日本滞在中、毎度毎度の別れ際、私を切ない目でじーっと見つめる年配の殿方がいた。 毎回別れる直前まで、何のことはないお互い心穏やかにずっと傍に一緒にいるのだけれど、別れる段になると急に訴えるような切ない眼差しをこちらに向ける。 「祐子さん、こちらを見なさい。私の瞳をまっすぐ御覧なさい。本当に私と今別れてもいいのですか? 本当にいいのですか? 今一度考え直しなさい。あなたの心が揺れているなら、まだ間に合います。今私を手放すとあなたはやがて絶対に後悔しますよ。」 と。
私も時間がなくて忙しかったりするから、 「もう迷ってる暇なんかないんです。決めたことは決めたことですから。私、もういいんです」 と、毎回のようにこちらから視線をはずした。
それでも強い目線で語りかけてくる。 「さっきご家族と、私を手放しても福沢君がいるから、とあなたが話していたのを偶然耳にしましたよ。残念なことですよ。でも、あなたのそういう考えは大人の女性として少しばかり浅はか過ぎないでしょうかね? 野暮な忠告かもしれないがね、福沢君は、先刻あなたのようなルーズで浪費家の女性にはほとほと困っている、と私にこぼしていたよ」 「そんな・・・」 福沢君にはぜったい嫌われたくない。福沢君にはできる限り長く私の傍にいてほしいのだ。 そんなことをいわれると急に心配になってきて、その日も同伴してくれた福沢君の姿を確認してみた。目元だけで笑顔を作ってこっそり福沢君のほうを見たたけど、少し離れたところにいる福沢君は、どこか一点をじっと見つめて私の存在など全く眼中に無いといった表情をしている。
「お願い。そんな顔しないでよ、福沢君・・・」 胸の中だけですがるようにつぶやいた。 あぁ、私、どうしよう・・・。こんなんじゃ、福沢君と二人きりになったらなんとなくぎくしゃくしてなおさら嫌われてしまいそうだわ。福沢君といい関係を保っていくには、この目の前の方もいてもらったほうが二人の間にワンクッションになっていいのかしら? いや、だめよ、この方とは今すぐ別れて、これから福沢君をもっと大切にする。私、福沢君と少しでも長く過ごせるのだったら、どんなことでも我慢する。確かに今まではルーズなところがあったかもしれないけど、これからはきちっとするわ。そうよ、これからよ。ちゃんと改心すれば、福沢君も立派な方だから今までの私のことは大目に見てくれるわよ。
「私、あなたとは、今ここでお別れすることにするわ」 「祐子さん、あなたはかつて私にあんなにも心酔したと言ってくれたじゃないですか。この私の深い瞳もきちっと手入れされたお髭も好きだといってくれたではありませんか? 私はあなたとこれからもいろんなものを分かち合えると思っています。私たちはそんなに簡単に別れられる仲ではないでしょう?」 「ごめんなさい。私、もう決めちゃいましたから・・・」 いつもになくきっぱりと言い切った。 「祐子さん、いいんだね。本当に私と別れてもいいんだね。後悔し・・・」 最後まで言い切らないうちに、そこの店員の屈強の男が、その方を連れ去ってしまった。
胸がちくりと痛んだ。 でも、私が外出するたびに必ずどこかでまた顔をあわせるのだ。 日本にいるあいだどこへいっても、私に強く訴えるこの方の眼差しにずっと胸をいためていたのだった。
ごめんね、夏目漱石さん。 千円札、いーっぱい無駄遣いしちゃって。 あなたと目が合うたび、私、ホントにつらかった・・・。
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