窓のそと(Diary by 久野那美)
→タイトル一覧 過去へ← →未来へ
2009年12月04日(金) |
「演劇は戦争に反対します」 |
こんな台詞をしばしば見かける時期があった。 今でも、見ようと思えば見えるのかもしれない。 私が見ようとしなくなっただけで。 初めて目にしたときの気持ちを忘れることができない。
数年前に書いた日記。 当時反戦演劇を企画していた友人に送ったメールの一部でもある。
当時うまく言葉にできなかったし、今でもやっぱりうまくいかない。 言葉にすると軽蔑されるようなことを、私はたぶん言っている。 人として、容認できないようなことを言っているのかもしれない。 こんなことを言っていると友達をなくす。 実際、なくした。痛かった。とても。
時間がたてば考えも変わるかと思ったけれど、変わる気配もないので、 改めて日記に掲載してみようかと、思った。
******************
イスラムはアメリカ的正義に反対し、 アメリカはテロに反対し、 そして、 演劇は戦争に反対する。
演劇は、何かに賛成したり反対したりしないものだと思っていた。 資格や条件を問わず、暗黙の前提なんかもなく、誰にでも開かれてるものと思っていた。
反論するためには、相手の言葉を学ぶのがマナーだと思う。 議論というのは、お互いが共通の言葉で語ることだから。
反戦というのはアンチである以上、議論だ。 だから、自分の言葉(演劇・音楽)を信じ、誇りを持ち、それを使って、その言葉を持たない相手と議論するべきだという考え方がとても恐い。 「私は日本人であることに誇りを持ち、美しい日本語であなたと議論したい」と、アメリカ人に議論をふっかけるのがおかしいように。 アメリカが、アメリカの文化と思想に誇りを持ち、アメリカの価値観 を信じてアラブを裁いたのと同じように。
イスラムはアメリカ的正義に反対し、 アメリカはテロに反対し、 そして、 演劇は戦争に反対する。
きっとみんな正義なのだ。 自分たちにしかわからない言葉で語られる正義とは何だろう?
私は戦争も反戦も怖い。 軍歌も反戦歌も怖い。 「世界はフセインに反対する」というブッシュさんのスローガンも、 「演劇は戦争に反対する」という演劇人の会のスローガンも怖い。 どこがちがうのかわからない。 なぜ、「わたしは」と言わないんだろう。
* 混乱していてはいけないの? これまでの言葉で説明できなかったことを表現する方法を混乱しながら探していくのでは間に合わないの?ひとつのスローガンのもとに敏速に結論をまとめてひとを集めるための手段として、それは必要なの?
私にはこんなことしか考えられない。 「現実に起きていることをちゃんと見ずに抽象論だけで考えるな。そんな風に作品を書くな。」と言われた。だけど私が命がけで立っている場所、見ているものは誰に断る必要もない、私の現実だ。私の命は私の現実を生きるためにある。
戦争について、何かを感じるひとはたくさん居ると思う。 反戦について、何かを感じる人もたくさんいると思う。 アメリカについて、政治について、文化について、いろんなことを感じる人がいると思う。 それぞれが、自分の実感にもとづいて活動すればいいと思う。
あんなたくさんの表現者がいっせいにおんなじ方向に刺激されるのは、それが「正しい」からなのか?
震災のときも聞いた。「現実」ということば。 「表現者として、現実に、行ってこの目でみなくてはいけないと思った。」 現実という言葉の意味がわからない。 実感するって、自分とその出来事との距離について正確に、目を凝らすことではないの? 現地に赴くこと=実感すること?
「表現者として、この戦争には反対しなくては。」
そうなのか?
反戦演劇ってなんだ? 真摯に自分の実感に基づいて作品を作った結果がたまたま世論の支持を得られることだってあるだろう。でも、本来作家がひとりで背負うべき責任を 誰からも指摘されずにすまされる異常な状況を警戒しても警戒しすぎることはない。
私は、自分が作品を見て感じるべきことを社会や作り手に決められるのは嫌だ。そういうことのために演劇を見に行くのは嫌だ。
*
作品はひとを動かすことがある、と思っている。 だから、表現者はあきらめず、無力感を感じず、信念を持って作品を作り続けなくてはならない、という考え方にはおおいに共感する。
ひとつの表現が戦争を止めることはあり得ると思う。
悲しいことなのかすばらしいことなのかわからないけど、ひとつの作品が止めることができるのは、未来の戦争ではないかと思っている。極論すれば、すべての芸術家が「目の前の」できごとに対してのみ動くのであれば、その最も期待されるべき効用から遠ざかっていってしまうのではないかと・・・。
ひとつの作品は「期せずして」遠くの大きなものに働きかけることができる。目的を持ったものは、その目的に対しては有効だけれど、つまり即戦力があるけれど、芸術に期待されるものって即戦力だろうか? 目的を持たずに生まれてきたものだけが働きかけることのできるものがあるような気がしている。
世の中をふたつの価値観にわけて、「どっちが正しい?」という考え方が好きじゃないので、私が選べない方法を選択し、活動している人を批判する気持は全くないし、実際、その選択をしたひとの中には私が心から尊敬しているひともいれば、素晴らしいと思える作品を作っているひとが大勢いる。 できることならばそういうひとと同じところに立ちたいと思う。 だけど、自分自身の感情と責任感と意識に出来る限り正確に目を凝らしてみて、でてくる答は「反戦のために今すぐ立ち上がり、同じ表現手段を持つ仲間と連体し、なにかを表現することでそれをくいとめなくては」ということのど真ん中にはないような気がする。
いろんなことを考える。 世界中でデモ活動を行っているあんなにたくさんのひとたちの活動が何にも影響を与えないことなんてあり得るだろうか?あれはものすごいことなんじゃなかろうか? 人間は、まだまだ生き物として正しいし、 やるときはちゃんとやるんだ、すてたもんじゃないんだ。
しばらく、いろんなことを考えていようと思う。 うこれは非難されるべき態度かもしれない。ならば非難されようと思う。
非生産的な態度はたくさんのものを損なうだろう。 自分の存在の意味がわからなくなるだろう。
だけど、ものをつくるということは、目の前にあるものの向こうに何があるのか、ひとつでもたくさんたくさん見つけだして考えて、考えて、考えて・・・っすることだったんじゃないだろうかとも思うので。
→タイトル一覧 過去へ← →未来へ
|