あたろーの日記
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2003年04月24日(木) 乱読主義

 またホンのちょっと本の話。
 
 人さまにお見せできないような小説書いてるけれど、案外小説は読んでない。
 10代の頃は読書イコール小説だったけれど、30代の今は興味のある本なら何でも読む。むしろ、小説に片寄らないように気をつけてもいる。勿論、小説も大好きだけど、これも、いろんな作家のものを読むようにしている。ただ、自分と同年代の若手作家のものはあまり食指が動かない。こんなこと言ったらとても失礼だし、自分のこと棚に上げてるのも申し訳ないのだけれど、店頭でページをぱらぱらめくって、会話ばかりが目立つもの、白い部分が目立つもの、やたらとカタカナやひらがなばかりが目立つものは、どうしても読む気がしない。自分が立っているのと同じような日常や、そういうものをちょっと色付けして面白くしたような小説なら、自分の実際の毎日のほうがその数倍面白いという自負があるので、わざわざ小説になったものを読みはしない。だったら、じっくり腰を据えて書き続けてきた作家の小説のほうが読み応えがあると思っている。
 好きな作家は、藤沢周平、井上靖、司馬遼太郎、池波正太郎、水上勉、中上健次。。この方たちの書かれた作品はすべて読みたいと思いつつ、まだまだその一部分しか読破できていない。大江健三郎、埴谷雄高。。。白状すると、今の私にはまだ歯が立たない。海外の作家の小説も、なるべく読むようにしている。藤沢周平さんのエッセイ集「ふるさとへ廻る六部は」に、パトリシア・コーンウェルも読む、と書かれてあって、ちょっと嬉しくなった。
 でも、部屋にある本は小説以外の分野のもののほうが圧倒的に多いかと思う。どういうものがあるか書くと頭の中身がばれちゃうので書けないけれど、自分のアンテナに引っかかるまま、興味のある分野のものはどんどん読みたい。
 先日呑んでいて、やはり乱読は重要だ、というような話になった。
 巷に小説の書き方を教える本は数多あるけれど、小説書くために小説読んで「勉強」した作家の作品は、読んでみればすぐ分かる。小説はノウハウじゃないんじゃないの?と思ってしまう。
 書く人の背後にあるもののすべてが混沌とした状態、そこから書きたいものが生まれてくるんじゃないかって気がする。その人が読んできたもの、実生活で感じてきたもの、見てきたもの、経験してきたもの・・・そういったものが全部背中に乗っかって、荷物の重みで後ろにふんぞり返りながら、ときに悲鳴を上げながら歩いていくような人生、その背中から生まれるような小説が好きだ。・・・と言いつつ、自分はまだまだ「頭」で書いてる未熟者ですが。
 そんな意味もあって、乱読派です。
 別に、小説書く書かないに関わらず、乱読派です。
 一見なんのつながりもないような分野の事柄同士が、ふとした拍子に関連性を持って頭の中に浮かんできて、それらが助け合って自分を救ってくれることがある。人間の脳は当人が考えているよりはるかにうまく出来ていて、読んだものを片っ端から忘れていくような私でも、どうやら頭の中には少しずつでも何かが確実に蓄積されつつあるような気がするのでまあ、あちこち読むのもよろしいかなと思ってます。
 
 
 
 


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