独白2
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2001年09月30日(日) 昔日記

なんだか久しぶりな気がするのですが実際はそんなに久しぶりじゃないんですよねー。てゆーか今まで二つも日記書いててお前気持ち悪いよって話なんですが。

さて、テストも終わってやっとこここの日記かけますよ。書きたいことは結構あったんですけど、言葉にはしにくいことばかり。
私はよく湯船に浸かって考え事をします。
どうでもいいようなくだらないことばかりですが。
つーことで今日のお題は『考えること』です。

「コギト・エルゴ・スム」
よく使われる言葉です。私の好きな漫画家の榎本●リコさんも、一目惚れしてしまった都筑●雨さんもこのことについて書いてます。
私も人並みに「考える」ということを意識して。

いつも無意識にしていること。考えること。
大したことじゃなくても「考えること」によって私という人格が出来て、他にまったく同じ「考え」がないことにより「私」という存在が確立されるんだと思います。デカルトの言葉を私流に訳すと。
反コギトは私の中にはない。存在するから「考える」のではなく、「考える」から私という存在が認められるって訳。

でも「考える」ということは自分一人では出来ないんですよね。
自分がいて、他人がいて、そうして初めて「自分」「他人」を考えるわけです。
そうして「考える」ことにより、「私」の存在をより明確なものにしていくわけです。

今日(日付では昨日)私は仲の良いS籐さんと、heisiと一緒に買い物ついでにモスにてお茶をしていました。
その時S籐さん、heisiと
「●●さんが凄い勢いで上手くなるのはやっぱり賞賛が欲しいからだよね。」
という会話をしていました。
でも、その時私は(すでにこの話題をここに書くつもりだったのですが)ふと、自分もそうなのかな?と「考えて」みました。
確かに上手くなったらいろんな人に見てもらえるけど、見てもらってどうなの?
見てもらうことに何か意味があるのか。
確かに誉められたりするのは嬉しい。
それはなんでか。

それは「私」という存在が「考えた」結果、「マンガを書く、絵を描く」ということを選んで、それによって自分の「考え」を他人に認めてもらう、つまりは「自分の存在」を認めてもらいたいからなんだと思います。より多くの人に「自分の存在」を認めてもらいたいわけだ。
ということはカカサス書こうが太山空書こうがようは自分を切り売りしてるんだよね。
そして私がそうだってことは他人もそうであって、他人の「考え」に触れて感動したり、それについて「考え」たりすることによって「私」という存在が確立されるわけです。

要は他人があっての自分ってことなんだけど。
人によって表現方法は違うだろうけどね。

今日も私はいろんな人の日記や(好きな人のは毎日チェックしてるという変態ぶり。)考察、マンガなどを読んで、更にここで自分の「考え」を言葉にすることで「私」という存在を確認するわけです。

ありきたりな言葉になってしまったのは私の「考え」が薄っぺらく、まだまだ「考える」量が足りないからなんだと思います。

でも、日々私に「考える」機会をくれる住葉都さま、いつも身近にいて我が儘きいてくれるheisi、「考えた」ことを聞いてくれるS籐さん、他にもいっぱい「私」という存在を構成してくれる他人に、心からのお礼を言いたい。
滅多に言える機会ではないので。

他人がいるから「考える」。「考える」から存在する「私」。

理屈こきっぽいけどこれが私なんだよ。
なんて。そんな語れるほど自分のことでも解ってないけど。

ここの日記に書いてあることはあくまで私個人の意見ですから。
まだまだ未熟ものなんで理屈が通って無かったり偏屈っぽかったりしても笑ってくれたらいいなあ。
とゆーことで今日の日記も長いね。誰が読むんだろう。私か!?自己再確認。


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