う。

帰る家のないものにとって、

旅はただの旅ではなく、

その人の生活そのものになってしまう。

そして現実の世界そのものになってしまう。

これでは本来の旅の楽しさを味わうことはできない。

珍しい景色も、新しい人との出会いも

何も感激を与えてくれはしない。

旅が行き着く先よりもその旅の過程そのものの方が

大事なものになるのではないかと思う。

人生も同じだ。

人はいつか死ぬ。

そして土に帰るという。

だからこそ、人生の過程を楽しみたいのだ。

死ぬ時に私は良い人生の旅ができた」と思えたら、

こんなに嬉しいことはない。

旅をして自分が帰る場保があることへ感謝したいと思う。

そして本当に最期には安住の地に戻りたいと思う。

それこそ人生の旅をしてきたことの

一番の意義のあることのように思う。


2004年06月28日(月) 若く居るために

年は皆人間に平等なものである。

いくらお金を積んで若さを得ようとしても

年齢だけはどうしようもないことである。

でも、出来たらいつまでも若く居たいと思う。

そのために食事に気をつけ、

身なりに気をつけ、

それなりに化粧もし、

少しでも若く居たいと努力するものだ。

アメリカの作家W・Aピーターソンの言葉に

「若さを保つには 新しい計画に取り組むことである」と言う言葉がある。

計画は何でも良い。

例えば誰かと旅行に行く計画を立てる。

また映画を見に行こうという計画、

パーティーや同窓会の計画、

お祭りやイベントの計画、

何かやりたいことにチャレンジしようと計画を立ててみるのも良い。

好きなことをすることは脳の活性化に役立つはずだ。

好きな人に逢いに行く計画も良いと思う。

好きな人のことを想うだけで

心がウキウキしてきて若返るだろう。

人を喜ばそうとプレゼントを計画するのもいいだろう。

何か新しいことをしてみたいと計画を練る、

家を新築する計画を立てる、

このように何でも良い、

自分自身がやってみようと思うだけで

元気で居たいと思うだろう。

新しい計画を考えるのは胸がわくわくしてくる。

そして、この計画を立てている時が一番楽しいときでもある。

勿論その計画を実行に移すためには

それ相当の苦労が要る。

そして、立てた計画が全て上手く行くとも限らない。

でも、もし新しい計画が実現した時の喜びを思ったら

始める前から嬉しくなってくる。

上手く行けばまた次の計画を立てたくなるだろうし、

これを繰り返していれば

いつも心は幸せな気分になると思う。

そして、心が幸せだということが若さを保つ一番の方法ではないかと思う。












2004年06月27日(日) 気にしない

人は何かが気になりそのことばかり考えていると

視野も狭くなってくる。

また自分の心も疲れてくる。

それは物事だけではなく

人と人との関係においても言えると思う。

誰かのことを嫌いだとか

憎いとか思うことは

自分の心が相手に支配されていることと同じだ。

そんなことを思っていると

折角の貴重な時間が無駄になってしまう。

人は自分のために生きている。

勿論人のために生きていると言う人も居るだろう。

でも、結局は皆自分が一番可愛いのだ。

それはいけないことではないはず。

自分を愛する心がなければ

人を愛することなどできるはずはないと思う。

何かあったとき、

相手を自分の敵だと感じることもあるかもしれない。

人への怒り、

憎しみが相手を敵だと思わす原因でもある。

しかしここで考えてみたい。

人に怒りや憎しみを覚えることは、

いつもその人のことを考えているということでもある。

それは相手に自分の心がこだわっているからだ。

そして相手に心を支配されているからだ。

こんなことで時間を浪費するのはやめよう。

世の中には色んな人が居る。

意地悪な人、

偉そうな振る舞いをする人、

無神経な人、

そんな人のことをいつまでも考えているなんて、

なんと愚かなことだろう。

世の中にはこんな人も居るんだなあ・・

でも人は人だ。

人のためにイライラするのなんてやめよう。

自分のために、

もっともっと時間とエネルギーを有効に使いたい。

そんな人は相手にしないのが懸命だ。

そんな人のことばかり考えていると、

それはそんな人に負けることになる。

思うツボに入ってしまうことにもなるのだ。

自分が納得できることをしていれば、

相手に何を言われても平気なはず。

そして平然としていられるはず。

こういう態度で居ることが

そんな人にとっては一番こたえることかもしれない。


2004年06月26日(土) 別世界

昨日の夜、初体験をした。

娘の中学のPTAの懇親会があった。

いわば、三年生の有志の保護者と先生方との飲み会である。

お酒を全く飲むことができない私は、

こういう席に座った経験もなく、

また行きたいとも思わなかった。

でも、今年は地区役をしている関係で

半ば強制的に誘われた。

毎年行われているこの懇親会の様子の話を聞いていたので、

少しは興味もあったし、

また受験のことの情報も聞くことができるかもしれないので

今日は渋っていた友人を誘って参加した。

先生も人の子だった。

イメージが崩れそうになるほど砕けた先生も居た。

お母さん連中のパワーには参った。

先生への野次、からかいもあったが

それも皆の笑いの対象になっていたのが不思議である。

そして、先生との一気飲みをしている人も居た。

ビールをぐいぐい飲んでも

顔色一つ変わることなく

最後まで喋り、飲み、大声で叫ぶ。

さすが、醜態をさらす人は居なかったけれど、

私には本当にショックな世界だった。

それでも、私はウーロン茶を飲みながら、

担任の先生との話も出来たし、

クラスの友達のお母さんたちとも

談笑することができた。

二時間はあっと言う間に過ぎて行った。

何人かの人は二次会、三次会へ繰り出したみたいだった。

私の知らない世界っていっぱいあるんだなあとつくづく思う。

そして、今日こうして騒いで羽目を外している人達が居たからこそ

