窓のそと(Diary by 久野那美)
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拉致被害者の家族会と在日コリアンのグループとの交流会では、「同じ立場に居る<わたしたち>はお互いの悲しみを分かり合える。協力し合える。」という希望のある会話が交わされたらしい。 アメリカのテロ被害者の遺族の中に、「相手国のひとたちに<わたしたち>と同じ悲しみを与えないで。」と反戦活動をしたひとたちがいたという。
わたしはずっと、<わたしたち>ということばは、<あのひとたち>を創りだすために使われる言葉だと思っていた。<正義>という言葉が<悪>とか<敵>とかを創り出せるのと同じように。理解できない・了解できない<他者>を排除するための言葉だと思っていた。
だけど、こんなものすごい<わたしたち>の使い方があった。 衝撃的。そして、なんて素敵な・・。 簡単に生まれてきた言葉ではないだろう。 <あのひとたち>と<わたしたち>という世界観に守られることができなかったひとたち、<たったひとりのわたし>をもって世界と向き合わざるを得なかったひとたちの中に起きた、壮絶な美しい奇跡だと思う。
<あのひとたち>と遠く見遣ってしまえば理解も了解もできない、決して接することのない向こう岸にあるように思える場所にでも、わたしたちは<わたしたち>という言葉を介して確かに共存することができるのだ・・・。
そういうことなら・・・・。 <わたしたち>という言葉も、その言葉を作ったわたしたち人間も、けっこう、捨てたもんじゃないじゃないか・・・、ちょっとすごいんじゃないか?なんだかとっても素敵なんじゃないか?
そもそもは、<わたし>が集まって<わたしたち>になったんだった。 そもそもは、<ひとつしかないもの>が集まって<みんな>になったんだった。ひとが集まって町ができて、町が集まって国ができて、国が集まって世界ができて・・・・・・・・。そういうことなら・・・・。
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<わたしたち>って誰なのか。 わたしたちは、ちゃんと知ってるのかもしれない。 簡単には思い出せなくても。知ってるのかもしれない。 <たったひとりのわたし>がみんなで考えれば、「その前に」、わかるのかもしれない。
・・・・・・誰に向かって何を言いいたいのか言いたくないのかわからなくて。とにかく、今日、思ったこと。
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