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2002年02月22日(金) 邯鄲の夢。

アウグスティヌス曰く。
『誰も私に尋ねないならば私は知っているが、もし尋ねようとする人があって、(その問いに)答えようとすると私は知らない』  <時間についての定義>


一炊の夢において『人生=夢のようなもの』と主人公は譬えます。50年もの年月が経っていたのに実際にはほんの数時間が経過していたのみ。人生とはなんと儚い夢のようなものよ、ということでしょう。
確かに諸行無常とかいわれる現実社会です。
虚しくも儚い実体を掴めぬままの人生を夢と譬えるのも悪くはないかもしれません。
しかし。
夢は醒めることで『夢』として成立するものです。
『醒める』ことのない人生を果たして夢と同一視してよいのでしょうか。
まぁ、今は醒めた“あと”のことをそんなに重要視しなくてもオッケーと考えてみましょうか。

芭蕉は桜の散る様を見て、過去の出来事を思い出す句を詠んでいます。
(『さまざまのこと思い出す桜かな』みたいなヤツだったかと。)
桜の散る情景はその時間経過の読み易さから好んで儚さの描写の小道具として用いられてきました。散る様子を見つめているうちに、自分が今現実にいるのか過去にいるのか区別がつかなくなってしまうということも起こりうるのかもしれません。

さて、ここで夢の過去性について少し考えてみてください。
夢で見た内容というのはすべて『見た』という過去形で表現されます。つまり現在、それが存在するかといわれると答えは必ず“NO”ですよね?すべての経験は過去のことであり、『今』見ていたはずの夢も過去。

過去を振り返るのはあっという間です。
どんなに波乱万丈の人生を送ってきた人でも、過去を振り返るのに辿ってきた時間と同じだけの年月を必要とする人はいないということです。かの豊臣秀吉も臨終の間際に自身を振り返って、あまりにも短かったと語ったそうですし。
夢の中では長い時間でも、醒めてみればそれは一瞬のことだったかもしれないなんて、それこそ寂しく儚い夢のような経験です。

更に、未来の時間のスケールについても考えてみたいと思います。
過去があっという間ならば未来は逆にとてつもない時間を必要とする対象として認識されるのかもしれないというのは、容易に想像できることです。人間に与えられたものは僅かな現在と殆どの過去である、という言葉からも、いかに未来のことを考えるのに人間が多大な労力を必要とするかが分かります。
時間軸というのは、実は一定間隔に置かれているものではないのかもしれません。

それにしても、今日の日記、理解できますか?
多分私自身でもこれを読んだだけじゃ何が言いたいのか分かんないと思います(笑)
難しいですねぇ。哲学っぽいことを書き表すのって。
特に今回の『時間』っていう概念について意識的に考えたのは今日が初めてですからねぇ…。
つくづく私もチャレンジャーです。マジで無謀なことをしてるわ。

ってか自分の頭の回転が嫌になってきます。
だってこの程度の思考に1時間近くかかっているんだもの…。

予備知識が(というか教養が)もっとあれば違うのかなぁ←言い訳。




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斎藤基栄
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