ハラグロ日誌
書人*ちる

   

  




敵なんていないのに
2002年05月27日(月)
ある教育現場での一言。
「受験では会場皆が敵なんだ。1つの教室の中で、合格するのは1人か2人。他の人間を全部蹴落とす覚悟で臨むように。」
当時、進学校とはいえノンビリした北海道の高校生だった私は「あほか。」と思った。そして、それを言った教師を心底軽蔑した。それが現実なのは分かってる。でも、それを言うか言わないか、それが教育者として、・・・いや、それ以前に人間の品性として大事な事なんだよ!って。人を落とさないと、自分が高められないなんて、絶対に間違っている。人間、皆仲良くなんて、絶対できないけど、他人と自分を比べて優劣をつけるような人間は、人間ではない、と私は思う。
私の友達が今年の春から、心理の大学院に進学した。女子大の大学院・・・(男性も1人いるらしいけど)そこは、まさに「サバイバー」を絵に書いたような世界だという。「院にはトモダチなんていない。」「みんな敵。」それが担当教授の言葉だったそうだ。
唖然とする。聞いて呆れる。
そんなに競い合って、落としあって、足を引っ張っていて、人のキモチを大切にしてあげられるプロの心理カウンセラーになんてなれるんだろうか?
一番大切な事は知識よりも、人に勝つ事よりも、そういう所に適合できない人のキモチやココロの動きを敏感に感じ取ってあげられるチカラじゃないの???そう思ってしまうのはシロウトだから、なのかな。
なんか、無性に腹が立った。
人間、誰しも、ふと立ち止まってしまう事がある。立ち止まってしまうと、外れてしまうと、元に戻りにくいから、立ち止まらないようにしてしまう社会。それが普通?常識?当たり前?
三浦綾子の「塩狩峠」で、牧師は言うのです。「キリストを十字架にかけたのはあなたであり、私です。」これはキリスト論者の謎かけに留まらず、どんな人間にも当てはまる生まれながらの業であり、背負って生きて行かなければならない罪の事です。生きるという事は本当に重い。その重みを知る人が教育者であれば、あんな暴言は吐かないだろう。
ずっと、そんな事が朝から頭をグルグルしている。久しぶりに怒り心頭に達したのだった。









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