楽しい時間になったのだと思う。

貴重な存在なのかもしれない。

私の地区役の仕事もこうして一つ一つクリアできている。

次は7月2日の地区別懇談会の司会が待っている。

何事も経験だという言葉の通り、

やってみなければわからないことっていっぱいある。

今日のように別世界のようなことも一つの社会勉強だ。

楽しい人生を送る教科書なのかもしれない。

人生色々、人も色々・・


2004年06月25日(金) 自分がまず動くこと

もしも、何かを望むなら、まず自分が動かないといけないと思う。

ギリシャの哲学者ソクラテスは、

「世界を動かさんと欲するものは

 まずみずから動くべし」と言っている。

世界を動かそうなどと大きなことは思わないが、

もしも何か今の自分の周りのことや

人間関係を良いようにしたいと思うなら

まず自分から動くことが必要だと思う。

何かを変えたいと思うなら、

自分が始めに動いてみよう。

自分は何もしないでいて

相手を変えたいとか

今の状況をよくしたいとか思っても

それはなかなか容易なことではないように思う。

私と家族との関係を考えてみた時、

家の中がとても良い感じで回っているときは、

私自身の気持がとても穏やかで落ち着いている。

娘とぶつかるのも全て娘に責任があるわけではない。

勿論、娘の我儘が原因になることも多い。

でも、その時の私の対応の仕方一つで

娘とぶつかることなく

良い関係で居られることができるはずだ。

私が親として、娘との関係をいいものにしたいと思うのなら、

まず私が変わることが大事だと思う。

そして、いくら頭の中で分かっていたとしても

それな本当に理解できているとは限らない。

考えて実際にその通り行動に移して初めて

理解できたといえるのだと思う。

人を変えることは難しい。

人を変えようと思う前に

自分自身を変えてみよう。

そして、何かを変えたければ自分から動くことを忘れずに居たい。

そうすればきっと回りも自然に変わっていくのだと思う。



2004年06月24日(木) わかっているけれど・・

今の私が何をしなければならないか?

分かっている。

でも、分かっていてもできないことがある。

一つのことに捉われないようにすること。

過去に引きずられないようにすること。

気持ちは変化するものだと理解すること。

前を見て歩くこと。

忘れること。

これが今の私に一番必要なことであるとわかっているのだ。

分かっているのにできないのが辛い。

バカじゃないだろうか?と思う。

いくら考えても悩んでも解決しないことなら

もう考えるのはやめよう。

新しい自分になりたいのなら行動しなくっちゃ。

分かっている。

本当に頭では分かっているのだ。

でも、私の心が分かっていない。

何かふとしたとき、

私は過去の楽しかった思い出をたどっている。

もしもあの時に戻ることができるチケットがあれば、

私はそのチケットを買って戻りたい。

もしもあなたとやり直すことが出来るのなら、

私はどんな犠牲でも払おうと思う。

あの頃という名の駅で降りて、

思い出通りを歩く・・♪

さだまさしの「主人公」の中の歌詞が私の心そのもの。

分かっているのに・・

本当に考えてもどうしようもないと分かっているのに・・

昨日からの私はどうかしている。

何でこんな気持ちになるのだろう?

久しぶりに聞いたCDのためだからだろうか?

それとも久しぶりに見たあの映画のせいだろうか?

私の心の中で大きなトラウマになっていること。

これが私の今を立ち止まらせている原因だと分かっている。

もし、あの時に戻れさえすればと考える虚しさも分かっている。

皆分かっているのだ。

でも、心で分かっていない私が居る。


2004年06月23日(水) 何故か・・

いつになったらあなたのことを忘れてしまうことができるのだろう?

いつになったら、私の中であなたが消えるのだろう?

もう、終わったことなのに、

二度と会うことのない人なのに、

今も私はあなたを想っている。

この気持ちは一生続くのだと思う。

それほど、あなたは私にとって意味のある存在だった。

時に、無性に会いたくなる。

あなたの顔を見たい、

あなたの声が聞きたい、

あなたと話がしたい、

一緒に笑いたい、

あなたの好きなビールで乾杯したい、

いいえ、何もしなくても良い、

ただ、あなたの側に居られたら、

それだけで私は幸せ。

あなたへの私の愛は永遠のものだと思う。

一生をかけて想い続ける人、

誰にも代わりはできない、

どんなステキな人が現れても、

どんなに素晴らしい人と出会っても、

私の心が動くことはない。

会いたい・・

あなたに会いたい・・・

もしも、神様が一つだけ願いを叶えてくれると仰ったら、

私はあなたに会いたいと言うだろう。

そして、たった一日でもいい、

あなたと二人で過ごすことができたら

どんなに幸せだろう・・

でも、会えない。

どんなことがあっても、二度と会うことはできない。

私の胸が張り裂けそうになっても、

あなたへの想いで溢れそうになっても、

あなたはもう私の手の届かない所へ行ってしまった。

あなたとの思い出の場所、

あなたとの思い出の品、

それらを見るたびに、

私の心は、泣き叫びたくなる。

「神様、もう一度だけでいい、あの人に会わせて!」

何故か、私の心の中にこんな叫び声が聞こえる。


2004年06月22日(火) 見方を変えれば

私はよくここに有名な人や偉人たちが言った言葉を引用することがある。

それは、平凡で、ひらめきも乏しい私の毎日の生活を、

少しでも楽でいいものにしたいと思っているからである。

偉い人(?)たちの言った言葉の中には、

はっとする言葉や、

なるほど納得!と思える言葉がいっぱいある。

そして、その言葉は、

私に生きる勇気と力をくれる。

また、悲しい時には癒してくれるし、

落ち込んでいるときは慰めてくれる。

何気ない当たり前のことなのに、

改めて偉人たちの言った言葉を読むと、

何故そんなことに今まで気づかなかったのだろう?

