スカーレットの心のつぶやき
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2006年01月31日(火) 心��

私にとって

子どもってどんな意味を持っていたのだろう。

私は本当に子どもに対する愛情を持っていたのだろうか。

あの頃の私は、

今と同じように

心の中に闇を抱き、

心の中の空虚さを埋めようと

ただ、それだけの理由で

子どもを欲しいと思ったのではないだろうか。

私が最初の子を身籠った時、

確かに喜びを感じた。

あの秋、敬老の日に

私は夫に話しをした。

夫はとても喜んでいた。

夫があんなに喜ぶ顔を

それまで見たことはなかった。

「良かった」と思った。

これで夫とも上手くいくような気がしていた。

10ヵ月後の夏が楽しみだった。

もしかしたら何かが変わると期待していた。

マタニティドレスを買い、

まだお腹のふくらみなんてないのに

そんな服を着て喜んでいた私。

でも、それから二ヶ月後に

私は私自身の体調の変化に耐えられず、

また医者の言葉もあり

初めての子どもの命を絶ってしまった。

悲しみや辛さよりも

これで元のような体調に戻れるという

何かほっとした気持ちになっていた私。

母親の資格なんてない。

本当に子どもが子どもを産みたいと思っていたみたいだ。

あの時に闇に葬られた子の気持ちを考えてもみなかった。

自分勝手な母だった。

夫は医者の言葉に反対はできなかったから

医者と私が決めた通りにしても

何も文句を言わなかった。

きっと心の中では

色々なことを思っていたに違いない。

そんな夫の心を思いやることさえ出来なかった私だった。

私には愛情が欠落しているのだろうか。

もしそうなら、

そんな私になった原因がある。

あのRとの子を堕胎した時に

私の子どもへの愛情が意味の違ったものになったように思う。

あの時の私は10代、

何も分からず、本当の愛さえ気付かなかった。

私って本当に駄目な人間だ。

人として一番大事なことさえ

気付かないのだから。

ああ〜今の私の源があの時のあのことにあるとしたら

早く心の中から消してしまいたい。

私の過去が私の未来に続かないように・・・


2006年01月30日(月) 心��

結局、私がいつも何かを求めているのは

私自身が心の中での満足や

幸福感を見つけることが出来ないからだろう。

青い鳥ではないけれど

私の幸せなんて直ぐ側にあるのかもしれない。

でも、私はそれが見えなくて

いつも何処か遠くの方ばかり見ているのだろう。

心の闇というよりも

心の穴を埋めたいともがき苦しんでいるのかもしれない。

私が子どもを産みたいと思ったのも

母性に目覚めたわけではない。

ただ、私の中で夢中になれるものが欲しかったのだ。

役者でもない、カラオケでもない、

勉強や趣味の世界でもない、

私自身が分からない何か・・

漠然としていたけれど

子どもは私を裏切らないと思ったからだ。

私を裏切らない存在が

夫ではどうして駄目なのだろう。

あれほど長い期間付き合い、

気心もわかって結婚したはずなのに・・・

私には夫の心が分からないのだ。

人の心を分かろうとするほうが

もしかしたら傲慢なのかもしれない。

私の心だって人には分かるはずはないのだから。

こんなことを思いながら。

「子どもなら私を丸ごと必要とするだろう。

私の存在価値を充分に認める存在になるに違いない」と思った。

夫は私が子どもが欲しいと言ったら

反対した。

勿論夫も欲しいと思っていたはずだけれど

私の心臓のことで、

医者から妊娠は止められていたのだから、

夫が賛成するほうがおかしかった。

反対して当然のことだった。

でも、夫に反対されればされるほど

私の中で子どもへの思いが大きくなっていった。

そして私は一度目の妊娠をした。


2006年01月29日(日) ペルソナ��

結局、私は死ぬまでいつも心の中の

空虚さを何かの形で埋めようと

もがき苦しみ続けていくのだと思う。

現に今でもそうだから。

役者の次はカラオケだった。

カラオケを習いに行っていた時、

その教室でカラオケ大会があり、

私は優勝をしたいために

相当の練習をしたものだ。

家事をしながら耳にはウォークマン。

掃除をしながら、炊事をしながら

壁に貼った正という文字に歌った回数を書いて行った。

私はカラオケ中毒になっていた。

カラオケ教室に通い、

歌うことによって

私の心の中に空いた穴を埋めようとしていたのだ。

その努力のお陰で念願の優勝を果たした。

次の年には審査員もした。

その過酷とも言える練習をしたために

また食べられなくなってしまった。

寝食を忘れて・・という言葉の通りだった。

本当にバカな私だ。

カラオケ教室の先生を好きになった。

ほのかな恋心を募らせていた。

夫が居ることを忘れてしまっていた。

先生のことを本気で好きになっていたのか?

今思うと否定も肯定も出来ない。

夫に対して申し訳ないことをしてはいない。

勿論、不倫という言葉には当てはまらない

精神的な恋に終わったのだから。

ただ、あの時の私は私の方を向いてくれる人へ

心が動きそうになっただけなのだ。

役者も私の方を向いてはくれたけれど

それは商売なのだから仕方のないことだ。

何もかもわかっているのに

いつもいつも同じことを繰り返してしまう。

そんな自分自身に気付いていたから

いつも心の中で悔やんでいたし

いつも自分を否定し続けてきた。

体を壊してカラオケをやめた。

やめたことは後で後悔したけれど、

あの時はこの選択しかなかったように思う。

私は生まれたときから

女の人の生きる道を歩くことは出来ないと思っていた。

結婚も出産もするはずはないと思っていたから。

でも、私の本当の心の中では、

結婚への憧れもあり、

子どもを産みたかったのかもしれない。

医者から妊娠や出産を初めから否定されていたから、

自分自身の中でも子供を産みたいと言う気持ちは

持たないようにしようと思っていた。

もう一つは、

初めての恋をした相手、

Rとの間で嫌な思いをしているから

夫との間で、また同じ苦しみを味わうのが怖かった。

でも、やはり私も女だった。

何となくではあるが、

母になりたいと思うようになっていた。


2006年01月28日(土) ペルソナ��

私があの時、あのように役者に夢中になったことについて

夫はどんな風に思っていたのだろう。

良い思いはしてなかったのは確かだ。

それでも何も言わなかった。

あの時の私は実家に戻ったまま

毎日のように舞台を見に行っていた。

追っかけもしていた。

県内の劇場だけではなく

中国、関西の劇場まで

一人で見に行っていた。

あれほど都会が嫌いな田舎者のくせに

今思うと本当に不思議な思いがする。

そして見に行くたびにお土産を持参し、

また座長には毎回一万円の入った祝儀袋を渡していた。

ツーショットの写真を撮ってもらい

それをテレホンカードにしたものさえ残っている。

あの時の私は変だった。

何もかも忘れたい、

何かから逃げ出したい

そんな気持ちがあったのは否めない。

でも、このことで私に生きる力が湧き、

毎日がとても充実した日々を送ることが出来たのだから

それはそれで良かったのだと思う。

芝居を見に行っている間に

役者とも仲良くなり

女の子の役者とは今でも便りの交換をしている。

そして芝居見物仲間とも出会った。

同じ方向を見ている者同士だったから

話も合ったし楽しかった。

年は違っても思いは同じだった。

私に生きる力をくれた京乃助座長には

今も感謝している。

娘が生まれてから数回は見に行ったけれど

次第に私の中で大衆演劇への思いは小さくなり

消えてしまった。

あれからもう20年近い年月が過ぎた。

今はもうすっかり気持ちはなくなってしまっている。

私の中で燃え上がった炎は

一時的なものであったし

初めから長続きするようなものではなかったような気がする。

何かに夢中になれるもの

生きがいが欲しかっただけだったのだから。


2006年01月27日(金) ペルソナ��

夫への償いをしなくてはいけないと思いながら

それでもまだ私は夫に対して

素直に心を開くことが出来なかった。

夫の涙を見た時に

あのHが流した涙を思い出した。

博多空港でHに私の気持を話した時に見せた

あのHの涙の意味を・・・

そして今回の夫の涙の意味を・・・

素直に心を開くことの出来ない意味を・・・

Hや夫やRへの私の心を

誰にも説明できなかったししようとも思わなかった。

ただ、あの頃の私には生きる目的がなかったのだ。

確かに夫はとても良い人で

私のことを愛していてくれたと思う。

でも、私はそだけでは満足しなかった。

私だけを思っていてくれる証拠が欲しかったのかもしれない。

なんと幼い私。

年齢は30歳を越えていたけれど

私の精神年齢は幼児のままだったのだ。

自殺をしてそれでも命を失うことのなかった私は

生き運が強いというのだろうか?

