浪漫のカケラもありゃしねえっ!
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2004年12月12日(日) ライブ中に射殺事件/ヒトがヒトを傷つけるとき

最初、TVニュースの半分くらいを聞き取りそこねた。米でライブ中に銃の乱射事件、わかったのはそれだけだった。
いったい何があったのかチェックしにいき、・・・血が凍った。
Dimebag Darrell、ライブ中に射殺
いくつかのニュースサイトをチェックしてみた。容疑者はパンテラのファンでもあり、一方彼らが自分の曲を盗んだという妄想をもっていたようだ。こちらのブロブでは、事件の詳細/ミュージシャンの追悼メッセージなど訳してはります。

私はファンではない。パンテラやダメージプランのライブを体験したことはない。ずいぶん昔にパンテラのプロモビデオやインタビューを目にしたくらいだ。けれど…そんな悲劇に見舞われたファンのショックは胸に迫る。彼らの悲しみを思って、泣いたよ。
ライブにどんな思いを抱えてファンが足を運び、どんな熱情をもってアーティストを迎えるのか。それを知る者なら、ライブのさなかにこんな事件が起こったことに、ショックを受けずにはいられない。愛しい音を生み出してくれるアーティストと、同じ時を生き同じ大気を呼吸する。バンドの成長や成熟を見守り、ともに生きることを実感するライブの喜び。ああ、目の前でその人が失われてしまうなんて、誰が望むものか!

過去にもミュージシャンが撃たれたり刺されたりする事件があったな。人はさまざまなファンタジーを自分の中に育て、時にはそれが妄想の域に達することがある。誰かを全能の神あつかいすること、彼らの言動に信念ない裏切り者あつかいすること。愛情としては両極端だけど、英雄崇拝の裏返しだよ。崇拝する英雄、強く才能ある人々、彼らと自分との合一化を望んでるように思えるんだ。そうして自分自身の鎧のようにその才能の威光をまとい、その強さを借りようとしてるようにも思えるのさ。

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誰かを怒るとき暴力をふるうとき、ヒトは相手をコントロールしたい。支配力を及ぼしたい。その相手が才能や名声を持つとき、怒りや暴力をぶつける自分は相手よりもっと強く価値ある存在だ、と実感したいだけなんだ。
言葉の暴力だって同じさ。相手を傷つける能力のある自分は強い。自分は正しいからどんな手段を使って相手を傷つけてもいい。正義の名の下に(あるいは、愛の名の下に)ガツンとやってへこませてやる。大声で何度も繰り返し言えば、相手のバカさがみんなにもわかる。そんな妄想は、けっこう誰でも持ってるもんだよな。
ヒトの痛みを想像する能力のないヤツは、自分のやっていることの醜さを客観視する能力のないヤツは、なぜヒトに自分が愛されないのかを理解できない。哀れな生き物だね。

誰かを傷つけようとする自分、能力を誇示しようとしてる自分に気づいて、醜さを感じることがある。醜い行為にげんなりして、結果的にコントロールされる羽目になってる自分を感じることもある。うえっぷ。
この前ひどく醜い行為をぶつけられたとき、「素晴らしい!」を連発して友人をあきれさせてしまった。自分の中にこみ上げる憎しみや怒りをひとひねりして、ソイツの愚かさを笑い飛ばしたかった。ソイツと同じ醜さの中にに引きずり込まれたくなかった。試練は自分をきっと豊かにしてくれると思えば、「素晴らしい!」そう言って笑える。
ふむ、興味深い。オレは醜さがよほど嫌いらしいよ。
ヒトを憎んだり妬んだり怒り狂ったり、そんなときどんな醜い顔をしてるか、自分じゃ気がつかないもんだ。いつまでもそんな顔で暮らすのはぞっとする。
自分の中には、怒りや憎しみが存在してる。嫉妬や自己顕示欲や怠惰さや、ありとあらゆる醜さが渦巻いてる。それを転がしひねりまわし、どうやったらそれをオモロく昇華できるか楽しめるか、考え始める。攻撃に対する反撃よりはるかに強い拒否の表現は、冷笑や無視だってさ。
オモロく楽しく生きるのが、オレの反撃かもね。


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