と思うときが多い。

何でもそうだけれど、

苦しいときや悲しい時は、

自分自身の視野がとても狭くなっているのではないだろうか。

だから、一つのことを思いつめだすと、

そのことしか見えなくなり、

自分の周りのものも、

人の考えも意見も全部

拒絶するようになってしまう。

でも、本当は、

物事の見方をちょっと変えただけで、

随分心も変わるように思う。

「何であんなことに悩んでいたのだろう?」と思うときがある。

その時には見えなかったものが見え始めると、

まるで今まで悩み悲しみ、

苦しんでいたことが

全部嘘のように消えていくのに気づく。

結局は、自分の心次第なのだと思う。

有名なレオナルド・ダ・ヴインチの言葉に、

「同じ眼でながめて対象は、

あるときは大きく、あるときは小さく見える」

という言葉があるが、確かに本当だと思う。

私が半年前、生きることも捨てたくなるほど

辛く悲しいことを経験したのだけれど、

今思うと本当にバカらしく思えてくるのだ。

あの時は一つのことしか見えてなかった。

考えもそのことだけに捉われていた。

心を閉ざし、眼を被い、世間から隔離されていたいとまで思った。

現実は毎日の生活を放り投げることができなかったのだけれど、

そして、いくらか虚勢を張って、

無理をして明るく生きようとしてきたように思える。

でも、今は本当に違ってきた。

あの時に悩んだことはあれで良いと思う。

あの時の私も私であることに間違いはないのだから。

でも、今思うのは、

何かにぶつかった時には、

もっと眼を見開いて

融通のきく心を持ちたいということだ。

物事は変化している。

人の心も変わって行く。

だから、物事は時を置いて違った目で見てみることが

とても大切なことのように思う。


2004年06月21日(月) 前向きに生きること

私の大事な友人が二人、

思ってもみなかった病に倒れた。

二人共、本当についこの間まで元気にしていた。

一人は入院してすでに半年が過ぎた。

昨日、娘の漢検の送迎の間の時間に

その友人のお見舞いに行った。

治療は長引くようで、

入退院の繰り返しをしている。

それでも顔色も良くて、

一緒にアイスクリームを食べながら色々なことを話してきた。

もう一人の友人が今日入院する。

先週に分かった病、

そして即入院、手術となってしまった。

その友人と、昨日の漢検の会場で会うことができた。

彼女は漢検一級保持者である。

一度合格してから毎回挑戦している。

彼女の姿に私はどのくらい元気をもらったことだろう。

今日の入院も漢検が済んでからと医者に頼んだらしい。

私はこの二人の友人に絵手紙を描いて出している。

そして、添える言葉はいつも

少しでも心を元気にしていて欲しいという願いを込めて

「前向きに」

「心は元気で」

「明日のない夜はない」

のような言葉を書いて来た。

でも、本当に前向きに生きるということは、

どういうことだろう?

ただ、元気を出して頑張ることだろうか?

私が心臓の病気、心の病気で入院していた時のことを考えてみた。

自分自身ではよく分かっていても

前を見て元気を出して頑張るなんて無理だった。

今、改めて考えてみると、

前向きに生きるということは、

決して頑張ることでもなく、

無理をすることでもなく、

今の自分自身を受け入れることだと思う。

自分の置かれている今の現実を受け入れ、

それから逃げないことが、

前向きに生きるということではないだろうか?

だから、今日入院する友には、

「ありのままのあなたと向き合ってほしい、

そして、逃げないで、後ろを見ないで、

あなたが今出来ることだけを考えよう」と

心から言いたい。

そして、彼女に言いたい言葉は

また、私自身にも言いたい言葉である。


2004年06月20日(日) 父へ

今日は父の日。

父への感謝の気持ちを込めて父さんへ。

誰が言い出したか知らないけれど、

いつの間にか6月の第三日曜日が父の日になった。

母の日には赤いカーネーションを贈るのに対して

父の日は白いバラの花を贈るのが良いらしい。

私の父はこの8月で83歳になる。

大正10年、酉年生まれだ。

父のことを一言で言うと、真面目な人である。

真面目が服を着て歩いているようなそんな父である。

警察官をとして刑事畑を数十年歩いた後、

第二の就職に就き80歳まで働き続けてくれた。

真面目な父だったから、

どんなにしんどくても、

どんなに大変な仕事であっても、

諦めず、投げずに続けることが出来たのだと思う。

人には限りなく優しくそして親切な父。

掃除をすることが趣味で、

暇さえあれば家の内外の掃除をしている。

この掃除好きな父のお陰で、

同い年でも腰の悪い母はどんなに助かっていることか。

最近は耳が遠くなって、

大きな音でTVを見ているし、

二人の話もどなりあうくらいの声なので隣まで筒抜け状態。

でも、こうして元気で居てくれることに

姉も私も本当に感謝している。

私の友人で両親が揃って元気な人も段々と少なくなってきた。

どちらかがもうすでに亡くなっているか、

病気入院や介護の必要な親を持っている。

私の体が普通の人のように健康でないから、

神様が私に親の介護をするのを、

少しでも少なくさせてやろうと思って、

両親を元気にしていてくれるのかもしれない。

父と母とを比べたら、やはり母の存在が私にとっては大きい。

「父さんごめん!

でも、感謝はしているから。」

父は自分で100歳まで生きると日頃から口にしている。

この気持ちを忘れずに、元気で居てほしいと心から思う。

今日は父に白いバラの花を一輪と、

美味しいものでも持って行こうと思っている。



2004年06月19日(土) 自分自身で

人が生きていくときに、

自分の頭で考え、

自分の心で決めたことを実行できること、

これが一番大事なことではないだろうか。

このことを思ったのは、

一昨日ラジオの人生相談を聞いていたときだった。

ある母親が娘のことについて相談していた。

その娘は今年29歳である。

そして最近好きな人ができて結婚したいと言っているという。

しかし、彼女の両親は、

相手の男性の生まれ育った環境が自分達とは違っているし、

世間的な常識で考えても、

似合わないと判断し、

彼女の結婚に反対しているという。

その相手の人の生まれ育った環境というのは、

お父さんが行方不明になり、

お母さんが一人で彼たちを育ててきたというものである。

この環境が何故駄目なのか?

私には理解できなかった。

彼女の家がどんなに素晴らしい環境なのかな?と思った。

ラジオで聞く限り、相談者の人の印象は、

とても良いところの奥様という感じがした。

そして、自分達の周りや世間体をとても気にする人のように思えた。

そもそも、彼女に結婚を勧めたのは両親らしい。

娘がなかなか縁遠いことに両親は不安を持っていた。

そして彼女を伴って結婚相談所にも行ったりしている。

娘の結婚を望んでいるはずである。

それなのに、この反対の理由は可笑しいと思った。

娘を持つ親の一人として、

この母親は間違っていると言ってあげたい気がした。

親が子供のことを心配したり、

先先のことを心配するのはわからないでもない。

でも、考えてみて欲しいと思う。

子供が一人前の年になって、

結婚して家族を持ちたいと思う気持ちって本当に大切だと思う。

娘が選んだ人だ。

彼女が自分の頭で考え、

自分の心の中で決め、

そして、自分が取った行動である。

だから、親は調べた結果に捉われないで、

彼に直接会ってみて、

話もしてみてから反対しても遅くはないと思う。

きっと彼と居るほうが、

彼女は自分のありのままを出すことが出来たのだと思う。

家の中ではしんどかったのかもしれない。

彼と居ることは家とは全く別の魅力があるのだと思う。

親が子供に対して一番してやりなければならないことは、

自分達の子供に対する信頼を取り戻し、

世間体や常識などに捉われて

相手の人を判断してはいけないことだと思う。

子供の幸せは子供自身がつかみ取っていうものだと思う。


2004年06月18日(金) 夫婦パート��

昨日に続いて、今日も夫婦について私の思いを。

それは、いくら過去とは言え、

あれほど愛し合って結婚した二人が

年を重ねるにつれて

あの時に感じたときめきや愛しさを

少しずつ少しずつ忘れてしまうのは何故だろう?

日常の中のただの物に変わって行くのは何故だろう?