生きていかなければいけないと

神様が教えてくれたのだろうか?

もう二度と死ねないと思った。

でも、生きる意味を見つけることは出来なかった。

そんな私に大きな転機がやってきた。

私はICUからHCU、

そして個室、大部屋と3ヶ月かけて回復していった。

その間私は母と共に生きていた。

母は私の入院している部屋にいつも居てくれた。

家には戻らずずっと私の側に居てくれた。

母はどんなにか辛かっただろうと思う。

あの頃の母にはわが子の命が助かったことだけが

唯一、救いだったのかもしれない。

そんな母との心の絆はそれまでに比べて

とても大きなものになっていった。

退院して実家に戻って体を休めていた私は、

あの夏、忘れもしないあの夏、

近くの温泉センターで

大衆演劇をいうものに初めて出会った。

女形をしても美しいし

男役をしたら他に比べようもないくらい

男らしいあの京乃助座長と出会ったのだ。

言葉では上手く言えないけれど

あの大衆演劇の世界は素晴らしいものだった。

あの京乃助座長に回り逢ったことで

私は生きる意味を見つけたと言っても

大げさではないと思える。

あの座長に魅せられ、

私の心は傾いて行ったのだ。

なんということか!

こんな世界があったのか!

全てが目新しく刺激的だった。

私は夢中になった。

生きていて良かったと思った。

毎日芝居を見に行った。

何もかも忘れて大衆演劇の世界に没頭していった。

私には夫は見えなかった。

私の目に見えるのは

RでもなくHでもなく夫でもなく

あの素晴らしい座長だったのだ。

こうして私の体に命の炎が再び燃え上がった。


2006年01月26日(木) ペルソナ��

今思うとあの時の私の精神状態は普通ではなかった。

夫の前でRに「Rちゃんが一番好き」だなんて

言葉を言ったのだから。

その言葉を聞いた夫の気持ちになってみたら

とても辛くたまらなく悔しい思いだったろう。

本当にあの時の私は自分のことしか考えて居なかった。

そして夫の涙を見た時、

2年前のHの涙を思い出した。

Hとはっきりと別れないまま

夫と付き合い始めて6年の月日が流れていた。

九州大学附属病院を退院して

三ヵ月後に夫の結婚を前にしていた私は

Hに対してこのままではいけない

ちゃんとHと別れなくちゃと思っていた。

私がHと付き合い

博多で同棲していたことも

夫にはちゃんと話していた。

夫はHときちんと別れ話をしてきて欲しいと言った。

そして私は福岡空港までHに来てもらった。

夫は見送りに来てくれた。

大丈夫?と尋ねる夫の気持ちはどんなものだったのだろう。

夫は私を愛してくれたからこそ

Hとの別れをきちんとしてきて欲しいと言ったのだと思いたい。

Hとの再会は一年ぶりだった。

変わらなかった。

変わったのは私の心だけだった。

あれほど人の心が変化することに耐えられないと思っていた私が

一年の間に変わっていたのだから、

本当に不思議でたまらない。

Hに「好きな人が出来て結婚することになった」と告げた。

Hは「分かった、やはり想像していたとおりだった」と言った。

そしてHは泣いた。

男性の涙を見たのはその時が初めてだった。

きっと色んな思いがHの胸の中にあったのだと思う。

私は自分の幸せしか考えない勝手な女になっていた。

これでは幸せになれるはずはない。

あの時に私の運命は決っていたような気がする。

夫と結婚してもまた同じことをしてしまう・・

多分そんな予感がしていたのだと思う。

そしてRとの再会によって

夫の目にまた浮かぶ涙を見た時、

私は自分がつくづく嫌になった。

夫は私に言った「Rさんのことは忘れて欲しい」と。

この言葉を言ったときの夫の気持ちを思うと

今も心が痛む。

そんな思いをしてまで結婚した私達だったのに、

私が夫との生活や

自分自身の病気の再発で自殺を図ったことは

夫に対して一生をかけて償っても

償えないものなのではないかと思う。


2006年01月25日(水) ペルソナ��

結婚したらきっと良い人生が来ると信じていた。

何と甘い考えだったのだろう。

環境を変えると言う点では

結婚して実家を出るということが

一番良い方法だと思っていた。

二人だけの結婚式を挙げたあの立山での思い出は

20年経った今も心に残っている。

あの頃は派手な式が多かった。

披露宴でもお色直しを何回もし、

まるで芸能人かと思うような

お金をかけた派手な式が多かったように思う。

あの頃に私たちが上げた質素で

でも、心に残る式は貴重な存在だったように思う。

磁器婚式というタイトルでここにも書いたことがあるが

やはりあの式は正解だったと今でも思っている。

そして新婚時代もそれなりに楽しかった。

でも、一年経った頃から

私の中で少しずつ変化が現れてきた。

やはり駄目だったのだ。

いくら環境を変えたとしても

私自身の気持ちが変わらないと何もならない。

また私は食べられくなった。

そして痩せてきた。

食べられない状態は本当に辛かった。

日赤やそのほかの病院に入院もした。

食べることが出来なくて

体中にアンバランスが起きて

顔もむくみ始めた。

腎臓の機能も弱くなってきた。

腎臓病棟に入院して塩分と水分の制限の生活も送った。

弱い私はまた逃げたくなった。

何もかもから逃げたかった。

私の存在を消したかった。

夫は私に対して強い態度も見せず、

でも、そうかと言って労わりの言葉もなかった。

ただ、黙って私を見ているだけだった。

私にはこの家での私の存在価値を見出すことが出来なかった。

私など居る必要はない、

私は誰にも愛されてはいない、

私が居ない方が夫は幸せになれる・・・

そんな思いの日々を過ごした。

そして結婚して2年後に

私はそれまでで一番ひどい自殺を図った。

実家に戻っていた私は

近くの薬局で求めた睡眠薬を

一瓶全て飲んだ。

姉が気付いて夫に連絡。

夫の車で救急病院へ運ばれた時には

医者が駄目ですと言ったらしい。

それでも、私には生き運があったのだろうか?

