窓のそと(Diary by 久野那美)

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2009年12月05日(土) おしまいの効用

存在する、というのは動詞だ

これまでどこにもなかったものが生れ、あらわれる、瞬間て、ぞくぞくする。今ここにあるものはすべて、かつてその瞬間を経験してきたはずなのだ。

存在する、ということが素敵なのは、あのぞくぞくする瞬間を歴史の内に包えているから。存在するものが魅力的なのは、あの瞬間を内に抱えている間だけなのだ。

存在しているように見えるけど、でも実は人知れず消えてしまっているものがたくさんあるのではないか?そこはには新しくなにかが「存在し」ようとしても、前のやつがいつまでのたちふさいでいて、何も新しく現れることができない。

そういう場所を見るのは悲しい。息苦しい。


「おしまいにすること」について、私はいつも考えてしまうのだけど、
きっちり「おしまいにした」ものの跡には空き地ができる。
そこにはまた新しく別のものが現れることができる。

私が「おしまい」にこだわるのは、「新しく存在しようとする」瞬間が好きだからなのかなと最近思う。それが何であれ、何かが「新しく現われてくる」ときには、そのときにしか起こらないけれどその時には必ず起こるはずの何かがあって、それを見てみたくて見てみたくてしかたがないからなのじゃないかなと。

そう考えたら、自分がちょっとポジティブな人間に思えてきた。


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