勿論、いつまで経っても昔のままの気持ちを持って、

お互いの良いところを認め合い、

悪いときも良いときも、

いつもお互いを思いやっている夫婦も居ると思う。

でも、私も含めて、

私の周りを見てみても、

空気みたいな存在と感じる夫婦が多いように思う。

一番大事な人でえあることは確かである。

それなのに、どうしてその大切な人のことを

一番大事にしなくなってしまうのだろう。

私の両親は昔からよく二人で話しをする夫婦である。

昨日も実家に行ったとき、

耳が遠くなった二人は、

まるで喧嘩をしているような大きな声で、

時には怒鳴りあうような声で、

話をしていた。

それはお互いがお互いを必要としているからこそだと思った。

両親に比べたら、

私たち夫婦がいかに静かな夫婦であるかを思う。

つまりは夫婦の会話が乏しいのだ。

前に夫に尋ねたら、

それは私の存在が当たり前になったから、

気遣うことをしなくなったからだと言った。

でも、これって変?

いくら年数が経って、

空気みたいな存在になったとしても、

かえってお互いを大切にしないといけないのではないかと思う。

だって、人は空気なしでは生きられない。

人が水なしでは生きられないのと同じように、

空気は必要不可欠のものである。

こんなことを時々ふと考えることって

とても大事だと思う。

理屈ではなく、やさしい言葉や笑顔を

夫に、妻に求めるのは、

私が理想を求めすぎているからなのだろうか?


2004年06月17日(木) 夫婦

昨日友人のご主人に初めてお会いした。

彼女も私と同じ心臓の病気を持っていて、

大動脈弁の人工弁置換手術を受けている。

彼女とは私の行っている病院で知り合った。

年は彼女が一つ上、

ご主人とは高校生の時に知り合って結婚したらしい。

話には聞いていたが、

とてもやさしそうなご主人だった。

ご主人は彼女の心臓の病気のことも、

子供を産むことができないことも知っていて結婚した。

今年で結婚30年になるらしいが、

今まで一度も喧嘩をしたことがないとも言っていた。

信じられない気がする。

夫婦の間で一度も喧嘩しないことが可能なことなのか?

ちょっとした心のすれ違いもないのか?

このことを彼女に聞いたけれど、

彼女は笑って「うん。喧嘩したことないよ」と言った。

いいな・・・

きっとステキなご主人なのだろうな・・と

想像していた通りの人だった。

とても感じのいいステキな人だった。

あんなご主人だったら、

私だって喧嘩しないかもしれないな・・と思った。

でも、これは「隣の芝生は青い」ということだろう。

私の夫だって、人様から見たら、

とてもやさしくて感じの良い人だと思われるはずだ。

でも、夫婦って?と考えるときがある。

彼女のところの夫婦が本当の夫婦なのだろうなと思う。

良いときも悪いときも、

お互いに支えあっていける夫婦、

何気ない会話や笑い、

そしてさりげない思いやり、

そんな平凡なことの積み重ねが

良い夫婦を作っていくのだと思う。

私達夫婦は、彼女たちのような夫婦になれるのか?

正直なところ不安がある。


2004年06月16日(水) 希望と忍耐

とても良い言葉を聞いた。

ドイツの詩人ローガウの言葉である。

それは、

「希望は、心を支える。

 希望があれば、前へ進む力になる。

 忍耐は、寒さや茨から身を守る。

 忍耐力がないと、傷つきやすい」という言葉である。

そもそも希望とは何だろう?

同じ希望という言葉にも意味の違う希望があるように思う。

それは「希望を持つ」というときの希望と、

「なになにを希望する」とうときの希望である。

希望するという時の希望は、

願うということと同じような気がする。

希望という文字を広辞苑で引くと、

「ある事を成就させようとねがい望むこと。

 また、その事柄。ねがい。のぞみ。」とある。

それは何かになりたいと願う気持、

ああなって欲しいと望む気持ちを言うのだろう。

希望を持つというときの希望は、

願いそのものとは違って、

心を強く明るく持って生きようと思う、

「未来に対する期待。将来の明るい見通し」だと思う。

希望には、心の中を明るくする力がある。

希望を持つことで、

自分自身の心を明るく強くすることができる。

私は岸恵子さんの歌「希望」が好きだ。

カラオケでも歌うことがある。

人には皆希望という、

未来を明るくしてくれるものがあるから、

どんなに辛くとも、

それに向って歩いていけるのだと思う。

夢も希望もない人生より、

何か一つでも希望を持って、

前を向いて歩いていきたいものだ。

希望は生きていくときの力になるから。

そして希望を持って生きていく上で、

我慢するということが必要になってくるのだと思う。

希望があればまた忍耐ができるだと思う。

そして我慢すること、

忍耐することを忘れると

人は直ぐに傷ついてしまう。

生きていくときに、

辛抱する心、

忍耐する力が、

結局、その人が着る衣の役目をする。

自分自身の身を守ってくれる。

だから、希望と、

それに向って歩く時の忍耐、

この両方を持つことが大事なのだと思う。


2004年06月15日(火) 苦労

イギリスの劇作家シェークスピアの言葉に、

「楽しんでやる苦労は、苦痛を癒すものだ」

という言葉がある。

苦労は買ってでもする方が良いと言われるが、

この苦労というのは、

自分が辛いと思わないで出来るものではないだろうか?

