度々旅
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とりあえず、アパートに戻ってまいりました。先週は、本当に天気がよい日が続き気持ちがよかったです。寂しくなった実家に、以前よりは帰らねばなと思っております。今年は論文だけだから、完全に帰ろうかなとも思いましたが、指導教授も復活することだし、授業も結局はとるし、その他いろいろ思うところがありやめました。 母は、祖母と祖父あわせて10年間介護してました。だから、介護が終わったらあれしよう、これしようと言ってはおりましたが、やっぱり何をしてよいかわからない日が当分続きそうです。なにせ、10年。。。長すぎる。母は、父方の祖母からは望まれずに嫁入りしました。結納の席でも、祖母は一口も膳に口をつけず、途中で帰っていったそうです。どうやら、祖母は父に結婚させたい人がいたそうな。そんな中嫁いだ母は、ずっとのけ者扱いでした。祖母は何かと伯母と母を比べ、老後も娘に見てもらうと言っていたようです。私自身は感じませんでしたが、ご近所では息子がかわいいが孫はかわいくないと言っていたそうな。ま、私のことですな。 けれど、伯母が旦那様と死別し、その後人の旦那様と再婚。その人が破産。叔父は、その保証人になっておりました。その叔父も、再婚で前妻には何度も子供をおろさせ、その間も他の女性と付き合い、その人を父に紹介するような人でした。子供をおろす度に、祖母は叔父のもとに駆けつけていたそうです。破産のとき、結局力を貸したのは、父と母でした。夜逃げしてきた伯母家族を囲い、弁護士も私の友人のお父様にたのみ、自殺しようと逃げた伯母の旦那様を探し出したのも父と母でした。その頃、すでに祖母は呆け始めていたのですが、母に「これからは仲良くしましょうね」と手紙をくれたそうです。 そんな祖母の葬儀で、母も私も相変わらず除け者にされてました。同居していたにも関わらず。だから、今回、当たり前のことかもしれないけれど、母が遺影、私が骨を持って帰ってこれたことはとても嬉しいことでした。父が兄弟に気を使い、遺影を母に持たせるということをなかなか言い出さなかったので、私は父に最後はみんなのことがわからなくなった祖父が、母のことだけはわかっていた。だから、持たせて欲しいと頼んだ結果のことでした。父も、そのつもりではあったのでしょうが、なかなか言い出せなかったのです。叔父からは、以前葬儀の席のことで、喪主の妻や娘が喪主の横に来るのは田舎のやり方だ。そんなこと気にしているなんて頭がおかしいと母に言いました。伯母家族が破産したときも、祖母が入院したときも一円もお金を出さず、すべて口だけでした。挙句の果てに、保証人にならなければならなかったのは、私の両親のせいだと言い出す始末でした。 私は生まれてからずっと何も祝ってもらえず、初めて祝いということを叔父からしてもらったのが、進学校の中学に入ったときです。そういう物差しでしか人を見れないなんて、本当にかわいそうな人だなと思うことで、自分を納得させていました。正月に来たときに、殆ど相手にされないのも、そう思って過ごしていました。自分で、何かを言えるようになったのは、ここ最近のことです。 どうして、こんな人に母も私も除け者にされ、母はずっと黙っていられたのだろうと。祖母にもひどい仕打ちをうけながら、祖母を最後までどうして母はみることができたのだろう。ずっと思っていました。「大切な人の大切な人だから」母は、それだけで今まで30年間耐えてきていたのです。 そんな全てのことが、やっと終わった気がします。悔いなく送り出せたと言った母。そして、なんでも祖父と一緒に行った私。大学に入り一人暮らししてからも、祖父の実家へ行き、このアパートに来てもらったり、桜の季節に大学を案内したり。家族で出かけるのも、必ず祖父も必ず一緒でした。母も私も、辛いことはたくさんあったけれど、祖父との思い出はたくさんすぎるほどあります。母は、父の兄弟に感謝されるためにやったのではなく、自分が満足するため、悔いないための介護でした。だから、何も言ってもらえなくてもしょうがないと思ってます。私も母も、悔いなく、たくさんの思い出を持っているので、幸せだと思います。もちろん、父も。 人に理解してもらえるのは、支えられ、助けられているという気持ちになれるようです。後悔ないというのは、幸せな気持ちになれるようです。 ここ、数日だいぶ旅から離れた日記を書いて申し訳ありませんでした。テーマは違いすぎるし、恨みみたいなものが、どうしても抜け出せない文章になっていて、人を不快にさせているのではないかと不安でした。けれど、皆様からお気遣いいただき、私の日記から、何かを思って文章も書いてくださった方もおりました。ありがとうございます。これで、今回のことは終わりにしたいと思います。 あ、でもまだ思い出が時々出てきてしまうと思います。それは、ご了承ください。
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