今朝、朝の忙しい時間帯に、牛乳パックを開けるのに一苦労した。
上部の両側を左右に開いて、接着している部分を、くちばしを開けるようにパカッとあける。これを上手にパカッと開けるのが思いのほか難しい。ちょっとしたコツとかなりの力が要る。
今日はちょっと失敗してしまって、指で無理やり開けようとしたら、内側のアルミ箔のコーティングと外側の紙パック部分をはがしてしまい、注ぎ口がぼろぼろになってしまった。
はた! と思ったのだけど、一人暮らしのお年寄りや手先が不自由な人は、この手のパックを開けるために、想像もつかないくらいに大変な苦労をしているのではないだろうか? 健康のために牛乳を飲んでカルシウムをとろう! と思って牛乳を買ってきたまではいいけど、手指がままならず、なかなか上手に注ぎ口を開けられないのではないか。もしかして、牛乳パックを開けるだけで精根尽き果てているかもしれない。そして、途方にくれてはさみでちょっきんなんてパックの上部を切り落としているのかもしれない。
なぜ、突然にこんなことを思ったかというと、私が帰省するたびに、日本で同居していた高齢の祖母が、 「祐子ちゃん、牛乳開けてよ」 といつも私のところに未開封のパックを持ってきたからだ。 たまには自分で開けて失敗するのか、今日私が開けたパックのように、注ぎ口がぼろぼろになっているパックを冷蔵庫で何度か見かけたことがあった。
元気いっぱいを売り物にしてきた私は、今まで体の不自由な人の苦労というものを、なかなか具体的には認識できていないまま、今日まできてしまった。 お年寄りや障害者への気遣いや心配りは、ドイツ時代にしっかり身についたとは思う。でもその先の、彼らはどういうふうに障害を感じているか? というところまでは思考が及ばなかった。
老人の身体機能というものは、年をとればとるほど、子供のそれのように逆戻りしてしまう。小さい子供にはまだできないからと、当然親が子供に手を貸すように、お年寄りや障害者にも、できないことをごく自然に補ってあげるようにならないといけない。
祖母は、95歳。まだまだ健在。ただ重度の痴呆があるので、施設にいる。 実の両親は70前。私が海外に出た頃はまだ50代で若々しかった。そのときのイメージのまま離れて暮らしているせいか、たまに一時帰国すると、一見元気そうには見えるけど、両親が確実に見なかった年月分だけ老け込んでいるので、こちらが戸惑ってしまう。
今年の夏は、さらに老け込んだ両親に再会することになる。 若い娘時代のように、炊事洗濯を任せて、お客さんみたいな顔をしてのんきに帰省するわけには行かないだろう。 今朝の牛乳パックの一件で、年配者や障害者に対する心配りの新たな自覚ができた。タイムリーな時期にいいことに気がついて良かったな、とも思う。
ぐじゃぐじゃに開いた注ぎ口から牛乳がこぼれて、慌てて拭こうと思ったらキッチンペーパーがきれていて、(使いたくなかったけど)雑巾で拭いたからそれをすぐにジャブジャブ丁寧に洗わないといけないし、家族が出かける時間は刻一刻と迫っているし、うわーん、そんなこんなでもう時間がない! っていう状況下だったけど・・・。
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