苦労をすることは、

決して辛いことではないと思えるって素晴らしい。

まして苦労を楽しむことができたらどんなに良いだろう。

今自分が苦労していると感じている人は、

その苦労に屈している人だ。

苦労を苦労だと思わないですれば、

苦痛にならないのだと思う。

寧ろ、楽しんでやれば、

苦痛には感じないのではないだろうか。

苦労を嫌だと思う心を持っていると、

その感じている苦痛が余計に大きくなるのではないかと思う。

今している苦労が、

やがて将来実を結ぶと思うことが必要だ。

そうすればその苦労がやりがいに変わってくる。

そして充実感や大きな喜びにつながることもあると思う。

同じやるなら、

それを苦労と思っていやいやするよりも、

少しでも楽しめるように工夫してやるのが良いと思う。

自分がしたいことがあれば、

それをやれるという喜びを感じる。

そして、それを上手く出来たら大いに喜ぶことだ。

しんどいと思わず面白いというゲーム感覚でするのもいい。

また出来上がった時の、

自分の顔を想像してみるのもいい。

完成の途中だとしたら、

初めてした時と今のこの時の違いを比べてみよう。

少しでも進歩していたら、

思いっきり自分を褒めてやろう。

人の思惑なんて気にしないで、

自分自身をいっぱい褒めてやりたいと思う。

こうして同じ苦労をするときも、

自分が楽しんでできたら、

きっと満足感も比べ物のないくらい大きなものになると思う。

達成感を感じるはずだ。

色々なことをしながら苦労を楽しめる習慣をつけたい。

一生懸命に楽しんですれば、

たとえそれが良い結果にならなくても、

きっと自分の中で満足感を得られると思う。

それが苦労と思わなくなる一番の近道のような気がする。





2004年06月14日(月) 手作り

先日、TVで自分が山の木を切ってきて

家具を作っている人のことを見た。

姉の知り合いにも同じような人が居る。

何年もかけて自分の山に獣道のような道を作り、

丸太で家を造った。

そしてそこで日曜日になると、

友人を招きパーティーを開いているという。

優雅な暮らしってこんなのかもしれない。

町の中の便利な所に、

数百坪の土地に立派な御殿を建てて暮らすのも良いが、

こうして山の自然の中で、

余暇を楽しむための家を持つことの方が、

何かとても贅沢なことのように思う。

贅沢と言っても悪い意味ではない。

本当に人生を楽しんでいるような気がするのだ。

人として一番大事な心を取り戻せそうな気さえする。

自分が何年もかかって家を建て、

そこに自分が作った家具を置き、

食べものは自給自足。

農薬を使わない無農薬の野菜やお米を作る。

使う食器も自分が土をこねて作ったものだ。

料理も勿論手作りだ。

イチゴがいっぱい採れたらイチゴジャムもいいだろう。

パンは小麦粉を寝かせて自分で焼く。

添加物のない本当に自然のものだ。

でも、こうして人生にゆとりを持つってことが、

今の世の中では一番難しいような気がする。

ビルの谷間のむっとする空気の中、

車の排気ガスを吸いながら、

毎日あくせく働く人生と、

自分が食べるものを自分で作って、

自然の風を感じながら生活することを比べて、

どちらを選びたいかと聞かれたら、

どんな人でも後者を選ぶと思う。

こういう風な生き方が出来る人は、

本当の生きる意味を見つけた人達なのかもしれない。

誰も皆そんな生き方を良いなあと思いながらも、

自分ではなかなか実行することのできない世界だ。

羨ましいと思うかもしれないが、

今の自分自身の現実を見据えて生活している。

この最近手作りの良さを改めて感じている私、

せめていくら時間と手間がかかっても、

家族のために頑張って、

手作りの美味しい食事を作りたいと思う。


2004年06月13日(日) 出会いを大切に

先日内子へ姉達と行ったときに、

博多人形を製作している人形工芸士の方と出会った。

勿論その人は素晴らしい人であり、

その博多人形も上品で心のある良いものばかりだったが、

その方の奥さんと言う人がとてもステキな人だった。

その時に私が母に買ってもらった小さな鈴、

幸せの鈴を絵手紙に描いて送った。

そして、数日してから奥さんから筆で書かれた、

達筆で素晴らしい文章のお礼の手紙が届いた。

そこには私たちとの出会いを感謝しているとの言葉が書かれていた。

私も同じ気持だ。

出会いというものはどんな、

それがどんなに小さなものでも、

とても貴重なものだと思う。

ちょっとした時間のずれで会えないことのほうが多い。

「あの時ああしなかったら・・・

あの時間や場所がずれていたら・・・

一つの選択や判断が違っていたら・・・」

絶対に出会っていないと思う人が居るはずだ。

まさに出会いは奇跡的なものだ

と言っても言い過ぎではないように思う。

私が日頃から思っている「出会いを大切にしたい」という気持ち、

これを相手に押し付けるつもりはないけれど、

もし相手が私と同じ気持ちになってくれたら

どんなに嬉しいだろう。

この広い地球で何かの偶然で出会えた人たちと、

心の交流ができる幸せ、

これこそ生きていてよかったと思える瞬間でもある。

スピッツの歌「空も飛べるはず」の歌詞の中に、

「君と出会った奇蹟が この胸にあふれてる」がある。

本当にそうだと思う。

私はこれからも色々な人と出会うだろう。

出会いがあるから別れも来るし

その別れは悲しいと思うものになるときもあるだろう。

でも「この人と出会えてよかった」

と思える人が居たならそれはとても幸せなことだし、

いつまでも忘れることをしなくても良いのだと思う。


2004年06月12日(土) 自分らしくと願う

娘に絵手紙を描いて出した。

巻紙にさくらんぼを2個描いた。

それに添える言葉として、次の言葉を書いた。

「自分で自分をほめてやろう

あなたにはあなたしか持ってないものがいっぱいある

今はちょっとそれに気づいてないだけだから

自信を持って歩いていこう

まっすぐ前を見て」と。

その絵手紙が今日娘に届いた。

学校から帰宅した娘は、

その巻紙の絵手紙を一番に開封して見た。

何を感じたのか?

どういうふうに思ったのか?

私には分からない。

でも、娘は黙って読んで、

その絵手紙を机の前に貼っていた。

何故、私がこんな絵手紙を娘に出そうと思ったのか?

それは、娘が自分に対して自信を持てないような気がしたからだ。

先日の中学総体で、水泳部が優勝した。

選手だった友人のことを、

「○○ちゃんは良いなあ、私なんか何にもない」と言ったのだ。

私はその時、娘に言いたかった。

「人と比べるのはやめよう。

友達は友達の良いところがある。

あなたにはあなたの良いところがあるじゃない。

人は人、あなたはあなた、

皆違って良いんだと思う。

人のことを羨むのはやめよう。

自分の心が淋しくなるから。

自分にしかないものをいっぱい持っているはずだ。

もっと自信を持って欲しい」と。

娘は確かに運動は苦手だ。

でも勉強は頑張ってそれなりの成績を出している。

友達にも信頼され、とても良いところをいっぱい持っている。

だから、今は気づかないかもしれないけれど、

自信を持っていてほしいと思ったのだ。

娘には前を見て、顔を上げて真っ直ぐ歩いていってほしい。

そして、今のまま、人を思いやる気持ちを忘れずに、

自分の人生を自分の足で歩いていってほしいと思う。

何もできない私だけれど、

母として娘に言いたいことだったので、

絵手紙にして出したのだが、

喧嘩の後の私の言葉は、

娘にどのように伝わったのだろうか?




