窓のそと(Diary by 久野那美)
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私はしょっちゅうものを失くす。 ふと気づくと、あるはずのものがあるべきところにない。 だから、失くしたら困るものは極力持たないようにしている。 持ってしまったものは「失くしたら困るなあ」と思わないことにしている。 よく、「他人にお金を貸すときは(返ってこなくても嫌な思いをしなくてすむように)あげたものとおもいなさい。」と言うけれど、それと同じように、一度手に持ったものは「失くしたものと思う」ことにしている。
物心ついたときからそうだったので、大人になるにつれ私なりに心身共にスキルアップを重ね、今ではかなりレベルアップした(と思う。) 外で大切なものをなくすことはほとんどなくなったし、なくしたときも被害が最小限に押さえる技術を習得した。ひとは、生きるのに必要不可欠なことに対しては能力を最大限有効に使って対応できるようにできているのだ。
ささいな工夫と努力のつみかさね。 それでも、やっぱり日々いろんな細かいものがどっかへいく。 ものをなくさないひとというのもいて、そういうひとは、在るはずの何かが見あたらないと、必ず、 「○○がない。またどっかへやったやろ!」と言う。 「え?ない?嘘。どっかにあるって。」と私は言う。 見つからないのになんで平気なのかとまた言われる。 (私なりに対策を考えてはいるのだけど・・切実な感じがないらしい。)
この会話はあまりにしょっちゅう繰り返されるので、深く考えたことがなかったんだけど、このあいだ、自分で言いながら、ふと思った。 「喪失感」って何だろう? (「何かがどっかへいく」と、誰かが迷惑を被るとか、不都合が生じるとか、そうことはとりあえず、おいておいて、エアコンのリモコンがなくて寒い思いをさせたひとには心からお詫びしつつ・・)
「ここではないどっかへいってしまうこと」が喪失なのか? それは痛ましいだけのことなのか?
「どっか」のことを考えるのが私は大好き。 「どっか」という場所には「ここにないもの」がなんでもある。 「ここにないものはどっかにあるはずだ。」と思う。 「ここ」から消えてしまったもの、「今ここ」にないもの、の物語を私はよく創る。そしていつもいつもそれを「喪失の物語」と言われることに少なからず抵抗がある。 喪失感というのは、どこからも消えてしまったものを悼むことじゃないの? どっかにあるはずのものについて、どうしてただ悼んだりなんかできるだろう? と。わたしはきっと思っているのだ。 「どっかにあるもの(どっかへ行ってしまったもの)」の物語は、私にとって喪失を悼む物語なんかじゃないのだ。いうならば、希望の物語だ。 それは私が子供の頃からしょっちゅういろんなものを「どっか」へ置き忘れてきたからなのか?「どっか」に置き去りにしてきた歴代のたくさんのたくさんのものたち・・・。<ふと気づくと在るはずのものがそこに無い>、という状態を「悲しい」と思わなくなったころから、私の中には喪失という概念が希薄になったような気がする。
「どっかにある。」と思えば喪に服する時間に他のことが出来る。 もしもそれがちゃんと「ここに」在ったなら出会えなかったかもしれないものに出会うこともできる。 いつからか、そういう風に考えるようになった。
そして、「どっか」の物語ばっかり創るようになった。

先日。「喪失感」について、同じようなことを言っていた劇作家の友人に、 「よく、もの失くします?」と聞いてみた。 「うん。よく失くすけどそれ以上によく拾う。プラスマイナスでちょっとプラスくらいかな。」という答えが返ってきた。 そういうのもありだな、と深く納得した。
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