救急救命センターに移送され命が助かったのだ。

私は悔しかった。

死にたいと思う者を何故助けるのか・・

家族を恨んだ。

誰とも会いたくないと思う反面、

私は無性にRに会いたかった。

やはり私の愛する人はRしか居ないと思った。

夫の気持ちを思いやることも出来なかった私は

無理を言ってRに病院へ来てもらった。


2006年01月24日(火) ペルソナ��

叔母の葬儀でRと再会したことは

私の心を見つめる良い機会になったような気がする。

夫のRへの気持ちを思うと、

何かとても複雑なものがある。

夫は、結婚して三年目に

私が自殺を図るとは思ってもみなかったはずだ。

夫と出会い、

夫とHとの間で揺れた私の心も、

そしてHの涙も皆知っている夫にとって

今回のRとの再会は

とても辛い思いのするものだったと思う。

今改めて夫との関係を考えてみたい。

夫と付き合ううちに病気が再発し

最期の九州大学附属病院へ入院した私は

行動制限をされた。

お金も持たされず、

部屋か病棟以外は外出禁止になり、

痩せているということだけで

自由を奪われてしまった。

まるで精神科の閉鎖病棟に入れられたみたいだった。

勿論面会は禁止された。

家族に電話したくても

電話代すら持てない私はかけることも出来なかった。

個室に入り、

毎日窓から空を見ては遠く離れた家への郷愁を募らせていた。

この入院の時の主治医は

一番初めの主治医とは違った意味で

また私にとって忘れられない人になった。

研修医だった。

顔を見た途端に私にはきっと合わないだろうという

直感が働いた。

でも、この医者に任せるしかない。

半ば諦めの境地だった私は

彼との交換日記を始めた。

毎日の出来事、食べることへの思い、

退院した後の私の夢、

そして夫のこと・・

こうしてつぶやきに書いているように

私の心の中を全て彼に日記で伝えた。

この入院中も私は吐くこともなく

体重も順調に増え、優等生の入院患者となっていた。

その頃には同じ病気で入院している人たちの数も増えていた。

十人は居たと思う。

勿論この病気が思春期痩せ症と言われるくらいだから

年齢は私と10歳は年下の人たちばかりだった。

皆家族との葛藤、友人との軋轢、

そして自分自身を突き詰めて考える性格から

発症していた人たちばかりだった。

アメリカに留学して帰国したばかりの女の子も居た。

彼女の場合は母親との関係が大きな原因となっていた。

同じ病気の人たちが集まっての

集団療法の中で

それぞれの悩みや苦しみを知り、

私は年長者として彼女達を支えていた。

どうして入院している間は優等生なのだろうか・・・

本当に不思議だった。

体重が増えるに連れて

制限されていた行動も少しずつ緩み、

最後は面会も試験外泊も許されるようになった。

夫は両親と共に二回会いに来てくれた。

試験外泊は三度した。

そして外泊の度に夫と真剣に話し合い、

結婚を考えるようになった。

私はずるい女だ。

本当にそう思う。

夫との結婚は、結局退院後の私の生活のよりどころとしてしか

考えて居なかったような気がする。

夫と結婚したいのではなく

退院したいから結婚を決めたのかもしれない。

そして、退院して三ヶ月後に夫と二人だけの結婚式を

立山の山頂のホテルで挙げたのだ。


2006年01月23日(月) 出会い�Α崕琶譴了燹�

最愛の叔母が亡くなった。

二人の子ども、五人の孫、

そして四人の曾孫たちに囲まれて静かに息を引き取った。

七十八歳の叔母は二年前に肺がんを告知されたが、

自らの意志で辛い検査も手術も断り、

定期的な診察と薬の投与だけを受けていた。

叔父を若くして亡くした後、

ボランティアや川柳、俳画と

趣味の世界で知りあったステキな友人たちと交流を深めて、

私から見ても羨ましいと思えるくらい自分自身のために生きてきた。

熱狂的な阪神ファンで、

野球の季節の叔母はとても幸せそうだった。

勿論精神的には苦痛も多かったはずだが、

いつも明るくユーモアを持ち、周りの者達を元気づけてくれた。

闘病という言葉の持つ重く苦しい道を選ばず、

自然に死を迎えるという

叔母の選んだ道を誰も反対することは出来なかった。

私たちは皆、

せめて叔母に痛みや苦しみのない安らかな死を迎えて欲しいと願っていた。

そしてその通り、

叔母は苦しむことなく静かにやさしい死を迎えることが出来た。

昨日の葬儀はたくさんの家族、親せき、

川柳の仲間たちに囲まれてしめやかに行われた。

叔母の死は残された私たちに生きることの意味、

そして敬虔な死を教えてくれたような気がする。

「叔母ちゃん、良い思い出をいっぱい有難う、ゆっくり休んでね」


2006年01月21日(土) 出会い��

夫と出会いは勿論私の人生に大きな意味を持っている。

でも、夫との出会いよりももっと深い意味のある出会いは

私が生まれて1歳の時に出会ったRなのだと思う。

私が一番初めに愛した人。

そして私の初めての人。

私が命を代えても守りたいと思っていた人だから。

そのRの母親が今朝亡くなった。

私の唯一の叔母だ。

父もきっと心を痛めていることだろう。

たった一人の妹が亡くなったのだから・・・

今夜はお通夜、

明日がお葬式。

今夜はRと顔を合わす。

今ではただの従兄弟として付き合えるようになったから

平気だしRも何とも思ってはいないと思う。

Rの悲しそうな顔を見るのが辛い。

Rの涙を見るのが辛い。

でも、今夜は叔母との別れのために行こう。

そしてRとも話しをしてこようと思う。

明日は夫もお葬式に参列してくれる。

Rとのことを全て知っている夫は

Rと顔を合わすのは嫌かもしれない。

でも、夫は私への義理を果たしてくれると言う。

有り難いと感謝している。

私にとって夫との出会いはやはり意味のある出会いだったのだと

今日改めて感じる。


2006年01月20日(金) 出会い��

今思うと夫と結婚するまでの6年間は

私にとって幸せな日々だけではなかったような気がする。

勿論、東京へ二度遊びに行き

夫の下宿で新婚さんのような数日を過ごしたことや

見知らぬ東京を案内してもらって

結構ミーハー気分で楽しい時間を過ごせたことは確かだ。

でも、夫との長い付き合いをしていくうちに

段々と不安も募って行った。

夫は元々が無口な人で、

自分からは話をする人ではなかった。

喜怒哀楽も少なく

一言で言えば私と正反対の性格の人だった。

私が夫に惹かれたのは

この全く反対の性格であったのだが、

これは私の大きな勘違いだったと

今はそう思える。

あばたもえくぼとはよく言ったもので

結婚するまでは全てがステキに思えた。

無口で物静かな所は

冷静沈着で羨ましいと感じたし、

大きな声や荒々しい態度を取らないのは

元々の性格の上に私を愛しているからだと信じていた。

そんな夫の欠点を一つ上げるならば

それは優柔不断なところだ。

私は決めると即行動に移す。

決める時も一瞬の判断で決めるところがある。

その時の気分とか感じとか、

私こそ頼りないという気もするが

こうだと決めるところがある。

夫は優しいという反面、

物事を深く追求しないし

何を考えているのか分からなくなるところがある。

心の中で何を思っているか

言葉に出してくれると分かるけれど

黙っているから私には皆目分からない。

私が尋ねてもはっきりと答えない。

責任感は強い人だとは信じていたけれど

私との6年間という長い付き合いの中で

私への気持ちを言葉にして言ったことがない。

勿論プロポーズの言葉もなかったような気がする。

私の両親の前でも同じ態度だった。

こんな夫との付き合いだから

私の中で不信感が段々と大きくなっていったとしても

それは仕方ないことだった。

付き合っている気持ち、

今後どうするつもりなのか?