2004年06月11日(金) 子どもに対して

フランスの思想家ルソーの言葉に次のような言葉がある。

それは、

「子どもを不幸にするいちばん確実な方法は、

いつでも、なんでも手に入れられるようにしてやることである。」

昨日、寝る前に娘とちょっと喧嘩になったとき、

この言葉を思い出した。

私の娘は一人っ子である。

小さい頃から娘の周りには大人ばかりが大勢居た。

夫の両親、私の両親、そして私の姉・・

私の両親にとっては唯一の孫だったから、

嬉しかったのは分かるけれど、

父は娘に何でも買い与えた。

私がいくら言っても無駄だった。

そして、娘は自分が一番の大将だと思って大きくなった。

兄弟が居ないから取り合う相手も居ない。

あるものは全て自分のものである。

競争して奪い取ることをする必要がなかったから、

おっとりしているといえば良いが、

反対に我儘で、我慢することが出来なくなってしまった。

子供を愛するのはとても大切なことだ。

そして幼い頃に親に甘えるのも意味のあることではある。

でも、何でも買い与え、してやることは、

決していいことではないように思う。

子供を甘やかしすぎると、

してもらって当たり前、

してもらえないと不満を感じるようになってしまう。

思い通りにならなければ、

それに耐えられなくて、辛抱ということができない。

そして、何か嫌なことがあると、

直ぐに逃げ出すか我慢できずに攻撃するようになる。

結局は親の考え方や育て方で、

子供自身も変わると思う。

何でも与えられて、不自由はしない代わりに、

心の満足感が得られなくなる。

幸せを与えられるのが当たり前だと思ってしまう。

そして、幸せが与えられないと不満に思ってしまう。

本当に子供を愛するなら、

その子の将来のことを考えて、

決して与え過ぎないようにしたい。

物を与えるのと心を与えるのとは全く別物のだと思う。

そして、子供を幸せな人生を歩かせたいと思う。


2004年06月10日(木) 情味

中村天風先生の言葉の中で「情味」と言う言葉がある。

情味とは広辞苑によると

「あじわい、おもむき」

「人間らしい思いやりやあたたかみ、人情味」と書いてある。

本当にこの情味という言葉には意味がありそうに思う。

中村天風先生の言葉とは、

「活きるということの努力のみに追われて、

生活の中の情味というものを味わわないと、

人生はどんな場合にも真の活きがいというものを感じない。」

という言葉である。

毎日の生活は楽しいことばかりではない。

寧ろしんどいと思うことや、

悲しい辛いと感じることの方が多いかもしれない。

でも、何か自分で喜びを見つけると、

そのしんどいと感じる気持ちも少しは違ってくると思う。

何も感じないで毎日を暮らしていると、

自分が何のために働いているのかが分からなくなり、

やがては人生に疲れてしまう。

でも反対に、どんなにしんどくたって、

自分の心が楽しいと感じるのなら生きていける。

それこそ情味だと思う。

働くために生きるのではなくて、

生きるために働きたい。

どんなに小さなことでも良い、

生きる喜びを感じたい。

生きていて良かったと思える瞬間がほしい。

いくら辛くても生きていけるという楽しみがほしい。

散歩の途中での道で綺麗な花を見つけて、

「ああ綺麗だなあ・・」と思える気持ち。

労働の後、好きなビールを一杯飲んだ時に感じる、

「ああ〜美味しいな、嬉しいな」と思う気持ち。

気の合う友と会って心のままを素直に話をして、

「ああ〜やはり友っていいなあ・・」と思える気持ち。

こういう気持はどんなにささやかなものであっても、

その人にとっては幸せに感じる気持ちだと思う。

そしてそんな気持ちを感じることが、

生きていく喜びに変わるのだと思う。

不満や不平ばかりをいうのではなく、

悲しいと涙にくれるのでもなく、

自分が楽しい、生きていて良かったと

思えるものを見つけたいものだ。

そしてそういう気持を積極的に重ねていくことで、

人生が素晴らしいと感じるものに変わっていくのではないかと思う。


2004年06月09日(水) 何か・・・

何か心が晴れない日がある。

理由はこれといってないのに、

何をしても楽しくなくつまらないのだ。

昔のことばかりを思い出している。

勿論嫌なことは思い出さない。

私の人生で一番輝いていたあの頃のことを思い出している。

私は本当に輝いていた。

皆に囲まれていた。

誰に遠慮することもなく、

私の思う通りに歩いていけていた。

それが、あの日、あのことがあってから、

私の人生は一転した。

あの人と出会ったことは今も後悔はしていない。

今は懐かしい思い出に変わっているから。

あの時のあの胸の高まりは忘れない。

人を愛することを初めて知ったあの日、

私は一生をかけてこの人と・・と思った。

初恋は実らない方が良いと言う人が居る。

そうかもしれない。

でも、もしも初めて愛した人と、

それからもずっと居ることができていたら、

私の人生もまた変わっていただろうと思う。

今の私ではないはず。

過去をもう一度くれるというなら、

あの日に戻って、やり直せるかもしれない。

でも、人生は一度だけだからこそ、

良いのかもしれない。

だからこそ、人は一生懸命に生きるのだから。

もしも、あの日に戻れたら。

今度は絶対に後悔しない人生にしたい。

今はもうあの時に戻っても平気になった。

日々変化するこの世の中で、

過去を引きずるだけでは生きていけない。

そうかと言って、今のままでは時間の無駄だ。

新しい自分になりたいのなら、

まず今自分が何を捨てれば良いかと考えることから始めよう。

そして、新しい自分の姿を頭に思い浮かべ、

それに向って歩いていこうと思う。


2004年06月08日(火) 心の自立

もしも、自分が幸せになりたいと思うなら、

まず一人で居られることが必要だと思う。

心の自立がなければ、

どうしても人に頼ることになる。

そして、人を当てにしてすがることにもなる。

もしも心が自立できていれば、

たとえ、一人になったとしても

その一人の時間を楽しめることができる。

