朝、テレビをつけたら年末の紅白の司会が決まったと特別番組をしていた。
今年も白組は阿部渉、高山さん。むふふ、阿部さんはもろ私の好みです。ニュースキャスターや歌謡番組の司会もいいですけど、カジュアルなトークもいい感じ。目がハート。。。 赤組は竹内陶子、繕場貴子、有働由美子、おなじみの見てて安心できるアナウンサーたち。
司会者発表の記者会見で、竹内陶子さんが話していたこと。
彼女は、紅白の総合司会という大役を任命され、プレッシャーに押しつぶされそうになったという。そこで、郷里でもありアナウンサーとしての出発地でもある松山に仕事でいく機会があったので、ゆっくり道後温泉につかり、裸になって初心に戻って考えようと思ったそうだ。 ぼんやり風呂場で考えていたら、全く見知らぬおばあさんが近寄ってきて、背中を流してくれるという。「いつも応援していますよ」と。そしておばあさんは背中越しに一言、「前に進みなさい」といってくれたそうだ。 その一言で何かが吹っ切れた。 今となっては、あのおばあさんはあの世の人かこの世の人かわからないけど・・・などといっていたけど、彼女にとってはタイムリーにありがたい一言だったらしい。
両手足をくもの巣にとられたみたいに、身動きができなくなっているときって、わかる人が見ればわかるんだろうなと思う。 私も、同じようなケースが今までにあった。 いつのことだか忘れてしまったけど、ドイツにいたときのこと。 ちょっとした精神的ダメージを受けたときだったと思う。 ある日、私ひとり、田舎の町中をぼとぼ歩いていた。ぼんやーりと。 そんな私を見つけて、今まですれ違っても挨拶ぐらいしかしないような知り合いが、わざわざ向こうから近寄ってきて声をかけてくれた。そして、そこでしばらく立ち話をした。人と合えば笑顔の一つも作らないといけない。ぎこちない笑顔が、そうこうするうちに自然にほぐれていくのがわかった。 別れ際、お互い晴れ晴れとした笑顔で別れの挨拶を交わした。その日、きびすを返して歩き始めた一歩が、とても軽快になったのを覚えている。
きっとその人は、どん底でもがいている私の悲壮な表情に見るに見かねて声をかけてくれたんだと思う。 もしかしたら意図的ではなく、神様がどこかで見ていて、祐子をひとりで放って置くとますます壊れてしまうとみて、通りがかりのその人に声をかけさせてくれたのかもしれないし。 でも、その人と話をしたことによって、何か自分の中の気の流れがすっかり変わって前向きになったのは確かだったのだ。 今となっては、何に対してくよくよ悩んでいたのかすら思い出せない。たいした悩みじゃなかったのかも。思い出せないくらいだから。今の私の人生に何の影響も無いようだし。あのころ青かったしな・・・。
私って、いつも目に見えない、何かに守られているような気がする。 それが守護神とか、守護霊っていうものなのかもしれない。言葉どおり、守って、護ってくれる神様。大切にしてもらっているなと思う。だから私も、その守護神に余計な心配かけないように、自制心を持って生きている。それが理性というのかもしれないし。
思いついたままに霊について書く。 思うに、守護霊というのは誰もが持っていて、パパも子供たちも持っている。その霊がいつもお互いの家族を護りあっている。実家の両親、親戚、友人知人、ご先祖、今までに知り合った無数の人たち。みんなの霊がみんなお互いを護りあっている。
その人たちが、「あ、あの人は元気にしてるかな?」と思うそういう優しい心が守護霊となって相手の元へ届くのだと思う。だから多くの人に思われる人はそれだけ手厚く守護霊に護られている。
反対に人に恨まれたり、憎まれたりすると、それだけ護ってくれる霊は薄く、ツキがおちたり、運がおちたりするのかもしれない。
いつも自分の戒めに使っている座右の銘
「因果応報」
自分の心にちょっとでもやましいことや後ろめたいことがあると、必ずやどこかで自分の身にそれに相応する忌まわしいことが降りかかってくる。実際に、今までに何度か体験してきた。近年は特に切々と実感する。 だから、できるだけ邪念というものを抱かないことにした。因果応報を恐れて邪念を抱かないことにしたわけではないけれど、邪念を持たないことで、心が清浄なままでいられるのも確かであり、そういう精神状態が心地いいのも確かである。
因果応報なんて、神様か守護霊が絶対にどこかから見ているからなのだ。そうでないと世の中のからくりに説明がつかない。
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