独白2
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2001年12月19日(水) 昔日記

なんかもう今日はホントにずっと昼間ねてましたね。
昼間というかなんというか。うーん。
学校帰ってきてから本を少し読んでそれから寝ました。
寝過ぎ!!もうかれこれ7時間も寝ましたよ。今日は。
おかげで頭が痛くなって薬薬…。バファ○ンは高いです。しかし半分は優しさ。
嘘らしいですが。

今日もtop絵を描かずに自由気ままに私はし放題。
しかし金が無いために買い物は出来ず。
つーか今日は面倒くさくて行く気になりませんでした。
明日行こうかなあ。
ああ。私は本当に戦線離脱者なので自由でいいです。
と言いつつも自由ってなんのことでしょう?
というかそもそも自由とはなんに対して自由なんですかねー??

ということで本日のお題は『自由を感じる』ですかね。

私たちは普段自由にすごしているかと思えば全くそんなことはないです。
例えば私が他の受験生と比べて全く勉強しないで遊んでいる。
しかし勉強せずに遊ぶことはまったく自由ではないわけです。
なぜなら人間と言うかあらゆる生き物には完全な自由なんてものは無いと私は思うから。
全てのものに時間というものが流れていて、死と言うものがつきまとってくる。
本当の自由とは何事にも捕らわれないものとすればそれが訪れるのは死後のこととなると思います。
しかしそれも必ずそうかといえばそんなことはわからない。
やったことですら私はわからないというのにやったことすら無いものをわかれというのは酷な話だ。そして死んだ人間は話しもしないのだから聞くことも出来ない。

でも私は他人から見れば自由だろうし自分でも束縛されているとも思えない。
まあ簡単にいうと制限付きの自由だ。そして多分私は私のクラスの人たちよりもほんの少し制限が少ないにすぎない。
それでも完全な自由といかなくても自由は自由なのかもしれない。
ただ私にはよくわからない。
望んで自由になるほど束縛されていることを意識したことはない。
いろんな所で私たちは束縛されているにもかかわらず、だ。

自由を感じる時というのは束縛されたものから解放された時だ。
そして自由を求めるときは何かに束縛されているときだ。
私は普段学校に行き、ご飯を食べ、人と話し、考える。
逆をいえば、私は学校に行かなくてはならない環境にいて、人間として生きるためにご飯を食べなくてはならなくて、世の中には他人がいて、一人では生きられないから他人とコミュニケーションをとり、生きているから考える。
これは本当は『生きていること』に束縛されていると私は思う。
ただみんなそれを当たり前だと思っていて、当たり前に受け入れていて、束縛されているとは思っていない。
少なくとも私がそれを意識する事は起きている時間の中でごく僅かだ。
つまり私たちは(少なくとも私は)全くの自由の中では生きられないんだと思う。

自由を得るためには束縛するものを壊すしかない。
だから自由を得るためにはまず束縛するものを「作らなくては」ならない。
作ると言うよりももとよりあったものに気付かなくてはならないのかもしれない。
生きている限り私は束縛されている。
生きていて、私は自由だと思っていて、気付かなければ良かったんですね。
私は私の中の全ての感情にまず束縛されている。
一人では生きていけないから社会に入ろうとして、そこでの約束事に束縛されている。
しかもたちの悪いことにそこでの約束事を破っても自由を得たわけではない。

もしかしたら私は自由と言うものを得ることは絶対に得ることは出来ないのかもしれない。
気付いていないだけで、私は全ての事柄に束縛されているのかもしれない。
本当に。私はただ気付いていないだけなのでしょう。意識していないだけなのでしょう。
ただ私がそれを意識することがないから、自由は得ることはできなくても感じることはできるのです。
あるといえばある。
得られなくとも感じられる。

さて、それでも人が思う自由とは「自由」といえるのでしょうか。

今日もまた自分で支離滅裂なことを言っています。
頭が痛いです。
私はきっと黄身に到達することは出来ないんだろうなあ。
頭が悪いと言うことは大変だ。
生きていくのも大変だ。
人間は考えることが出来るから自由を感じることが出来にくいのかもしれない。


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