度々旅
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窓を開けて寝たら、寒さで目が覚めた。しとしとと雨が降っている空を見上げながら、もう夏は終わってしまったの???と寂しい気持ちに。去年の夏、北海道に一週間位滞在し、帰ってきてみたら涼しくて、夏の暑さは待っても待っても戻って来なかった。今年の春は、台湾旅行中に、桜が咲いて散っていた。そして、夏。。。
少しの期間いつもいる場所から離れる。帰ってきてみると、知らない間に季節は移り変わっている。そんなことを感じるようになったのは、いつごろからだろうか。
日本という国は、次々と季節が巡り、それが素晴らしくもあり、悲しくもあり。季節の移り変わりは、時の流れを感じさせ、いつも私をあせらせる。去年の夏より私は前に歩いているのだろうか、季節の移り変わりと共に、私も変化しているのだろうか。私は、ちっとも何も変わりはしないのに、どんどん季節は変わって、私は置いてけぼりで、でも一方向の時の中でしか生きられないので、がむしゃらにぱくぱくと時を食べているだけなのではないだろうか。
そんなことを思いながら、しとしとと降る雨音に耳を傾けつつ、お友達の最近の日記を読み、みなさん、生きているのね〜、などと。
大切なお友達の日記の中で空のことが書いてあり、ある感覚を思い出した。太陽のある空を見ていると、その広がりは本当に気持ちが良い。しかし、夜空の広がりは私を恐怖へと引き込むことが多々あった。夜空を見ていると、その先に光る星々は美しいけれど、それ程遠くまで宇宙は広がっているということで、その光が私まで届くには信じられないような時が流れているわけで、その上その先には、もっともっと宇宙が広がってもいるわけで。。。夜空は、空間だけではなく時間も私へと感じさせ、自分の寿命、地球の寿命、宇宙の寿命、宇宙の始まり、終わり、無、といったものへの恐怖が、どっと私の中に流れ込み、ただただ目の前にある時間だけに視点を戻そうと、必死になる。
中学生の頃から、死ぬのよりも何よりも、時間が怖かった。自分が死んだとしても、土に返り、地球がなくなっても、宇宙の中にそれは漂い、しかし、宇宙がなくなったら。。。そんな無へと運ぶ時間が怖い。
この感覚は、小学生の時から少しずつ持ち始めた。小学生の時、田舎で、従姉妹と寝袋に潜り込み、庭で星を見上げながら寝ようとしていた。しかし、二人とも急に怖くなり、空の広がり、時間の流れを一生懸命納得のいくように理解して、恐怖を取り除こうとしていた。その時の二人の答えは、この宇宙は、きっと誰かの体の中で、私達の中にも宇宙があり、もしかすると、私達がいる宇宙の体の持ち主は、死んだおばあちゃんかもしれないなんてことを言い出していた。
体の持ち主が祖母かどうかは別として、私達の体が宇宙ということは、実際間違いではなく、外にも中にも、わけのわからない無限が続いている。本当の点なんてどこにもありはしない。でも、点がなければ、物体は創造されない。大昔から、人々はずっとこんなことを考えてきて、それをなんとか恐怖ではなく理解し、納得しようとし、その理解はあらゆるものを関係づけるために、神話は生みだした。
いまだに、そういう恐怖はわぁっと私の中に広がることがあるが、そんな時は神話の知をかりることにしている。大昔からの知は、私を安堵させ、反対に、そんな恐怖も宇宙も全部飲み込んでしまったかのような、穏やかな広がりを私の中にもたらすのだ。
さて、果たして夏は戻ってきてくれるのでしょうか。もしすぐに戻ってきてくれなくても、一年待てば、また確実に戻ってきてくれる幸せな土地に生まれていることを感謝しつつ、夏の終わりに、時の流れに身を委ね、眠ることとします。
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