一人で居られない人は自分に自信がないのだと思う。

そして自信のなさは相手への不信にも繋がる。

相手への不信を持つことは、

決して幸せなことではない。

相手を認めると同時に自分自身をも認めることができたとき、

初めて人は幸せだと感じるのではないだろうか。

「私は一人が好き」と言える人は、

変わっている人ではなく、

むしろ、自分自身をちゃんと持っている人だと思う。

心を自立させること、

一人の時間を楽しむことができること、

そして、人のことを考えてあげることができること、

これこそが自分自身を幸せに結びつける第一歩だと思う。

「一人では居られない」という人は

相手に自分を良いように見てほしい、

人に拒否されたくない、

自分のことを一番に見てほしい・・・

つまり赤ちゃんや幼い子供が相手に望む気持ちを持っているのだと思う。

相手に対して依存しているということがこのことから言える。

依存からは何物も生まれては来ない。

一人の時間を楽しめること、

それこそが幸せへの第一歩のような気がする。









2004年06月07日(月) 信じるということ

私の好きな歌、武田鉄也さんの「贈る言葉」の中に、

「信じられぬと嘆くよりも、人を信じて傷つくほうがいい」

という言葉がある。

人を信じることは、決して相手に求めるものではないと思う。

人を信じることは、自らの心から出るものだと思うから。

だから、自分が相手を信じたいと思えば、

たとえ、相手がその信頼を裏切ったとしても、

相手を責めるのは間違っていると思う。

人を信じること、これは難しいことではない。

相手のことをそのまま自分自身の中に受け入れることだから。

人を受け入れるということは。

その人を信じる信じないに関わらず、

とても大事なことだと思う。

もしも人を信じて、

それが裏切られるという結果になっても、

決して嘆くのはよそう。

人を疑うことは嫌なことである。

人を信じることはとても気持ちの良いことである。

自分にとって大切だと思う人を、

疑いながら付き合うなんてことはしたくない。

そんな付き合いはしても楽しくないから。

もし、自分がその人を信じたいと思うなら、

たとえ、その人が信じられない人だと思っても、

私は信じたいと思う。

自分が信じたい人に対しては、

「裏切られてもいいから信じよう」

「この人を疑うよりは傷ついたほうがいい」

「この人を信じられる自分でありたい」と思う。

そして、その結果、もしも裏切られたとしても、

こういう風に思っていたら、

それほど心が傷つくことはないのではないだろうか。

私が19歳の時に初めて人を愛し、

そして信じていた人に去られた。

その時は裏切られたと思った。

どん底に突き落とされたと思った。

そして、心の病気になった。

でも、今思うとあほらしくなってくる。

時がそう思えるようにしてくれたのかもしれない。

今は、私が愛し信じていた人が居たということが嬉しい。

そして、心の病気で十数年も苦しんだことがバカらしく思える。

このことがあったからこそ、

今の私が居るのだと思う。

恋愛とは詐欺事件とでは話は違うけれど、

母は昔から私に「騙すより騙される人になれ」と言ってきた。

私も母の言葉のとおり、

騙すこと、裏切ることはしたくない。

むしろ、騙される立場、裏切られる立場を選びたい。

神様は必ず見ていると思う。

人を信じてその結果傷ついたとしても、

きっと幸せになるのは裏切られた人の方だと信じている。







2004年06月06日(日) やってみて

「百聞は一見にしかず」と言う言葉があるが、

昨日の私は、

「百見は一験にしかず」だった。

こんな言葉はないのだけれど、

本当にそう思った。

何でも端で見たり聞いたりするのと、

実際に自分が体験してみるのとは全く違う。

昨日の地区役の仕事はまさにこの通りだった。

人がしているのを見ると自分も出来るかな?と、

思うことって誰にでもあると思う。

私がヴァイオリンを始めたのもそうだった。

私は好きでよくコンサートを聴きに行く。

そして、オーケストラを聴いていて、

ヴァイオリンを弾いている人たちが、

いかにも易しく、楽しそうに弾いているのを見ていて、

私もやってみようと思った。

しかし・・・

レッスン日記にも書いているとおり、

簡単なものではなかった。

基本的なことをマスターするのさえ難しい。

これも私自身が体験してみて分かったことだ。

昨日の電話帳の配布と回収の仕事も、

こんなにも大変で疲れる仕事だとは思ってもみなかった。

毎年、役の人が我が家にも電話帳を配ってきてくれていた。

「ご苦労様!」の言葉をかけてはいたが、

そんな言葉では労うことのできないくらいの労働だった。

簡単に玄関先に置いて良いのなら簡単だ。

でも、対面して手渡し、

古い電話帳を回収して、

リストに結果をチェックして記入する。

冊数が3冊にもなると、

一軒の分でも結構な重さになる。

一度に数軒分を持っていくと本当に重かった。

まだ、この配布だけで済むのなら良かったのに、

訪問して学校の後援会に入会してもらい、

その入会費を集める仕事があったのだ。

私は昔から勧誘という仕事が苦手だ。

だから、何でもセールスをしている人を見ると、

偉いなあと思っていた。

今回も寄付をお願いするのがなかなか大変だった。

中学に子供が通っている家庭には言えるのだけれど、

まだ子供の居ない家や高齢のご夫婦が住んでいる家には、

どうしても声をかけることができなかった。

昨日は朝早くにリストと地図でチェックして、

午後から夜9時半頃まで配布をした。

それでもまだ三分の一しかできなくて、

今日も残りが沢山ある。

9時になったら始めようと思っている。

何でもやってみて初めて分かることを、

身に沁みて感じた私は、

これからどんなことでも、

端で見て居るだけの立場での意見を言うのをやめようと思う。

その人の立場にならないと分からないことが、

本当にいっぱいあるということを改めて実感している。

私にとって最初で最後の役の仕事になるかもしれないが、

やってみて本当に良かったと思う。

さあ、今日も頑張ろう!