こういったことを知りたいのに

何答えることはなかった。

一度だけ夫に申し訳ないことをしたことがある。

それは講習会を終え、

上京していった夫に電話をしたときのことだ。

私は夫に妊娠をしたと告げた。

勿論嘘だった。

その頃の私は痩せていたから生理もなかった。

だから妊娠するはずもない。

でも、妊娠したと夫に言えば

責任感の強い夫のことだから

私のことをもっともっと真剣に考えるだろうと思ったのだ。

言ってしまった後で直ぐに訂正した。

やはり嘘をつきとおすことは出来なかった。

嘘はいつかはバレる。

そんなことで夫の気持ちを引き止めるなんて

惨めだし私の最低のプライドも失くしてしまう。

やはり私の行動って変だと

今はそう思える。

こうだと思うと相手のことなどどうでも良くなる。

あの頃の私は確かにそういうところがあった。

そして私の心はとても不安定になり

夫と付き合いながらも

見合いもしてみたし、

心もないのに他の人と付き合うことも経験した。

Hとも会った。

Hは相変わらず私への思いを語った。

正直有り難さと迷惑を感じた。

人から思われているという優越感にも似た気持ちを

感じる自分自身が嫌だった。

私はこの時点でも最低の女だったような気がする。

不安定な心を持て余していくうちに

しばらく落ち着いていた拒食症が始まった。

今度は吐かない代わりに

物を食べないようになり

体重もまた30キロになって

最後の入院になってしまった。

これが昭和60年3月のことである。

私は33歳になっていた。


2006年01月19日(木) 出会い��

夫と出会ってからの講習の日々は

私には最高に楽しい日々だった。

講習は難しいこともあったし

試験を前に勉強することも多かったけれど

私はとても充実した日々を過ごした。

あの夏の三ヶ月の間、

私は過食することもなく吐くこともしなかった。

本当に活き活きとしていた。

夫と何を話したのか今はあまり思い出せない。

無口でとても冷静に見える夫は

いつも私の話すことを黙って聞いていた。

授業を終え、

二人で私の乗って行った自転車に二人乗りをして

夏の風を切って走った。

ピンク色のワンピースのフレアーの裾が

風を受けてふわ〜と広がって

慌てて裾を押さえていた私。

夫と共に学べるということが

こんなにも幸せなことだったのか!と

不思議でたまらなかった。

私の心から完全にHのことは消えていた。

恋に落ちた。

夫との始めてのデートは

私が見たいと思っていた映画「ああ〜野麦峠」だった。

「映画を見に行かない?」と私が誘ったら

夫は信じられないような顔をしたっけ。

そして二人でポップコーンを食べながら見て、

帰りはいつもの喫茶店でコロッケを食べた。

夫は帰宅する電車の時間があったから

出来るだけ一緒に居たいと思っていた私は

最終の電車まで夫に付き合った。

あの頃の私と今の私を比べると

何も変わっていない気もするし

全く変わってしまったような気もする。

人の心が変わるということを

なかなか受け入れることが出来ない私自身が

変わっているではないか!と心に言っている。

当時、夫は東京の大学に通っていて

夏休みに帰省してこの講習会に参加していた。

夫の夢も私の夢も同じ図書館司書だった。

だから一生懸命に勉強して国家資格を取ることも出来た。

あの三ヶ月は私の人生の中で

一番充実していた期間だったのかもしれない。

でも、夏が過ぎ秋になり

講習も終わると夫は東京へ帰って行った。

淋しかった。

夫のことばかり考えて過ごす日々だった。

会いたいと思う気持ちが大きくなって

夫の住む東京へ二度行った。

まさに青春だった。


2006年01月18日(水) 出会い��

私が夫と出会ったのは、

私が入院して試験外泊をして、

新しい目標を見つけてさあ、頑張ろうと思っている時だった。

その頃の私は生きる目標もなく

ただ、毎日を吐くことなく過ごせばいいという気持しか持っていなかった。

でも、こんな私と反対の生き方をしたいと思ってもいた。

故郷に戻ったHは元気だと知らせをくれていた。

会いにも来てくれた。

Hへの私の思いはまだ残ってはいたけれど

一緒に住んで居た頃のような

幼稚でままごと気分ではなかった。

私はHが見舞いに来てくれるたびに、

何とかして立ち直ろうと思い始めた。

そのためにはどうしたら良いか真剣に考えた。

今回出会った医者はそれまでとは違った医者だった。

一言で言えば私の言うとおりになる医者だということだ。

結構上に居る人で力も持っている人だと聞き、

私も安心してその医者に任そうと思っていたが

話をしてみると、

まるで私の思うまま、

私の言うまま、

私の我儘を全部受け入れてくれる人だった。

これって何か変だと思った。

勿論、私のことを否定しないし

私の気持や意見を受け入れてくれることは

私にとってはとても気分のいいことだったけれど、

これでは家に居る時に

母が私に気遣いをして

私が我儘を言っても皆聞いてくれていたときと全く同じだった。

私に対する厳しい態度の見られない医者だった。

だから、私が外出をしたいと言った時も

お正月を病院で過ごしたいと言った時も

良いでしょうの一言しかなかった。

正直言ってこの医者に期待することはやめようと思った。

入院したら吐くことを止め

優等生の患者になる私、

この時の入院でも同じだった。

吐かず一生懸命に食べて太って早く退院しようと思っていた。

でも、退院しても後をどうするか・・

この問題が私に大きくのしかかってきた。

たとえ、退院しても家に居て

今までと同じような生活をしていれば

きっとまた再発して入院するに違いない。

これでは駄目だ。

何か生きる目標を持たないといけない。

そう思って私は退院したら

以前から私のやりたい仕事、

図書館の司書の資格を取ろうと思ったのだ。

試験外泊をしている時に

たまたま私の出身大学でその講習会が開催されるのを知った。

これに賭けてみようと思った。

そして、その講習会に間に合うように退院した。

講習会に参加できるかどうか?

また最後まで受けることが出来るかどうか?

