度々旅
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2002年05月17日(金) 今年一年遠い国にいると思っていて

会話というものは難しい。
相手が何を言わんとしているのかがわからないと、相手の言っていることの意味がわからない。相手が何を質問しているのかがわからないと、まったく見当違いの答えをしてしまう。

普段一緒に生活していない相手だとなおさらだ。一緒に生活しているということは、その人が何を大切に生きているかを近くに見ることができる。その人の行為を見て、その基本となるものを感じることができるため、その人がなぜそのようなことを話すのかがわかりやすい。

また、同じような環境にいる相手とも話しはしやすい。目的は違うにしろ、何か頑張っている人、その頑張り方が自分と似ている人との会話は非常に楽しい。

例えば、「忙しいので当分会えない」という一言は、「当分」というところの解釈が聞き手によって変化する部分だろう。仕事を持っている相手とそうではない相手によってまったく異なって受け取られる。私は去年、後がない、という恐怖のなかで生活をしていた。今年頑張らなければ後がない。私の多くの友人達は、それをわかってくれていたので、「私は今年一年遠い国にいると思っていて」という一言を私の意図したとおりに受け取ってくれた。私の区切りがつくまで、いっさい電話をかけてくることもなければ、メールさえ、申し訳なさそうに送ってきていた。本当にありがたいと思った。
そういう友人達は、自分自身も本当に精一杯生きている者たちなので、私の立場をよく理解してくれていたのだ。そのような友人の態度は、私へは無言の応援という形になった。わがままを言う私をずっと待っていてくれていた友人達は本当に大切な存在である。

しかし、中にはそういう意図が伝わらず、「私なのに、少しも時間をとれないの?」と言ってくる友人もいた。難しいものである。彼女はそのような一言のために、私がどれだけストレスを溜めるのかということに気づいていないのだ。

言語活動とは、相手を理解しよう、相手の主張を自分の中へ投影しようという気持ちの中で行われなければ、上手く成り立たない。まったく同じ質問をしたとしても、相手によって、まったく違う方向に答えるだろう。それと同時に、質問者も聞き手側を理解していなければ、その真意を表すような答えに出会うことができない。

しかし、いくら努力しても本当にいらいらしてしまう程、私の言いたいことが伝わらない相手もいるわけで・・・。本当に難しい。
言語はそれぞれの共同体の中で形成されていく。言葉自体の意味は、その中で変化し続けるだろう。それはつまり、言葉の背景が変化するともいえる。言葉の背景を共有していなければ言語活動は難しい。

一見会話が成り立っているようでも、同じ言葉に対し相手も同じだけの意味を見出しているのかは決してわかることはできない。これは信じるしかないのであり、その他の行動などを見て予測するしかない。

言語ゲームやパラダイム、暗黙知などといった表現は全て、形としては現れないものを共有している。言い方を変えれば、用いる言葉や理論などの背景を共有している。その共有が困難な場合もある。しかし、困難さに気づかない場合もあるわけで、それに気づかないということが、人間と人間の間において、一番の問題である気がする。






こげんき |MAILBBS

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