浪漫のカケラもありゃしねえっ! 
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| 2003年04月04日(金) | 
ナンチャッテタトウ/春の花に思う | 
  
いよいよブラジルGPですが、また雨ってほんとでしょうか?(大笑い) 欧州ラウンドまで波乱ばかりじゃ各チームの実力が見えんがな。どーしてくれましょう。 ミハエルはチャリティサッカーしておいでです。年に何回サッカーチャリティしてるんでしょうねえ。ドイツYahoo!のF1ニュース写真のコーナーには、試合中のフォトがほかにも何枚か載っておりました。さすが、新聞に毎日のようにF1が載る国だわなあ。 こっちはヘリで移動するとこ。.....また腕にナンチャッテタトウついてまーす。(笑) 腕をあらわにするような暑い場所では、オフの写真でもよくつけていらっしゃる。 始まりはヘンナで描いたホルスの眼やおまじないの魚だったかな。最初は本物かと思ってビックリし、(タイトルとれなかった頃だから)ゲンかつぎもここまできたかとあきれたりしたもんですが。奥さんのプレゼント?の漢字のつけてたり、家族巻き込んで、すっかりクセになってる気配。 よくつけてはるからこっちも見慣れてきて、きれいな肌の太い腕にこれがついてるのを見かけるとなんとも微笑ましい。30代半ばの世界で有数の高給取りアスリートが、ナンチャッテタトウの図柄選んで楽しくつけてる図や肩むき出しに見せびらかして歩いて「日焼け残ったー♪」なんて言ってる図を想像してみましょう。はーい、これ、かなーり微笑ましくありません? まー、とんでもないセンスの私服よりゃ、肩むき出しのウェアや袖カットしたTシャツの方が可愛いですし。この辺は本人わかってるのかどうか疑問ですが。(笑) サッカーに遊び、カートいじりが好きで年下のお子達とカートするにも減量してやる気満々で挑み、F1マシンに乗って勝つのが楽しくてしょうがない男。。。。 なんかねえ、やっぱり少年のようなとこがたまらないんですよね。
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  このごろ通勤時間が長くなり、今日も始発に乗るためあわただしく家を飛び出しました。ギリギリまで寝くさってあわてすぎ、飲みかけの牛乳パックをテーブルに置いたままで冷蔵庫にしまわなかったのに気がついた時はすでに列車の中。1リットル入が半分残っててもったいなく、加工乳やし気温低かったから大丈夫やろー、と夕食にいただきました。腸の弱さには自信があるので、今頃になって明日の腸さんが心配になったりして。(←大バカ)
  風も雨もまだ冷たいですが、通勤途中のあぜ道や日陰にも雑草が芽吹き、ひとさまのおうちの畑やお庭に、桃、木蓮、水仙やら(他のは種類がよくわからんですが)色とりどりの花が満開なのは春の楽しみ。 はっと息をのむような鮮やかな香りに思わず振り返ると、数メートル向こうに沈丁花が小さな花を咲かせてひっそりうずくまっておりました。(たぶん沈丁花だと思うんですが、自信なし(^^;))何度通ってもつい振り返ってしまう、これだけ鮮烈な香りは、秋の金木犀に比べても劣りませんな。沈丁花やクチナシや桃など、うちにも昔はあったんだけどなあ。なんとなく、香りある花がもっとほしくなる今日このごろ。花の種やら球根やら見てしまうけど、忙しいからまた今年も雑草ジャングルかな。(^^;) 通勤の途中、列車は人の手の加わらぬ山をいくつも越えていくのですが、朝靄に冷え込む山のまだ青葉のない枯れ枝たちの中に、名も知らぬ白い花をつけた低木。花は細い枝に群れなす白い小鳥のようにうずくまり、眺める目を楽しませてくれました。 ワイングラスのような形に枝を広げそのすべての枝先を天に向かってまっすぐにのばす大きな木もまた、そんな白い小鳥や蝶のような花をつけておりました。 列車の通過で回り込んでいく車窓からの眺めには、幹や枝は背景の木の色に同化して見え、ただ花々だけが宙に浮かびクルリとターンをしてみせる砂糖菓子の舞。 こういうものを見ていると、なんで少しは草木の名を覚えてなかったんだろう。木々の枝ぶりの違いやその美しさを愛でてなかったんだろうと、思うことしきり。 すでに咲き始めた桜もちらほら見受けられます。 よく吹雪となる大きな道沿いに植えられた桜並木には風雪のせいかひどく枝折れした木も見られ、痛々しい折れ枝の間から他の木々より遅めのつぼみを抱えた細枝が空を見上げておりました。桜はけっして真っ直ぐにはのびず、太陽の恵みを求めそれぞれの枝を斜めにのばしていくんで、枝に雪が積もりやすいのでしょうかねえ。 冬の寒さに耐えねば、よき花を咲かさぬ桜。その木の寿命は数十年ほどだと聞きます。 山奥に桜が一木そこだけ薄淡い色をまとってるのは、りんとした孤高の風情。奥深い山間に踏み込む人が視界を遮る木々の枝をかき分け出会う時、花吹雪はどれほどその目を驚かすことだろう。その感動が、桜をこれほど人に愛させたんでしょうか。 人に愛でられ、人の集う地に植えられ、その宴を見守るも桜。誰知らぬ場所に咲きながら、春霞に華やかさを奏でるも桜。桜にかわりはなかろうものを、なぜに雄々しい山桜。 土手道や駅周辺に植えられた桜並木には、あちこちに花見用の提灯がぶら下げられておりました。電線ぐるぐるにつながれた桜は、夜桜の宴の主役でありながら、どことなし脇役に追いやられてる心持ちがするのが艶消し。コードにつながれた提灯があっち向いたりこっち向いたり、風情があるんだかないんだか。(笑)
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  「桜の下には、死体が埋まっている」。。。。って詩がありましたっけ。 椿の花の下を歩いたときに思い出しました。優雅に咲く花々の下には、冬に散り敷いた枯葉や枯れ草、落ちて醜く腐り始めている花びら。それが肥やしになるんですよなあ。 ふと、「理想」という花はナルキッソスのようだと思ってみたり。水鏡にうつる己の姿に恋して水仙の花にされたナルキッソスのように、自分の中に見える鏡像の「理想」は美しく、己の自負心と結びつくと「盲信」「狂信」になってしまうこともあり。ヒトが「理想」という花を握りしめ振り回すと、手の中に残るのは折れ崩れいずれは腐りゆく死骸にすぎなくなってしまう。 政治家の振り回す「理想」という花。彼らは次々に新しい花を取り替えて、どこまでいくのかと思う今日このごろ。
 
  
  
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