正直言って自信はなかった。

あの19歳の夏、

運転免許を取りに行き

後少しで取れるというところまで行ったのに、

結局体がしんどくて途中で止めてしまったことがある。

あの時と同じことになりはしないか?と

私も家族も心配していたのだ。

でも、講習は始まった。

私の受験番号は99番。

そして100番の人はキャンセル、

その隣の101番は物静かでとても魅力的な大学生だった。

それが私の27歳の暑い夏、

夫との出会いだった。


2006年01月17日(火) 出会い��

拒食症、過食嘔吐、

この病気は経験したものしかわからない。

自分自身の心の闇を反映したもの、

誰のせいでもないもの、

自分自身の心が弱いために発病したもの、

他人に何を言われても、

自分がそうだと気付き、

治そうと思う気持ちがない限り、

一生治らない病気だと思う。

私の九州大学附属病院への入院は6回に及んだ。

入院して様々な医者と向き合った。

初めて入院した頃は

まだこの病気そのものの認識があまりされていなくて

医者さえわからないことだらけだったみたいだ。

私はモルモットにされた。

あらゆる検査という検査をし、

それでも体そのものには異常なしという結果が出て、

主治医は焦ったみたいだった。

私の主治医はまるで絵から抜き出てきたような

それはそれはステキな男性だった。

私よりも3歳年上の病院一のハンサムな男性で、

ファンも多かった。

私の痩せた体を医者の前にさらけ出すのは

正直言って辛かった。

でも、医者は医者、

私は患者、そう割り切って医者と対峙した。

三ヶ月で13キロ以上太った私に

主治医は褒美としてドライブと食事に連れて行ってくれた。

初めて食べたグラタンの味、

そしていすず117クーペでのドライブは

本当に今も思い出に残っている。

医者は言った。

「あなたのような患者は初めてだ、

でも、とてもいい勉強をさせれもらった。

あなたの心の中にある

あらゆる問題を僕に話して欲しい、

そして出来る限りの力になりたい」と。

私の周りの冷たい視線しか感じて居なかった

その頃の私にとってまるで医者は天から降りてきた

神様のように思えた。

私はこの医者のためにも治ろうと決心した。

一生懸命だった。

初めて出会った医者が

あの医者であったことに心から感謝している。

もし、あの医者でなかったら

今の私は居ないだろう。

もっともっと深く傷つき、

全てをなくしていただろう。

人と人との出会いはその人の人生に大きな意味を持つ。

私が今まで出会った人たちとの関係は

全てが良い物だとは思えない。

でも、悪いものだったとしても

それはそれで意味のあるものだと思いたい。

そうでなければ、

今まで私が歩いてきた人生そのものが

皆否定されてしまう。

生きているということ、

生かされているということ、

ただ、この世に存在しているということ、

これらがまさしく人生の意味だと思う。

私の発病のきっかけになったRとのことも

そして彼の人生を躓かせてしまったHのことも、

皆私の人生の中で意味のあるものなのだ。

そして、それが今の私へ繋がっているのだと

人生の折り返し地点を過ぎ、

今ようやく分かってきたような気がする。

再発を繰り返し、

自殺未遂を繰り返した私の人生の中で

少しだけ光を見つけることが出来たことは

最後の入院の前に

夫と出会えたことだと思う。

偶然とは言え、夫との出会いは不思議なものだった。

夫との出会い、

それこそ私の人生の中で一番意味の大きい出会いだったように思える。


2006年01月16日(月) 涙��

Hのお母さんのことを悪くは思いたくない。

私のことを知らない人なのだから

可愛い息子を私に取られたと思っても仕方はない。

Hは母親と二人暮しだった。

だからお互いに支えながら生きてきたはずだ。

それが突然、息子が居なくなったのだ。

大事な息子、

一番頼りにしていた息子、

それが「何所の馬の骨とも分からない女に・・・」

怒るのも当然だと思う。

電話でも手紙でも、

Hは世間知らずで何も考える余裕がなかったから

直ぐにでも返してほしいと言っていた。

私には異論はなかった。

ただ、私という人間を誤解されていることだけが辛かった。

でも、私は弁解はしなかった。

その代わりにHを説得して返すと約束した。

両親も私もHに帰るように話した。

ちゃんと大学を卒業して就職をし、

その時にまだ私のことを思っていてくれるのなら

また考えるからと言って帰ってもらった。

Hは私との別れが一時的なものだと信じていた。

だから、迎えに来ると約束して笑って帰って行った。

この時、Hの涙は見なかった。

Hが居なくなってほっとした部分と

やはり淋しい気がする部分があった。

私の病気の再発の原因がHの存在にあるのではないということは

私自身にはよく分かっていた。

だから、Hが帰った後も治ることはなく

余計に自由になった気楽さで

思うままに食べ、思うままに吐くという毎日が続いた。

体重も30キロを割りそうになった。

自宅に居ると治らないのは分かっていた。

これでは駄目だという思いはいっぱいあったけれど

私の力ではどうしようもないことを知っていた。

家族の私を見る目も母以外は

まるで汚いものを見るかのような

軽蔑の目に変わって行った。

もうここには居られない。

私は逃げるようにしてまた九州大学附属病院へ入院した。


2006年01月15日(日) 涙��

思い出すって本当はとても辛いことなんだ。

昨日のつぶやきを書いてからの私は

まるであの頃のことが目の前に現れてきたような

そんな気持ちになって苦しかった。

フラッシュバック、まさにこれだと思った。

あの一番辛かった時期のことを

勝手だけれど私は忘れたいと思っていた。

あの頃には二度と戻りたくないと思っていた。

食べるという行為が今でも普通には出来ていない私、

いつも頭の中でカロリーのことを計算して食べている私、

お腹いっぱいになるとイライラしてしまう私、

太るということを嫌悪している私、

そんな私があの辛かった時期のことを思い出してしまったのだから

昨日のお昼に吐いてしまったことは

仕方ないのかもしれない。

昨日の昼、うどんを食べて何か急に吐きたくなった。

胃が悪かったのではない。

何か急にあせってきたのだ。

イライラしてきて気分が悪くなってきて・・・

食べたものを吐き出して、すっきりした気分になれた。

あの頃も同じだった。

Hの涙を見た時も私の心が動かなかった。

何が悲しいの?と思った。

私には心がなかった。

この点では今と違う。

今の私にはすまないと思う気持ち、

これではいけないと思う気持ち、

自制しようとする気持ちがある。

色々な意味で自分を反省している。

Hの涙は私にとっては今も重く心に残っている。

生まれ故郷に戻り、

また親に言って二人の新居を構えてもらい、

生活費も出してもらって新婚気分で始めた暮らしだった。

でも、Hの中途半端な存在価値は

やがて私たちの破局への道を開くきっかけになっていった。

そして、また私の病気が再発して

二人で暮らしていたアパートを引き払い、

私の実家に二人で転がりこんでしまった。

父も母も何も言わなかったけれど

きっと心の中では色んなことを思っていたに違いない。

27歳の私と22歳のHとの暮らしは

ままごとのようだったし

何も将来の見えない暮らしだった。

そして、とうとうHの母から

私への電話と手紙での攻撃が始まった。


2006年01月14日(土) 涙��

吐くたびに私は崩れて行った。

まるで機械のようにただひたすら食べものを口に運ぶ。

美味しいという感じは全くしない。

早く食べて吐かなきゃいけないという気持ちだけが

私の頭の中にあった。

誰の顔も浮かばない。

あれほど愛したRの顔さえも、

食べて吐くという行為の間には

一度も浮かび上がって来なかった。

あの頃の私は、心の虚しさ、悲しみ、

苛立ち、焦燥・・

と言った、あらゆる感情のはけ口として

食べては吐くと言った行為をとっていたのだと思う。

食べたものを吐けば、

その食べものだけではなく

体の中にあるミネラルやその他の必要な成分も皆出てしまう。

吐くことによって要らぬ唾液も出る。

吐いているときの私はまるで化け物だった。

顔中、涙とよだれだらけ、

そして左手の人差し指一本を喉の置く深く入れ、

ゲーゲーと吐く姿は異様だった。

はじめの頃はこの人差し指一本で吐けていたが、

段々とエスカレートしていって

最後は左手の手首より先を皆

口の中に押し込んで吐いていた。

唾液の出すぎで耳下腺をやられた。

顔がむくむ。

耳下腺も腫れる。

醜い顔になる。

こんな姿で生きていたくなかった。

誰にもこんな私の姿を見せたくなかった。

死にたいと思った。

こんな状況の中から逃げたいと思った。

いくら入院して治療をしても治らない。

バカは死ななきゃ治らないという言葉の通り、

私のこの食べて吐くと言った行為は

留まることをしなかった。

それでも、Hは私を見捨てはしなかった。

何か原因があるのだと考えていたようだ。

「あなたには分からない」と私は心の中で叫んでいた。

「早く、私の前から消えてよ」と叫んでいた。

私が死ねないのなら、

そして、Hが私の元から去らないのなら、

私は帰るしかないと思った。

そしてHとの同棲生活を二ヶ月送った末、

私は生まれ故郷へ帰る決心をした。

本当に自分勝手な私だった。

親が出してくれた入院費用や

引越しの費用、

そして生活費のことなど

まるで私の頭の中にはなかった。

お金だけではなく

親にかけてしまった心配についても

申し訳ないという気が全くしなかった。

そして、Hに対する謝罪もせずに

私は帰った。

だが、これで、Hとは別れると思っていたのに