2004年06月05日(土) 自慢

先日の朝日新聞の天声人語に次のようなことが書かれてあった。

それは、

日本画家の片岡珠子さんの言葉である。

「自慢は大胆なところ。

周りの人に失礼があっても遠慮しない。

生きた人間が感じることを大切にしたい。」

私はこの言葉を何回も読み直してみた。

声に出しても読んでみた。

何か漠然と理解できる気がした。

日本人は他の国の人に比べるととても謙虚だと言われる。

遠慮深いのだと思う。

自分のことを人の前で自慢することは、

あまりいいことではないと思われている。

確かに自分のことを自慢して話す人が居れば、

顰蹙を買うであろう。

控え目が美徳とされてきた日本において、

いくらそれが本当であったとしても、

自画自賛することは好まれない。

でもこの言葉のように、

自分がなしえたことを素晴らしいことだと思うなら、

自信を持って人に言えるのが本物なのかもしれない。

本当にその人が思っていることなら、

それは動かしがたい事実であろう。

その人が生きてきて感じたことなのだと思う。

誰の前でもはっきりと自分を主張することは、

これからの世の中には大切なことなのかもしれないと思う。

控えめで、ファジー、

つまり曖昧なのが良いとは限らないと思う。

人の考え方は様々だから、

自慢することをよしと思う人、

否それは嫌だと思う人、

皆それぞれだと思う。

ただ、私が思うのは、

自分ひとりでも、

周りに誰かが居ても、

自分がしたことが良いと思うなら、

そしてそれが素晴らしいと感じるなら、

自分の気持に蓋をするのではなく、

自分が感じた気持ちをそのまま表現しても良いと思う。


2004年06月04日(金) どんな道でも

相田みつをさんの言葉に、

「どのような道をどのように歩くとも、いのちいっぱいに生きればいいぞ」

という言葉がある。

本当にそうだと思う。

私は娘がまだ幼かった頃、必死で子育てをした。

「人は皆違う。性格も違うし、環境も違う。

もって生まれた能力にも違いがある。」ということは、

頭ではよく分かっているのに、

何故か娘を他の子と比べてしまうところがあった。

娘には娘の、他の子には他の子の良さがあり、

個性もあるということを、

分かっているようでわかっていなかったのかもしれない。

バカな親だった。

私達が生きてく時、

その人生において色々な道を選択できる。

そして様々な生き方ができる。

もちろん、いくら望んでも、

選択できない道もあり、できない生き方もある。

でも、親は自分の子供がどのような道を歩くにしても、

それがたとえ、そんなに立派な道でなくても、

幸せに生きてくれればいいのではないだろうか?

どんな仕事に就こうとも、

どんな生き方をしようとも、

その形に捉われるのではなく、

どういう心で生きられるかが重要なのではないだろうか。

親から見たら子どもの歩く人生が危なっかしくて、

時には親として情けないと思うかもしれない。

でも、どのような道でも、

その中で子ども自身がそれなりに、

幸せに暮らすことができるなら、

それで良いのではないかと思えるようになった。

今、娘は中学三年だ。

来春の高校受験を控えている。

娘は娘なりに自分の将来のことを考えているみたいだ。

私は娘の人生を娘自身の足で歩いていってくれればそれで良いと思う。

娘の人生は娘のものだ。

娘の幸せは娘の心が決めるものだ。

だから、親として暖かく見守ってやりたいと思う。

娘を信じて。


2004年06月03日(木) 一年経ったら

一昨日は本当に落ち込んで欝状態の日だった。

情けないことに、もう二度と楽しいことなんてないと思った。

笑顔も忘れてしまうだろうと思っていた。

でも、みんなのはげましの言葉をもらって、

どんなに嬉しかったことか。

私は考えた。


今自分が悩んでいることの原因が、

一年経っても忘れられないことかどうか?と考えてみようと思った。

落ち込む原因はいっぱいある。

心が弱くなることは多い。

でも、この気分を一年後も覚えていることだろうかと考えてみたら、

殆どのことは忘れてしまっていることのように思う。

忘れ去ることは出来なくても、

例え記憶の中に残っていたとしても、

日常の生活の中で思い出すことが少なくなっているとしたら、

それは大したことではないのだと思う。

人はそういうふうに思うことによって生きていけるのだと思う。

嫌なこと、辛いことをいつまでも忘れられないとしたら、

どんなにしんどいことだろう。

忘れることが出来るからまた元気になれるのかもしれない。

私が今年の初めに味わった辛く悲しいことも、

半年が経って、

私の心の中での存在が小さくなっていることに気づいた。

あんなに悲しくて生きていけないとまで思ったことなのに・・・

一生立ち直れないと思ったことなのに・・・

忘れることってこんなにも有り難いことなんだと思う。

後半年経ったら私の中で完全ではないにしても、

本当に些細なことになってしまっているに違いない。

そして、現在の自分を受け入れることができると思っている。

あせらずにその時を待とうと思う。

もし幸せになりたいと思うなら、

まず今の自分を認めることから始めることが大事なんだと思う。

幸せになりたいと願う気持ち、

人に愛されたいと願う気持ち、

この気持ちは誰でもあるはずだ。

でも、人の気持は変わる。

私だってこうして変わっている。

だから、くよくよしないで生きたい。

取るに足らないことで悩むのはやめよう。

今の自分自身の心を見直してみて、

本当に大事なことかそうでないことかを見極めたいと思う。

人に愛されることばかり望んでいないで、

誰かと上手くやりたいなら、

自分から心を開いて行くことが必要なのだと思う。


2004年06月02日(水) 本当は

中谷彰宏の本「自分塾」の中に、

「人間の成長とは自分の上に新しいものをプラスしていくことではない。

逆に自分がたくさん身につけているムダな鎧をはいでいく作業だ」

という言葉がある。

何か目標に向って努力すること、

一つ一つ積み上げていくこと、

新しい知識を吸収すること、

これらは確かにその人にとって、

何かを成し遂げるために必要なことだと思う。

でも、何かの知識や技術を得たとしても、

それを有効に活用しなければ何にもならない。

言わば「宝の持ち腐れ」だ。

それよりも、使わないもの、

役に立たないもの、

重荷になるもの、

無駄だと思うことや物、

それらを自分自身から剥ぎ取っていくことが良いのかもしれない。

確かに、努力して掴み取ったものを、

捨てていくのは心苦しいし、惜しい気もする。

勇気と決断が必要にもなる。

でも、剥ぎ取って行った結果、

効果的になることもあるはずだ。

役に立ちそうな新しいものを一旦取得しても、

一度も使わず、

そのまま置き去りにしてしまうことが多いのかもしれない。

本当に自分が幸せになろうと思うなら、

役に立つことを得ること、

得たものを使いこなすことができるようになること、

使い方を工夫して、

もっともっと有効的な使い方ができるようになること、

そうすることによって、

今の自分よりもっと高い所に居られる自分自身になっていくのではないだろ

うか?

本当はそれこそが一番大切なのかもしれない。


2004年06月01日(火) たまには・・・

こんな日もあっても良いだろう・・・

何もかも、嫌になる日があっても良いだろう・・

何もしたくない、

蒲団をかぶって寝ていたい、

こんな気分になるときがたまにある。

欝状態。

でも、頑張る私。

家事もしたくない。

何故今私がここに存在するのか?

私の居る価値はあるのか?

私が居なくなっても、

この家は何も変わらないのではないか?

私がここに居て毎日同じことをして、

これが何のためになっているのだろう?

何もかも放り出してしまいたいと思う。

家の中で孤立している自分を感じる。

バカバカしくなってくる。

夫にとって私は何?

娘にとって私は何?

私など居ても居なくても変わりはしないのではないか・・

今の私の心は頑張りたくないと叫んでいる。

そう・・

一生懸命に走ってきて、

たまには休みたいと思っている。

でも、それができない。

しんどくてもやらねばいけないと思ってしまう。

どこかへ行ってしまいたい。

このまま消えてしまいたい。

私の価値はその時にはじめて分かるのかもしれない。

夫と娘に聞きたい。

私はあなたたちにとって何?


スカーレット