Hは九州の地を離れて、

私の生まれた土地へ移っていくと言った。

ああ〜なんてバカなHだ。

あの時に私のことなど放って

誰かと一緒になっていたら

あの数年間を無駄にはしなかっただろう。

私はHに愛される価値などない女だったのに。

あの時に見せたHの涙は私への愛を示す涙だったのだと思う。


2006年01月13日(金) 涙��

人の心は変化するものだ。

こういう当たり前のことに納得できない私が居た。

一度好きになったら、

その時の気持ちは一生続くと思っていた。

私だけではなく勿論相手の気持ちも

私を愛してくれた時と同じ重さで愛してくれると信じていた。

それがRの裏切りに合い、

気持ちが変化するということが納得できず、

いつもRの存在にこだわり続けた私。

あれって何だったのだろうと思う。

Rへの思いはこの数年になって、

ようやく思い切ることが出来るようになった。

それは、私にとってもっともっと存在価値のある人が現れたからだ。

新しい恋をすることによって

失恋の痛みも悲しみも忘れることが出来るという

私の心の中の辞書に間違いはなかった。

そいいうことが、

昔Hと付き合っていた頃にも気付いていたら

私はHともっと上手くやれたと思うし、

Hを傷つけることもしなかったのだと思う。

Hは優しすぎた。

私のことを愛しすぎた。

もっとHが自分自身のことを愛していたら

私への愛も半分になっていたに違いない。

私の過食嘔吐は治らず、

何回も入退院を繰り返す中で

同じように何回も自殺未遂を繰り返した。

何回目かの入院の後、

いざ、退院するというときになり

医者から環境を変えれば、

私の病気も治ると言われ、

退院後は家に戻らず、そのまま博多に住むことに決めた。

勿論Hと一緒に。

結婚をするつもりはあったはずだったけれど

籍は入れなかった。

父も母も反対はしなかった。

寧ろ、それで私の病気が治るならば・・・と思ったのだろう、

アパート探しや荷物の引越しなど

全て母がしてくれた。

博多に住んではじめの頃は

二人で生活できるという嬉しさで

何か新しい私に生まれ変われるような気さえした。

でも、それは私の誤算だった。

環境を変えて治るのなら

こんなに簡単なことはない。

自分の心が変わらない限り治るはずはなかった。

Hは大学生だったが、

大学へも行かず、アルバイトをして生活費を稼いだ。

でも、それだけでは生活は出来なかった。

私の親から送ってくれる生活費が

当たり前になっていった頃、

私はこの生活が何か変だと気付いた。

そして、昼間Hの居ないアパートで

一人ぼっちで壁を見つめて暮らしているうちに

また病気が再発してしまったのだ。

虚しい・・

淋しい・・・

誰も居ない部屋の中で

私はただひたすら食べては吐く毎日だった。

そして涙を流した。


2006年01月12日(木) 涙��

あの頃の私は何を思って生きていたのだろう。

誰にも心の闇を見せることをせず、

誰にも干渉されたくなく、

誰と居ても楽しい日々はなかった。

ただ、惰性で生きていたような気がする。

勿論、あの頃の私にとって

Hの存在は必要なものだった。

それは多分、

私が誰かに愛されているという感覚を持ち

その感覚に安心していたいという気持ちがあったからだ。

人に嫌われたくない、

どんな人からも愛されたい、

誰にも自分自身の存在価値を認めてもらいたい、

私がこの世に生きていて良いのだという

確かな証が欲しかったからだと思う。

Hでなくても誰でも良かったのか?と問われれば、

はっきりとHでなくてはいけなかったと断言できない。

確かにあの頃の私はRのことから逃れたいために

Hという存在を利用していただけだったのかもしれない。

Rを失ったことで

二度と人を愛することは不可能な私になっていた。

拒食症から過食嘔吐になり

症状は一進一退の繰り返しだった。

私が生きているという意味、

私の存在している価値、

そんなものを見出せないまま、

ずるずるとHとの関係を続けて行った。

そして自殺未遂を何度も繰り返した。

食べたくない気持ちと

食べて全てを吐き出したい気持ちと、

そういう自分自身への嫌悪感でいっぱいになり、

ただ一瞬でも良いから

そんな自分から逃げたかった。

死ぬということは

何もかもから逃げることの出来る

唯一の手段だったと思っていた。

私の周りの者達の気持ちなど考える余裕はなかった。

私が何度も繰り返す自殺未遂の度に、

Hは遠い九州から私の元へ駆けつけてくれた。

Hの優しいまなざしと優しい言葉に

どんなに心が慰められたことだろう。

私への愛は永遠だと言ったH、

その甘い言葉はHの本心だったはずだ。

私が嘗てRに対して思っていた気持ちと

Hが私に対する気持ちが

全く同じだったにも関わらず、

私の心の底では

まだRへの気持ちをHへ摩り替えていた。

傲慢で我儘で、

最低の女だった。

それでもHは変わらず、私を愛してくれた。

Hの初めての涙を見たのは

私が胃の洗浄を終え、

病院のベッドに横たわり点滴を受けていた時、

急いで駆けつけてくれた時だったのを

今でもはっきりと覚えている。


2006年01月11日(水) 涙��

Hとのことは今では私の人生の中で

唯一後悔していることだ。

それはHの心を傷つけてしまったという点で

私のそれまでの被害者意識と同じような思いを

Hにさせてしまったからだ。

Hは大学4年でまだ卒業の見込みもない

いわば中途半端な状態で私と出会ってしまった。

あの船の中での出会いが

Hと私の人生を一時的にせよ

幸せなものにしたことは否めない。

しかし、今思うと

その幸せは波にさらわれて直ぐに崩れてしまう

砂の城のような脆さだった。

私は拒食症を再発しながらも

また入院すれば治るという

これもまたまるで綱渡りのような日々を過ごしていた。

出身の大学の図書館の司書のアルバイトをしながら

お金を貯めてはHの住む九州へ行くことが

その頃の私にとっては最高の楽しみになっていた。

Rとのことは諦めてはいなかったけれど

私を捨て一足先に社会に出て結婚してしまったRのことを

これ以上追い求めても仕方ない、

失恋の傷を癒すのは新しい恋をすることだという

私の辞書の中の言葉の通り、

新しいHとの恋に夢中になることで

Rとのことを忘れようとしていたのかもしれない。

HはRとは正反対に私のことを女王様のように扱ってくれた。

私の思う通りにことは進んだ。

私が思いっきり我儘を言っても

決して怒らなかったし逃げることもしなかった。

でも、本当の私は

こんなHの態度は物足らなかった。

もっと男らしさを持って欲しかった。

九州男児のイメージとは程遠いHの態度に

少しずついらだち始めた私が居た。

Hの涙を見るのはもっともっと先のことだけれど

私にはHとの付き合いには限界があると分かっていたし、

また真剣にHと結婚したいとは思ってなかった。

その頃の私はいくら若かったとは言え、

何と鼻持ちならない女だったのだろう。

一番嫌な女に成り下がってしまっていた私は

自分の中でまたRに対する気持ちが

少しずつ炎を燃やし始めていたことに

気付いてもいなかった。

私の心はHと居てもいつも空虚だった。


2006年01月10日(火) 涙��

Hと出会ったのは、

私が拒食症で25キロにまで痩せ、

生命の限界に近づいたことに気付き

九州大学附属病院へ一回目の入院をして

三ヶ月の治療の後、

12キロという驚異的な回復をして退院した夏のことだった。

入院している時は

吐くこともせず、

私が好きになった主治医が

私の回復ぶりの良さで教授に褒められるのが嬉しくて

一生懸命に食べ太ることが出来た。

でも、これは自分自身の根本的な解決ではなく

他人のために食べたのだから

これで治ることはないと思っていた。

退院してまた再発した私は

その私の大好きな主治医に会いたいために

暑い夏にも関わらず

九大へ向けて旅立ったのだ。

朝から飲まず食わずで、

船室に横たわっていた私を

二人の若者が見つめていた。

痩せ過ぎている私の姿は

他人には奇異に映るのだろう。

今までも何回も好奇心の目で見つめられたことがあった。

だから、私もいつもと同じで気にしてはいなかった。

九州の港にもう直ぐ着くと言う頃に

その二人が私に声をかけてきた。

彼らは大学生で夏休みにバイトをして

高知の皿鉢料理を食べに来た帰りだと言った。

そしてあまりに贅沢をしすぎたために

もう帰りに運賃しかなくて

昼も夜も朝も抜きで帰宅するのだと言った。

私が昼も食べずに横たわっていたのが

自分たちと同じだったから気になって声をかけたと言う。

私はお金は持っていた。

だから、彼らに朝御飯をご馳走してあげようと思った。

朝早く港に着いた私たちは

近くの喫茶店で朝食を食べ話をした。

Hはその二人の中の一人だった。

もう一人に比べると無口で

物静かで、何か雰囲気のある人だった。

今思うとあの出会いがなければ

Hは苦い思いをしないで済んだのにと思う。

Hにとって私との出会いは

運命的な出会いだと言っていたが

それは彼が恋愛に未熟で

免疫がなかったからであろうと思う。

もし、Hがもっとすれていたとしたら

私との出会いをそんなに重要に思わなかったに違いない。

こうしてHと私との何年かの付き合いの幕が下ろされた。





2006年01月09日(月) 記憶��

もし、あのRとのことを記憶の中から消し去ってしまうことが出来たら

今の私はもっと前向きに生きているのかもしれない。

私の人生で一番大きな出来事の原因になった

Rとのことを全て消し去ってしまいたい気がする。

あの時、

何故もっとRに対して強いことを言えなかったのか?

何故もっと追求しなかったのか?

何故私は自分を卑下していたのか?

今思うとあの時の自分自身の気持ちが不思議でたまらない。

裏切られるという

一番辛い仕打ちをされたのに

私はRを恨むことが出来なかった。

嫌われたくないという思いと

Rへの遠慮と、

Rへの未練と・・・

それらが混じり合った複雑な思いでいっぱいだった。

私のRへの思いは何年経っても消えることはなく

それが私を自滅させる原因にも繋がったのに

私は結婚後もRへの思いは一生永遠に続くものだと確信していた。

笑ってしまう。

今ではそんなことを考えていた自分がおかしくもあり

またとても可愛いと思える。

人の心は変わる。

それをやっと理解できるようになった。

Rとのことは私を自滅へ追い込んだけれど

Rと結べれなくて良かったのだと今は本当にそう思える。

もし結婚していたとしたら

私は直ぐに離婚していたと思う。

Rの自分勝手な人柄と我儘さがきっと鼻についていたに違いない。

裕福に育ち、

何も苦労をせず、

自分の思う通りの人生を歩んできているRにとって

他人の悲しみや辛さを理解できる能力は持ち合わせていないと断言できる。

Rとの付き合いの中で

一つだけ私にプラスだったことは

Rと付き合っている間に

この人と出会うために生まれてきたと思える

Yと出会ったことだ。

付き合いは短かったけれど

Rとは違った付き合いが出来た。

Yとの記憶は消したくない。

初めて出かけたコンサート、

初めてYの家へ行き

Yの詩集を見せてもらったときの感動は

まるで昨日のように思い出すことが出来る。

Rを裏切る行為もあったけれど

私は今も決して後悔をしてはいない。

Yとの付き合いは学生時代の良い思い出として

あれから30年以上の月日が流れている今も

私の心のアルバムに大切に保管されている。

Yのあの後ろ姿は私の理想だった。

私がYにとっては初めての女だったと分かった今も、

まだ信じられない気がするけれど

確かに本当のことだったと判明したのは

三年前の夏

Yと思わぬ所で再会して以来

しばらくメールの交換をして

色々な思い出話をしていった時だった。

今はそのメールの付き合いもないが

決して淋しいとは思わない。

私にとってはYは過去の人になってしまったから。

涙も出ては来ない。

涙は全てを洗い流してくれると言う。

私にとって男の涙が記憶の中に鮮明に残っているのは

私が拒食症を患っている中で

知り合ったHの涙だ。


2006年01月08日(日) 記憶��

夢中だった。

まさに私の心は夢心地だった。

あれほど憧れ続けたRと結婚できるということが

私には信じられなかった。

そしてRが入学したからという理由だけで

入学した大学生活もばら色になって行った。

何もかもが初体験だった。

Rとの初めてのキス、

初めてのSEX・・・

でも、後悔はしていなかった。

私が18歳までずっと大切にしていたものを

Rにあげることが出来たことは

私にとって最高の幸せだった。

ただ、

私が不安だったのは、

Rとのことを誰にも話さなかったことだ。

母にも親友にも誰一人にも話すことをしなかった。

だからRと付き合うことが

何かいつも罪悪感を伴っていた。

それにしても何故私はあんな言葉を信じたのだろう?

今思うと、それはただ単に私が欲しかっただけであって

決して私との結婚なんて考えてはいなかったのだと思う。

Rは19歳、私はまだ18歳だった。

何も分からず、全て親掛かりの私たちが

自分達の将来を考えていたなんて思えない。

私は今が幸せで今Rに愛されていればそれで良いと思っていたし

Rも今自分の性欲の捌け口が見つかった、

私という身近な存在がちょうど都合が良かっただけだったような気がする。

そういうことを思いもしなかった私って

本当に純情だったのだと思う。

今ならその裏にある気持ちを思うことが可能だ。

でも、SEXが何であるか?

またその結果どういうことになるか?

などと考えもしなかった私は

自分の将来にとって有益であるかどうかなどといった

打算的なことは考えることもなかったし

ただRに愛されているという実感だけを大事にしたかったのだと思う。

一言で言えば「未熟」そのものだったに違いない。

記憶の中でRの言葉が出てこないのも

私が本当の意味でRのことを見てなかったからだと思う。

記憶がいかに残酷であり

またいかに頼りないものであるか、

あれから30年以上の年月が経って

初めて分かった気がする。


2006年01月07日(土) 記憶��

記憶とはいかに残酷なものか

私はこの年になっても味わっている。

記憶さえなければ

記憶さえ消えてしまえば

あの忌まわしいことや

辛かったことなど

全て忘れてしまえるのに・・

何度そう同じことを思ったことだろう。

Rのことは今では遠い記憶の外に出てしまった。

何年かかっただろう。

私の心の中から完全に消え去ることはないにしても

日々の暮らしの中で思い出すことは少なくなってきている。

でも、私には一生縁の切れない存在。

これは他人とは違う存在だから仕方ないのかもしれないが

いっそ他人だったらまた違った結果が生まれていたのだと思う時がある。

Rとの出会いは私が物心ついた2歳の時。

それから18歳のあの日までずっと私が思い続けていた存在。

でも、Rの姿が見えないのだ。

言葉を思い出せない。

書こうとしてもRの言った言葉が出てこない。

記憶ってこんなものなのだろうか・・

ただ、たった一言だけはっきりと思い出す。

「僕の嫁さんになれ」

そしてこの言葉が私のそれからの人生を

大きく変えてしまった。

あの言葉さえなければ

2歳の時から憧れ続けたまま

今もいい関係で居られたはずだ。

あの言葉は私の記憶の中から

いくら消そうとしても消えない。

何もなかったと思えばいいのに、

記憶はまだ壁となって

私の前に立ちはだかっている。


2006年01月06日(金) 足音��

Kのことについて思い出すことはあまりない。

確かに私の高校三年の時に

私にとって影響があった人ではあるけれど

それはただそれだけの存在だったに過ぎない気がする。

あれから30年の月日が経った。

同窓会に出ることのないK。

彼は警察官になり公安として隠密裏に動いていると聞く。

彼にそんな才能があったことを今でも信じられない。

警察官になったKは、

今ではもう私の存在などすっかり忘れてしまっているに違いない。

あのドライブの危うい瞬間も

コタツの中での危うい時間も

すべて記憶の外であるに違いない。

私も同じだ。

ただ、真っ暗闇でコツコツという足音を聞くと

何故か私の過去からKが私に迫ってきているような

そんな気持ちになっただけだ。

過去を消すことは出来ないが

現在の生き方によって

過去を変えることは可能だ。

今のKにとってあの過去の一年間は消し去られているだろう。

そして私自身の心の中でも

嫌な思いや鬱陶しい感じが消え、

妙に懐かしさを感じるようになってきている。

あの足音さえ聞こえなければ

Kのことなど思い出すことはなかったはずだ。

記憶とは時に残酷ではあるけれど

ある意味では有り難いものではないかと思う。

私の今までの50年間の人生の中で

一番存在していたRとのことも

記憶の風化により

今はもう完全に私の中では過去のことになっている。

でも、反対に

私の人生を狂わせた張本人であることも間違いはない。

そんなRのことが

真っ暗闇の中であのコツコツという足音を聞くたびに

私の記憶の中で鮮明になって

時に狂おしいほどの切なさと

思い出したくないほどの嫌悪感を伴って襲ってくるのだ。


2006年01月05日(木) 足音��

Kは今でいうストーカーに似た人だった。

私が勉強している机の前の窓ガラスの向こうに

Kが佇んでいる姿が毎日あった。

何も言わずただ黙ってこちらを眺めている姿は

いくら私に好意を寄せてくれているとは言え

嬉しいものではなかった。

それでも、私の中に幾分かの良心が存在していた。

何日もそういう状態が続いた後、

Kからのデートの申し込みに応じた。

18歳で免許を取得したばかりのKの車でドライブに行った。

車で2時間はかかる渓谷へ向けて走ったのだ。

その頃、父の単身赴任のために母は留守だった。

家に居る姉には親友と遊びに行くと言う嘘をつき

お弁当を作って出かけて行った。

慣れない運転に恐怖感はなかった。

お天気も良かったしKへ感じていた嫌悪もなかった。

気分転換が出来て勉強もはかどるかな?と思って出かけただけの私、

途中のカーブ地点でハンドルを切り間違えて

今にも数メートル下の川に転落しそうになった時は

「ああ〜もう駄目かな・・

 来るのじゃなかった・・」と思ったが

それでも無事に帰宅できた。

それ以降Kの私への気持ちは強まったみたいだった。

私も嫌いだという気持ちとは別の

何か親密感を覚え始め、

Kの家へ遊びに行ったりした。

あの頃の私は恋愛の本当の意味も知らず、

怖いもの知らずだったから

男女が同じ部屋で二人きりになるという危険さえ感じることもなかった。

こたつに足を入れて語り合った時さえ

私は何もKの気持を察してあげることは出来なかった。

青春真っ只中の男性の生理なんて思ってもみなかった。

あの時に私が初体験をしていてもおかしくはない。

今思うとKは自分の欲望を一生懸命に抑えていたのだろうと思う。


2006年01月04日(水) 「ペルソナ」 足音 ��

コツコツ・・・

それは私の後ろから聞こえてくる誰かの足音。

暗闇の中振り返ることも出来ず、

ただひたすらその足音が消えてくれるのを待っている。

私が止まると、足音がぴたりと止まる。

この時に思い切って振り返れば良いのだがそれが出来ない。

怖い。

もし振り返ったらそれで最期になるような気がするのだ。

私は部屋の中、

南に向いた窓に座っていた。

高校生だった私は目の前に迫った

受験に向けての不安はなかったが、

毎日の高校生活がたまらなく嫌だった。

片道1時間かけて通うほどの値打ちがあるとも思えなかった。

友人たちとの付き合いもおざなりになった。

中には部活で高校生活をエンジョイしている人も居たけれど

私は父の仕事の都合で高校から離れていたし

通学時間も他の人たちの倍はかかるので

部活もせず帰宅していた。

その朝、いつもの窓の外から聞こえたのはKの車のエンジンの音。

いつもの7時20分に聞こえる音。

1時間離れた学校の近くに住むKが

私を迎えに来た車の音だった。

私はKのことが好きではなかった。

でも、NOと言えない私の悪い癖で

いかにも付き合いをOKしてしまったかのように受け取られていた。

Kは自分の家から学校まで歩いて5分の距離に居ながら

こうして毎朝往復2時間の距離を

私を学校へ送っていくために迎えに来ていたのだ。

正直迷惑だった。

近所の手前もあるし

母の手前もある。

でも、バスで通学することを思うと楽だったので

Kの好意に甘えることにした。

何と嫌な女だろう。

今の私がその頃の私の友人なら

きっと頬の一つもひっぱたいていただろう。

一番嫌いな女のタイプなのに

その時の私は気づかなかったのだろうか。

その片道1時間、車なら40分の

Kにとっては精一杯の好意の時間

私が何を話したのか全く覚えていない。

何と意地悪な私だったのだろう。

Kの迎えは一ヶ月続いた。

でも、その後Kへの気持ちが変わらないことを悟ったのか

二度と迎えに来ることはなかった。

これで良いのだと思う反面、

何かKに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

同じ大学へ進学してからも

Kの視線を感じる日々は続いた。

でも、その頃の私はRへの想いでいっぱいだったから

Kの存在は疎ましい存在でしかなかった。


2006年01月03日(火) 同じことを

今年もまた同じことをしてしまった。

あれほど繰り返さないと心に誓っていたのに・・・

私の決心は何所へ行ってしまったのだろう。

こんな風に今年も私の優柔不断さが現れるのだろうな。

仕方ないか・・

やってしまったことは考えても仕方ない。

もう二度と同じことをしないようにしよう。

三日坊主にならないためにも。

昨日はいつもの散歩コースを倍歩いた。

一時間歩いたことになる。

寒かった。

冷たい風をまともに受けながら歩いた。

手が寒さで凍りつきそうだった。

身も心も冷たい風にさらされているようだった。

試練なんだと思った。

同じことを繰り返さないために

私は自分自身を引き締めるために

あの冷たい風に向って歩いたのだ。

もう揺らぐことはない。

今日からはいつものようにしよう。

お正月休みも今日で終わる。

ほっとしている私が居る。

明日からは夫も仕事に出る。

娘も部活で登校する。

明日からはまたいつも日常が戻ってくる。

お正月が嫌いな私にとって待ちに待っていたことだ。

普通が良い。

何事も普通が良い。

ハレの日は苦手だ。

何か特別なことがあると疲れる。

違った意味で

同じことをしているのが一番いいのかもしれない。


2006年01月02日(月) 3日坊主にならないように

昨日は午後夫と娘と三人で近くの稲荷神社へ

初詣に行ってきた。

お天気も良くて遠い所からも大勢お参りに来ていた。

拍手を打ちお願いしたことは二つ。

これはここで書かない方がご利益があるかな・・・

父の健康と○○のこと。

おみくじを引いたら中吉だった。

焦らず待つといずれいいことがあるそうな・・

私はこういうおみくじや占いはあまり信じない。

なのに毎年元旦の初詣の時におみくじを引いてしまう。

昨日から新しくなって五年日記に貼り付けておいた。

そしてお守りを買った。

薄ピンク色の紅水晶のストラップ。

恋愛成就祈願のストラップ(笑)

他意はない。

ただ、私の携帯の色に合うかなと思って買った。

今更恋愛成就なんて・・やはりおかしいもの。

帰りも車だったけれど

その途中の道は

私が二年前まで毎日歩いていたコースだった。

「よし、今年からまたウォーキングを始めるぞ!」と心に誓った。

今までは毎朝、どんな天気の時も歩いていた。

田んぼや池があって自然たっぷりのコースだ。

朝のひんやりした空気の中で

身も心もリフレッシュしていた。

歩いていく途中で色々なことを考えた。

十七文字の歌を詠んだのもこの時が多い。

あの頃の私はとても幸せだったし充実していた。

私の心の中にはいつも存在している人が居たし、

その人との付き合いもとても上手く行っていた。

段々と私の心が暗くなるに連れて

歩くことも億劫になってしまって

この二年は全く歩いていない。

これじゃ駄目だ。

さあ今年こそ頑張ろう。

あの人のことを思うのではなく

私自身のために歩こう。

今日で二日目。

これを書き終えたら歩いてこようと思う。

三日坊主にならないようにしたい。


2006年01月01日(日) 今年こそ

皆さん「明けましておめでとうございます」

今年もよろしくお願いします。

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昨夜はなんと7時半にベッドの中だった。

NHKの教育TVでアシュケナージの第九をしていた。

ベートーベンの生涯についての解説と

この第九交響曲の聴き方についての説明を聞き、

改めてベートーベンの偉大さに感激しながら

一人心静かに第九を聞いた。

こうして一人で大晦日を過ごすことって

初めてだった。

数年前までは毎年父や母、夫と娘とで

お正月の家族旅行に行っていた。

九州の城島高原にある城島後楽園ホテルで過ごした

何回かのお正月は今もとても心に残っている。

皆で寒い中か夜中に起きて

カウントダウンと花火で楽しんだ夜のこと、

朝一番に高い山までバスで連れて行ってもらってみた初日の出。

今は父が弱り、

母も腰が痛くなり、

あのように皆でお正月を過ごすことは出来なくなってしまった。

今思うとまるで嘘のようだ。

それでも、私の人生の中で一番楽しかった頃の思い出として

ずっと心に生きていることだろう。

この思い出を大切にしたいと思う。

お正月って不思議だ。

一日寝て起きただけで新しい年の初めになる。

365分の一に過ぎない日なのに。

何故か新しい自分になりたいと願う。

毎年、今年一年はこうしたい・・・ああしよう・・と思っても

いつも実行されずただ意味のない日々を送ってしまっていた私。

今年は自分の心に素直に生きようと思う。

NOと言えるようになりたい。

心に無理をしてやりたくないことをやるのややめよう。

自分が嫌だと思うことは拒否できる勇気を持ちたい。

夫のため、娘のためと思って一生懸命にやってきたことも

今思うと何にもなってないし

無駄なことだったように思う。

だから夫や娘には自分たちで出来ることをしてもらおう。

私にも私だけの時間を作ろう。

遠慮はしないでやりたいことをやろう。

父のことが落ち着いていたら

何処か行きたいところへ行ってみよう。

ヴァイオリンもピアノもやろう。

読みたい本を読もう。

書きたいことを書こう。

とにかく無理に人にあわすことをやめよう。

もっともっと自分を大切にしよう。

後どのくらい残っているか分からない私の人生の

時間を大切にしよう。

今やりたいことを躊躇わずやろう。

周りの者たちを不幸にしない限り、

思いついたことを実行したい。

家族よりももっと大切なものがあるはずだ。

私の心が楽になるような生き方をしたい。

家族の者たちの犠牲にはなりたくない。

もっと羽ばたきたい。

自由に!

大きく!


スカーレット